阿刀田傘の関節
七月二日(火曜日)
目を覚ますと、まず考えることがある。あの子のこと。久米方もがみのこと。呼吸をするより、自身の安否を慮るより、あたし自身が誰であるかを認識するより先に、考える。今日もあの子が、あの子でありますように。
*
あたしが中等部一年のとき、所属していた空手部の全国大会でのことだ。うちの学校は文武共に部活動が盛んじゃなかった。だからあたしが全国のベスト16に入った段階で、学校をあげての応援が始まった。会場が隣の県だったという要因もあるだろう。しかし、その学校側の盛り上がりとは裏腹に、それに付き合わされる生徒たちには不満も多かったようだ。そりゃそうだろうよ。あたしだって興味もないやつが興味のない競技に興じているのをわざわざ見に行きたいなんて思わない。休日返上で。ほぼ強制参加だっていうんだから、不満なんて出ない方がおかしいだろう。
強制とは名ばかりの強制であったけれど、なんと全校生徒の二割が集まったらしい。よく集まった方だと思う。学校側も送迎や宿泊費用のすべてを出せなかった。というより、出すほどではなかったのだろう。なので実質、保護者の完全負担だ。当時はなんとも思わなかったけれど、いまにして申し訳ないと思う。あたしが強すぎたばかりに、こんな顛末で。
だが、己の無力さを文字通りに痛感するには、そんな時間すら必要なかった。あたしが強すぎるなんて、ちゃんちゃらおかしい。
それは学校側の応援が二割から一割に減った、全国大会での決勝でのこと。試合前、あたしの控室には学校の校長、教頭、担任、生徒会長、クラス委員など、学校全体やあたしのクラスの代表者らしきやつらが押しかけていた。そのこと自体は素直に嬉しかった。試合前の緊張感のあるときに好き勝手祭り上げるのには癪に障ったが、まああたしは冷めてる方だし、あたしでも期待されることがあることが嬉しかったのだ。その一団の中に、久米方もがみがいた。
じゃあがんばれよ。とか。平常心だ。とか。とにかく全力で楽しんできなさい。とか。どこにでもある激励を置いて帰る一団を「うす」とにこりともせずに見送った。それでもあいつらは笑顔だった。試合前のナイーブな精神状況を慮ったのかもしれないが、べつにあたしは緊張していなかった。
「ふう」
と声に出してため息をつく。あいつらはどうして他人事であれだけ盛り上がれるのだろう? そう思った。
「かーさーちゃんっ!」
「お? おおおお?」
惚けた声が出た。正直幽霊かと思った。心底驚いた。だがあたしはどうにも感情が薄いらしい。
「誰だ?」
声がした、衝撃を受けた、背後を顧みる。
「久米方もがみ!」
抱き付いた腕を離し、もがみはあたしの正面に周った。なんでか知らんけどめっちゃ笑顔だった。さっきの一団のひねり出したような笑顔を全部足して倍にしたくらい笑顔だった。
「あー、えっと。同じクラスの?」
「違う! お隣のクラス! 出席番号九番! 久米方もがみ!」
よく解らない生命体だった。特段の興味はないけれど、隣のクラスの委員長は知っていたし、その委員長とやらはこいつではない。なればこいつは一般生徒だ。なにしに来たんだろう?
「えっと、なにか用?」
「先生が『久米方さんは黙っててね。おとなしくよ』って言うから黙ってたの! えらい!」
「はあ……」
なぜだか恐縮する。もがみの圧におされる。
「だから傘ちゃんと話せなかったの! お話にきたんだよ!」
「それで、なんの話を?」
「うーん?」
久米方もがみは首を捻った。
「とくに!」
……いちおう間を持ったが、続かなかった。『とくに! (なにもない)』らしい。
するとなんだか腹が立ってきた。ここまで持ち上げられた傲慢もあるだろう。試合前の緊張も多少はあったのかもしれない。なにより阿呆みたいに笑い続ける生命体が目に余ったのだ。
「あの、用がないなら出てってくれないか?」
それでも柔らかく言う。発散したら止まらない気がした。
「え? なんで?」
もがみは言う。なんで? おまえは理由がないのにここに居座るつもりなのか? そっちの方が『なんで?』だろう。
「あのね! 傘ちゃんすごいんだよ! 学校始まって以来の快挙なんだよ!」
「知ってる。でも興味ない」
「なんで!?」
だから「なんで!?」じゃない。おまえがなんなんだ?
「すごいんだよ! みんな応援してるよ!」
「みんなって誰だよ」
あ、だめだ。って思った。このままこいつと話してたら、あたし《《キレる》》って思った。そしてそれは嫌だと思った。感情を荒げるのが嫌だ。あたしはそういう人間じゃない。
みんなって誰だ? あの一割のやつらか? それとも最初に来ていた二割? 全校生徒? 荒ぶる感情をため息で吐き出して、そんなことを考える。本当にあたしを応援しているのは誰だ?
そんなやつはいやしない。そして、べつにそれでいい。好きで空手やってるわけじゃない。勝ちたいとも思っていない。
持ち上げられるのがわずかに悔しい。あたしは勝たなきゃ価値がないのか? これまで煙たがられていたあたしを、応援するやつらの気がしれない。学校の箔になるから? それを画策する先生にたぶらかされたから? そして終わったらあたしはなにごともなかったみたいに、またみんなに避けられる。あたしだってべつに、好きで強く生まれたんじゃない。
「――とか。……あと、私!」
久米方もがみはなにごとかを話していた。それは回帰してみるに、おそらく人名の羅列だった。知っている名前がいくつかあった気がするが、ほとんどが知らない名前だった。そしてその数は、全校生徒の一割をゆうに超えていた。
馬鹿らしいと思った。いま応援に残っているやつらならいざ知らず、他のやつらが得にもならないのにあたしを応援するなんて、本当だとしたら馬鹿らしい。だからいっそ清々しくなる。棄権しようかな。などと、本気で考える。まあ、さすがにやらないけれど。
「じゃ、私、席に戻るから」
神輿を担ぐことに満足したのか、久米方もがみは笑顔で言って、そそくさと帰って行った。
「勝とうね。傘ちゃん」
ドアが閉まる直前に、そう聞こえた気がした。
勝とうね? 「勝ってね」じゃなくて?
結果から言うと、あたしは負けた。正直負けてやろうという気持ちはあった。だが、言い訳はしない。気持ちはなくても体は最善に動かしたつもりだ。相手の方が上手だったのだろう。
応援席は沈んでいた。だが、対戦相手の応援席、その他諸々の野次馬たちの歓声に埋もれて、むしろ安堵に包まれている気さえした。ここまでやれただけで十分だ。全国で二位、素晴らしい結果じゃないか。勝ち負けよりもがんばった事実の方が大切なんだ。そんな諦観を含んでいるようだった。ただひとりを除いては。
「――――!!」
その訳の解らない生命体は泣いていた。人目もはばからず、慰めの言葉も押し退けて、泣いていた。フロアから見上げる。遠くてなにを言っているか解らない。なのに解った。「なんで負けたの?」「こんなのおかしいよ」「傘ちゃんの勝ちだもん」「だって傘ちゃんの方が強いもん」馬鹿らしい。阿刀田傘は完全に負けた。異論の余地はない。そもそも、おまえに空手のなにが解るっていうんだ、久米方もがみ。
そう思った。本心だ。なのにどうして涙が出るのだろう。
あたしは勝ちたいなんて思ったことはない。負けてもいいと思ってた。たいした練習もしていない。負けて当然。むしろ勝つ方が失礼だ。そう思ってた。その気持ちは変わらない。だけど。
もらい泣きって言うのだろう。試合に負けたことに感慨などない。本当にまったく、微塵もない。だけど。あたしは思った。
精一杯やらなかったこと。勝ちたいと思わなかったこと。なにより、あいつの応援を無下にしてしまったこと。それに吐き気をもよおすほどに後悔した。立っていられないくらいに後悔した。声が出ないくらいに泣いた。
この瞬間……というわけでもないけれど、それからひと月経つころにはあたしは、もう覚悟していた。この久米方もがみという謎の生命体の笑顔を守るためなら、あたしは誰よりも強くなろう。と。
中学二年生の夏。再度の全国大会を圧倒的な強さで優勝したのは、たぶん、その年ももがみが応援に来ていたからだ。
*
「す、い、が、いいいいぃぃぃぃ!!」
また訳の解らない奇声とともに背中にぬくもりを感じる。「お? おおおお?」あたしは言った。また顔がにやけるから、振り返らない。
「おーもがみ。……すいがい?」
またなんか惚けてるな、こいつは。
「すいがい! おはよう!」
「あたしはすいがいじゃない」
「ほんとに? よかったあ」
もがみは本気で安心した。もうこれが本気だって解る。こいつは圧倒的に馬鹿だから。
どうにも離れそうにないのであたしはさらににやつく。その照れ隠しに痒くなった頭を気にした。もがみ以外のみんなはあたしたちからやや距離をとった。あたしが気持ち悪いことは自覚している。だけど、そんなのどうでもいい。あたしはもがみの両足を抱え上げた。
そして考えた。もがみの考えそうなことくらいすぐに思いつく。……と言いたいところだが、あいにくこんな突飛な生物を理解するにはあたしの頭はまだまっとうだった。でも、ああ、水害ね。
「あーあれだ。解った。もがみあんた、今朝の新聞の記事見たんだろ」
「うん! でも、水害じゃないならよかった!」
「あー――」
あたしはなにも悪くないが、悪かった気持ちになる。普通に会話してももがみに通じないことくらい解っている。あたしは空を見上げた。
「――土嚢をね、積むんだよ」
だから大丈夫。ということを伝えたかった。だがこれも通じないことは目に見えている。「こうやって……」と、あたしも口下手だから言葉以外で表現しようとするが、あいにくあたしの手はいま、幸せを抱いていた。
「まあ家古いから、雨漏りくらいするけどね。床下浸水ってのは、最近はないな」
とにかく安心させておくために言う。
「ふうん。そっかそっか」
だがもうもがみの中では完結しているようで、聞いているのかいないのか……。
「ここ数年は雨量が減ってるんだって。その影響かな」
「そーだねー」
「……もがみ。もうどうでもよくなってるな」
「大丈夫ならいいのー」
もがみも幸せそうに言ってくれる。あたしは今日も、この子を守れているだろうか? もがみをわずかでも幸福にできていることに喜びを感じ、だからこそそれを失うのが怖い。あたしから笑顔を消すほどに。
それを感じ取ったのか、もがみはあたしの頭を撫でる。
「おい。撫でるな」
やや過剰反応なほどに早く言葉が出た。だから刺々しくなっていないかと一瞬こわばるけれど、客観的に聞く限りむしろ甘々しい声だった。キモいからもがみにばれてませんように。
特段の嫌悪はなかったようで、もがみはあたしの髪をいじくり始めた。手櫛で梳く。そして、たぶん三つ編み作ってる。嬉しいけど、恥ずかしい。
「おいもがみ、そろそろ降りろ」
だからそれを隠すように、あたしは言った。自己嫌悪する。友達同士の冗談だとしても、もがみを否定するような言葉を吐くな、あたしの野郎。
「えー、あと五分」
だけどもがみは気にしない。それが嬉しくて、またあたしは毒を吐く。
「寝るな。起きろ。三つ編みやめろ」
言っても言っても離れないので、あたしはもう耐えられない。こんなに幸せなのに、素直になれない、あたし自身に耐えられない。
「さすがのあたしもちょっと疲れたぞ」
「がんばって」
もがみが耳元で囁くので、もうあたしはどうにかなりそうだった。
「……もがみ太ったな」
「傘ちゃんか!」
今日はこんな日らしい。おそらく朝、なにかあったのだろう。お母さんに「太った?」とか言われたんだろう。
もがみは恐るべき反応速度であたしを突き飛ばす。一瞬拒絶が怖くなるが、むしろ我に返った。あたしが幸せになってどうする。あたしはこの子を幸せにするのだ。それを再確認する。
どうせもがみは本気で追ってくる。だから走れ。このなんでもないじゃれ合いを演じろ。
「待てええぇぇ! 私の朝食にカロリーを入れたのは、おまえかああぁぁ!」
幸い、あたしはもがみより足が速い。空手はなんとなくやっていただけで、そもそもあたしはスポーツ全般、万能だ。もがみも速いけれど、ぎりぎり走るのは、あたしのが速い。
背中に感じる無限の距離に幸せを感じる。
もがみが追いかけてくれるなら、あたしは常に、もがみより速く走ろう。
とにかく荷物を置くために教室に入る。三年一組。全学年たった二クラスずつしかないのにもがみと同じクラスになったのは今年が初めてだった。だから、ちょっとこのクラスは気に入っている。
教室に入る。そこにはひとり、先客がいた。もがみ以外のクラスメイトにさほど興味はなかったけれど、こんな早い時間に登校しているクラスメイトなど、そう多くない。だからこいつのことは覚えていた。
「鵐。あたしがどこ行ったか、もがみには内緒な」
言っていておかしかった。そもそもこいつはあたしがどこに行くか知らないだろうし、釘を刺さなくてもわざわざ喋ったりしないだろうし、そもそも誰がなにをも言わなくてももがみなら、あたしが部活の朝練に行っていることくらい容易に思い当たるだろう。さすがに、もがみとはいえ。
鵐は見つめていた文庫本から顔をあげ「言わないよ」とあたしを見た。特別奇異な目でもなく、憐憫の情も感じられなかった。驚愕ですらない。
もがみは人気者だ。このクラスだけでもない。同じ学年だけでもない。中等部なんていう規模ですらない。あたしは知っている。中高一貫のこの学校。その全校生徒の大多数が、久米方もがみというへんちくりんな生き物を好いている。男子生徒は特にな。
だが、この鵐という男は大丈夫な気がする。いつもどこか遠くを見ていて、あたしたちのことなどには興味がなさそうだから。四十過ぎのおっさんが女子中学生を恋愛対象として見ないのと同じだ。どちらが上かは別として、こいつとあたしたちは住む世界が違う。そう感じさせるオーラがある。
ともあれ、失言は気にするほどでもない。鵐の超越的な態度に感謝しつつ、あたしはまた駆け出した。
空手部の部室に行く。トレーニング用のジャージに着替えて、あたしはまた走った。向かうのは新校舎と旧校舎との間にある体育館だ。
体育館には誰もいなかった。当然だ。もとより部活動は活発ではない。そのうえ、朝練なんてやろうというやつらはほとんどいない。あたしはまず、柔軟を始める。
「相変わらず、やっこいな。阿刀田」
あたしにすこし遅れて、誰かが朝練に来たらしい。誰かなんて見なくても解る。朝練をやるようなやつは多くて十人くらいだし、そのなかであたしに話しかけるのは、唯一同じ学年の、狒々原しかいない。
「関節弛緩性は先天性のものだからな」
「神様のせいにすんじゃねーよ。おれが言ってるのは動的柔軟性の方だ」
狒々原はにひひと笑い、あたしの横に腰を降ろす。真似はしないけれど、あたしと似たような柔軟を始めた。
「すごく小さいころに褒められたのが嬉しかったんだな。いま思うとあれが、あたしをスポーツの世界に送り出した言葉だったんだと思う」
「はあん」
どうでもよさそうに狒々原は笑った。「いてて」と呟きながら、さらに体を大きく捻じる。もがみもたいがいだけど、こいつもこいつで、体の使い方が荒い。
「な。今日も勝負しよーぜ」
にひひ。狒々原はまた笑う。それは作り笑顔の中では最上級だ。
あたしはべつに、こいつのことを嫌っていない。むしろ人間不信なあたしからすれば好意の強い相手と言っていいだろう。そしてこれは推測だが、狒々原もあたしのことを同じように思っている。敵……というより好敵手かな。
「おまえ負けず嫌いなんだから、勝てるやつと走ればいいだろ」
「はあ? それってつまり、負けってことじゃねーか」
「あたしには勝てないよ」
ただ走るだけでも、やる以上負けられない。あたしにはもがみの笑顔を守る使命があるのだ。
「久米方もがみにはもう勝ったんだぜー。あとはてめえだけだ」
「な……もがみが負けるわけないもん!」
「もん?」
おっと、つい変な語尾が出た。あたしとしたことが。
しかし、数日前までもがみの方が速かったはずだけれど、いつのまに勝ったのだろう? いや、それ以前に、あたしの知らないところでもがみと走ってるなんて、妬ましい。
「はっはー。ほんと、いい顔するようになったよね。阿刀田」
「はあ?」
「いやだって、おまえ一年のころとかだいぶささくれだってたろ?」
「…………!!」
黒歴史だ。やめてくれ。
「というかあたしってもしかして、怖い?」
「うーん。……めっちゃ!」
めっちゃいい笑顔で狒々原は言った。作り笑いじゃない、百点満点だ。それをなぜいま?
「いいよ。走ろうか」
柔軟を終え、立ち上る。もがみが編んでくれた三つ編みが揺れるので、あたしはそれにそっと触れた。
あたしは燃える。もがみが負けた以上、なおさら全力で勝たないと。
結果から言うと、あたしは勝った。
負けるわけがない。一年生のときとは違う傲慢を自覚する。総毛立つ、怒りのようなものじゃない。冷や汗の流れる、神経の逆立つ誇りだ。
「くっそー、負けた―」
狒々原はグランドに寝転がり言った。
「全然悔しそうじゃないな」
「悔しいよー。でもべつに勝ち負けにこだわってないしー」
笑顔で地面を叩く姿は、どこかもがみに似ている。
「おれはよ、誰かと競うのが好きなのさ。競う以上は勝つつもりだし、勝てなきゃ悔しい。でもピークは経過なの。結果じゃない」
言うと立ち上がり、空を見上げた。あたしもそれに倣う。空は、まばらに雲が飛ぶだけの夏晴れだった。
「お……」
狒々原は鼻をぴくぴく動かす。
「どうした?」
「いや……」
どこか遠い目になる。その表情はなにかを心配しているときの、もがみみたいな顔だった。
「雨、降りそうだなって」
「雨?」
あたしはよくよく空を見る。もし人生で出掛けるとき、この空を百回見上げたなら、百回とも傘を持っていこうなどとは考えないだろう。すくなくともそれくらいの晴れ空だった。遠くの空まで目を伸ばしても、雲なんてほとんどない。
「いんや……。気のせいかな。負け惜しみだよ」
にひひ。と笑う。
こいつはもがみみたいに笑って、誤魔化せると思っているのだろうか? 先に帰っていく背中を見送り、あたしはもう一度、空を見上げる。感じる暑さよりもずっと弱い光が、瞳孔を刺した。
チャイムが鳴る。それでも急ぎもしないで教室に向かう。遅れようがサボろうが小言のひとつも言われない。だけど、もがみと同じクラスなんだ。それだけで学校に来る理由になる。
「じゃあ、出席とるぞー。……阿刀田」
担任があたしの名前を呼ぶのと同時に、教室内に入る。出席番号が一番じゃなければ、もうすこしゆっくり来れるんだがな。
「うす」
クラス中の視線が刺さる。多少のざわめき。いいかげん慣れろ。あたしが遅れてきてなにが悪い。
もがみがあたしを見てる。満面に笑む。あたしははにかんで見せる。あんまり崩れてくれるなよ、あたしの相好。
「ねーねー、傘ちゃん。今日はなんで三つ編みなの?」
と、うなじをつつかれる。さすがにちょっとくすぐったい。
それは心も同じだ。もがみの声があたしの心をくすぐる。このためにあたしは生きている。もがみの気を引いて、語りかけてもらうために。
「おまえがやったんだろ」
乱れる顔と心は抑えきれない。それでも嬉しくて、すこしだけ振り返る。
そうだよ。この三つ編みも、この顔も、この心も。作ったのは――作ってくれたのは、おまえだ、もがみ。
授業中はすこぶるつまらん。あたしは意外と勉強はできる方だし、集中し出したもがみにはなにを言っても聞こえないから。だからあたしは眠くもない目を閉じて、机に突っ伏せている。そうして一コマ五〇分のうち二十回くらい時計の針を眺める生活だ。楽ではあるけれど、無性につまらん。
授業の合間の休み時間も、もがみは集中を切らさない。一瞬意識を取り戻すのが、次の授業の始まりのときだ。さすがに科目が変わるのでほんの一言くらい会話ができる。といっても、頭は働き続けているらしく上の空なんだけど。
このもがみの集中力はどこからきているのだろう? 学校の勉強なんてできてもさほど意味はない。『学歴』というものを求めないなら、すくなくともテストで平均点をとれるくらいやっておけば十分だろう。だがもがみはもうずいぶん、九十点以上しかとっていないはずだ。成績は常に学年で五番目までには入ってる。それでもその集中力を維持し続けられる根源はなんなのだろう?
いちおう、以前に聞いたことがある。だが、もがみの言うことだ、どうにも要領を得ない言葉しか聞けなかった。「だって学生が勉強するのはあたりまえでしょ?」って。あたしが聞きたいのはどうしてそんなに「やりすぎるのかってことなんだけど」。「え? やりすぎてる?」足りないかと思ってた。とか。
久米方もがみは完成している。この子は自分の思想を構築し終えている。その底の底までにはまだ到達できていないけれど、もがみは周囲からなにを言われても芯がぶれない、それだけはあたしにも解ってきている。だからあたしの言葉でももがみを変えることはできない。こんな、生き急いでいるみたいな生き方、本当はやめてほしいんだけどな。
午前二つ目の授業を終え、もがみを振り向いてみる。やはり、授業が終わったことにすら気付いていない様子で、日本史に思いを馳せている。おまえはその程度の史実、すべて把握しているだろう。と言いたい。だが、そういうことじゃない。もがみの勉強はもっと先を行く。その戦が起こる要因、各国の思惑、外向的手管、力関係。いろんな要素を組み合わせて、自分なりの理論を構築している。ただ残念ながら、それらはたいがいもがみの妄想だ。もがみの考えることはいつも飛躍しすぎている。
ずっと真剣なもがみの顔を眺めていてもいいのだが、あたしも寝疲れたので、すこし歩くことにする。隣の三年二組を通り過ぎるとき、なんだかざわめいている様子だったので狒々原を呼んでみると、どうやら転校生が来たらしい。おかしなタイミングだなと言ったら、おかしいやつだからじゃね? と返された。狒々原におかしいと形容されるとはよっぽどだな、と感じたので暇潰しがてら話を聞いてみた。もがみが興味をもつかもしれないから。
午前中最後の授業を終え、あたしは十二分に待った。焦るな。あまり喰い気味にやると煙たがられるかもしれない。
「もがみ。授業終わったぞ」
振り返り言ってみる。もちろん反応はない。
「おーい。もがみちゃん。授業はおしまいですよー」
頬をつついてみる。やっこい。だが反応はない。
「阿刀田傘が暇してる。もっと構え」
つついていたそれを引っ張る。餅みたい。
だめだ。今日もこいつは、やりすぎてる。なんだかイラついてくる。おまえがそんなんだからあたしが離れられないんだ。多くの目があるから大丈夫だろうとはいえ、男子からセクハラとかされたらどうする。たぶんなにされても気付かないだろ。
あたしは(おそらく)無実な男子生徒たちを睨む。数人が気付いて目を逸らした。……やっぱあたしって怖いかな。
「おい、もがみ!」
つい怒鳴ってしまう。
「ひゃい!」
変な声が出た。かわいい。仕方がない、許してやろう、いろいろ。
「もがみ……飯食おう」
ちゃんと言わないと本気で休まないからな、こいつは。またどっかで倒れないように栄養を採ってもらわないと。
「傘……ちゃん?」
やや間を空けて、もがみは気付く。本当に、やりすぎなんだ。
「うむ。阿刀田傘だ。元気か?」
「うん! 久米方もがみは今日も今日とて元気いっぱい! おはようございます!」
「寝惚けるな。昼休みだぞ、あたしは腹が減った」
「じゃあ私もお腹すいた! たぶん!」
言うと、もがみは上体を倒した。その唐突さが、速度が、力のなさを物語るので、あたしはとっさに手を伸ばす。……なんとか机に頭突きをする前にあたしの手が挟まった。
「一瞬寝とけ、あたしはお茶買ってくる。……もがみは?」
「甘いコーヒー」
「ん」
なおざりで無遠慮な言葉が嬉しかった。だから代金はそれでいい。一番甘いやつを買って来てやろう。あたしはにやつきながら歩く。だからみんな、あたしから離れていった。
教室に戻ってみるともがみがよだれを垂らして寝ていた。その前の席に座る。もがみのコーヒーとあたしのお茶を置いて、先に自分の弁当を取り出す。一瞬一秒でも長く寝かせておいてやりたい。弁当を取り出したら、ハンカチでよだれを拭ってやる。いひひ。と間の抜けた笑いを浮かべる。ちょうかわいい。
「起きろ」
あたしはチョップをかました。あまり加減はしてない。
「ふげ」
おもしろい声で目覚める。ので、すこしからかってみる。
「よだれ垂らして寝てたぞ」
「傘ちゃん! おはようございます!」
だが、そんなことなどどこ吹く風だ。耳に入っているかも怪しい。
「そんな叫ばなくても聞こえる。……飯食うぞ」
言うともがみも弁当箱を取り出す。あたしのは特別として、もがみも結構でかい弁当を毎日持ってきている。もがみのお母さんはさすがと言うべきか、娘のことをよく解っている。こいつはこれくらい喰わなきゃだめだ。
あたしと自分の弁当箱を見比べてもがみは「?」みたいな顔をしていたので、なにか言われる前に遮る。
「じゃ、いただきます」
手を合わせて言う。これはもがみの真似だ。
「うん、いただきます」
もがみは神妙な様子で言って、瞬間で戻る。その一瞬でもがみは世界を駆けている。
あたしはいくつかおかずを食べ始める。もがみほどではないがあたしもよく体を動かすし、カロリーを消費している。頭使ってない分、こんなにたくさん食べなくてもいいんだけど、できればもがみに食べてもらいたくてたくさん持ってきている。親が過保護に作り過ぎているという要因もあるけれど。
もがみは卵焼きを食べる。満面に笑み、その後、目を見開いた。あ……なんかめんどうそうなやつだ。あたしはすぐに悟った。
「傘ちゃん! カロリー!」
もがみはいきなり叫んだ。普通それだけじゃ伝わらないことくらいいいかげん解れ。それともあたし相手だからそれで解ると思ってくれているのだろうか? それならいいんだけど。
もがみは缶コーヒーを飲んだ。おまえそれもカロリーだからな。あたしは思う。
「……大丈夫だ、もがみ。今朝おまえに太ったと言ったのは嘘だ」
あたしは頭をフル回転させて汲み取った。もがみと話してると頭よくなりそう。
「ほんと? やったあ! この嘘つき!」
笑顔で悪態をつくとまた食事を再開した。食べられる喜びをひっしと感じている様子である。こいつがいるから日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思える。
それからまたすこし食事を黙々と食べ進めつつ、あたしは決心を固めていく。今日は火曜日。柔道部やら剣道部やらとの折り合いで空手部が道場を使えず基礎練だけの日なのだ。つまり、数少ないもがみと一緒に帰れるかもしれない日。あまり深刻にならず、それでいて軽すぎない絶妙な文句でもってもがみを誘わなければならない。
「ところでもがみ。あたし今日、部活が基礎練だけですぐ終わるんだけど、一緒に帰らない?」
出た言葉はこれだった。微妙。もうすこし押し気味でもよかった気がする。
あたしはなんでもなさそうに、適当なおかずを口に含めながら待った。あたしがもがみの重荷にならないように。
「うん。……やったね!」
もがみは笑っているのに困っているような、やや暗い表情をして言った。だから嬉しいのと悲しいのとが混ざった、複雑な気持ちになる。
なにか用事があったのかな? 用事がなくとも早く帰りたかったとか? もしかしたらあたしと一緒に帰るのが嫌だったとか? いろんな憶測が湧いてくる。そんな自分が嫌いだ。久米方もがみに表裏がないことくらい解ってるはずなのに。もがみが「やったね!」というならそれは嬉しいってことだ。だけど、灰汁のように這い上がってくるいやな気持ち。それはどうしても、残ってしまう。
「そうか、よかった」
あたしは言う。うまく笑えているだろうか? 解らないけれど、事実として、あたしは笑顔を作った。それは文字通り、作ったような笑みだったに違いない。
いつまでも暗い気持ちでいても仕方がない。久米方もがみは目まぐるしいから。瞬間瞬きをするといつもの満面の笑みに戻っている。さっきまでの暗さが幻だったみたいに。
だからあたしも暗くなんていられない。もがみが幸せなら、あたしも幸せだ。
それからの昼食は楽しいものだった。もがみのから揚げをもらったり、あたしの卵焼きをあげたり(久米方家では卵焼きが甘いらしいのでうちのは新鮮なのだと)、隣のクラスに転校生が来たとか、そんな他愛のない話。染原や市神や緑川などクラスメイトも集まってきたりする。あたしひとりだと避けられることの方が多いけれど、それでももがみが側にいれば人が寄ってくる。あたしが言うのも変だけど、こいつのどこがそんなにいいのだろう? 染原とか「キモい」呼ばわりされてるはずなんだけど。
あと緑川が最近頻繁に寄ってくる。こいつはデブで眼鏡でニキビ面の男子なのだが、どうにももがみに気がありそうなんだよな。なのですこし睨みをきかしているが、あたしの視線など気にならないのか、あたしにもよく話しかけてくる。こいつは体格通り大食漢らしく、自分の弁当が足りないとか嘆いていた。ので、あたしの弁当を分けてやってる。どうせ余るし、もがみの方に寄ってくよりだいぶましだ。べつに外見を除けばおもしろいやつではあるし。
もがみとは恋愛の話をしたことがない。むしろ意識してあたしがその話題を避けている。もがみに恋愛などまだ早い。だから興味をもたせないように気をつけているのだ。どうせもがみのことだから変な男を連れてくるに決まっている。だからすこしでも成熟してから恋愛をさせようと思っている。最低でもあたしのお眼鏡に適わなければだめだ。
昼休みが終わり、またつまらない午後の授業を乗り切り、またもがみを起こす作業をこなす。もがみはまた疲労を抱き締めるような笑顔を見せ、あたしの心を掻き毟る。がんばりすぎてる娘を見る親の心境だ。
部活の終わり時間を告げ、別れる。クラスにはまだ生徒がちらほら残っていた。その中には緑川もいたので一度睨んでおく。もがみに変なことすんなよ、という釘のつもりだったが、なぜかやつは荷物を纏めてあたしについてきた。べつに無理に帰れとは言ってない。ちょっとだけ悪い気持ちになる。
緑川はなにごとかをぼそぼそと話していた。いやたぶん普通に話していたのだろうけれど、微塵も興味がなかったのであたしの耳にはぼそぼそと聞こえたのだと思う。この男には不信感がある。もしかしたらもがみに近付くためにあたしとまず仲良くなろうとしているのかもしれない。
空手部の部室前まで着いてきて、あまり無理しない方がいいよ、と言われた。もがみのことか? と聞くとやつはなにも言わず笑って帰って行った。
今朝と同じくトレーニング用のジャージに着替える。今日は校内ランニングだ。あまり使われない部室や準備室がある新校舎の四階五階。ここを走る。階段昇降もあってわりときつい。
ただ走るのは結構好きだ。誰とも争わず、勝ち負けなどなく、自分のペースで走るのが好きだ。いろいろと考え事ができる。
今日のもがみのことを思い出す。もがみが暗い顔をしたこと、そのときの会話、あたしの態度。反省点は多い。あのとき――中学一年生のときにもらったもがみの温かさを、強さを、あたしも違う形であいつに返してやりたいと思う。だけど、毎日毎日、新しいものをもらうのはあたしの方だ。それがやりきれない。
きりのいい周回数を終え、すこしだけ歩く。考え過ぎでペース配分を間違えたのか、すこし息が上がっている。もがみほどじゃないにしろ、あたしもハードトレーニングをしているのかもしれない。だが、この程度でも辛いのに、もがみはどうしてああなんだろう? 生き急いでるっていうか、むしろ――
「うん?」
あたしは足と思考を止めた。廊下の隅になにか物体が蹲っている。見たところ制服ではないが、放課後だし、部活動の服とかを着ている可能性もある(演劇部とか)。ともあれ、その物体は中学生か小学校高学年くらいのようだったので、さすがのあたしと言えど心配になり声をかけた。
「おい、大丈夫か? どっか痛いのか?」
あたしは怖いらしいから、努めて優しく声をかける。
だがその感情は伝わらなかったのか、少女は振り向きあたしを見ると「ひっ」と怯えた表情を見せた。いまにも泣きそうだ。
「待て、大丈夫だ、落ち着け。ほーら、怖くないぞー」
子供をあやすのは得意じゃないが、おもしろい顔を作ってみる。たぶんいろいろ間違っている。
「わー、馬鹿みたいです」
……馬鹿呼ばわりされたが警戒心は解けたらしかった。
「それで、こんなところでなにやってんだ? 一年生か?」
中学一年生というならまだ迷うこともあるだろう。とくにこのへんは空き教室だったりあまり盛んでない部活の部室だったり、ほとんど使われない準備室や倉庫が多い。目当ての部屋に辿り着けず途方に暮れてもおかしくはない。
「いえ。先生は鏑聖と言います。高等部一年一組の副担任です。担当は古文です」
少女は立ち上がって九十度頭を下げた。そして「ふげっ」とまた廊下に崩れ落ちる。
「なんで叩くですか!」
「あ、ごめん。いつもの癖で」
自分でも気付かないうちにチョップしてたらしい。
「叩くのが癖なんてだめなんですよ! そんなだから阿刀田さんは怖いって言われるです!」
「ああ? 誰が怖いって?」
「ひい!」
あ、だめだ。ふつうに話してるだけで怖がられる。子供って難しいな。
「えっと、阿刀田って言った? あたしのこと知ってるの?」
「もちろんです! 阿刀田さんは我が校のスターですからね!」
「えーっと、鏑ちゃんだっけ? 先生? 娘さんかな……お父さんかお母さんか解らないけど、呼んでこようか?」
「だから私が先生だって言ってるです! ぐえっ」
おっとまたチョップしてたみたいだ。気をつけないと。こんなんだからみんなに怖がられる、らしいし。
「えーん。今日は踏んだり蹴ったりなのですよー!」
半べそで鏑先生の娘さん(?)は走って行った。かなり危なっかしい走りだったけど、これ以上あたしが対応しても怖がらせるだけだ。緑川あたりに遭遇することを切に願いつつ、あたしはランニングを再開した。
部活を終え、急いで中等部三年一組の教室に戻る。あまりあることじゃないけど、稀に「待つの飽きたから帰った」みたいなことがあるから。
教室の前で一度身だしなみを整える。制汗スプレーとか使ったけど、汗臭くないかな? いま一度確かめる。だが自分の匂いってのはあんまり解らない。たぶん大丈夫だろうけど。
いろいろやってると、教室内から声が聞こえた。片方はもがみの声だ。よかった、ちゃんと待っててくれた。しかし、いくらもがみと言えどイマジナリーフレンドと会話するなんてことはないだろうから、相手がいるはずだが、いったい誰だろう? 気になって耳を澄ますと「○○くん」というもがみの声が聞こえたので男子であるらしい。だからあたしはすこし強めにドアを開いた。四つの視線があたしに刺さる。
「傘ちゃん! おつかれー」
ひらひらと覚束なくもがみは手を挙げた。その眼前にいたのは鵐だった。あたしはすこしだけ申し訳ない気持ちになった。
「おまえもまだ残ってたのか」
「うん。まあ」
鵐は短く言った。手元には変わらず文庫本。もしかしてもがみと話したいがために残ってたのか? すこし訝しんで思い出す。そういえばこいつはよく遅くまで残っている。部活動には所属していないと思うのだが、まあ、いいか。
「傘ちゃん! 葉太くんね! 人形遣いなんだよ!」
「人形遣い? なんだそれ?」
どうせもがみに聞いても解らないだろうから鵐に向けて言った。鵐はこちらを向こうと顔を動かしかけた、みたいだったが――
「あのねあのね! おうちにお人形さんがあるの! いっぱい!」
速度に違いがありすぎた。鵐は諦めたのか、改めて文庫本に集中し出したようである。
「ふうん?」
鵐に対するイメージも変わる。人の趣味にとやかく言う気はないが似合わないな。いや、人形と言えどいろいろある。あたしはぬいぐるみとかそういうファンシーなのを思い浮かべたけれど、日本人形のようなものもあるだろう。それに「おうちにある」ともがみは言った。つまりこいつの個人的な所有物ではなく、家系として扱っているものかもしれない。実家が人形屋とか。
とはいえ、人形『遣い』とはなんだろう? もがみは変なことを言うけれど、ちゃんと話を聞いてみるとその表現はただしく使われていることが多い。ただ人形をたくさん持っているやつのことを『人形遣い』というのはなんとなくもがみらしくない。
「まあいいや。帰ろう、もがみ」
「うん! 帰る! じゃーれ、葉太くん」
もがみは噛んだ。だがそんなことなどどこ吹く風で「うん。じゃあ」と鵐は文庫本から目を離さず言った。どうやらやつはまだ居残るつもりらしい。
「おもいらひた!」
もがみと一緒の帰り道。久米方もがみはまた噛んだ。先に寄った駄菓子屋での戦利品を咥えているからという要因もあるが、なんだか今日(放課後)はいつも以上に落ち着きがない気がする。
「……なにをだ?」
「傘ちゃん! 高三の木児くんって知ってるでしょ!?」
「知らん。誰だ?」
「なんで知らないの! 有名人だよ!」
「寡聞にして知らん。だから誰だ?」
「なんか知らないけど有名なんだよ! いつだったか表彰されてた!」
「表彰? ……あー、解った。たぶんパソコン関係の人だよ」
うちの学校で表彰されるのはあたしと、パソコン部(たぶん違う。そんな感じの部活)の男子生徒くらいだからだ。あいつはたしか、高三だ。名前は忘れたが、何度か話した覚えもある。
「そうそう! パソコンの人!」
「で、その木児という先輩がなんだって?」
「アメちゃんもらった!」
嬉しそうに破かれた包装紙を見せるので、あたしは半分無意識にチョップした。
「痛いよ!」
「だろうな」
「なんで叩いたの! 私はパソコンじゃない!」
「知らんやつから食い物もらうなっていつも言ってるだろ」
こいつは危機感がなさすぎる。まあ学校のやつらならさほど危険性はないだろうが、一回、変なおっさんに変な白い粉をもらって飲もうとしていたことがあった。だからあたしが一律禁止した。あまり効果はないけれど。
「知ってる人だもん! 有名人だもん! 傘ちゃんお母さんみたい! 愛と一緒にカロリー入れるな!」
思いつくことを思いつくだけ言ってみた。みたいな感じだった。いつも以上に知性が低い気がする。
「なんかやけに元気だな。心なしか頬も赤いぞ? 大丈夫か?」
言うと、一瞬我に返った様子で、
「だ、」
と言葉を詰まらせてから、
「大丈夫! 久米方もがみはとっても元気! 今日は一日、いいお天気だったしね!」
と言った。
そして空を見上げる。だからあたしも一緒に、空を見上げた。今朝の狒々原の言葉が思い出される。やや雲が茂ってきた。だがそれでもまったく降りそうではない。
「たぶん夕日が染めてるだけだよ。むしろいつも以上に元気な気がする」
もがみが言った。その様子はいつも通りに近かったけれど、やはり頬に紅が刺すので、むしろ心配になる。
「なら、いいけど。……もがみは元気すぎるから、逆に心配になるんだよ。……無理してんじゃないかって」
確認するまでもなく、あたしは暗い顔をしているだろう。堰が切れる、というほどでもないが、これまでこらえていた感情がすこしずつ顔をもたげてくる。
「そんなことないよ? 私だって寝るときもあるし、倒れることもある」
「普通、人間は倒れるまで働かない」
「私、加減って苦手だからなあ」
「そうだな。おまえはそういうやつだ」
変わってほしいけど、変わってほしくないんだ。この先もがみが、たとえどんなふうに変わってもあたしは満足しないだろう。もがみのことを好きになればなるほど、危なっかしいところが目につく。だから、嫌いになる。あたしはあたしを、嫌いになる。
「傘ちゃん」
呼ばれて顔をあげるから、俯いていたことに気が付く。我に返る。
「なんだ?」
「今日傘ちゃんち行っていい?」
まず、込み上げてくる。幸福な感情が込み上げてくる。遅れて、理性がやってきた。今日のもがみはおかしい。だからそばで見ていたい。だけどそれじゃあだめだろう。あたしが友達としていまのもがみに言うべき言葉は――
「悪いな……今日は家の手伝いがある」
我が家は特に商いをしているわけではない。だが、それでもこの曖昧な用事は、やんわりと断るには適している。
今日は家でゆっくり休め、もがみ。そして明日は、またいつも通りの笑顔を見せてほしい。そう思った。
あたしは知っていたはずだ。この世界に明日が必ずやってくる保障などないことを。
*
もがみと別れた帰り道。突然雨に降られた。
空を見上げ、立ち竦む。ややあってから振り向いた。もうだいぶ離れている。当然と、もうもがみの姿は見えない。
もう一度、空を見上げる。さほど暗くもない。きっと通り雨だろう。狒々原の言葉を、また、思い出した。あのどこか淋しそうな表情とともに。だから、すこし不安になる。もがみと別れたあとはいつもそうだ。だけど、いつも以上に不安が強い。雨に降られているから、体が冷えてきているのかもしれない。それでも、急いで帰る気にはなれなかった。
これは、罰かな。
そう思いながら、ゆっくり歩いた。あたしなんかがもがみのそばにいること。それを罪だと糾弾されるなら、あたしには反論する術がない。
そうだな。きっと誰よりもあたしが、あたしを嫌いなんだ。
――幕間――
「これ、必要か?」
阿刀田傘がしかつめらしい顔をした。
「まあ、いちおうねー」
微塵も誠実さを感じさせないなおざりで、理紫谷円子は言う。
「君は心がどこにあると思ってるんだい?」
「この無駄な脂肪の中だろ」
阿刀田は自分の胸部を持ち上げて言う。こいつには羞恥心がないらしい。
「よく解ってるじゃない。もちろんそのおっぱいだけじゃなくて、その体すべてが心だよ」
「それで?」
「それで? なにそれ、疑問? 体を借りるなら心も一緒に。そういうことだよ」
理紫谷円子は言う。阿刀田はすこし『むっ』としたようだったが、なんとか飲み込んだらしい。
「そういえばお嬢ちゃん。答えは出たのかな?」
猫なで声を一割混ぜたような気味の悪さで、円子は突然言った。
疑問を投げかけられた阿刀田は、大きく息を吐く。たぶん、怒りを鎮めていた。
「『後悔先に立たず』」
「あっそう。いいよ。及第点」
もうあまり時間がないというのに、大丈夫だろうか? それは俺が心配することではないけれど、そう思うくらいしかやることがなかった。いや、もうひとつ心配事がある。
俺自身がなにかを知っているわけではないけれど、阿刀田傘、おまえはこのプロジェクトの全容を知ったら、いったいどうするのだろう?




