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レイン・デイ マザー・グース  作者: 晴羽照尊
2/8

久米方もがみの瞳


 七月二日(火曜日)


 世界を震わす鐘鳴とともに、私は飛び起きた。祭囃子みたいに奇矯な声をあげて、今日も今日とて、新しい朝を迎える。見ると、ベッドの上は散々たるありさまだった。敷布団にかかっていたシーツは半分はがれているし、掛布団なんて表裏が反転している、枕に至っては部屋の隅にまで追いやられていた。いつも通り、私が投げたんだろうなあ。

「まあいいか! おはよう、世界!」

 私はとっ散らかったベッドに仁王立ちし、枕元のカーテンを勢いよく開いた。空は快晴、空気はおいしい。私は今日も今日とて、生きています。

 私の挨拶に世界がざわめきだしたのか、足元よりもっと低いところで蠢くような音が聞こえた。から、そちらを向いてみると「おはよう、もがみちゃん。今日も元気ね」と、お隣のおばさんが苦笑いしていた。

「おばさん、おはよう! 久米方くめかたもがみはとっても元気! だって、今日はすっごくいい天気!」

 空を指差すとおばさんも眩しそうに見上げていた。片手は眉のあたりで傘を作り、片手は口元をおさえ「ふふふ」と笑っている。その仕草は田舎のおばあちゃんみたいな優しさを孕んでいたので「おばあちゃんみたい」と呟く。眼下の笑顔は般若に変わりなにごとかを叫ぶ。うん! 今日も町は、元気いっぱいだ!


 適当に着替えを済ませ、階段を駆け下りる。ドタバタと、あえて音をたてて降る。お父さんとお母さんに、私が今日も生きていることを伝えるためだ。それだけで、ちゃんときっかり、お母さんは朝食を出してくれる。とはいえ、リビングに直行するだけでは早すぎる。だから私は洗面所へ向かう。家族の間柄であろうとも身だしなみは大切だ。お父さんがそういうところ厳格だから、私は朝食の準備をしてもらっている(であろう)間、身だしなみを整える。顔を洗って、髪の毛を後ろで一括り。よし。完璧!

 私は走る。洗面所からリビングまでの距離はわずか数メートルだ。我が家は一般的なサイズの一軒家であるので、普通廊下は走らないらしい。というか走れるほど広くはない。それでも私は走る。時間は有限。人生なんて生き急いだって短すぎる。私は世界が広いことを知っているのだ。

「お父さんお母さんおっは――」

 世界が転回した。お? おおおお? と慣れ親しんだ視界と戯れる。無意識で動く関節。理解より速い正答。頭を守らなきゃ。なりふり構わず両手でクッションに。制服のスカートも守らなきゃ。学校指定のソックスも滑りやすい。今日も今日とて廊下の掃除は万端だ。舌を噛まないように注意。重力の感覚で上下は解る。女の子らしく可愛く転ばなきゃ。

「――よおおおおおぉぉぉぉおお!?」

 歌舞伎役者みたいだった。私ってそっちの才能、あるかも!

 瞬間に永遠を感じる。冷や汗をかき始めたころ、理解が追いついてくる。その一瞬に感じたことは、はるかに時間を超越していた。心の中には言葉ではないものがたくさん詰まっている。その胸に手を当てて、心音を聞く。まだ私は生きていた。

「あらあら、今日も元気ねえ」

 神様の言葉を代弁するような優しい声が、あさっての方向から聞こえた。……あさっての方向ってどっちだ?

 視線を向けると、いつもの優しい表情。目尻にやや皺ができ始めた、笑顔を絶やさず生きてきた表情だ。私もきっといつか、あんな表情になるのだろう。そのために、今日もひとつの笑顔で応える。

「うん、お母さん! 久米方もがみは今日も元気! おはようございます!」

「大変よろしい。ハナマルあげちゃう! じゃあもがみ、これ持ってって」

 言うと、キッチンから三枚のプレートが手渡される。私はそれを受け取り、毎日の指定席へ腰をおろした。

「お父さん。おはようございます!」

 すでに着席しているお父さんに挨拶。お父さんは読んでいた新聞を畳み、脇に置いてからしっかと私と向き合い「おはよう、もがみ」と言った。寡黙で無表情だけど、いつもどんなときでもしっかりとした挨拶を返してくれる。その決まりきったルーティンは、ただなおざりにこなしているのではなく、いつも深い愛情を感じさせた。もっとも正しい表現をいつも選択している。お父さんは最初から知っていたから、私にいつも最上の言葉をくれるのだ。

「さあ、みんな揃ったし、いただきましょうか」

 お母さんが自分の朝食を持ってきて言う。お父さんの分はすでに卓上に並んでいた。しかし、お父さんはコーヒー以外には手をつけていない。久米方家の朝食は、いつもみんなでって決まっているのだ!

 両手を合わせて、今日も思う。あらゆる生命をいただいて、私たちは生きている。それだけじゃない。いま私が座っている椅子も、朝食をとるための机も、この世界の誰かが作ったものだ。仮に全自動で機械が製造しているとしても、そのおおもとの設計をした人や、もしくは材料を用意する人、運ぶ人、売る人。いろんな人がどこかでなにかに携わって、いまの私の世界がある。こうして手を合わせて、目を閉じると、そのすべてに思いを馳せてしまう。やはり、心は時間を超越している。その中には、この世のすべてがあった。

 一秒にも満たない瞑想の中で、あらゆるものに感謝して、今日も今日とて、私は言う。

 いただきます。


 いつも朝食は私が一番に食べ終わる。食べ終わるまで基本的に会話はない。特に明言されているわけではないけれど、いつからか我が家ではそういうルールになっていた。そして、家族みんなが食べ終わって、ごちそうさまを言うまでは朝食は終わらない。具体的に言うなら、食卓から離れるのはあまりよろしくない。

「お父さん。新聞とって」

 こんな環境だからか、私は毎朝、新聞を読む日課があった。お父さんは間違えないようにゆっくりと、サラダを食べていた手を止め、フォークを置く。それから口を拭い、新聞をとってくれる。お父さんの動作は緩慢だけれど、ちっとも待った気がしない。

 私は「ありがとー」と言って、受け取る。新聞は大きい。開くにはスペースが必要だ。私はすこし椅子を引き、食卓との間にスペースを作る。新聞は大きい。なんでこんなに読みにくいのだろう。

 我が家でとっているのは地域新聞だ。ゆえに、テレビでよく見るニュースとは少々趣を異にしている。もちろん全国的に有名な事件には追及しているけれど、それでも二面三面以降に書かれていることが多い。やっぱり一面は、地域に関連ある出来事が載ることがほとんどだ。

 本日の記事は、来る梅雨に向けての災害予想マップのようなものだった。この町は土地の緩急が大きい。どこへ出掛けるにもたいてい、坂を登ったり降りたりしながら向かう。ゆえに、大雨が降ったとき、海抜の低い地域では水害が多い……らしい。我が家は比較的高地にあるので水害らしい水害にあった覚えはないけれど、ああ、そういえばかさちゃんがよく水害あうって言ってたっけ? 新聞に載っていた災害予想マップによると、たしかに傘ちゃんの家のあたりは、水害の起きる可能性の高い地域として、濃い色で塗られていた。

「大変じゃん!」

 つい立ち上がってしまう。お父さんとお母さんの視線が、私を見上げている。お母さんと目が合う。お母さんは変わらず、目尻に皺ができている。お父さんと目が合う。いつも通りの無表情だが、私にはお父さんが驚いているように見えた。

「お父さん! 傘ちゃんがね! 水害なんだよ!」

 私は言った。自分でもなに言ってるか解らない。言いたいことは理解しているつもりだけれど、うまく言葉が選べない。狼狽しているつもりもないのだけれど。でも、私は言葉でなにかを表現することが苦手なのだ。

 お父さんは朝食をいつのまにか済ませていたようで、すでにフォークは机に置かれている。それでも一度、間を挟むように口を拭い、すこしだけ身を乗り出してくる。

阿刀田あとうださんのお宅は、大丈夫だよ」

 極めて優しく、お父さんは言った。それだけで私は安心する。そうか、大丈夫なんだ。なんでか解らないけれど、大丈夫みたい! うん、よかったよかった。

 私は椅子に座り直し、コーヒーに口をつける。お父さんのとは違う、甘い苦みが鼻孔をくすぐる。いまさら段々と、頭が冴えてくるようだった。

「なんでっ!?」

 私は再度立ち上がった。お父さんのテノールボイスに騙された! 私は納得できるだけの理由を聞いていないのだ!

「はいはい。とにかくごちそうさまよ、もがみ」

 お父さんが答えるより先に、お母さんが口を開く。どうやらお母さんも朝食を食べ終えたらしい。ゆえに、私は腰を降ろした。世界への感謝はなににも優先する。あるいは、現実の時間にもだ。

 ごちそうさま。


 朝食を終え、私は歯を磨く。さきほど顔を洗ったときにはほとんど鏡を見なかったけれど、こうして歯を磨き、他にやることがないと鏡でも見るしかない。歯ブラシを咥えるマヌケな女子中学生が映っている。どことなく左右でバランスが悪い顔つきだ。全体的には丸顔。瞳も大きいと思うけれど、よく見ると右目の方が少々大きく見える。右耳が左耳より外側に反ってる気がするし、口のすぐ右下に小さな黒子がある。全体的に右側が重そうだ。ひとつひとつ顔のパーツを確認すべく目を動かすと、それに合わせて右手が揺れた。手元が狂って頬の内側をノックする。すると口元が緩んで白いよだれが垂れた。なにこの女子、おもろい。

 太ったかなあ。と、心配しつつ、贅肉を吐き出すように強く口をゆすいだ。制服のスカートのウエストをひとつ折る。腹部への締め付けを確認して、変な声が漏れた。

「あら、もがみちゃん、ちょっと太った?」

 タイミングよく洗濯をしに来たお母さんと鉢合わせた。

「やっぱりお母さんだったんだね! ごはんにカロリーを仕込むなんてひどいよ!」

「もがみがやたら走って消費するからでしょ?」

「だからってこんな陰険な! お料理をおいしくしたでしょ!」

「隠し味に愛を入れてみました」

 うふ。と年齢を考慮しない可愛げを振り撒いた。私のお母さんは世界一可愛いというのか!?

「もう! お母さんなんて大好き!」

 私は捨て台詞を吐いて駆け出す。時間も時間だ、そろそろ学校へ行かなければならない。

 カロリーは素敵だ。私はこんなに走れる。体がかっと熱くなる。お母さんの愛情が私を駆け巡る。久米方もがみのこの元気は、久米方はるかの愛のおかげだったんだ!

 私ははやる気持ちを抑え、スニーカーの靴ひもを入念に結んだ。靴ひもは大切だ。これが解けると、なんと走れなくなる。どころか自分で靴ひもを踏んで転んだりするのだ。しかし、この紐の締め付けがあるからこそ、私の足は靴と一体化し、安全に走ることができる。靴ひもは人類が発明した素晴らしい道具だ。もちろん靴自体も、制服も、ヘアゴムも、通学バッグも。私は靴を履き終え、玄関に用意してあったそれを手に取り、立ち上がる。よし! 行こう!

「もがみ」

 私が走り出そうとすると、後ろから控えめなテノールボイスが聞こえた。振り返ると、予想通りお父さんが立っていた。

「お父さん! 久米方もがみ、学校へ行ってきます!」

 私は言って、走り出そうとした。

「うん。ちょっと待って」

 お父さんはやはり緩慢に寄ってきて、前かがみになる。私の瞳を見つめてくるので、私もやや瞼を開いて、見つめ返す。

「リボンが曲がっている。直してあげよう」

 言うが早いか、お父さんは私の制服のリボンを整える。それはもう入念に。私は燃え上がる体を抑えるように、小さく足踏みをしながら待った。

「……よし、完璧だ」

 お父さんが言う。よし! 完璧!

 私は嬉しくなってくるりと回転する。リボン以外も大丈夫か、お父さんに確認してもらうために。

「どう? 可愛い?」

 言って、数秒待つ。お父さんはゆっくりと私を見分し、やがてその目を真白にした。ややあって、後ろに倒れ込む。さきほどの私と同じように、口から白いよだれを流しながら。

「あらもがみ、いってらっしゃい」

 洗濯機を回し始めてから、お母さんが出てきて送り出してくれる。

「お母さん! お父さんがまた倒れた!」

「大丈夫よ。いってらっしゃい」

 お母さんは変わらず笑顔で、言った。

 そっか。大丈夫なんだ!

「いってきます!」

 私は元気よく言った。言って、走り出す。

 時間は有限。世界は広い。

 私は今日も今日とて、はてなき世界を学びに行く。

 玄関のドアが閉まる直前、我が家の中から「うちの娘は世界一可愛い」というテノールボイスが聞こえた。


        *


 すごいすごいすごいすごい!

 世界が広すぎて、走っても走っても追いつけない!

 毎日のように感じるこの感情を毎日感じるのは、きっと昨日より今日の方が、よっぽど世界が広いからなんだろう。滑るように坂を下る。転びそうになる体を全力で立て直そうとしているうちに、今度は上り坂になる。ふくらはぎにかかる負荷が、世界の重さを気付かせてくれる。肌が焦げるのか、汗が蒸発しているのか、じりじりとした音が、鼓動とともに聞こえてくる。やがて潮の匂いが開けてきた。つきあたってみると、海沿いの道に出る。風が強くなる。向かい風に吹かれて、緩い坂を上った。上って、一八〇度に近い右折をすると、そこからはぐるりと丘を巻く上り坂。

 傾斜の多いこの町でも特に高いところに、私の通う学校はあった。数年前から中高一貫になった学校で、県内でもそこそこな進学校だ。中高一貫になることに合わせて新校舎を建てたらしく、真新しい校舎が、坂を上っていくとまず見える。そして坂を上りきったころに旧校舎が確認できる。とはいえ、こちらもさほど古いようには見えない。しっかりとした鉄筋コンクリート造りだ。新校舎が作られてからも、旧校舎は部室や物置に利用されている。あまり多いことではないけれど授業で使うこともある。

 坂を上りきって、私はすこし立ち止まる。さすがの久米方もがみも少々疲れたのだ。汗を拭って、空を見上げる。あれだけ上ったのに、ちっとも空が近くならない。まばらに雲が散った青空だ。もう梅雨だっていうのに雨の気配はない。今日の降水確率は〇パーセントだ。

 学校のそばは昔ながらの建物が多い。まさしくな出で立ちの駄菓子屋もあって、学校帰りに傘ちゃんと寄ったりする。傘ちゃんは部活とかあって忙しいからたまになんだけど。

「ああああぁぁぁぁ!!」

 私は思い出して叫んだ。そうだ! 傘ちゃんが水害!

 叫ぶ私を見て、一年生らしい女子生徒がびっくりしたらしい。一度こちらを見てから、これまで歩いていたのよりさらに歩道側に寄って、肩にかけたバッグの持ち手を両手で握り、すこし早足になった。坂を上りきってから、同じ学校の生徒をちらほら見かけるようになっていた。

 私は、再度走り出す。さきほどの女子生徒を置き去りに、学校へ向けて急いだ。徐々に密度を上げていく生徒の群れを追い越し、ときに誰かとぶつかってごめんなさいをしつつ走った。誰かとすれ違う。そのわずかな隙に、いろんな言葉が聞こえてくる。宿題やってないとか、一限から体育だよとか、暑くなってきたねとか、帰りにあそこ寄ってこうよとか。だから私は世界が広いと解るのだ。私が感じている世界のはてしなさを、世界のひとりひとりが知っているから。そのひとりひとりがまた違う世界を見ていて、そのひとつひとつが途方もないから。

 うふ。と私は笑ってしまう。心の奥底がむず痒くなる。こんなにも広い素晴らしい世界に、私は今日も今日とて、生きているのだ。

「す、い、が、いいいいぃぃぃぃ!!」

 見慣れた長身に私は抱き付いた。

「お? おおおお?」

 全力の私を受け止めて、多少よろめくだけで済むのは傘ちゃんだけだ。

「おーもがみ……すいがい?」

 傘ちゃんは振り返りもせず言った。傘ちゃんに言わせるなら「いきなりあたしにタックルかましてくるのはもがみくらいだから」らしい。私はタックルなんてしたことない!

「すいがい! おはよう!」

「あたしはすいがいじゃない」

「ほんとに? よかったあ」

 傘ちゃんは水害じゃないみたい! お父さんの言ってたことは本当だった!

 傘ちゃんは頭をすこし掻いてから、抱き付いたままの私の両足のそれぞれを、自身の両手のそれぞれで抱え上げた。

「あーあれだ。解った。もがみあんた、今朝の新聞の記事見たんだろ」

「うん! でも、水害じゃないならよかった!」

「あー――」

 傘ちゃんは空を見上げて間を空ける。私の鼻に近付いた後頭部からはわずかに石鹸の匂いがした。

「――土嚢をね、積むんだよ」

 こうやって……。と言いかけたが「こう」を表現する手がいまは私の足を掴んでいた。だから私はくすぐったい。

「まあ家古いから、雨漏りくらいするけどね。床下浸水ってのは、最近はないな」

「ふうん。そっかそっか」

 傘ちゃんの背中は安心する。やっぱり背が高いからなのかな? こうしておぶられていると自然と口元が綻ぶのだ。

「ここ数年は雨量が減ってるんだって。その影響かな」

「そーだねー」

「……もがみ。もうどうでもよくなってるな」

「大丈夫ならいいのー」

 なんだか優しい気持ちになる。これも傘ちゃんの背中のおかげなのかな? きっと傘ちゃんはいいお母さんになるなあ。思って、私は傘ちゃんの頭を撫でた。

「おい。撫でるな」

 傘ちゃんは言うけど、全然嫌そうではない。だから私は、傘ちゃんの髪の毛で三つ編みを作る。傘ちゃんの髪は梳いても梳いてもまったく引っかからないほどに完璧なキューティクル。手触りが最高。もうずっと触っていたい。眠くなってきた。

「おいもがみ、そろそろ降りろ」

「えー、あと五分」

「寝るな。起きろ。三つ編みやめろ」

 こちらを窺っていた様子はないのに傘ちゃんは三つ編みに気付いた。ときおり思うけれど、傘ちゃんはエスパーみたい。

「さすがのあたしもちょっと疲れたぞ」

「がんばって」

「……もがみ太ったな」

「傘ちゃんか!」

 なんてこった! 傘ちゃんは敵だった!

 私は傘ちゃんの背中を押しのけ、飛び降りる。土煙をあげながら着地し、さきほどまで身を預けていた背中を探す。その背中はすでに小さく見えるほどに遠くを走っていた。

「待てええぇぇ! 私の朝食にカロリーを入れたのは、おまえかああぁぁ!」

 私は追う。着地したときの残響が、やや遅れて両足を流れていた。心が反響する。メラメラと燃え上がる怒りは、はたしてカロリーを消費してくれているだろうか?


 中等部三年一組の教室に勢いよく入ると、そこに傘ちゃんはいなかった。そうだ、傘ちゃんは部活があるからこんな早朝に教室にはいないのだ。

 教室には独特な雰囲気がある。外界から隔離された流体の塊みたい。優しい息苦しさと、どこか痺れるような緊張感がある。それは人口密度が低ければ低いほど顕著になる。本来四十人に近い人数を収納すべきこの空間には、いま現在二人しかいない。だから喉が渇くのだろう。

葉太はたくん。おはよう」

 クラスメイトの葉太くんに挨拶する。行き場をなくした怒りに消沈しても、挨拶は欠かせない。

 葉太くんは読んでいた文庫本から目を逸らしてこちらを見た。「おはよう」と短く言う。

「今日も早いね、葉太くん」

「そうだね。きみも」

 葉太くんは短く言うと、文庫本に目を戻す。日が昇るにつれ気温が上がり始めたのか、もしかしたら私と同じ息苦しさを感じているのか、葉太くんは首元のボタンをひとつ外した。

「暑くなってきたね! 雨降らないね! あ、水害?」

 言いながら葉太くんのひとつ前の席に座る。ここは験藤げんどうくんの席だけど、まあいいよね!

 着席すると葉太くんは再度視線だけで私を見つめて、すぐに文庫本に戻した。

「きみがなにを言いたいのか、僕には解らないな」

「うーん――」

 私は考える。たしかによく考えてみると私がなにを言っていたのかよく解らない。

「――夏が早くて、梅雨が遅いね? 梅雨がきたら水害怖いね? 葉太くんのおうちは水害大丈夫?」

「僕んちはそぐそこだよ。旧校舎の裏」

「そっか。それでいつも早いんだね!」

「そうだね」

 ふう。と葉太くんはため息をつく。やっぱり暑いのか、シャツの胸元を掴んで、何度か引っ張った。

「それで水害――」

「もがみー、おはよー」

 結局水害について問題はないか聞こうと思ったら、教室の人口密度を上げる声が私を呼んだ。三人……四人の人影? あ、五人だ。ひとりが入ると後ろからもうひとり。そうやっていままで見えなかったみんなが次々入ってくる。人類として区別される同種の生物が、同じような格好で。だから一瞬間が空く。毎日友達の名前を思い出す。

朝日あさひちゃん! 結良ゆらちゃん! 金美かなみくん! 月音つきねくん! ろーくざーぶろーう!」

 最後のひとりは緑川みどりかわ六三郎ろくざぶろうくん! なんだか彼の名前は呼んだら楽しくなっちゃう! だから毎朝抱き付いちゃう! 六三郎くんはお相撲さんみたいだからいい抱き心地なんだよ!

「みんなおはよう! 今日もいい天気! すいがい!」

 六三郎くんにぶら下がりながら挨拶を済ませるとみんな笑顔になった。「すいがいってなに?」と口々に聞かれたので説明すると、どうしてかみんな困ったような顔になる。だから別な言葉で言い直してみると「ああ水害?」と会話が成り立ち始める。言葉というのはとても難しいのだ。今日もそれを学ぶ。

 根気強く話をしてみるに、どうやらみんな水害は大丈夫らしい。今朝見た朝刊の一面によれば、町の六割くらいは水害の被害を多少なりとも受ける予想だったはずなのだけれど、うちのクラスは大丈夫ばっかりだ。それから順にやってきたみんなにも聞いてみたけれど、ほとんどみんな大丈夫! というより話を聞いていると、どうにも最近は水害らしい水害って起きていないみたい! ここ数年梅雨はおやすみだって、凜梨りんりちゃんが言ってた!

 クラス中の水害について把握すると、結局一番危ないのは傘ちゃんということになった。傘ちゃんの家は百年以上前に建てたおうちで、由緒正しい文化的価値のある建物なのだそうだけれど、やっぱりその分老朽化も進んでいるのだそう。傘ちゃん本人は大丈夫って言っていたけれど、一度様子を見に行こうかな? そういえばご両親ともだいぶ会っていない気がするし。

 と、そこでチャイムが鳴った。「おーい、席につけー」担任の思地しじ先生が気怠そうな声をあげて教室に入ってくる。言われるまでもなくそれぞれ席に向かい始める朝の喧騒は、諦めるのを楽しむように愚痴に変わっていく。そのどれもが虚実のようだったので、私はこっそりと笑った。

「じゃあ、出席とるぞー。……阿刀田」

「うす」

 先生の着壇から数えて数歩遅れて、傘ちゃんは教室に入ってくる。いつものことだ。クラスの誰も、先生ですらそれを咎めたりはしない。

 傘ちゃんは結われた髪を揺らしながら、私の前の席に座る。左右にそれぞれ揺れて、すこし遅れて落ち着く髪の束は、今日はなぜか三つ編みだった。

「ねーねー、傘ちゃん。今日はなんで三つ編みなの?」

 結われているおかげで見事に露出したうなじをつついてみると、傘ちゃんはぴくりと両肩をあげた。

 すこしこちらを振り返り、言った。

「おまえがやったんだろ」


 学業というのは忙しい。一コマ五〇分という限られた短い時間で、文章を読解したりいろんな計算をしたり歴史を教わり実験をする。絵を描いたり楽器を弾いたり料理したりもするのだ。なんて忙しないのか。こんなに目まぐるしいと、必死に食らいつかなきゃ、なにをも学ぶ隙などない。私はいつも腐心している。クラスの他のみんなは、授業中におしゃべりしたり眠っていたりする余裕があるらしいのだけれど、私には無理だ。この世界には私の知らないことが多すぎる。毎日多くの知識に出会う。それらすべてを完全に理解するには、どれだけ時間があっても足りる気がしない。やはり、この世界は途方もないのだ。

「――――」

 なにか語りかける声が聞こえる。みんなに向けて語る、授業の声じゃない。だけど、意識がいくのは一瞬だ。いま考えるのは目の前の数式である。この式の描く曲線は、もうすこし操作を加えれば違った振る舞いを見せる気がする――。

「おい、もがみ!」

「ひゃい!」

 変な声が出た。世界が痺れている。真暗な視界に雷が刺したみたい。なんだろう? よく見えないし、よく聞こえない。

「もがみ……飯食おう」

 痺れに慣れてきたところ、ぐらぐらする視界に、徐々に柔らかい色が灯り始めた。

「傘……ちゃん?」

「うむ。阿刀田傘だ。元気か?」

 言われてみると、火照ってくる。お、おおおお?

「うん! 久米方もがみは今日も今日とて元気いっぱい! おはようございます!」

「寝惚けるな。昼休みだぞ、あたしは腹が減った」

「じゃあ私もお腹すいた! たぶん!」

 言ってみると遅れて空腹が湧きあがってくる。あと頭痛い! 眠い!

 思ったことを言う前に、顔に柔らかい感触。視界が倒れる。

「一瞬寝とけ、あたしはお茶買ってくる。……もがみは?」

「甘いコーヒー」

「ん」

 どうやら力が抜けたらしい。机に倒れ込むところを傘ちゃんが受け止めてくれたというところだろう。というか、よくあることだ。疲れたら倒れる。そりゃそうだ。そして疲れるまでがんばったということ。よくがんばったぞ、私!

 一瞬、目を閉じる。

「起きろ」

「ふげ」

 目を開けると、目の前に缶コーヒーが置かれていた。めっちゃ甘いやつ。

「よだれ垂らして寝てたぞ」

「傘ちゃん! おはようございます!」

「そんな叫ばなくても聞こえる。……飯食うぞ」

 言うと傘ちゃんはいつも通りの大きなお弁当箱をこちらに向けた。私も結構おっきいの持ってきてるんだけど、傘ちゃんのはさらに倍くらい大きい。あの細い体のどこに入っていくのだろう? 人体の不思議……?

 あれ、なんか引っかかる?

「じゃ、いただきます」

 傘ちゃんがお行儀よく手を合わせて言うので、疑問はどこかへ飛んでいった。

「うん、いただきます」

 祈るように言って、卵焼きを頬張る。甘い。うちの卵焼きは甘い卵焼きだ。傘ちゃんのはしょっぱい系。体が熱くなってくる。糖分が血とともに巡る。久米方もがみは生を実感する。遅れて、頭が覚醒してくる。

「傘ちゃん! カロリー!」

 思い出した! 傘ちゃんは私にカロリーを盛ったんだ! しかもこんな甘いコーヒーまで私に飲ませようとする! 美味しい!

「……大丈夫だ、もがみ。今朝おまえに太ったと言ったのは嘘だ」

「ほんと? やったあ! この嘘つき!」

 傘ちゃんはいい人だった! 私は太ってない!

 自然と笑顔になる。カロリーを気にせず食事を採れるなんて、なんて幸せなのだろう!

「ところでもがみ。あたし今日、部活が基礎練だけですぐ終わるんだけど、一緒に帰らない?」

 傘ちゃんは鶏肉の香草焼きを食べながら言った。俯いてお弁当を見つめているかと思ったけれど、視線は私に向けられていた。その姿はどこか小さく見えるものだった。そうだ。傘ちゃんはたまにこんなふうになる。一歩下がったみたいに、気付かないていどに小さく見えて、いつもの凛々しさを衰えさせる。

 私は傘ちゃんのこの変貌を止めることができない。『変貌』というには小さな違和感でしかないけれど、たしかに感じる、この脱力を、止められない。この無力感も、世界が大きすぎると思う要因のひとつだ。

「うん。……やったね!」

 なにが「やったね!」なのだろう? 私は私が解らない。傘ちゃんと一緒に帰れることは嬉しい。それは「やったね!」に違いない。でもどこか他人行儀になる傘ちゃんの小ささを、それでも包むことができない私のもどかしさを、こうして抱えたまま言えた言葉ではないだろう。

 しかも、なんでへらへら笑ってるんだろう、私。

「そうか、よかった」

 傘ちゃんはごはんがおいしくなかったみたいに小難しく笑って、言った。照れ隠しみたいにいくつかのおかずをなおざりに口に詰め込んで、頬を膨らませる。それからいつも通りの顔つきになるまで、私もうまく笑えなかったに違いない。


 お隣の三年二組に転校生が来たという話を聞いたのはその直後だった。だからどうということもないのだけれど、傘ちゃんは「見てくれば?」と言っていた。「あたしの部活が終わるまで暇だろう?」鯖の塩焼きみたいな湿度の言葉だった。愁いや諦観とは違う、近いけど、もっと素っ気ない感じ。

「それにほら、もがみはそういうの得意じゃん」

「むむ……そうだっけ?」

 そもそも「そういうの」とはなんだろう?

「転校生は女子。なーんか無口で近寄りがたいみたいでさ。誰かが言ってたよ、『機械みたい』なんだって」

「マイケルジャクソンみたいってこと?」

「……ムーンウォークはロボットダンスじゃないぞ」

「マイケルジョーダンだっけ?」

「エアーウォークでも同じだ」

「とにかくそんな感じなんだよね?」

「全然違う」

 傘ちゃんに否定された。これは珍しいことなので、おそらく私の方が勘違いしているのだろう。

「授業中、先生にあてられても返事もしないんだって。でも勉強はできるの。字もプリンターみたいに綺麗なんだと」

「すごいね!」

「すごいってか……キモいだろ」

「うん! キモい! 蟻子ありこちゃんみたい!」

 笑顔で首肯すると「ちょっと、誰がキモいですの! 風評被害ですのよ!」と前の方の座席から聞こえた。ので、私は「蟻子ちゃん、卵焼きあげる!」と言って手招きした。すると「わー! ありがとうなのですのよ!」と尻尾を振って寄ってくる。蟻子ちゃんはキモかわいいのだ!

染原そめはら……おまえにはプライドはないのか?」

 心底軽蔑するように傘ちゃんが言った。

「プライドでお腹は膨れませんのよ!」

 私は蟻子ちゃんのこの姿勢も、立派なプライドだと思うけどなあ。そのかわいい頭を撫でながら思う。あと顎の下を撫でてあげると気持ちよさそうにするの。もし本当に彼女に尻尾が生えたならうちで飼いたいと思ってる。

「よーし。じゃあごちそうさま! もう席に戻っていいよ! 蟻子ちゃん!」

 ひととおり蟻子ちゃんの毛並を堪能して、私は言う。蟻子ちゃんは「はーい! なのですのよ!」と元気いっぱいで自分の席に戻った。ふむ。それにしてもこんなおもしろ生物に会えるというなら、お隣の転校生ちゃんを訪ねるのも楽しいかもしれない。

 世界がもし百人の村だったら。どれほど素晴らしいだろうかと思うことがある。たった百人なんだ。だったら、みんなとじっくりお話ができるのに。世界は広すぎる。どれだけ生き急いでも、全員には会えない。


 放課後。生き急いでみると、転校生ちゃんはいなかった。

「よー久米方もがみ。今日はなにやってんだ?」

「美々みみみちゃん! 転校生!」

 お隣三年二組の美々実ちゃん。趣味は走ることと変態観察(自称)。この学校の中等部で私より足が速いのは傘ちゃんとこの美々実ちゃんだけだ。

「あー、噂の転校生を見にきたのか、久米方もがみ。あいにくだがもう帰ったぜー」

 にひひ。と美々実ちゃんは笑う。

「帰った? なんで?」

「授業が終わったからじゃね?」

「そっか! そりゃそうだ! さすが美々実ちゃん!」

「じゃーおれ、部活あっから」

「今日はどこまで走るの?」

「月まで」

「さすが美々実ちゃん!」

 美々実ちゃんはすっごくすごいのだ!

 それから部活に行くという美々実ちゃんを見送り、三年二組の皆様にわちゃくちゃにされ、暇になった。うーん。傘ちゃんの部活が終わるまで、あと一時間はありそう。

 顎に手を当て、首を捻りつつ歩いていると、高等部のクラスのあたりにまで達していた。宝塚たからづかさんとか明鳴めいめいさんとか兎戸多ととだくんとかと鉢合わせたけれど、みんな水害は大丈夫らしかった。大芸だいげいくんのおうちが去年、台風で屋根がすこし壊れたらしいのだけれど、むしろリフォームしたから大丈夫なんじゃないかって笑ってた。話を聞く人みんなが大丈夫大丈夫って笑うから、むしろ話を聞けなかったみんなのことが心配になる。大丈夫を聞くたびに心配がつのるのなら、私はどうしたら安心できるのだろう? この町のみんなですら、全員には会えない。すくなくとも、全員を知ることはできない。

 校内をあてどなく彷徨う。首を傾げて考えてみる。考えているうちに、首が痛くなって、じゃあ逆方向に傾けたら痛みもひくのではないかとかくだらないことを考え始める。そしたらそもそもの生活環境、習慣、食事もなにもかも疑ってしまう。疑い始めたらきりがなく、どこまでいっても思考が終わらない。

「なんか。疲れた」

 愚痴をこぼしてみる。いつも元気な久米方もがみも、疲れることくらいある。疲れたら立ち止まる。頭をからっぽにして、座り込んで、寝転んで、空を見上げて、寝る。人体は休まなければならないようにできている。

「なにをやっているの? 久米方さん」

 見上げると、子供みたいな大人が私を見下ろしていた。

やじりちゃん。寝てるー」

「『ちゃん』じゃなくて『先生』です。廊下の真ん中で寝ないでください」

 鏑ちゃんがしゃがみこむので顔が近くなる。近付くとなおさら子供みたい。お肌がぷるっぷる。鏑ちゃんの授業を受けたことがないから、私はいまだに、鏑ちゃんは中学一年生だと思っている。

 私は転がる。一回転半で壁にぶつかり止まる。俯せる。腰の痛みを伸びで和らげる。寝転がるって最高。

「真ん中が悪いんじゃないです! 廊下に寝るのをやめるって言ってるです!」

 すり足で転がった私を追いかけて、追いついた鏑ちゃんが、そう言いながら私の後頭部を叩いた。虐待だ。

「でも鏑ちゃん、疲れたー」

「だからって廊下はだめです。保健室とかあるでしょ」

「こんな満身創痍な生徒を捕まえて、保健室まで歩けと? そんなんだから鏑ちゃんはいつまでたっても中学生なんだよ」

「先生は大人です! 今年で三十歳なんですよ!」

「わわっ、噂に名高き三十路だ!」

「そうなんです……。もう三十路なんです……」

 なぜか鏑ちゃんはうなだれた。いまにも倒れそうな黒いオーラを放ち始める。

 私の疲れが鏑ちゃんに移ったのか、私自身は元気になってくる。風邪は人に移したら治るというけれど、倦怠もそうなのかもしれない。まだ覚束ない足取りだけれど、私はまたどこかへ歩き始める。鏑ちゃんは……まあ大人だから放っておいても大丈夫だろう。

 廊下の隅にうずくまる少女を残して、私はどこか空き教室がないか探し始めた。


 表札のない教室を見つけた。五階建ての校舎の四階、その隅の方だった。ここはたしかに、中等部のクラスがある一帯からは遠い。それにしても、校内に知らない場所があるとは驚きだった。旧校舎ならいざ知らず。

「失礼……します?」

 そこに人がいるかどうか、確認しながら入ってみる。外から見ても暗かったが、教室内に入ってみるとやっぱり暗かった。電気は点いていないらしい。私は手探りでスイッチを探す。

「悪いが電気は点けないでくれ」

 奥の方から声が聞こえた。驚いて背筋が伸びた。

 声の方を覗いてみると、明るい区画がある。そこには輝く半分の生首が浮いていた。

「わー! 幽霊!」

 初めて見た! なんか元気出てきた!

 幽霊はなにも応えない。私はゆっくりと生首に近付いた。近付くにつれ、カタカタという音が耳に障り始める。ポルターガイスト?

 慎重に近付いて、その距離が三メートルほどになったころ、件のカタカタがふと止まる。半分だった生首が全部になって、目が合った。その顔は、どこかで見たことのある顔つきだった。

「久米方……もがみか?」

「私を知っているの?」

「……いちおうな」

 言うと生首はまた半分になって、カタカタが再開される。ポルターガイストじゃないっぽい。その雰囲気は『これ以上近付くな』という意思を体現しているようで、私はどうしていいか解らなくなった。仕方ないので近くにあった席に腰を降ろす。疲れていたことを思い出し、暗いせいか眠気も襲ってきた。

「……なにか用か?」

「うーん?」

 ちょっとうとうとし始めたころ、生首が言った。顔は相変わらず半分だし、カタカタも止まらぬまま。

「とくに」

 私は答える。すこし欠伸を漏らす。眠っていなくてよかった。眠ってしまったら傘ちゃんとの待ち合わせまでに起きれる自信がない。

「生首さんはこんなところでなにやってるの?」

 眠ってはいけない、だから私は会話することにした。あと三十分くらいだろう。がんばって起きていないと。

 カタカタが止まって、鼻を鳴らすような音。半分が全部になって、やがて生首は消えた。その場所に次に見えたのは、男子生徒の制服だった。それもやがて消えて、教室の一部が照らされる。誰かが歩く音。

「暇してただけだ」

 声の位置はややずれて、その直後に世界が明転する。するとそこにいきなり男子生徒が現れた。その顔と目が合う。その顔立ちはさっきの生首に似ていたし、どこかで見た気がする顔だった。

「あ、ああぁぁ!」

 私は指差す。思い出したのだ。

木児きじくん!」

 そうだ。見たことがある。どこで見たんだったか、むしろ誰なのか知らないけれど、見たことがある。

「君は俺を知っているのか?」

「知らない! でも知ってる!」

 名前は思い出せたんだけど、はて、私はこの先輩をどこで見かけたんだっけか? 名前も知っているというのならただすれ違っただけじゃないとは思うのだけれど。しかもたぶん、有名人だ。じゃなきゃ名前を思い出したくらいで叫ばない、さすがに。

 木児くんは肩を竦めてため息をつくと、腰を降ろした。その席はさきほどまで生首がいたあたりに近かった。……ああ、さっきの生首は木児くんだったのか。どうやらノートパソコンが置かれている。その液晶からの光を受けて首が浮いていたのだ。

 私は木児くんに寄る。カタカタが再開されている。このカタカタもキーボードを叩く音だったらしい。

「木児くん、ここでなにしてるの?」

 お隣の席に腰を降ろす。木児くんは椅子を机に向かって九十度傾けていて、体幹を歪めそうな姿勢でキーボードを叩いている。ほとんど手元も液晶も見ている様子はなかった。

「言ったろう。暇してるんだ」

「暇してるって変な言葉だよね!」

「そうだな」

 簡潔に言うと、木児くんは肩肘をついた。キーボードは片手で叩き続けている。肘をついた方の手は襟元に向けられた。制服のシャツの窮屈そうに閉じられた第一ボタンあたりに指を引っ掛ける。息苦しいのかもしれない。

 この木児という先輩のことが思い出せそうで思い出せないから、どうにも言葉が出てこない。手持無沙汰にパソコンの液晶を眺めてみるに、本当に暇そうな映像が流れていた。たぶん意味はあるのだろうけれど私には解らない。ただ文字――たぶん英語がつらつら綴られているだけ。……日記かな?

 画面を見ていても眠くなりそうなので別の場所を見分してみる。木児くんは傾けた椅子に座っているので私とは体だけ向かい合う形だ。肘をついた左手首にはずり落ちた長袖の裾から腕時計が覗いている。ときどき口がもごもごしている。パソコンの置かれた机を見ると、アメちゃんがいくつか転がっていた。包装紙の色はいくつかあるけれど形や柄を見る限り同じメーカーのアメだろう。

「木児くんそのアメ好きなの?」

「普通だ」

「一個ちょうだい」

 言うと木児くんは一瞬そのアメを見た。すこし遅れてキーボードを叩く音が止む。

「もし、やると言ったらどの色がいい?」

 木児くんは言う。色? べつにどれでもいいけれど。赤。青。緑。橙。紫。見たところ五種類だ。きっと味が違うんだろう。

「赤」

 言うと、木児くんは赤いアメちゃんをひとつ抓んで、自身の手のひらで転がした。それをすこしばかり見つめたあと「ほら」と私に差し出した。私はそれを両手で受け取る。

「……ありがとう?」

「ん」

 なんだか神妙な行動に戸惑う。本当にもらっていいものだったのだろうか? もしかしたら大切なアメちゃんだったかもしれない。そんな雰囲気が木児くんにはあった。

 さっきまで横目で見るでもなく見ていたパソコンの液晶に、木児くんはすこし向かい合った。そしてキーボードをまた叩き始める。まだ片手だった。変わらず左手は首元を気にしている。暑いのかな?

「じゃあ、私もう行かなきゃ」

 そろそろ教室に戻った方がいいだろう。傘ちゃんも部活が終わりそうな時間だし。

「そうか」

 と木児くんは言う。私の方を見向きもせずに。キーボードの音も止まらずに。

 私は立ち上がり、ドアの方へ向く。そこでふと思い出した。もう一度木児くんに向き直る。

「木児くんのおうちは、水害大丈夫?」

「俺の家はこの高台にあるからな」

「じゃあ近いんだね」

「そうだな」

 木児くんの言葉は短かった。でも、拒絶されている感じはしない。不思議。お父さんみたい。

 私はもらったアメちゃんを口に放り込み、再度踵を返す。

「俺はいつでもここにいるから」

 私がドアに手をかけると、背後から木児くんが言った。

「また来ればいい。アメくらいならやるよ」

 振り返ってみると、木児くんはいつのまにか両手でキーボードを叩いていた。


「おもいらひた!」

「……なにをだ?」

 傘ちゃんと一緒の帰り道。駄菓子屋で買ったイカの干物? みたいなのを咥えていたらふと思い出した。

「傘ちゃん! 高三の木児くんって知ってるでしょ!?」

「知らん。誰だ?」

「なんで知らないの! 有名人だよ!」

「寡聞にして知らん。だから誰だ?」

「なんか知らないけど有名なんだよ! いつだったか表彰されてた!」

「表彰? ……あー、解った。たぶんパソコン関係の人だよ」

「そうそう! パソコンの人!」

 なるほど。だからさっきもパソコン叩いてたんだ。傘ちゃんの言葉に納得する。

「で、その木児という先輩がなんだって?」

「アメちゃんもらった!」

 ポケットに残ってた包装紙を見せるとチョップされた。

「痛いよ!」

「だろうな」

「なんで叩いたの! 私はパソコンじゃない!」

「知らんやつから食い物もらうなっていつも言ってるだろ」

「知ってる人だもん! 有名人だもん! 傘ちゃんお母さんみたい! 愛と一緒にカロリー入れるな!」

 思いつくことを思いつくだけ言ってみた。疲れた。

「なんかやけに元気だな。心なしか頬も赤いぞ? 大丈夫か?」

 傘ちゃんが心配そうな顔で見つめてくる。お昼休みのときみたいな心配そうな顔。過ってスマートフォンを落としてしまったときみたいな顔。

「だ、」

 だから一瞬、言葉に詰まる。

「大丈夫! 久米方もがみはとっても元気! 今日は一日、いいお天気だったしね!」

 空を見上げる。まだ柔らかい夕空。今朝より雲の量が多い気はするけれど、それでも曇りというにも足りないくらいだろう。

「たぶん夕日が染めてるだけだよ。むしろいつも以上に元気な気がする」

 私は言った。言葉に偽りはない。なんだか妙な高揚感があるのだ。

「なら、いいけど。……もがみは元気すぎるから、逆に心配になるんだよ。……無理してんじゃないかって」

「そんなことないよ? 私だって寝るときもあるし、倒れることもある」

「普通、人間は倒れるまで働かない」

「私、加減って苦手だからなあ」

「そうだな。おまえはそういうやつだ」

 やっぱり傘ちゃんは俯く。それは私が悪いのだとは思う。ただ元気でいるだけでも、一所懸命でいるだけでもだめなんだ。私が私らしく私でいるだけでは、傘ちゃんはずっとなにかを抱えたままなんだ。

「傘ちゃん」

「なんだ?」

「今日傘ちゃんち行っていい?」

 私が傘ちゃんのその悲しみを消すためになにができるか解らない。解ったところでそれが可能かも。だけど、諦めたくはない。だからもっともっと、時間が必要だ。傘ちゃんと共にする時間が。

「悪いな……今日は家の手伝いがある」

 傘ちゃんは極めて悪そうに言った。その笑顔は困ったように淋しそうだったけれど、さっきまでの暗さはなかった。今日は、だから大丈夫。このまま別れても、大丈夫だと思った。

 私は知っていたはずだ。この世界に明日が必ずやってくる保障などないことを。


        *


 いつも別れる石段の前で別れると、ふと雨が降ってきた。とうとう梅雨がやってきたのかと振り返ると、傘ちゃんはもういなかった。それはゆっくり歩いていても十分に見えなくなる時間の経過後だった。それでも、私は言い表せない不安のようなものに憑りつかれる。水害、ではないと思う。心配したのはもっと大きな、解らないなにか。

 それでも帰るしかなかった。追いかければ追いつけただろう。それでも今日はこのまま別れた方がいい気がした。私は走る。

 雨はすぐに止んだ。空は暗かったけれど、日が暮れたせいなのか雲のせいなのか解らない時間になっていた。水たまりを見かけるたびに心臓の音が聞こえた。きっと暗くなってひとりになって、心細いだけだと言い聞かせた。走る。走る。走る。

 時雨と汗が半々に体を濡らしたころ、帰宅できた。玄関に近付くとセンサーが反応してライトが点く。それは自動的なものなのにやけに安心できた。

「ただいま!」

 だから元気が出る。私は久米方もがみらしく元気になる。不安はやっぱり、気のせいだったと、すくなくともそう思うことにする。

「おかえりなさい、もがみ。雨は大丈夫だった?」

 お母さんがリビングから顔を出した。私は「大丈夫!」と元気よく答え、玄関先に腰を降ろす。スニーカーの靴ひもを解く。今日も一日、ありがとう!

「ごはんもうできるけど、先にお風呂入る?」

 顔はもう引っ込んだけれど、さほど変わらない位置から声が聞こえた。

「お父さんは?」

「今日は遅くなりそう」

「じゃあ先に食べる」

「着替えてらっしゃい」

 私は部屋に赴く。電気の消えた階段が、今日はなんだか怖く感じたので、電気を点ける。部屋に入る前にすこしだけドアを開けて、手だけを入れる。照明を点ける。そうやって部屋に入った。

 夜は嫌い。世界が静かで、冷たくなった気がするから。


 動悸が続いていた。傘ちゃんと帰っていたとき、別れて家に着くまで、なんとなく感じていた心臓の音が、まだ鳴り止まない。着替えて落ち着けば治まるだろうと思っていたけれど、あてが外れた。

「もがみ。顔赤くない?」

「傘ちゃんにも言われた。たぶん夕日だよ」

「あ、日焼け?」

 私もおかしい自覚あるけれど、お母さんもたいがいだ。

 お母さんは夕ご飯越しに手を伸ばしてくる。私は咥え箸をしながらそれをおでこで受けた。

「熱は……ないかな……うーん」

「どっち?」

「微妙」

 お母さんがあてにならないので自分で確認してみる。……べつに大丈夫な気がした。食後に体温計も使ってみたけど平熱だった。念のためお風呂に入った後早めに寝ることにした。床に就いたのは午後九時半のことだ。

「うーん」

 唸ってみる。ひとり暗い部屋にいるといろいろと考えてしまう。普段は眠くなったら寝る。眠くならないうちは起きてる。って感じだったから、ベッドの上で起きている時間がほとんどないのだ。

 今日も一日、生き抜いた。私はがんばったし、たくさんのことを学んだ。走ったし。疲れていて、眠い気はするのだけれど、眠れない。

 時計の秒針の音。壁についたシミ。かすかに残る私の匂い。世界が正気を失ったかのような薄暗がりの中でなんでもないことを考える。今日あったことを反芻する。今日だけじゃない、これまでのすべてを。心臓の音に耳を傾ける。いつのまにか動悸は収まっている、気がする。わずかなノイズが耳に障る。だけどそのうるささが『ここにいるよ』と囁いているようで、私はやがて、眠りに落ちた。


        *


 そしてすべてが変容する、七月三日がやってきた。




 ――幕間――




 七月三日(《《月曜日》》)


「これが久米方もがみの一日だ。彼女にとって特別でもない、ごくありふれた一日」

 理紫谷りしたに円子えんこは言う。

「……本当に、こんなんでいいのかねえ」

 おっさんは言った。どちらでもよさそうな無関心で。

「『こんなん』だからいいんだよ。だからこそ根幹とすべき価値がある。『瓢箪から駒』と言うだろう?」

「そりゃあんたの座右の銘だろ」

 俺はついつっこんだ。

「君はどう思う? あめ

 円子は彼女を指差して言った。

「さ」

 天は至極端的に呟く。「さあ? どうせ私の意見なんて、聞こうとも聞き入れないのだから、どうでもいいじゃない?」と言いたいようだ。俺も同感である。

 どうせ俺たちは住む世界が違う。それは心理的な違いだけれど、はたして。


 はたして、久米方もがみなら、本当に物理的に、違う世界があることを《《再認識》》したら、いったいどうするだろうか?

 俺はふと、考えるのだった。



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