鈴の鳴る病棟
見舞い客が帰り、先程までの喧騒が嘘のように静寂に包まれた病室で、少年はベッドに腰かけて呟いた。
「全く……皆、大げさなんだよな。 まあ心配してくれたのは嬉しいけどさ」
笹村 和幸は、わざわざ見舞いに来てくれた高校のクラスメイト達の事を思いだして、気恥ずかしさを感じていた。
和幸は学校の階段で転倒して頭を打ち、気を失って病院に運ばれた。
検査の結果、特に異常は無かったが、打った場所が頭である事と一度気を失っている事を考えて念のため数日だけ入院する事に決まった。
和幸としてはあまり騒いで欲しくはなかったのだが、他の生徒も居る前で救急車で運ばれたので隠すこともできず、その日の放課後、クラスメイト達が見舞いにくる事態になったのだ。
和幸は、ベッドの脇にある棚に目をやる。 そこには数冊の本が置いてあった。
クラスメイト達が入院中の暇潰しに、と持って来てくれた物だ。
「大騒ぎされるのは抵抗あったけど、まあ、これは有難いよな。転んだ時にスマホも壊れたから本でも無いと退屈で死んじまうって心配してたんだ」
改めて本を見てみると、週刊の漫画雑誌や情報誌、ライトノベルなどがある中に、一冊だけ分厚くて古くさい本が混じっているのに気づいた。
気になってパラパラと流し読みをしてみると、この辺りの郷土史や民話などが書かれているようだ。
「……なんだこれ? こんなのを持ってきそうな奴と言えば……ああ、きっと小柳だろうな。アイツは色々とマニアックな趣味だからなぁ。
……うん、小柳には悪いけど、これは後回しだな。読むの面倒そうだし」
そう言ってその分厚い本を棚の中にしまい、漫画雑誌を読んで時間を潰した。
ペットボトルのお茶を飲みながら漫画雑誌を読んでいた和幸だったが、3冊ほど読み終えた辺りでトイレに行きたくなり、病室を出た。
「えーっと、トイレはどこだっけ?」
看護師に聞けばすぐ分かるだろうが、忙しそうに歩き回っている姿を見るとトイレの位置を教えてもらうために呼び止めるのは悪い気がしたため、自分で歩いて探す事にした。
病院のトイレというものは分かりやすい位置にあるものだ。大した距離を歩くこともなく、すぐにトイレは見つかった。
用を足した和幸はすぐには部屋に戻らず、暇潰しも兼ねてそのまま病棟を少し歩いてみることにした。
人生で初めて入った入院病棟が物珍しく見えていた事もあり、周りをキョロキョロと見ながら歩いていたが少し気になる物を見つけ、とある病室の前で立ち止まった。
(鈴? ……なんか古くさい鈴だな)
その扉の上の方、かなり天井に近い位置に小さな鈴がぶら下がっていた。
その色は、いかにも長い時間で劣化したように見える汚らしい茶色で、清潔さに気を遣うべき病室の扉にぶら下がっているには少し違和感を感じる物だ。
「……あの、なにかご用ですか?」
声をかけられてハッとそちらを見ると、その病室のベッドに横になっている老婆が不思議そうに和幸を見ていた。
自分の病室の入り口に知らない人間が立っているのだから気にもなるだろう。
「あっ、すみませんっ! 何でもないんです!」
和幸はペコペコと頭を下げて、駆け足で自分の病室へと帰った。
その日は、仕事帰りの父が夜に見舞いに来たくらいで、あとは変わった事は無かった。
翌朝、病棟の休憩室の自動販売機で買った缶コーヒーを飲んでいた和幸の耳に、入院患者同士の会話が聞こえてきた。
「昨日の夜中、311号室の婆さんが亡くなったらしい」
「え? 昨日の昼間は元気そうだったのになぁ……」
「心臓麻痺だってさ、人間なんて呆気ないよなぁ」
最初は聞き流していた和幸だったが、ふと思い出した。
(311号室って言ったら、あの鈴がぶらさがってた部屋じゃないか?
……あのお婆さん、亡くなったのか……)
昨日初めて会って一言声をかけられただけの、知人とも言えないような関係ではあるが、それでも顔と声を知っている人間が死んでしまったという事にショックを受けてしまい、和幸は医者から、
「今日の検査で何も異常が見つからなければ、明日には退院できるよ」
と言われたというのに喜ぶこともできずに上の空であった。
「……ここは……? しまった、行き過ぎたか」
ボーッとしたまま歩いていた和幸は、自分の病室を通り過ぎてしまっていたようだ。
来た道を引き返そうとして振り向いた視線の先……
そこにある病室の扉の上に、また見つけてしまったのだ。
あの、古びた鈴を。
彼は無意識に手を伸ばしてその鈴に触れていた。
乾いた血液を連想させるザラリとした錆びの感触が手に伝わると、言葉にできない奇妙な不安感が胸を襲う。
手にとってその鈴を見つめていると、じわりと侵食してくるように恐怖と嫌悪感が膨らんで行くのだが、それと同時に不思議と目を離せない程に、強く視線を引きつける何かも感じた。
だがその時、隣の病室から出てくる看護師の姿が視界に入ったことで、和幸は我に帰った。
扉につけられた鈴を見ていただけだ。
何も悪い事をしていたわけではないはずだ。
だが和幸はなぜかマズイ場面を見られたかのような不安と罪悪感に襲われ、その看護師の目を避けるようにそそくさと自室へと戻った。
「ふう…… 考えたら逃げる必要なんてなかったんだけどな」
部屋に戻ってきた和幸は、ドスンと尻餅をつくようにベッドに座った。
すると、何かが尻に当たる感触がある。
(ん……なんだこれ?)
不思議に思ってズボンのポケットを探ってみると、そこには例の古びた鈴が入っていた。
「あ、しまった。 あの時、無意識にポケットに入れて持って来ちまったのか。返すのは……まあ忙がなくてもいいか。
後でナースステーションにでも届けておこう」
一度座ってしまうとすぐに立ち上がることが面倒に感じてしまい、和幸は鈴を棚の引き出しに放り込んで、雑誌を読み始めた。
そして、そのまま検査の時間になり、医者と会話をしたり各種検査を受けたりしているうちに棚にしまいこんだ鈴の事など忘れてしまっていた。
検査の結果は異常無し。 本人が望むならその日の内に帰ってもいいと言われたが、今夜は和幸の両親が仕事で迎えに来れないために、退院は明日の朝にしてもらった。
一人で帰れないような子供ではないが、今の和幸は小銭しか持っていない。
今夜退院してもどうせ近い内に支払いに来なくてはいけないのだから、明日、両親に迎えに来てもらってその時に支払いを済ませて帰ったほうが面倒が無いと思ったのだ。
(さて、入院生活も今夜で最後か。 ああ、クラスの皆から借りた本を今夜の内に読んじまうかな)
ベッドに入った和幸は、枕元に積み上げてある本に手を伸ばそうとした。
だがその時、突然強烈な眠気に襲われて伸ばした手を止めた。
(うっ……なんだか分からないけど、異常に眠いな。
こりゃあ本なんか読んでも頭に入らないな。……今晩はもう寝るか)
意識が朦朧とするくらいの眠気を感じた和幸は、本を読む事を諦めて布団をかぶって目を閉じる。
すると僅かほんの数秒で吸い込まれるように眠りに落ちて行った。
チリン……
……鈴の音が聴こえる……
和幸はゆっくりと目を開ける。
暗い。今は何時だろうか? スマートフォンで確認しようとした所で、転んだ時に故障していた事を思い出した。
はずした腕時計を棚の上に置いたはずだと思い、手を伸ばす。
チリン……
また鈴の音が聴こえた。……棚の中からだ。
和幸は、そこで古びた鈴を入れっぱなしだった事を思い出した。
(鳴ったのはあの鈴か? だけど触れてもいないのに?)
棚の引き出しから、あの鈴を取り出した。
部屋が暗いせいだろうか? その鈴は赤黒い色に見える。
チリン……
和幸の手のひらの上で、鈴の音が響く。 やはりこの鈴が鳴っているようだ。
(揺らしてもいないのに、勝手に鳴っている?)
不思議に思って、鈴を振ってみたが、カラカラという音がするだけだ。
「あっ……」
和幸は手を滑らせて、振っていた鈴を床に落としてしまった。
すぐに屈んでそれを拾い、そして顔を上げると……。
視線の先、丁度部屋の入り口付近に……影が居た。
人の形をしているが、顔も、どんな服を着ているかも分からない。
『影』としか呼べない姿だ。
部屋が暗いから? いや、暗いと言っても安全のために足元を確認できる程度の照明はついている。
それなのに顔や服装が全く判らないほどに黒い影だけしか見えないなんてことがあるのだろうか?
気がつくと影はほんの一歩ほどの距離ではあるが、先程よりも和幸の方へと近づいているように感じる。
「お、お前は……何なんだよ」
和幸自身もその問いの答えが返ってくるとは思っていない。
ただ、不安と恐怖で、無言でいることに耐えられなかっただけだ。
和幸は影から目を離さないまま後ろ手でベッドを探り、ナースコールを押そうとするが、恐怖と焦りで手が震えて上手く行かない。
そうしている間にも影は少しずつ和幸に近づいて来る。
すでに2メートルほどの距離まで近づいているのに、相変わらず真っ黒い影しか見えていない。
異常だ。まるで影そのものを人の形に固めたかのようだ。
和幸は震える手に力を込めてナースコールを押した。 何度も何度も。
(音が鳴らない!? いや、きっとナースステーションには届いているはずだ! 誰か…… 誰か来てくれっ!)
だが、助けが来る気配は無く、影は和幸へとゆっくり手を伸ばした。
そして、影は和幸の腕に僅かに触れる。
冷たい。 ゾッとするほどに。
「わあああぁぁぁっ!!」
和幸はその影の手を振り払って走り抜け、廊下へと飛び出した。
走る。
走る。
だが、辺りに人の気配は無い。 何故だ?
震える足を必死で動かし、なんとかたどり着いたナースステーションにすら人の姿は無かった。
「おかしいだろ……何で誰も居ないんだよっ……!?」
チリン……
また鈴の音が響く。
直接心臓に氷を押し当てられたかのように、一気に血の気が引いた様子で、自分の右手を確認した和幸は、自分がまだあの鈴を握り締めたままだった事に気づいた。
チリン……
ガッチリと握り締めたままの鈴がこんなにハッキリした音を鳴らす筈は無いのに、その鈴はそれでも澄んだ音を鳴らし続ける。
チリン…… チリン……
和幸は気づいた。 居る……と。
恐怖で振り向くことが出来ない。 自分の目で確認することができない。
だが、背後に誰かが…… いや、何かが、確かに居る。
本能的にそれが理解できた。
チリン…… チリン……
音が響く度にその何かの気配は、少しずつ近づいて来る。
「ひっ……! ……く、くそっ!」
和幸は、この鈴が恐怖の元凶のように感じた。
根拠など無い。だが、今はその直感にすがった。すがるしか無かった。
……すがるものが無ければ、恐怖に負けて、立つ事すら出来なくなりそうだから。
和幸はもつれそうになる足を必死に動かして窓に駆け寄ると、それに手をかけ、恐怖に震える指でどうにか窓を開けた。
落下防止の為か、窓はほんの少ししか開かなかったが、ある程度開けばそれで充分だ。
和幸はその隙間から、その鈴を放り投げた。
鈴と共に、この不気味な影が去って行ってくれる事を願い、力の限りを込めて遠くへと投げ捨てたのだ。
思い切り投げ捨てられた鈴は病院の前の道路に落下すると、コロコロと車道へと転がり出て、通りかかった自動車に踏まれて砕け散った。
すると、周囲に漂っていた重く冷たい空気がスッと軽くなっていく。
心臓を握り潰すかのようであった恐怖感も少しずつ溶けるように消えて行き、和幸は自分がいつもの日常に戻ってきたように感じた。
(きっとこれで……もう大丈夫だ。 大丈夫な筈だ……!)
次の瞬間……和幸の耳元で息遣いが聴こえる。
和幸は、咄嗟に振り向いた。……振り向いてしまった。
目の前には、影があった。
顔も何もないただの影。
なのに不思議とその影と目が合った気がした。
「……ひっ……!」
影はしばらくの間、和幸を見つめるように立ち止まっていたが、やがて鈴を投げ捨てるために開けられた窓の隙間からズルリと抜け出し、外へと出て行った。
和幸は足の力が抜けきったように、力なくその場にペタンと座り込んだ。
「はぁっ、はぁっ……助かった……」
そのまま腰が抜けたように立てなくなってしまった和幸は、夜間の見回りをしていた看護師に発見された。
看護師は微笑みながら和幸に「もしかして……何か、見ましたか?」と尋ねたが、和幸はその看護師の穏やかな表情に何故か言い知れぬ不気味さを感じたため、正直に今の体験を話さずに「……何をですか?」と聞き返し、しらを切った。
「ああ、いえ。分からなければ良いんですよ。忘れて下さい。 ですが、どうしてそんな所に座っているんです? どこか具合でも悪いのですか?」
「……あ、寝つけなかったから気分転換に。 そしたらその……ちょっと転んでしまって」
適当な誤魔化しだったが、看護師は深く追及はせずに「そうですか」と言って、和幸を助け起こして病室に連れて行った。
看護師はすぐに立ち去ったがその夜はもう眠れるはずもなく、和幸はベッドの中で朝が来るまで震えていたのだった。
朝になると、退院する和幸のために父親が迎えに来た。
「俺は退院手続きと支払いをしてくるから、その辺の椅子に座ってろ」
そう言われた和幸だが、彼は一刻も早くこの病院から離れたかったため、「外で待ってるよ」と言って、逃げるように駐車場へと向かった。
父の車はドアがロックされていて中に入れなかったので、側のコンクリートブロックに腰かけて荷物を詰めたカバンを足元に置いた。
「あ……そう言えば……」
和幸は足元に置いたばかりのそのカバンを開いて、一冊の本を取り出した。
郷土史や民話を記した本だ。 クラスメイトが貸してくれた本の中で唯一まだ読んでいなかった物だ。
「面倒くさそうだから後回しにしていたけど、折角貸してもらったんだから返す前に少しくらいは読んでおこうか」
父親が戻って来るまでの時間つぶしくらいにはなるだろうと思い、和幸はその本を開いた。
パラパラとページをめくり、軽く流し読みしていた和幸のその手が、あるページでピタリと止まった。
「……っ!?」
そのページには挿し絵が描かれていた。
そして……それはあの鈴によく似ていたのだ。
和幸は自分の心臓が早鐘を打つのを感じながら、そのページを読み始める。
おそらく現在は使われていないであろう複雑な漢字や難解な言い回しなどに苦戦しながらも、何とか理解できる部分を拾って読んでいくと、大まかな内容は分かって来た。
それは所謂『座敷わらし』の話であった。
家に住み着いて住人に幸運をもたらすが、家を出て行けば不幸が訪れる。 日本各地に伝わる有名な言い伝えだ。
……だが、この本に記されている伝承は少し違っている。
この地方に居たとされる座敷わらしは、住人に幸福をもたらす代償に生け贄の魂を求めるというのだ。
昔、ある旅館の主が高名な霊能者に依頼して、その座敷わらしを鈴の中に封じたという。
宿の主は、深夜の僅かな時間だけ鈴の封印を解いて客室の扉の上にぶら下げた。
すると、鈴はその部屋の宿泊客の魂を贄として喰らい、主の一族に幸運をもたらした……というものであった。
「まさか……いや、ただ言い伝え……だよな」
頭に浮かんだ予想を自分で否定しようとするが、どうしても否定しきれなかった。
この病院は旅館の跡地に建てられた……なんて噂があったと思い出したからだ。
それに……病院の入院患者なら、突然死んでしまっても宿の宿泊客などよりも怪しまれにくいだろう。
何よりも和幸はあの鈴を……そしてこの世の者とは思えない不気味な影を、実際に見ているのだ。
和幸はそれ以上考えることが怖くなり、無言で本を閉じてカバンにしまった。
……ここであった事なんて忘れて、早く家に帰りたい。 父はまだ戻らないのだろうか?
そう思って病院の方に視線を向けると、1人の少女が立っていた。
近い。 和幸から2メートルほど距離だ。
この少女はいつの間にこんな所に来ていたのだろう。本を読んでいたせいで足音に気づかなかったのだろうか?
和幸がそんな事を考えていると、その少女が口を開いた。
「……お兄さんは、もう退院するの? 来たばっかりだよね?」
その言葉は、和幸が2日しか入院していなかった事を知っていたような言い方に聞こえる。
和幸の困惑を感じ取ったのか、少女は理由を説明をした。
「病院で何度かお兄さんを見たから知ってたんだよ。 私は……ずっと病院に居たから」
「ずっと病院に……」
長く入院していたという事だろうか? そう考えたが、内容が内容だけに直接聞きにくい。
「でも、やっとここから出られるようになったんだ。 ……ご飯には困らなかったけど、あまり美味しいものは出なかったし、もうこんな所には来たくないなあ」
そう言って少女は笑う。 和幸も思い出してみたが、確かに病院食はあまり旨いものではなかった。
「ねえ、お兄さんは、幸運は欲しい?」
突然の脈絡の無い質問に和幸はキョトンとしてしまったが、とりあえず質問には答える事にした。
「え? 欲しがれば手に入るってものじゃないと思うが……そりゃまあ、手に入るなら欲しいかなぁ。 でも、なんでそんな事を聞くんだ?」
「一応、お礼はしたいと思ってるから。……それじゃあお兄さんの幸運を祈ってあげるね」
「お礼? お礼って何の?」
「ふふっ……。 あ、お父さんが出てきたよ、ほら」
少女が病院の入り口を指差した。
和幸がそちらを向くと、売店か自販機ででも買ったのか、缶コーヒーを手に持った父がこちらへ歩いて来ているところだった。
「ん? ああっ、本当だ。 ……あれ? でも、何でキミは俺の父さんの顔まで知ってるんだ?」
和幸は少女の方を振り向いて尋ねたが……気づくと少女の姿は消えていた。
(あれ……いつの間に?)
「おーい、終わったぞ。……何をボーッとしてるんだ? ほら、鍵は開いてるぞ、車に乗れよ」
「あっ、うん……」
父親にそう急かされて車に乗り込んだ和幸は、たった今まで会話していた少女の顔や背格好をまるで思い出せないというのに、なぜかそれを不自然な事と感じてもいなかった。
それから一年後……あの病院は無くなっていた。
経営者の不正や医療ミス、院内の食中毒感染などが続き、この辺りで一番の大病院だったとは思えないほどあっけなく潰れてしまったという。
その事もあって和幸はあの病院での不気味な体験を思い出す事も少なくなり、ごく普通の生活を送り……そして数年が経った。
和幸はあれから、近所に引っ越してきた女性と知り合い、恋人となった。
補欠合格ではあったが狙っていた大学にも合格して、良いバイト先も、1人暮らしをするための物件もスムーズに見つかり、毎日を幸せに生きている。
そう、幸せに生きているのだ。
和幸は知らない。
恋人は、家と両親を突然の火事で失い、祖母の家に引き取られたことで和幸の家の近所に住むことになったという事を。
和幸は知らない。
大学に合格が決まっていた少年が突然の心筋梗塞で死亡し、そのことで和幸の順位が繰り上がって補欠合格したという事を。
和幸は知らない。
自分の幸運が、誰かの不運の上に成り立っている事を。
和幸は今でも、たまにふと思う事がある。
『お兄さんの幸運を祈ってあげるね』
……そう言ったあの少女は、誰だったのだろうか?
チリン……
風に乗り、どこからか鈴の音が聞こえた気がした。