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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

三人の百合のかたち

百合マンガによろしく

作者: ピッチョン


 何故こんなことになってしまったのか。

 いつものあたしの部屋。見慣れた家具に囲まれた心安らぐ空間に、異物が交ざり混んでいた。あたしはベッドに腰掛けたまま目の前の床に座っている人物を見やり深くため息を吐く。

 嫌な態度をまったく隠さなかったせいか、あたしの隣にいた三草(みくさ)姫子(ひめこ)が窺うように声を掛けてくる。

「ケイちゃん、やっぱりイヤかなぁ」

「当たり前でしょ!」

 あたしは語調を強めて言い放った。

「あたしと姫子が普段どうやって二人で過ごしてるのか見せて欲しいだなんて、普通に考えておかしいじゃない! あたしたちは芸能人なの? いや芸能人だって見せたくないでしょ!」

「それはまぁそうなんだけど……」

「だいたい姫子はなんであたしたちのことをバラしちゃったのよ!? 学校のみんなに知られたらどうするの!」

「う、その……」

 姫子に怒鳴ると横から口を挟まれる。

「三草さんは何も悪くないんです! 私が、私が全部悪いんです!」

 庇うようなセリフにイラっとしながらもあたしはその元凶に目を向けた。床の上に正座したまま手をついてこちらを見上げている彼女は(すめらぎ)乃々花(ののか)。どこか野暮ったい雰囲気の、姫子のクラスメイト。メガネを掛けているがサイズがあっていないようでずり落ちそうになる度に指で上げている。

「たまたまマンガの話で意気投合したときに、ぽろっと三草さんがこぼした言葉に私が反応してしまって、耐え切れなくなった三草さんが白状してしまっただけなんです! 追い詰めたのは私です! 責めるならどうか私を!」

 平身低頭で謝る皇さんに気概をそがれ、あたしは嘆息した。足を組み、刺すように彼女を睨みつける。

「もう終わったことは仕方ないとして、本当に誰にも話したりしてないんでしょうね」

「当たり前です! 貴重なリアル百合ップルを前に、そんな無粋なことなんてしません!」

「百合ップ……はぁ」

 どうもこの人と話すのは疲れる。テンションや勢いの次元が違う、とでも言うのだろうか。

「なんでもいいけど、とにかくもしも周囲にバレるようなことがあったら、あたしは絶対にあんたを許さないから。あんたの人生も滅茶苦茶にしてやる」

「ケイちゃん」

 姫子が心配そうにあたしの手に触れた。本気じゃないよ、とその手に自分の手を重ねる。

「おお……!」

 あたしたちの一連の手の動きを、皇さんがらんらんと目を輝かせながら見つめていた。

 視線に気付いてあたしは慌てて手をのける。

「あ、あんたもおかしいでしょ。人様のそういうのが見たいとかどんな物好きなのよ。そんなに女同士が珍しい?」

「珍しいのではなく、尊いんですっ!」

 皇さんがずい、と体を前に寄せる。そのまま自分のおでこを床にごんと叩きつけた。

「だから、私のマンガの為にもお二人のことを参考にさせてください!!」

 彼女のメガネがコトンと床に落ちた。


 マンガ家志望の皇さんは、かねてより百合マンガを描きたかったらしい。しかしいくらストーリーを練っても自分が納得のいく百合ものをなかなか描けないでいた。そんなときに姫子があたしと付き合っていることを知って、本物の百合カップルを知ればよりよい作品が創れるのではないかと考えた……ということだという。

「あたしたちを題材にされたら余計にバレるでしょ」

 あたしの懸念に皇さんが手と首をぶんぶんと振って否定する。

「とんでもない! 描くときは名前も髪形も体型も全部違うものにしますよ! あくまでもリアルな恋人同士の営みを知って作品にもリアリティを取り入れようというコンセプトなので!」

 恋人同士の営みという言葉に頬が熱くなる。あたしと姫子の間に変なことはないが、まるでいやらしいことでもしているかのように聞こえる。

「あ、あたしはあんまりマンガに詳しくないからよくわかんないけど、姫子はいいの? こんなやつに観察されてマンガにされるんだよ」

「……うん。別にやましいことなんてないから」

 驚くことに姫子は申し出を受け入れているようだ。秘密を知られたからといってマンガなんかに協力するとは。

「意外だね。姫子が嫌がる素振りひとつ見せないなんて。まさか裏で脅されてたりしないよね?」

 姫子がくすりと笑って答える。

「そんなわけないよ」

「そうです! 三草さんは百合マンガ好きの同志ですよ! 脅すなんてありえません!」

 姫子の顔が固まった。あたしはすぐさま皇さんに尋ねる。

「同志?」

「はい! 私、今日掃除の時間に窓拭きながらアプリで百合マンガを読んでたんですよ」

 掃除中にスマホいじるんじゃないと思ったがつっこみを抑えて続きを待つ。

「そうしたらいつの間にか後ろから三草さんが覗きこんでるじゃないですか。私、三草さんの目を見てピーンと来ましたよ。あ、この人も私とおんなじだ! って」

「へぇ」

 姫子の方を見るといたずらを見つかった子供みたいな表情で顔をそむけていた。

「それからお互いに熱い百合談義を交わしまして、『え、三草さん1組の高梨(たかなし)(けい)さんと付き合ってるんですか!?』となり、『じゃあお二人のこと取材させてください!』となった次第でして。だから脅迫なんてするわけがないんです」

(その『付き合ってる~』のくだりを他の人に聞かれたりしてないよね……)

 心配になるが確かめようがない。どうか誰にも聞かれてませんように、とあたしは心の中で祈った。

「それにしても姫子がそんなに百合マンガが好きだったなんて知らなかったな。部屋の本棚にはそういうの無かったでしょ」

「え、あ、そうだったっけ……」

「今度見せてよ」

「あー、どこにしまったかなぁ、見つかったら教えるね」

 なんとも歯切れが悪い。どうもあたしに見せたくないように聞こえる。

「では、私がお貸ししますよ」

 皇さんが横から手を上げた。

「電子書籍だけじゃなく紙媒体も揃えているので、オススメを2・3ピックアップして持ってきましょうか。三草さんが推してたシリーズも私持ってますから」

「ホント? んー、でもあたしはまだ取材を了承したわけじゃ」

「いいんですいいんです。百合マンガを布教するのは百合好きとして当然のことです」

「まぁ皇さんがいいなら――」

「ダメっ!!」

 姫子が大声で会話を遮った。

「皇さん、マンガは持ってこなくていいから! ケイちゃんも、あとで私がちゃんと見せてあげるから借りなくていいよね!」

 気迫に押されてあたしは思わず「う、うん」と頷いてしまった。

 しかし皇さんは納得がいっていない様子で首をひねる。

「今無くしているなら私が貸すのが一番だと思うんですが。三草さんもオススメしてた『恋愛散華(れんあいさんか)』は私も是非高梨さんに読んでいただきたい」

「――――!」

 姫子が言葉を失った。あたしはそのタイトルについて皇さんに聞いてみる。

「どういったマンガなの?」

 すぐ隣では姫子がばたばたと腕を振っているが見ないフリをした。

「はい、主人公は同級生同士の恋人の女の子たちなんですけど、ささいなことで喧嘩したときに、片方が先輩の女の子に迫られてつい体を許しちゃうんです。恋人に言えない秘密を抱えたまま、先輩に関係を続けさせられていくうちに段々と心が揺り動いていき――っていうお話ですね」

 姫子は顔を両手で覆っていた。耳が真っ赤になっている。よっぽどこういった内容のマンガを好んで読んでいると知られたくなかったらしい。

 あたしは姫子の髪を優しく撫でてあげる。

「どういうマンガを読んでても姫子は姫子だよ。あたしが軽蔑するとでも思った?」

「ケイちゃん……」

 涙目で見つめるその表情が可愛いくて、思わず姫子の頭を抱き締めたくなる衝動に駆られてしまう。しかしながら今は人前だ。あたしは鉄の意志で衝動を抑えて、こほん、と咳払いをして誤魔化した。

「ちょっと待ってください」

 あたしたちの空間を皇さんの声が引き裂いた。指で押し上げた皇さんのメガネがきらりと光る。

「多少性的な描写があるからといってそのマンガはエッチで健全じゃないと断じるのはいささか暴論が過ぎると思います。物語の本質はあくまでも恋人と先輩の間で揺れ動く乙女心にあるんです。そもそも現在の百合マンガというのは単純な女性同士の恋愛物語というだけではなく、日本が生んだ文化のひとつになっているんですよ。言葉の意味で言えば百合はレズビアンと同義ですが私は完全に一緒だとは思いませんね。花の名前から取られた百合という響きには美しさと純粋さ、そして儚さが宿っている。それら全てを内包しているからこそ百合は百合たり得るんです。もしも百合マンガとレズマンガを区別するならば、心の交わりに重きを置いているのが百合で、肉体の快楽に重きを置いているのがレズでしょうね。勿論性行為だって立派なコミュニケーション方法のひとつであり、相手に奉仕し奉仕されることで絆をより強固なものへとしていくのも事実です。先程述べた『恋愛散華』においても決して女の子は性行為の快楽に溺れるわけではなく、性行為を通して先輩の心に触れ――」

「ちょ、ちょっと!!」

 早口でまくしたてる皇さんの眼前に手を伸ばし、無理矢理言葉を止めさせる。

「人の部屋で性行為性行為って連呼しないで……!」

「あ、す、すみません……つい興奮してしまって」

 ようやく我にかえったように皇さんは体を縮こまらせる。人は自分の好きなジャンルを語るときに雄弁になるというが、彼女もその典型のようだ。

「まぁ熱意とかは嫌ってほど伝わってきたけど」

「ではお二人を取材させていただけるんですね!?」

 なにをどうしてそういう結論になるのか。期待するような眼差しから目をそらし、あたしは姫子に問いかける。

「姫子はなんでこの話受けようって思ったの? あたしが断るのはわかってたよね?」

 姫子は躊躇する素振りを見せたが、やがて上目使いであたしを見返し話し始める。

「想い出になると思ったの。マンガが完成したらコピーをくれるって言ってくれたから、将来、十年後二十年後にふと読み返して、あぁ高校生のときにこんなこともあったね、って二人で話せたらいいなぁって」

「姫子……」

 目頭が熱くなってきた。全てはあたしたち二人の為。恋人が将来の自分たちのことまで考えてくれるなんて、これほど幸せなことはない。

 ぎゅっと姫子の手を握り、顔を寄せていく。お互いに目と目を合わせたまま距離はどんどん近づいて、そして。

「ああぁぁぁぁああああ尊いぃぃぃぃっ! すごいぃぃぃっ、これが本物の百合ですよぉぉぉおおっ!! あぁぁぁぁメモしなきゃメモぉぉぉぉぉぉおっ!」

 どこからか取り出したノートにすごい勢いでペンを走らせている皇さんを見て、あたしと姫子は苦笑した。

 それは同時に取材を受け入れることを決めた証でもあった。


 登下校のとき、昼休みにご飯を食べるとき、ずっとあたしと姫子の後ろに皇さんが付き従った。

 あたしたちの会話を聞きながらメモをとり、気になる仕草があれば360度から観察し絵で描き残す。

 最初こそ第三者に見られることに抵抗はあったが、それが一週間も続く頃には慣れてしまい近くにいても気にならなくなった。

 日曜日。今日は姫子と買い物デートに行く日だ。あたしのコーデは動きやすいデニムのショートパンツとTシャツの上に羽織ったロングシャツワンピ。鏡で決まっているのを確認してから待ち合わせへと向かった。

 駅前の待ち合わせ場所にはすでに姫子と皇さんが来ていた。

 姫子は白いワンピースにデニムのジャケットを羽織り、頭には麦わら帽子を被っている。さわやかで清涼さを感じさせる。相変わらず可愛い。

 それと対照的なのが皇さんだ。グレーのブラウスに真っ黒のロングスカート。飾り気のほとんどない重いコーデにあたしは思わず口を開く。

「せめてもうちょっと明るい色にすれば?」

「服なんかにお金をかけたくないんです。それに、どうせ私は何着ても微妙ですから。服は似合う人が着ればいいんですよ」

「そう? 皇さんもちゃんとすれば可愛くなると思うけど。ねぇ姫子?」

「うん。せっかくだから今日色々試してみる? コンタクトにするのもいいかも」

 姫子の提案に皇さんは首がとれそうなほど横に振った。

「わ、私のことはどうでもいいんです! 今日はお二人のデートを後ろからついていくのが目的なんです! 私のことは空気に漂うほこりみたいなものと思っていただきたい!」

 しゅばばっと皇さんは柱の後ろに隠れるように移動して、「どうぞどうぞ」と促すように手を動かした。

 あたしと姫子は顔を見合わせて笑ったあと、デートを開始した。

 特に明確なプランがあるわけじゃない。二人のどちらかが観たいもの、行きたいところがあったらそれに合わせるという感じだ。

 今日はそこまでしたいことはなかったので、歩きながらお店を見て回ることになった。

「あれ、手は繋いでくれないの?」

 姫子があたしにいじわるく微笑みかけた。あたしはちらと後方を窺いながら答える。

「や、やっぱり繋いだ方がいい?」

「いっつも繋いでるじゃん。私達が普段どおりにしないと取材にならないし。……学校で我慢してる分デートのときくらい繋がってたいな」

「――――」

 あたしは姫子の手を取りぎゅっと握った。姫子がくすくすと笑う。

「ケイちゃん、力入り過ぎ」

「あ、ごめんっ」

 いつもと同じデートなのに、いつもより新鮮に感じる。見られていると意識することで、普段あたしが姫子に対してどう接しているかを改めて再認識したせいだろうか。姫子も同じ気持ちなのか、時折あたしに対してはにかんだような笑みを向けていた。

 服や小物を何軒か見て回り、休憩がてらファストフード店に入ることにした。休日だけあって店内は込み合っていたが、なんとか席を確保してから注文を済ませてトレーを席まで運ぶ。

「すみません、私もご一緒させていただいて」

 二人席のソファ側にあたしと姫子が詰めて座り、三人で無理矢理座った状態で皇さんが恐縮して体を縮めた。

「こんな店で離れて座るっていう方がおかしな話でしょ。あたしと姫子がいいって言ってるんだから気にしないで」

「うん、それにせっかくだから途中経過も聞きたいかなって。端から見て私たちどんな感じだった?」

 皇さんが紙コップを両手で持ったままあたしたちを交互に見る。

「その、素敵だなぁって思いました」

 メガネの奥でいとおしそうに目を細め皇さんは言葉を続ける。

「まずお二人の表情がとても素晴らしかったです。ずっと楽しそうに笑ってて、それでいて相手のことを本当に大切そうに見つめていて、あぁ本当に愛しあってるんだな、と。服やアクセサリーを手にとるとき、お二人とも自分が似合うかではなく相手が似合うかを基準にしてましたよね。歩いているときに前から人が来たら高梨さんが手を軽く引いて三草さんを引き寄せてから自分は少し前に出てあげる紳士的な優しさとか、逆にお店の中では高梨さんが棚とかにぶつかりらないように三草さんが自然と手を背中に回したりして誘導してあげる気遣いとか、見ているだけで眼福という他ないですよ」

「…………」

 あたしと姫子は黙ったままお互いに顔を背けた。

 ほぼ無意識に行っていた自分の行動を分析されることがこれほど恥ずかしいとは思わなかった。顔が熱い。首の後ろがむずがゆい。

 ふと姫子の指先があたしの手に当たった。どちらからともなく指を絡め、机の下で手を握る。ざわつく店内にあって二人の手が合わさったこの空間だけは、誰にも邪魔できないあたしたちだけの世界。絆を確かめあうように、あたしたちは指に力を込めた。

「あ、もしかして私、気持ち悪いですか?」

 沈黙を別の意味に受け取ったのだろう。皇さんがぺこぺこと頭を下げる。

「すみませんすみません、調子に乗って喋りすぎましたよね。目障りなら言ってくださいすぐに帰りますから」

「何勘違いしてるのか知らないけど、別にあたしも姫子も皇さんのこと迷惑だなんて思ってないよ」

「ほ、本当ですか……?」

 あたしたちが頷くと皇さんは安堵の息を吐いた。その様子があたしのなかで引っ掛かり、ポテトに手を伸ばしながら言う。

「どうも皇さんって必要以上におどおどとしてるっていうか、自分を相手より下にしたがるよね。同い年なんだし、もっと普通に話したら?」

「それ私もずっと思ってた。クラスメイトなのによそよそしいなって」

 二人分の視線に耐えられないというように皇さんは顔を伏せた。前髪で顔を隠したまま彼女は小さく呟く。

「……どう接したらいいのか分からないんです。私、昔からこんなだったし、友達もほとんどいなかったから」

 肩をすぼめる皇さんを見て、あたしの口が咄嗟に動いた。

「だったら、あたしたちで練習しなよ」

 皇さんが顔を上げてきょとんとした目を向けてくる。あたしはその目をまっすぐ見返した。

「どういう距離感で話すのが友達なのか、実際にやっていくのが一番でしょ。その、あたしたち、もう友達なんだから……」

 言いながらだんだんと恥ずかしくなり、言葉尻を縮めてしまう。

「ケイちゃんはなんで最後に照れちゃうかなぁ。びしっと言う方がかっこいいのに」

「し、しょうがないでしょ。真顔で友達だから~なんて言うのは恥ずいって」

 あたしと姫子がじゃれ合っていると皇さんが再び俯き、メガネを外した。涙ぐんだ囁き声が耳に届いてくる。

「……ありがとう。高梨さん、三草さん」

「恵でいいよ。あたしも乃々花って呼ばせてもらうから」

「じゃあ私は乃々花ちゃんって呼ぼうっと。私のことは姫子でも姫子ちゃんでもヒメちゃんでも好きに呼んでね」

「……はい」


 ファストフード店を出てからは三人一緒に遊ぶことにした。改めて服を見に行って乃々花に似合いそうなのを見繕ったり、ゲームセンターでUFOキャッチャーやレースゲームで遊んだ後にプリクラを撮ったり、本屋でオススメについて熱い談義を聞かされたりした。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、夜の七時を回ろうとしたところで解散になった。

 路線の違う姫子を改札まで送り、あたしと乃々花は駅なかの雑踏を進んでいく。休日の駅はどの時間でも人が多い。歩きにくいしうるさいしで人込みなんて好きではないが、唯一いいところは同行者と会話がなくてもあまり気にならないことだろう。

 あたしは歩きながら今日のことを思い出していた。姫子と二人で巡っていたときも、三人になってからも、本当に楽しかった。いや、楽しいという感情以上のものがあたしの心を満たしてくれた。その理由はいったいなんだったのか。

「あ、私、こっちの方なので……」

 乃々花が別れ道を逆の方に指さした。微笑みながらあたしにお辞儀をする。

「今日は本当にありがとうございました。って、これじゃあまだ仰々しいですかね」

「え、うん、そうだね」

 気の抜けたあたしの返事に「じゃあまた学校で」と挨拶をして踵を返そうとした乃々花の腕を、あたしは思わず掴んで止めた。そのまま人の波から外れて壁際の方へ移動する。

「えっ、あの、どっ、どうかしましたか?」

 混乱してどこか怯えたような表情を浮かべる乃々花を前に、あたしはゆっくりと深呼吸をした。脳内にファストフード店で姫子に言われたセリフが蘇る。

『なんで最後に照れちゃうかなぁ。びしっと言う方がかっこいいのに』

 あたしはしっかりと乃々花の目を見つめた。

「お礼を言わなきゃいけないのはあたしの方だよ」

 今日一日が何故こんなにも幸せなものだったのか、その理由。

「デートについてきてくれてありがとう、乃々花」

「は? え? あいや、もともと私がお願いした立場ですし、え? え?」

「あたしは――きっと姫子もそうだけど、乃々花が一緒にデートを楽しんでくれたことがすごく嬉しかったんだ」

「うれし……え?」

「ほら、あたしたちってさ、あんまり関係をおおっぴらにできないでしょ。デート中にもし知り合いに会ったら、すぐに姫子との手を離して『偶然だね、あたしたちも買い物に来てたんだ』って言わなきゃいけない。誰にも知られず、誰からも祝福されないそんな関係。あたしも姫子もそのことは十分理解してた。でもさ、心のどこかでやっぱり誰かに認められたいし、あたしらのことをいいなぁってうらやましがられたかったんだよ。恋人を褒められるのって自分のことより嬉しいもんだからさ。でも今日、それが叶えられた。だから、ありがとう。乃々花がいてくれて本当に良かった」

 不安そうだった乃々花の顔がみるみる赤くなっていく。乃々花は両手で頬を押さえながらたどたどしい口調で話し出す。

「あぅ、あ、えっと、わ、私はそもそも自分の為に始めたことで、お、お礼を言われるようなこと、なにもしてないし、で、でも、そんな風に言ってもらえて、私もすごく、嬉しい、です」

 自分が照れるのも恥ずかしいが、相手を照れさせるというのも恥ずかしいものがある。

 これ以上なんと声を掛ければいいのか分からずあたしは頬を掻いた。

(ただ感謝を伝えたかっただけなんだけど。まぁこういうのもたまにはいっか)

 恥ずかしくても照れくさくても、こんなにも心があったかくなるのだから。


 翌週の日曜、あたしと姫子は乃々花の家に来ていた。部屋の本棚に並んだ数々の百合マンガ、百合小説は圧巻で、姫子は生き生きとした様子で漁り始めた。

「恵、これ、前に言ってたやつ。結局まだ読んでないんだよ、ね?」

 乃々花があたしにマンガを手渡しながら、まだ慣れない口調で話しかけてきた。

「あぁ、そういえばそうだったね。ありがと」

 マンガを受け取ると、乃々花の向こうでは本棚の前で姫子がキャーキャー奇声をあげているのが目に入った。

「ごめんね、姫子がはしゃいじゃって。うるさいようなら遠慮なくほっぺでもつねってやって」

「そそ、そんなこと! むしろ私のコレクションで喜んでもらって嬉しいくらいなんで!」

「そう? だったらいいんだけど」

 手元のマンガに目を落としながらついでに聞いてみる。

「乃々花が描いてるやつは順調? 話は出来たの?」

「え、あ、まぁ多少は……」

「ホント? 出来てる部分だけでもいいから見せてくれない?」

 あたしたちの会話が聞こえたのか姫子も飛んでくる。

「私も見たい見たーい!」

「えっと、ま、まだ描きかけで見せられるものじゃないし、パソコンの中にあるから……」

 乃々花が目を泳がせて口ごもった。見せたくないものを無理に見るのもよろしくない。

「完成したら見せてくれるんだよね?」

「それはもちろん! 印刷したのを渡すつもり」

「じゃあ楽しみに待つとしよっか。ね、姫子」

「うん」と姫子が頷き返した。


 それからあたしたちはマンガ片手の百合談義に花を咲かせた。あたしはもっぱら聞き役だったが。

「このシーン! 友達と一緒にお泊まりをするとき何も言葉を交わさずお互いに布団の下から手を伸ばして指先が触れ合うところ! ここがすごくいいんだよ~」

「私的にもそこは尊みが深い描写だと思ってた。さすがは姫子ちゃん。百合力が高い」

「えへへ、ケイちゃんもここ良くない?」

「まぁ確かに人のいるところで互いの体温を感じられるのって安心するし、相手も同じ気持ちだったなら嬉しくなるのもわかるかな」

「でしょー! 読んでるだけでもうキュンときちゃうよねぇ」

「でもお二人なら実際に同じことやってそうな気が」

「…………」

「…………」

「あぁやっぱり! ずるい! 私もそれ生で見たい!」

「いや、こういうのは人に見せるものじゃないし」

「取材に協力するということはそういうシーンも私の目の前でやるということではないだろうか。いや、やるべき。だからほら、今ここでやってみせてください」

「だから、見せられないんだって。姫子も言ってやってよ」

「ん~、私は別に見せてあげてもいいけど」

「いやいやダメでしょ! ちょっと姫子、くっつかないで!」

「外と違ってここには私たちしかいないんだし、だいじょぶだいじょぶ~」

「いるでしょそこに乃々花が!」

「あ、私今から空気と同化するので、お二人の気の済むまでやってください。ベッド使います?」

「使ってたまるか! 乃々花ぁ! あんたさっきから口調が昔に戻ってんじゃないの!」

「拙者はただの通りすがりの空気でございますので、へへ」

「キャラどこいった!?」


 太陽が間もなく山の向こうに沈んでいく。空が赤と黒に交じり、夕闇が街の色を暗く落とし始めたころあたしたちも帰宅することにした。

 見送りでついてきてくれた乃々花がおずおずとあたしたちに申し出る。

「あの、ひとつだけお願いしたいことが」

「ん? なに?」

「手を繋いでみたいんだけど、その、お願いしても……」

「手って、え、この手?」

 あたしが右手を開いてみせると乃々花が頷いた。

「恵だけじゃなく、姫子ちゃんとも繋ぎたい。私が真ん中に入って」

 なんとも物好きなお願いだが、あたしは頷いて手を差し伸べた。

「いいよ。ほら握って。姫子もいいでしょ?」

「うん。それがマンガの役にたつなら喜んで」

 あたし、乃々花、姫子が手を繋いで3人横並びで歩いていく。乃々花は繋いだ瞬間からテンションを上げて感極まった表情をさせている。

「はぁぁぁ、これが手を繋ぐっていう感覚……思ってたよりもあったかいし、柔らかい。右手の姫子ちゃんの感触と左手の恵の感触……あぁ、二人はいつもこうやって手を繋いでるんだ。いや待て、私が手の感触を橋渡ししていると考えれば、これはもう二人で手を繋いでいることと同義では?」

「化学の電極実験かっての」

 あたしの入れたつっこみに姫子から指摘が飛ぶ。

「いやぁ、実験っていうよりは親子でおてて繋いで帰ってるの図じゃないかなぁ」

「父親どっちよ」

「え、自覚なし?」

「分かってるって! 言ってみただけでしょ!」

「まぁ、こわいお父さんねぇ乃々花ちゃん」

 子供に言い聞かせるように乃々花に顔を向ける姫子。まったく、何をやってるんだか。しかし姫子と夫婦というのは心がくすぐられる。

「……私が本当にお二人の――……」

 乃々花が何かを呟いたが、声が小さすぎて聞き取れなかった。あたしが聞いてみようか迷っていると、乃々花は顔を上げて明るい表情で口を開く。

「私、お父さんとお母さんの馴れ初めを聞きたいな」

「お父さんって呼ばないで――って馴れ初め? あたしと姫子の?」

「うん! どこで知り合ってどうやって付き合い始めたの?」

 わざとなのだろうが口調まで子供っぽい。あたしは姫子の方を見た。

(話すの?)

 あたしの目配せに姫子はくすりと笑い返し話し出す。

「お父さんとお母さんはね、高校一年のときに同じクラスだったの。それで最初の体育の授業のときに適当に二人組みを作ることになったんだけど、たまたま近くにいた私たちがペアを組んだんだ」

 懐かしい記憶が蘇ってくる。あの頃はまだお互いに名字にさん付けで呼び合っていた。

「お母さん運動音痴でさ、体も固くて柔軟ひとつ満足に出来なかったの。そしたらお父さんが私の背中を押しながら『お風呂あがりに柔軟した方がいいよ』って言ってくれてね。多分私を見てて危なっかしかったんだと思う。体育のときはいつも私にアドバイスをしてくれたんだよ。ね、おとーさん?」

「……そんなこともあったかな」

 ちゃんと覚えてる。姫子は『大丈夫かこの子』レベルで体が使えてなくて、見てるだけで怪我をするんじゃないかとひやひやしてた。あたしは中学は陸上やってたしそれなりに運動神経も良かったから、自然と世話を焼くかたちで仲良くなっていった。

 ちなみに高校で陸上を辞めた理由は、部活で時間を使うよりも大切なものが出来たからなのだが。

「それからだんだんと休日も遊ぶようになって、お互いに名前で呼ぶようになって、夏休みのまんなかくらいかな。いつものように遊びにいって、帰る途中公園に寄っていこうって話になって、ベンチで座っておしゃべりしてたんだけど、いきなりお父さんが真剣な表情で『聞いて欲しい』なんて言い出してきたの。そのとき何て言ったんだっけ、お父さん?」

 一番イヤなタイミングで姫子が話を振ってきた。姫子は明らかに面白がった表情で、乃々花は期待に胸を膨らませた表情で、それぞれあたしを見てくる。

 握った手が汗ばんできた。あたしが話すまで二人はずっと待つだろう。腹をくくり、息をゆっくり吸い込んであたしは口を開く。

「『あたし、姫子のことが好きかもしれない』」

「『私もケイちゃんのこと好きだよ』」

 姫子があのときの言葉を再現した。あたしもそれに応える。

「『その好きとあたしの好きは、多分違う』」

「『なんで? 私は一緒だと思うけど』」

「『違う。絶対違う。だってあたしは姫子と――』」

 この会話の後のことを思い出し身構えようとしたが遅かった。

 姫子が一歩踏み出しあたしと距離を詰め、キスをしていた。一秒と経たずに唇を離した姫子が恥ずかしそうに笑う。

「『ほら、一緒だった』」

 足を止めて見つめ合うことしばし、あたしの脳がようやく動き始めた。

「ひ、姫子! そこまで再現する必要なかったでしょ!」

「だって止まらなかったんだもーん」

 叩くつもりのない腕を振り上げると、姫子はきゃーと片手で頭を庇った。あたしはすぐに乃々花を振り返る。

「乃々花、今のはあくまでマンガの資料なんだから、必要なこと以外はすみやかに記憶から消去して――」

 見開いた乃々花の目から、涙が流れていた。

「え、乃々花、泣いてる……?」

 あたしの声に反応して乃々花は繋いだ手を離し、メガネを外して自分の目元をぬぐう。

「あれ? あはは、感動しすぎて涙腺が緩んだかな。いやぁ、素晴らしいもの見せてもらいました。マンガでそのまま使わせてもらうかも」

 そのあと、再び手を繋ぐことはなく、駅で乃々花と別れて帰路についた。

 電車に乗って途中で別れるまで、何故か姫子とほとんど会話がなかった。


 翌日、乃々花からマンガの仕上げ作業に取り掛かりたいからしばらく一緒にいられないと連絡があった。これまで邪魔した分二人で存分にいちゃいちゃしてください、と最後に書かれてあった。

 昼休みに姫子に聞いてみると、クラスで話しかけても『完成を楽しみにしてて』とだけ答えてそれ以上向こうから話してはこなかったらしい。

「なんか急に一人減るとお昼ごはんも寂しく感じるよね」

「うん……」

 姫子も昨日からどことなく元気がない。

「大丈夫? 調子悪い?」

「ううん、平気。ちょっと考え事してただけ。もう大丈夫だから」

 そう答えると姫子は、次のテストの話や来週どこに遊びに行くかの話をしながらいつもの姫子に戻っていった。

 それから二週間、乃々花とほとんど顔を合わさなかった。学校ですれ違っても軽く目礼するくらいで会話もしないし、ラインで進み具合を聞いてもまぁまぁとしか返事が返ってこない。それだけマンガの作業が大変だということかもしれない。

 学校の授業が終わり下校をしていると正門の越えたところに乃々花の背中を見つけあたしは駆け寄った。

「乃々花、今帰り? 駅まで行こうよ」

 ぽん、と肩を叩くと乃々花はびくっと体を跳ねさせて振り向いた。

「恵。あれ、姫子ちゃんは」

「姫子は委員会で遅くなるから先に帰っててってさ。乃々花とこうやって帰るの久しぶりだよね」

「そういえばそうだね」

 肩を並べて歩きだす。

「で、どうなの例のアレは。ちゃんと進んでる?」

「うん、そろそろ出来上がると思う」

「ホント? あー、楽しみだけどやっぱりなんか恥ずかしいな」

「恥ずかしがる必要なんてないよ。恵と姫子ちゃんがそれだけ仲が良いってことなんだから」

「そういうこと言われると余計に恥ずかしくなるんだっての」

 照れ隠しに笑いながらあたしは腕を乃々花の腕に軽くぶつける。

「なら完成の前祝いでさ、これから遊びに行かない? カラオケとか」

「…………」

 乃々花の反応がない。あたしは乃々花の顔を覗きこんだ。

「乃々花?」

 ようやく乃々花が控えめに微笑んで応える。

「お誘いは嬉しいけど、その……」

「えー、いいじゃん。全然遊べてなかったんだしさ。あ、それともカラオケ以外がいい? あたしはどこでもいいよ」

「あのっ」

 急に乃々花が立ち止まった。メガネをくいと上げ、いつになく真面目な表情であたしを見つめてくる。その眼差しが一瞬どこか寂しそうな色を帯びた気がしたが、あたしが瞬きをしたあとにはすでに冷ややかなものへと変わっていた。

「もう、遊ぶのやめにしませんか」

「……は?」

「私がお二人に付いて回ったのはマンガの取材の為です。マンガが完成したらもうその理由もなくなる。だから、嫌々一緒に遊んだりする必要もないんです」

 突き放すような言い方に、あたしはカチンときた。

「乃々花、それマジで言ってんの? 誰が嫌々遊んでるって? 取材とか抜きで遊べばいいだけじゃんか。友達なんだからそれが普通でしょ?」

「トモダチ」

 乃々花が嘲笑を浮かべる。

「まさか本気にしちゃいました? そうした方が取材しやすそうだから乗っかっただけですよ。高梨さんと私が友達なんて、冗談でしょう?」

「――――」

 絶句。頭が真っ白になったままあたしは乃々花を呆然と見返した。

 信じられない。乃々花がまさかそんな風に思っていただなんて。買い物に行ったときも、乃々花の家で騒いだときも、楽しそうに笑っていたのは全部嘘だったとでもいうのか。

 乃々花が足早に去っていく。

 あたしは立ち尽くしたまま、その背中が見えなくなるまでずっと眺めていた。


 家に帰宅し自室に入るなりあたしはカバンを床に叩きつけてベッドに飛び込んだ。イライラする。まくらをばしばし殴りながら悪態をつく。

「なによあれ! 遊びたくないからってあんな言い方する!? 完っ璧にあたしに喧嘩売ってるよね!」

 激情に任せてしばらく拳を振るってから、乱れた息を整える。

 ごろりと仰向けになって天井を見つめ、虚空に浮かぶ乃々花の顔を睨みつけた。

「そんな見え見えの嘘に誰が引っ掛かるかっての」

 乃々花の言った言葉が全部嘘なことくらいあたしにだって分かる。そもそも腹芸の出来る子ではなかった。あたしたちと遊んだときの表情、言葉こそが乃々花の真実であり偽りのない心のはずだ。

 『遊ぶのはやめよう』は『遊びたい』。『友達じゃない』は『友達だよ』。拒絶するような態度は、自分からあたしを遠ざける為。では何故乃々花はあたしから離れようと思ったのか。

「…………」

 仲の良かった友人の態度が急に変わり距離を取り始める。その理由。

 頭に浮かぶ。が、想像は想像でしかない。確かめるには本人に聞いてみるのが一番だが……。

 姫子に連絡しようとしてやめた。確証もとれないまま推測であれこれ話すのはよろしくない。なんとか探りを入れて乃々花の真意を探らないと。

(探って、どうするの……? もしもあたしの予想どおりだとして、それで、どうするの? そもそも乃々花は真意を知られることを本当に望んでるの?)

 乃々花があたしを拒絶したのは、自分が傷つくのを恐れたからなのではないか。そう考えてしまうと、あたしにはもうどうすることも出来なかった。

 二日後の夜、乃々花からマンガが完成したと連絡があった。その翌日に姫子が原稿を受け取り、放課後に誰もいない教室で姫子と二人で読んでみることにした。

 マンガの内容はこういうものだった。

 恋人同士であることを秘密にしていた女子高生のA子とB子は、日常のなか些細な会話やスキンシップで互いの絆を確かめ、より深めあっていた。登下校で少しだけ手を繋ぐとき、お昼休みのお弁当を分け合うとき、込み合った電車のなかで体を寄せ合うとき、デートでそれぞれが相手の服を選ぶとき――それらのときに重なる二人の心の動きが丁寧に清らかに静謐に描かれている。どこまでも純粋な二人の想いは、まるで山から流れる湧き水のように透き通っている。そして二人が初めて恋人になったときを思い出しながらキスをして、物語は終わった。

「……まだページ続いてる」

 そこから先は絵が下描きのままだった。ラフというやつだ。

 話はA子とB子ではなく、彼女たちのクラスメイトのC子の目線で描かれていた。C子はクラスでも目立たない地味な子だった。

 C子はA子とB子の関係に気が付いていた。二人が教室で誰にもバレないように一瞬だけ指を絡ませていること。視線をわずかに合わせて微笑んでいること。帰り道にとても幸せそうに話し合っていること。

 最初は好奇心で二人を追いかけていた。女性同士の恋人たちの姿は新鮮にC子の目に映った。しかしすぐに気付く。二人はただ純粋に相手を愛しているだけで、そこには性別の差など何もなかったのだと。デートをする二人の横顔は、とても、とても魅力的に見えた。

 いつからかC子は一日中二人のことを目で追いかけるようになっていた。誰にでも分け隔てなく接し明るく頼れるA子、落ち着いた雰囲気でみんなに優しいB子。C子は二人が羨ましかった。自分に無いものを持ち、大切な人が側にいる彼女たちが。

 ある日、C子は勇気を出してA子たちに話しかけた。二人の関係を知っていること。そしてどうすれば自分も二人のようになれるのだろうかと。

 A子が言った。『私達と一緒に遊んでみたらわかるんじゃない?』と。

 C子は初めて二人と一緒に遊んだ。一生分の楽しさが詰まっているのではないかと思うくらい楽しい時間だった。

 一日が終わり、お別れ間際にA子が言った。『楽しかった? ならそれが答えだよ。遊んで笑うだけで誰でも私達みたいになれる』。C子は目を潤ませながら頷いた。

 それからC子は度々二人と遊ぶようになった。それがどれだけC子にとって幸せな日々であったのかは、描かれた表情やモノローグから容易に読み取れた。

 やがてC子の心境に変化が訪れる。A子の笑顔を見るたびに、きゅっと胸が締め付けられるのだ。その感情が『好き』なのだと気付くのにそう時間はかからなかった。

 しかしC子は同時にB子のことも好きだった。それは恋愛感情とは違うものだとしても、C子にとってA子もB子も同じくらい大切な人になっていた。

 だから、C子は身を引くことを決めた。好きだと伝えて関係を崩すことはしたくない、かといって隠したまま友達として付き合っていくこともつらい。ならばいっそ友達すらやめてしまえばいい。そうすれば、これ以上誰も傷つかずに済む。

 マンガはC子が二人に告げようとするシーンで唐突に終わっていた。空白のコマに小さな字で『ごめんなさい。お二人の幸せを祈っています』と書いてあった。

「…………」

 読み終わってしばらく、あたしと姫子は黙ったまま最後のページを見つめていた。

 予想はしてた。でもこうして実際に乃々花の絵と言葉で伝えられると、より乃々花の苦悩や葛藤が感じられ、胸が締め付けられてしまう。悪役になろうとしてまで乃々花が守りたかったのは、他ならぬあたしと姫子の幸せだった。

 このマンガをあたしたちに読ませたということは、乃々花は今後一切あたしたちとは関わらないつもりなのだろう。

 哀しかった。打ち明けてくれれば三人で話し合えたのに。

 腹が立った。乃々花がここまで思い詰められていることに気付かなかった自分自身に。

 今更悔しがってももう遅い。乃々花はあたしを悩ませたくなかったからこそひとりで抱え込んでしまったのだ。だから、過ぎたことを振り返ってもしょうがない。あたしが見据えるのは未来(これから)であるべきだ。

「……姫子」

「うん?」

「あたし、どうしたらいいと思う?」

「それ、私に聞くこと?」

「だってこれはあたしたちの問題だし……」

 姫子がまんまるの目を細め、あたしに穏やかに微笑みかける。

「ケイちゃんは難しく考えすぎだよ。乃々花ちゃんがどうとか私がどうとか、いったん忘れちゃいなさい」

「でも……」

「一番大事なのは、今ケイちゃんがどうしたいか、じゃないの? 自分の思ったことをやってみて、それから相手がどういう反応を返すかを見て、また次を考えればいいじゃん。ケイちゃんの行動で私がそれイヤだなって思ったら、ちゃんと言うよ」

 あたしは改めて自分の恋人を見つめた。なんてあたしは恵まれているんだろう。世界一の素敵な恋人と、あたしたちを大切に想っていてくれる友達に高校時代で出逢うことができたのは幸運以外のなにものでもない。

「姫子、あたし乃々花と直接会って話したい」

 あたしの言葉に姫子はしっかりと頷いた。

「うん、いこう」


 あたしは乃々花に電話をした。留守電の案内が流れる。すぐにもう一度掛け直す。また留守電。5回目を掛けたとき、ようやく乃々花が電話に出た。

「……はい」

 消え入りそうな声に決意が揺らぎそうになる。横にいる姫子の手を握り、力強く乃々花に話しかける。

「ちょっと話したいことがあるんだけど、今出てこれる?」

「……いえ、その……電話じゃダメですか?」

「出来れば直接がいいんだけど。家の前にいるからさ、少しだけ話せない?」

「え……?」

 間があって2階の乃々花の部屋のカーテンがわずかに開いた。隙間から乃々花がこちらを窺っているようだが表情までは見えない。

「……今行きますのでちょっと待ってください」

 その言葉の後、乃々花が家から出てきた。伏し目がちの顔は暗く、歩幅も小さくとぼとぼと近づいてくる様子は怯えているようにも見える。

「お待たせしました」

「――――」

(なんであたしは乃々花にこんな表情させてんの?)

 乃々花の顔を見た途端、あたしのなかにふつふつと怒りにも似た感情が湧きあがってきた。ここに来るまではどう話せばいいか分からなかったのに、そういった不安はどこかにいってしまった。

 あたしは声と一緒に感情を吐き出す。

「あーっ、もう! まどろっこしい!」

 乃々花の片手を掴み、ガッと引き寄せながら姫子に指示を出した。

「姫子! 向こうに回って確保!」

「ほいさ!」

 姫子が反対に回り乃々花のもう片方の手を掴む。両手をそれぞれ取られて乃々花が目を丸くした。

「あ、あの……」

 乃々花の声を無視してあたしは姫子に言う。

「姫子、近くの公園を検索!」

「はいな~。えーっと、お、あったあった。すぐそこを右に曲がって、次の次の十字路を左~」

 姫子のナビゲートに従って歩を進めて行く。乃々花は両手を引かれてわたわたとあたしたちについてくる。

「ま、待って……!」

「なに? こうやって歩くの喜んでたでしょ?」

「そういうことじゃなくて……!」

「そういうことじゃないならどういうこと? ちゃんと言ってくれないとあたしには分からないよ」

「だって……わ、私のマンガ、読んでくれたんですよね?」

「うん、読んだ」

「ならもう私のことはほっといてください! 知り合う前の状態に戻りましょうよ! そうすれば私も今後はお二人と関わらないようにしますから」

「乃々花さぁ、その話し方はやめようって言ったよね。友達なんだからもっと気楽に話そうよって。それとも乃々花のなかではあたしたちはもう友達じゃないってこと?」

 自然とあたしの声に険が交じった。乃々花は俯いて答える。

「友達じゃ、ないです……」

 乃々花が発した言葉はなによりも言った本人を一番傷つけていた。弱々しく歩くその姿は自分の気持ちを言い表せない不器用な子供のようだった。

(あたしと姫子だって世間から見ればまだまだ子供だ。だから、子供っぽくても青臭くても、あたしはあたしの友達と手を繋ぎ続ける)

 あたしは握った手を振り子のように大きく振る。

「乃々花がそう思うなら勝手に思ってればいいよ。あたしは、あたしと乃々花は友達だと思ってる。だからこうやって手も握るし、一緒に歩いたりもする。なにか文句ある?」

 姫子があたしの言葉に続く。

「私もケイちゃんと同じ気持ちだよ。乃々花ちゃんこそいいの~? 同じ趣味で熱く語れる友達なんかそうそういないよ?」

「…………」

 乃々花はあたしたちを見て何かを言いかけたが、再び視線を地面に落とした。あたしはそっと話しかける。

「あたしたちがやってることはただの気持ちの押し付けかもしれない。乃々花がどれだけ悩んでいたのかも、どれだけ苦しんで答えを出したのかも分からない。でも、それでも、あたしは乃々花と友達でいたい。また3人で遊びにいって、バカなこと話しながら思いっきり笑いたい。今あたしが言ってることは乃々花にとってすごく残酷なことだってのは分かってる。だけど、それがあたしの偽りのない気持ちなんだ。それに――」

 正面を向いてあたしは笑う。

「あたしはまだまだ乃々花と遊びたいんだよ! あと2カ月で何がくる? 夏休みだ! 泳ぎに行ったり山に行ったり、やりたいことはたっくさんある! 秋も冬も来年の春も、遊ぶ予定がぎっしりなのにそんな簡単に友達を辞めてあげないね!」

「最低限の勉強はしてね」

 姫子からの突っ込みに「うぐ」とあたしは口を噤んだ。姫子の優しい声が響く。

「無理強いをするつもりはないんだよ。乃々花ちゃんが本当にイヤだっていうなら今すぐ手を振り払って走り去ってもいい。そこまでされたら私たちももう諦める。でも公園につくまでこのままなら、もう私たちは繋いだ手を離さないし、離させない」

 繋いだ手が震えている。乃々花は顔を伏せて肩を震わせていた。それでも、あたしたちの手を離さなかった。

 姫子が空いている方の手でハンカチを取り出し、乃々花の目元に当てた。メガネがかちゃかちゃと鳴り、洟をすする音が聞こえてくる。3人の歩みはゆっくりだったが少しずつ前に進んでいく。

 そうして公園に到着した。


 その小さな公園はベンチと鉄棒くらいしかなく、わびしい所だった。そのせいか夕暮れだというのに人の姿がない。

 あたしたちはベンチに横並びで座り、自販機で買ってきたジュースやコーヒーを飲んだ。

 ほっと一息ついてから乃々花が呟く。

「私、本当に二人と一緒にいてもいい、のかな」

「当人二人がいいって言ってるんだからいいに決まってるでしょ。ねぇ姫子」

「もちろん」

「今以上に恵のことを好きになるかもしれないのに?」

「…………」

 返答に窮するあたしと違い、姫子は即答する。

「好きになっちゃダメなの? いいじゃん、人を好きになるのってすごく幸せなことだよ」

「だけど、姫子ちゃんは私と恵がその……てもいいの?」

 わざと肝心なところをぼかす乃々花に姫子は小首を傾げてみせた。

「ん? 乃々花ちゃんがケイちゃんを寝取っちゃったらどうするかって?」

「――――」

 あやうく飲んでたジュースを吹き出しそうになりあたしは軽くむせた。

「ごほ、けほ、姫子、言い方……」

 乃々花が小さく頷いて返す。

「そう、です。恋人を取られてもそんな優しいこと言っていられるんですか」

「言うよ。だって友達だもん」

 迷いのない姫子の言葉に乃々花だけでなくあたしも驚いた。

「ウソ――姫子ちゃんは恵と別れても平気なの?」

「平気じゃないよ。多分一日中泣いちゃうと思う。泣いて泣いて、体中の水分を涙に変えて、カラカラに干からびたあとあったかいシャワーを浴びて、それで次の日にいつも通り笑ってケイちゃんと乃々花ちゃんに挨拶をする」

「そんなのダメだよ……」

「なんで? 私の大好きなケイちゃんが自分の意思で選んだことなら、私はそれを応援するだけ。相手が誰とかは関係ない。むしろ乃々花ちゃんに取られたなら諦めがつくかもしれないね。乃々花ちゃんみたいに思いやりがあってケイちゃんを大事にしてくれる人なら安心して任せられるし」

 乃々花が首を横に振っている。小さく「違う……違う……私なんか……」と呟く声が聞こえた。

 姫子が眉根を寄せて乃々花を見る。

「勘違いしないでね。別にケイちゃんを譲りたいとかそういうことじゃないんだから。言うまでもないけど、私がこの世界で一番ケイちゃんに愛されてるし、愛してるっていう自信がある。だからね乃々花ちゃん、私的にはむしろ取れるものなら取ってみなさい! って感じなの。おっけー?」

 あたしは物じゃないぞと思いつつ、恋人から愛されてる・愛してる宣言をされて顔が熱くなるのを感じた。勿論あたしも姫子と同じ気持ちなのだけど、改めて口に出されると聞いているこちらも恥ずかしくなる。

 突然、乃々花の目から涙が零れた。姫子が慌てて乃々花の背に手を当てる。

「え、え、ごめん、私なにか気に障ること言っちゃった? えーっと、つまり私が言いたいのは乃々花ちゃんは私に負い目なんて感じなくていいから普通にしてて欲しいっていうか――」

「ごめんなさい、そうじゃなくてその」

 乃々花が自分で涙を拭った。

「姫子ちゃんが私の為にそこまで言ってくれるのが嬉しいのと、恋人の為に自分を犠牲にしてもいいって言い切るいじらしい精神があまりにも尊すぎて感極まってしまって……私が当事者じゃなかったら今すぐにでもメモしておきたいなぁと」

 あたしと姫子の肩がガクリと落ちた。こんなときまで百合マンガのネタ探しとは呆れるを通り越して恐れ入った。思わず乃々花に言ってやる。

「……忘れないうちにメモしといたら?」

 乃々花が潤んだ目で姫子を窺った。姫子が無言で頷くのを確認してから取り出した手帳に勢いよくペンを走らせ始める。

 その様子にあたしは姫子と顔を見合わせて苦笑した。やっぱり乃々花はこうでなくっちゃ。

 もしかしたら今日のあたしの判断を後悔するときがくるかもしれない。誰かに悲しみを与えてつらい別れがくるかもしれない。それでも今乃々花を二人で見守っているこの瞬間、あたしたちはかけがえのない大切な絆で結ばれていると思う。

 三人で並んで手を繋いで歩いたあの日の帰り道、あたしたちは家族のようになれた。だったらこれから先も同じように家族になれるんじゃないか――なんていうのはあたしの甘い希望だけど。先のことなんて誰にも分からないのだ。分からないからこそ、あたしたちで望む未来を創っていきたい。

 あのマンガの続きはあたしたちが描いていかなきゃいけないから。



            終

『百合NTRに対する考察』へ続きます。

シリーズにまとめてあります。

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