尾張統一
永禄2年3月、ついに信長は岩倉城攻略に乗り出した。
前年の「浮野の合戦」において大敗を喫した岩倉城の城主・織田信賢は籠城を余儀なくされた。
そして信長方は手始めに岩倉城の城下の町を焼き払って裸城にしようという作戦を出したがそれは高崎に止められ別の作戦を出したのであった。
「焼き払うなんて馬鹿だろ信長!」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」
「そのままの意味だよ馬鹿!民の為に思うなら焼き払うはご法度だ!ならば!噂を流せばよかろう!?」
「あ、その手気に入った。よしそうしよう!」
という事もあり。岩倉城の城下町に噂を流した。信長様はとても民思いでいい人だ。だから岩倉城は信長様に取ってもらおうというふざけた噂を流したが結果は大成功岩倉城の城下町は信長LOVEとなったのだ。
そして岩倉城の周りに鹿垣と呼ばれる柵を二重三重にも張り巡らし包囲した。そして兵を交代交代で配備し、徹底した監視をしたのであった・・・。
しかし三ヶ月近く包囲を続けたが、降伏しない岩倉城の城主・織田信賢。
降伏しない信賢に信長は苛立ちが見え始めた。
「ええい、いつになったら降伏するんだ!これ以上待っていられん!高崎!攻めろ!」
「無理です。さすがに俺任せになると足軽が弱いままになるじゃないですか?俺、作戦思いついたんですよ。」
「なに?申してみよ」
「では・・・」
高崎の作戦はこうだった。近くに鉄砲や矢を撃ち込み攻撃させ。その攻撃に耐えきれず織田信賢は降伏するという魂胆であった。
「よし、それをやっても無理なら行ってもらうぞ?」
「承知」
そして翌日の朝決行された。
ダダーンダダーンと鉄砲が撃ち込まれ、ヒュンヒュンと矢が突き刺さりそれを夕方まで行った。そのおかげか信賢は耐えきれず降伏の決断をしたのであった。
そして城を明け渡し、城兵は散り散りに退散していき、信賢と家臣だけとなった。そこに現れたのは織田信長だった。
「信賢!俺の家臣となれ!そこの家臣達も俺の家臣となれ!」
いきなり何を言い出すかと思えば家臣になれという言葉であった。普通なら切腹や打首なのにそれを行わない信長に困惑する信賢とその家臣達。しかし謀反を企てたりしなければ安全は保障されると聞いたので、信賢とその家臣達は信長の配下となるのであった。
これにより、織田家で信長に敵対する者はいなくなり、尾張は”ほぼ”統一するに至った。
これは信長26歳、父、信秀の死から8年後の事であった・・・・。
しかし、ホっとするのも束の間・・・・織田の最大の危機が刻一刻と迫ってきているのであった・・・。