勝村の合戦
今回は小さい小合戦ながらも斎藤家との本格的な戦の始まりです。
1561(永禄4)年5月13日、木曽川と飛騨川(長良川)を越え、西美濃へ侵攻。勝村に陣を張るのであった。
そして翌日伝令が届いた。
「報告します!斎藤龍興家臣・長井甲斐守と日比野清実を大将にした軍がこちらに攻めてきます!その数2000!」
伝令の報告により信長は動き出す。
「よし!今から迎え撃つ!高崎!今日は俺のお守りと致せ!」
「承知!」
ついに織田家VS斎藤家の本格的な戦が始まるのであった・・・。
結果は数時間の攻防の末、織田家の勝利。織田軍は長井・日比野をはじめ560人余りを打ち取り、勝利を収めた。
桶狭間で一つも首を取れなかった利家は信長に少し距離を置かれていた為、今回の利家は奮戦した。奮戦した結果、日比野の配下に「首取り足立」と呼ばれた足立六兵衛という猛将がいたが、利家と一戦を交え、敗北し足立六兵衛の首を取った。
この首を含め、この戦いで二つの首を取った利家は、信長に言い渡されていた『今後首一つ取れないのなら謹慎処分を言い渡す』という約束は無しという結果になった。
織田軍はこの勝利で洲の俣(墨俣)の地を押さえここに砦と築き駐留するのであったが・・・・。
斎藤龍興はわかっていた。この墨俣を取られたら稲葉山城は裸城同然ということを・・・龍興は反抗した。23日斎藤軍は稲葉山城より大軍を繰り出し、墨俣を奪い返すべく動いた。これにより織田軍は敗北。
このまま斎藤軍は北軽海まで進出していくのであったが、この動きを見ていた信長も西軽海へ移動し、斎藤軍と対峙した。
しかし結果は足軽合戦となりその戦いは夜、次の日も決着がつかなかった。
高崎義重(主人公)の活躍もあったが、チートボディにもスタミナはあるのだ。2時間もしたら疲れで退却し他の武将に任せることになった。
結果、その次の日は墨俣から撤退。
これから起きるのは織田家VS斎藤家の長きにわたる戦い・・・・。
文字数がとても少なく大変申し訳ありません。勝村の合戦いくら調べても小さい合戦だったということしかわからず、結果的にこんな少ない文字数になりました。
高崎の能力に関してですが、スタミナ制としたチートボディとすることにしました。