桶狭間の戦い(後編)
永禄3年5月19日明け方に伝令が届いた。
高崎の予想通り、佐久間大学盛重と織田玄蕃秀敏からは既に鷲津・丸根砦が今川勢の攻撃を受けているとの情報が入った。
「報告します!鷲津・丸根砦!今川勢と接触!こちらが不利の状態とのこと!」
「で、あるか・・・!誰か鼓を持ってこい!敦盛を舞う!」
「人~間~五~十~年~、下天の内をくらぶれば~、夢~幻の~ごとくなりぃ~。ひとたび生を得てぇ~、滅せぬ!者のあるべきかぁ~」
(これが生の敦盛・・・迫力があるな・・・俺も城主になったら敦盛舞おうかな)
と思う高崎であった。
舞い終わると、「法螺貝を吹け、具足をよこせ!出陣じゃ!」と信長が言い、鎧をつけ、立ったまま食事を取り、兜をかぶって出陣するのであった。
この時従っていたのは小姓の岩室長門守・三宅虎太郎・佐脇良之・山口飛騨守のわずか5騎と高崎義重、熱田まで三里を一気に駆けるのであった。
熱田に到着したころには足軽鉄砲隊50人、弓50人、槍200人、計300人であった。
この時鷲津・丸根方面を見ると煙が上がっており両砦は松平元康軍により落とされていたのだ。
信長は熱田神宮で戦勝祈願をした。
「おい神・・・此度の戦!俺の勝ちにしてみせよ!それができぬというのなら神ではないわ!」
戦勝祈願を済ませるとそのまま桶狭間へ駆けて行った。この頃今川義元は桶狭間山の田楽狭間という所で人馬を休ませていたのだ。それも鷲津・丸根の攻略したことによっての満足であった。
そして松平元康も鷲津・丸根の攻略もかなり苦労した様子、大高城で人馬ともに休ませていたのだった。
まさに絶好の機会!。
そして信長ご出陣という報告を聞いた善照寺砦・佐々隼人正勝通と千秋四郎秀忠が今川軍の大軍に玉砕するのであった。結果は佐々・千秋を含む100騎討ち死にに。
桶狭間の田楽狭間付近に着いた信長とその兵達。信長勢は約1000そして今川義元勢は5000戦況は不利だが、本陣で酒を飲んでいた兵士がチラホラいるではないか。そして雨もドシャ振りとなってきた。これは絶好の機会と見た信長はついに。
「天運我に味方せり!目指すは今川義元の首!ただひとーつ!いくぞ~!」
「「おおおお!!」」
「一番槍はこの俺じゃあああああ!」
これにより今川軍は奇襲を受けほとんどの兵が何もできないまま殺されていった。
しかし酒に酔っていたとしてもこの数では義元に逃げられると思った信長は
「高崎ィ!毛利新介とともに義元の首を取って参れ!それかかれかかれ~!」
「「承知!」」
「行くぞ新介殿!後ろについてきてくだされ!」
「おうとも!」
弓や槍・鉄砲・旗指物や幟なども打ち捨てて今川軍は後退し、義元自身も輿を討ち捨て、300騎ほどの旗本衆に囲まれながら退却するのであった。
無理に戦わず後方に退き、体勢を立て直そうと考えたゆえであろう。
「そこをどけぇ!」
と言った高崎は大薙刀を横にして思いっきり押したことにより義元を守っていた大半が吹き飛んでいった。
「いけぇ新介ェ!義元の首を取れるようにしたぞぉ!」
「感謝する!義元!覚悟ぉ!」
腰を抜かした義元は剣が振れずにそのまま新介の槍で絶命した。
「今川義元の首!この毛利新介が打ち取ったりぃ!」
この言葉を聞いて今川軍は総崩れとなった。
そしてこの勝利により信長は一躍近隣諸国に注目される大名となり、戦国大名として大きな一歩を踏み出すのであった・・・。