第四章 1.王女の告白
あれから、何人か同僚の者が部屋を訪れてきた。
「病気だって?」
彼らは、王女の輿入れが迫ってきて仕事が手につかないほど落ち込んでいる私を、見たかったようだった。
だが私の顔色を見て、表情を変える。
「……本当に顔色が悪いぞ」
あの場では私の首は繋がっていたが、王女が無事城を旅立てば、その後は分からない。
覚悟を決めていたこととはいえ、顔色が悪くなるのも当然だろう。
「軽い風邪だと思うんだが、殿下に伝染してはいけないから。大事な御身体だからね」
私がそう言うと、ああ、と合点がいったように皆頷いた。
あれから私は、ほとんど部屋を出ることなく、膝を抱えて暮らしている。
王女は叱られたりしただろうか。だとしたら申し訳ないことをした、と思う。もっと上手くやれればよかった、などと王子が聞いたら卒倒しそうなことを考えてみたりもした。
一人で部屋で過ごしていると、怖ろしいほどに時間が進まないが、だが着実に王女の輿入れの日は近付いてくる。
そんな日が、永遠に来なければいいのに、と馬鹿なことばかりを考えていた。
◇
王女が城を旅立つその日も、私は部屋のベッドにぼうっと横になっていた。
ふいに部屋の扉がノックされ、私はのそりと身体を起こす。また噂好きな同僚がやってきたのかと思っていた。
だが扉を開けるとそこにいたのは、王女の侍女だった。
彼女は表情を動かさず、「殿下がお呼びです」とだけ言い、先を歩き出す。
どちらの殿下だ? と思いつつもなんとなく訊くことは憚られて、私は黙ってその後をついて歩いた。
どうやら王子の執務室の方に向かっている、と思っていたが、彼女はその前を素通りする。
あの、中庭に向かっている。
そう思うと、心臓がばくん、と跳ねた。
「どうぞ」
侍女が指し示す先に、王女がいた。彼女の背で、楡の木の葉が揺れている。
髪を結い上げ、何本もの髪留めでその見事な金髪を彩っている。いつものものよりもずっと繊細でいて豪奢な刺繍が施された白いドレスを身に纏っていた。
輝いている。眩しいほどに。
「なんだか、久しぶりのような気がするわね」
王女は小さく微笑む。
「ええ、そうですね」
一瞬にして、向かい合って絵を描いていた時間に戻った気がした。
「いつもにも増して、お綺麗です」
私がそう言うと、王女は苦笑して返した。
「結婚式はあちらでするのだから、今、着飾る必要はないと思うのだけれど、道中、いろいろな方が見に来られるようだから」
耳を澄ますと、歓声のようなものが聞こえる。おそらくは、今日のことを聞きつけた国民たちが、一目、他国に嫁ぐ姫を見ようと城外にやってきているのだろう。
彼女は、こういう環境の中で育ってきたのだ、と思った。そのたおやかな身体で、いろんな人の期待を背負って生きている。
「ありがとう」
王女は言った。
「あなたのおかげで、この城での最後の日々を、楽しく過ごせたわ」
「そんな……それは、私の言葉です」
「だといいのだけれど」
そう言って微笑む。
だが次の瞬間、目を伏せた。
そして何度か何かを言いたそうに、口を開いたり閉じたりしたあと、意を決したように、舌に言葉を乗せた。
「あなたには、分かっていたのでしょう?」
小さな声だ。私の少し後ろで控えている侍女にはきっと聞こえない、声。
なにが、とは聞かなかった。
分かっていた。
私は彼女をずっと見ていた。
だから、分かった。
彼女の、本音。
だが。今、私は、王女の命令に背く。
「……何のことか、私には分かりかねます」
こぶしをぎゅっと握った。このことは、墓まで持っていく。それがいつまでかは分からないけれど。
「そう。ありがとう」
命令に背いた私を咎めることなく、彼女は悲しく微笑んだ。
「私ね、あなたが絵師になればいいと思うのよ」
「は……」
「あなたが有名な絵師になったら、私はセイラスで自慢するの。私の祖国には、アイトンという絵師がいて、私はその才能を見抜いたのよ、って」
そうしてころころと笑った。私もつられて笑う。
「エイラ殿下」
背後から、侍女の声がした。そろそろ時間だ、ということだろう。
侍女は王女の傍に寄り、紙を丸めたものを王女に渡した。王女はそれを受け取ると、私に差し出す。
「これ」
私はそれを、両手で受け取った。
「これを、お願いできるかしら?」
中は見なくても分かった。これは私が描いた絵のうちの一枚だ。
それにはきっと、彼女の本音が描かれていた。
その絵は、彼女の告白なのだ。
「必ず。御意のままに」
私は王女の前で膝を折る。そして胸に手を当て、深く頭を下げた。
「衷心より、エイラ殿下の幸せを願っております」
これは、本音だ。私はあなたの幸せだけを願っている。
「ありがとう。元気で」
頭の上から声が降ってきた。顔が上げられない。私は下唇を噛み締める。
王女と侍女の足音が、次第に遠ざかっていく。そして私はゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。
彼女の背を見送る。
そして、気付いた。
彼女の金の髪に、あの菫の髪留めが目立たぬよう、留められているのを。
エイラ。
私は心の中で、その名を呼んだ。あの日だけ許された呼び名を、私は二度と口にすることはできない。
せめて、心の中で呼ぶことだけ、許して欲しい。
気が付くと、私は拳を握り締めていて、手の中は自分の爪で傷ついていた。
それをしばらく眺めたあと、私は歩き出す。
彼女の最後の願いを叶えるために。




