一緒だから
――翌朝の8:00
鏡台の前に座り、短い髪をとかしている洋子がいる。
カジュアルなシャツとジーンズ姿でいるのは、家で遊ぶだけならこの方が良いだろうと考えたからだ。
(係長には、色気より食い気よね)
母の教えによって助かった感じではあるが、女として言えば少しだけ悲しい。
現場では声を張り上げている彼女であるが、今の洋子は全く違う。
休日を良治と2人だけで過ごせるのが嬉しくてたまらないという気持ちが全身から滲みでているかのようだ。
彼女の手が髪に置かれたまま止まると、その嬉しさが薄れ、表情が曇りだした。
(……)
元は長かった黒髪が今では半分ほどになっている。
そうした事に後悔はないが、
(係長はどっちがいいんだろ?)
元の自分と今の自分。
もし良治が、入社時の方が良いというのなら……。
(ううん。このままでいいか)
沈みかけた気持ちが霧散したのは、今の自分に対して好きだと言ってくれたからだろう。
軽く化粧を済まし、最後に下唇を少しだけ噛むと、満足したように一人で頷く。
脇に置いておいたスマホを見れば、そろそろ良治がやってくる時間。
部屋は……よし。
ゲームの準備は終わっている。
見られたら不味いようなものは、前回と同じく押し入れへと収納済みなので、扉前で待たせてしまう事もないだろう。
(昼は食べていくよね?)
準備はしてあるし、食べて行ってもらわないと困ってしまう。
できれば夕飯も一緒にとは思うが良治の事だ。また帰ろうとするだろう。
(変な期待はしない方が良いか。係長には逆効果だろうし)
良治には普段通りが一番良いと思える。
いつものようにゲームを楽しんでいれば、彼もまた楽しんでくれるはず。
(うん。いつも通りでいこう!)
普段の自分を好きになってくれたのだから、妙な作戦などいらないと決断した時、玄関のチャイムが鳴った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
戦場は整った。
目の前にあるのは、小さく感じられるようになった赤いコントローラ。
差し込まれているのは、黒塗りのソフト。
購入してきた飲み物やツマミの他に、洋子が用意してあった果物ジュースの類もおかれている。
「さて、やりますか」
「先週の続きからでいいんだよな?」
「そう、先週の続き……」
続きと聞き、洋子の意識が自分の唇へと向かった。
先週の記憶が蘇り、手が自然と止まってしまう。
彼女は果物ジュースをガラスコップへと注いでいたわけだが、その手が止まったという事は、注がれ続けられるという事に……。
「洋子さん!」
「……えっ? ―――ッ!!」
「布巾はどこだ?」
「持ってきます! 係長はゲームを始めていていいですよ!」
開始前から惨事が起きた。
普段通りにするというのは、付き合い始めたばかりの2人にとってみれば、中々どうして難しいものなのだろう。
そう――2人にとってみれば。
(参ったな)
部屋に入るなり良治が感じたのは、甘い匂い。
鼻につくような強いものではなく、微かに感じさせる匂いだ。
出迎えた洋子も、嬉しさを隠しきれない表情を見せてくれた。
冷静でいる洋子も良いが、感情を素直に見せてくれる彼女もまた良い。
そんな相手が、近くにやってきて布巾を使って汚れを落とそうとしているのだが、見てはいけないものが、目にうつる。
(……俺の理性よガンバレ)
良治が見てしまったのは、洋子の胸元。
シャツの下に見えるほんの少しの膨らみと白いものが見えた。
彼女はカジュアルシャツを着ているわけだが、そのシャツのサイズが若干あっていない。ボタンが1つ外れている事もあって、上から覗きこむような形となると、色々と見えてしまう。
それは、良治にとって理性に助けを求めてしまうような光景であった。
「気にしないでいいですよ」
「……無理だ」
「そうですか?」
「慣れていないんだよ……」
「あれ? まだ駄目なんですか?」
「……あっ」
ゲームの事だ。
間違いなく洋子が言っているのはゲームの事だ。
そんな事は分かっているのに、まったく別の事に意識が向いてしまっていた。
「そ、そうだな。じゃあ、悪いが始めるよ」
「???」
何が何だか分からないが良治がゲームを始めたので、それ以上は言わない事にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ゲームが始まると、洋子がノートを取り出した。
それは、良治がやっているゲームの地図。
全マップを記載したものもあるが、今使っているのは別となる。
良治に楽しんでもらう為に新しく作り始めたのだろう。
「あった!」
「階段を見つけましたね。どうします? まだ未探索場所がかなり残っていますけど?」
「このゲームって、階段が消えたりはしないよな?」
「しませんよ。そこは大丈夫です」
「なら、1度降りて敵の強さをみておきたいが、どうだろ?」
「そうですね……ちょっと見せてもらっていいです?」
言いながら良治へと近づきコントローラを求める。
その時、気になっていた香りが鼻から伝わってきた。
(やっぱり香水か)
近付くと分かる香水の匂いに意識が向くが、そんな良治を洋子が不思議そうに見つめていた。
「どうかしたんです?」
「……あぁ、悪い」
気が付きコントローラを渡すと、すぐに良治のキャラ状態を確認し始めた。
「少しは大丈夫そうですね。行ってみます?」
「1度だけ試してみるよ」
「……なんだか5階で合流した時の事を思い出しますね」
「ん?」
どういう事だろう? と首を捻る。
洋子が何を考えているのか分からなく困惑していると、彼女は何も言わずに微笑んだ。
「何でもないですよ」
本当にどうしたのだろうか? と思いながら返されたコントローラを握る。
洋子の様子に奇妙さを感じたが、ゲームを再開した。
下に降りると、すぐに敵が現れたので戦闘を開始。
隣で見ていた洋子は、何かを言いたそうにしていたが、ぐっと堪えている。
ダメージは大きかったが、何とか無事。
戦闘が終わると宝箱がドロップされた。
罠の鑑定をしてみると、良治の頬が引きつってしまう。
「この罠って、前に解除できなくて味方が死んだと思うんだが……」
「そうでしたね」
「敵もそうだが宝箱の罠もきつくないか?」
「それが、このゲームの醍醐味です」
「盗賊も、失敗ばかりするし……」
「レベルが低いうちは、危険な罠の類は空けないのも手ですよ」
「そうだろうけど、開けたくなるものだろ?」
「気持ちは分かりますけど、無理したら駄目です。このゲームではキャラが死亡すると、キャラロストに繋がりかねませんから」
「その話って本当なのか?」
「本当です。私、レベル500超えのキャラをロストした事がありますよ」
「……なんでそこまで上げた」
「趣味です」
「そ、そうか」
理解はできないが、とりあえず納得する事として続けてみた。
出現する宝箱の罠は、もう一つの敵。
そう認識する事にして1階へと戻る。
ちなみに洋子は500超えのキャラをロストはしているが、その後一桁違うキャラを育成し残しているのだが、良治は気が付いていない。
「町に戻った方がよさそうだな。毒消しがきれそうだ」
「ですね。魔法回数もそろそろ危ないです」
隣で地図づくりをしていた洋子の賛同を得て戻ろうとした時気が付いた。
洋子の手にビール缶が1つ。
いつの間に蓋を開けた! と良治は驚きもした。
開けた音がしなかったのではなく、良治がそれだけゲームに夢中になっていたに過ぎない。
「俺にも一本くれ」
「いいんですか?」
「隣で飲まれるとちょっとな……」
言葉通りの気持ちが良治の顔にでている。
洋子はクスリと微笑みながら渡すと、蓋をあけて飲み始めだした。
「ふぅ。さて、街に帰るか! 装備も買えるだろうし、楽になるかもしれない」
「楽しそうですね」
「そうか? うん、まぁ、何と言うか……」
僅かに首をかたむけ言葉を止めた。
そんな良治を黙って洋子が見つめていて、言わないと駄目だろうか? と悩んでしまう。
「……洋子さんと一緒だからだと思う」
「……」
照れくさいのか視線を合わせようとしない。
言われた洋子も顔を余所へとむけて、絨毯を指先で撫でていた。
ただ、ゲームをしているだけ。
やりこんだゲームを良治がしているだけ。
それだけなのに、見慣れたゲーム画面が、いつもと違うように洋子には思えたらしい。