日常と非日常
会社から帰る夜道を良治と洋子が歩いていた。
互いに無言で肩を並べ、車道を走る車のエンジン音を聞き、ライトが灯った各店を見ながら考え事をしている。
一緒に歩いていた2人が同時に足を止めたのは、横断歩道の信号が赤になった為。その時、良治が口を重そうに開き、小さな声を出した。
「……洋子さんはギリギリまで1階にいた方がいい」
「え?」
「いつかは、2階に上がるかもしれないけれど、ギリギリまで待って情報を集めてからにした方がいいよ」
「……係長はどうするんです?」
「俺は、もう2階にいるからな。できるだけ情報を集めて報告しようと思う」
「また死ぬかもしれませんよ? 休憩所で退社時間まで待っていた方が良いんじゃないですか?」
「死んでもゲームキャラなんだろ?」
「……あの誘拐犯の言葉を信じるならばですけどね」
「あぁ。前提条件としてそれがあったな」
洋子が2人に自分の考えを打ち明けた時、確かに大前提としてそれを口にしている。もし、そこが崩れれば洋子の言った理屈は瓦解する可能性があるかもしれない。
(……かといって、このままだと退職処分もあり得そうだよな)
現実世界における自分の居場所。
14年間勤めあげた実績というのは、そう簡単に手放せるものではない。
それに、何もない休憩所に引き籠っていたら気が狂いだすのでは? そうなったら異常を異常として認識できなくなる以上に酷いのではないだろうか?
それよりなら……
「どうかしました?」
「……部長の言った異常の認識について考えてた。洋子さんはどう思う?」
「それはー…青です。渡りましょう」
「あ。あぁ」
洋子の言った通り信号が変わったので、白い線が並ぶ横断歩道へと足を進める。
そこは日常的に歩く場所だ。
しかし、明日の朝になれば、良治の足は非日常である迷宮を歩くことになる。
そう思うと、自分達は日常と非日常を行き来しているようなものかと思ってしまった。
横断歩道を渡りおえると、すぐに駅が見えてきた。
駅前に駐車されたタクシーの列を見ながら先へと歩いていくと、今度は洋子の方から口を開いた。
「私は、あまり考えないようにします」
「え?」
「常識なんて、その時の状況で変わります。今、私達は迷宮に連れて行かれている。これが私達の常識です。それを現実として受け入れないと、迷宮内では危険だと思います」
「危険?」
「そうでしょ? ゴブリンなんかいない。血生臭い戦いなんてありえない。そんな考えでいたら、死ぬだけになりません?」
「……あぁ」
真っすぐ前を見る洋子からの問いに、良治は小さな声を漏らすという形で理解を示した。
「それよりも、今はですね……」
「うん?」
納得しかけた良治であったが、唐突に洋子の声音が変わったのを感じ、首を動かし彼女を見てみると、目端が自分へと向けられているのを知った。
「なに?」
「2階の新情報ってありませんか? 私としては、そっちの方が気になるんですけど」
言いたい事が分かった瞬間、吹き出しかけた。
まぁ、気持ちは分からなくはない。
いつ2階に強制移動させられるのか分からないし、その前に少しでも情報を集めておきたいという気持ちは当然あるだろう。
隠すような事でもないので、今日知ったばかりの事を話し始めた。
1階と2階の構造が今の所は同じだという事。
宝箱の配置が変わっているんじゃないだろうか? という考え。
そして、良治が見つけた虫眼鏡について。
「虫眼鏡? それに宝箱の配置が違う?」
「そう。まだ完全に地図ができたわけじゃないから、ハッキリと違うとは言い切れないけど……ああ、そうだ。虫眼鏡で宝箱を見たら、低級宝箱って表示されたんだけど、どういう事か分かる?」
「……ふぇ?」
「洋子さん? どうかした?」
妙な声を出したかと思うと、いきなり立ち止まってしまった。
何も持たない両手を、わきわきと動かし『うん? ちょっと待って。それって……え?』等とブツブツ言いだし始めている。
「よ、洋子さん?」
「ちょちょちょ、係長! その虫眼鏡で他の物は見ました? そこ大事!」
「いきなりどうした!?」
態度と口調が豹変。
さらに、ツカツカと良治の前に歩いてくる。
良治の方が焦りだしたのは、レディーススーツの下に隠されたAなのかBなのか分からない微妙なサイズの胸が、あとわずかで当たりそうだからだ。
なぜ、そんなに興奮しているのかと、理解に苦しんでしまう。
「他のもの? えーと……あぁ、剣を見たよ。青銅の片手剣って表示された」
「名前だけ? 他には? 例えば攻撃力とか!」
「……は?」
「具体的な性能とかは表示されないんですか?」
「性能? ……なにそれ?」
意味が分からないと思う良治の前で、洋子は憎々しい表情を浮かべた。
目の前に大好物を置かれたのに『これは君の分じゃないよ』と、言われたかのように。
「……クッ!」
「なに、その敵でも見るような目つき! 俺、悪い事した?」
「何も。えぇ、係長は何も悪くはないです。だけど! だけど、この口惜しさが伝わらない! それが、なんだか……クッ!」
「よ、洋子さん? 君ってそういう性格だっけ? まさか、迷宮の影響じゃ!?」
「違います。これは元からです」
「元から! じゃあ回復不可能!?」
唐突に豹変した洋子の様子に、良治は慌てるばかり。
足を止め、駅前で行われた会話は、どうしても目立ち始めた。
すれ違う人々が、チラっと見ては(別れ話? 秋ねぇ~)等と勘違いしながら通り過ぎたり、あるいは(ケッ! イチャイチャしやがって。爆発しろ)とか思ったりしているのだが、そんな事を知らずに、洋子はひたすら悔しがり、良治は翻弄されていた。
良治には分からない意味不明な事を言い出し始めた洋子が、ジロっと睨みつけてくる。
「な、なに?」
「……係長。明日迷宮に行ったら、その虫眼鏡で自分の体を見てくれませんか? どこでもいいです。手でも足でも何でも。もしかしたら、それで何か……」
「体を? どういう意味?」
「どういう反応が出るのか知りたいだけですよ。もしかしたら…と思う事はありますが、実際どうなるのは分かりませんし……またRという名前で報告お願いできませんか?」
「別に良いけど?」
「約束しました! いいですね! では!」
言質は取った! よし! とばかりに洋子は手をスチャっと上げて、駅に向かって走り出した。なぜか元気そうだ。
「なんなんだ一体……」
何を考えているのか、さっぱり分からないと思いつつ、彼もまた駅の中へとトボトボと歩いて良く。
その背中は、一日の仕事が終わったサラリーマンのよう。
いや、間違いではないのだが……