雪形の想いで
この小説は僕が最初に書いた作品です。
僕の原点というべき短編ですので縁がある方はぜひ読んでやってください。
幸いなことに、晴天に恵まれた。朝の松本市内は少し肌寒かったが、おとといまでの大雪が嘘のように空は晴れ上がった。2月上旬の長野県内は非常に寒さが厳しく、雪も降り積もり、車もチェーンを常備しなければ、運転がままならないような土地柄である。
修一は、デイバックに簡単な着替え・カメラ・ペットボトルのお茶・文庫本、Ipod、美大のパンフレットを入れて市内の自宅から松本駅へとゆっくりと歩いて行った。
おとといに、降り積もった雪は、歩道の街路樹の周辺に積み重ねられ、日の光を浴び、キラキラと光り輝いていた。
修一の両親は喫茶店を経営しており、店舗でよく遊んだり、手伝いをしたりしながら、幼少期から過ごしてきた。決して、裕福とは言えない。それでも、両親と修一、妹の由香里の4人家族で生活するには、十分な収入があったのだろう。ただ、今回修一が東京の美大を受験することに関して、父はあまりいい顔をしなかった。
「将来、飯を食っていくのにあまりに不安定じゃないのか? それに奨学金の返済だって馬鹿にならないんだぞ」
父は、修一の美大進学に対して否定的であったが、普段あまり強い意見を言わない修一が、喧嘩腰になってまで、美大に行きたいといったことで、進学を許したのだった。もっとも、母も口添えをしてくれたらしいのだが、なんだかんだ言って理解がある両親でよかったと、修一は心からそう思っていた。
美大のパンフレットには、改築されたばかりのきれいな校舎・手入れが行き届いた芝生、その芝生の上で楽しそうに笑う学生、カリキュラムと就職支援制度の充実etc……写真付きできれいに載っていた。そのパンフレットを見て修一は、今回のオープンキャンパスに参加してみようと思ったのだった。
松本駅へは修一の実家からそれほど離れていない。歩いて行っても十分もあれば、付く距離である。ただ、先日の残雪が歩道のところどころに残っていて、滑らないように歩かなければならず、いつもより時間がかかってしまった。足元に気を付けながらも、どうにか駅へとたどり着いた。時刻は7時30分。特急スーパーあずさの時刻表をチェックした。7時59分に電車が発車するらしい。まだ少し時間があったので、修一は構内のスターバックスでドリップコーヒーを買い、店内で美大のパンフレットを眺めらながら、コーヒーを飲んだ。思えば、長野県を出て東京へ行ったのはいつ以来だろうか? たしか、小学校の修学旅行で国会議事堂に言って以来だ。修一は、少年時代に友人たちと修学旅行でいった記憶をたどりながら、東京の街並みを思い返してみた。もっとも、修学旅行に行ったのは六年前の事なので、街は大きく変化してしまったかもしれないが…。修一は、幼少期の事を思い出すと、いつも同じ考えに行きついてしまう。自分はこの日本アルプスの山々に囲まれた地方都市。そういう狭い世界からでることなく、一生を終えてしまう。別に嫌という訳ではないが、どことなく味気ない。修一はそんなことを考えながら、コーヒーの残りを息で冷まして一気に飲み干した。
スターバックスを出て、改札前の券売機へと向かう。今日は土曜日ということもあり、通勤の学生やサラリーマンより、観光客が見受けられた。大きなボストンバックを下げた初老の男性や、動きやすいスニーカーを履いた中年女性などの観光客が、愉快そうに東口に向かって歩いていく。おそらく松本城へと行くのだろう。松本城は駅から歩いて20分ぐらいのところにある観光スポットだ。国宝らしいが、修一は地元なのにほとんど行かなかった。いや、むしろ地元だからかもしれない。さして珍しく思わなかったのだ。
修一は券売機で、切符と特急券を買い、中央線の上りホームへと向かった。階段を下りると、特急列車が息を潜めるように停車していた。車両の表示を確認しながら自由席車両を探して乗り込む。車両に乗ると、特急電車特有の空気が感じられた。座席は大勢の利用客で埋っていたが、進行方向右側に、二つとも座席空いている場所があり、その窓際の席に座った。
修一はデイバックから、ipodとペットボトルを取り出し座席の窓際の台に乗せ、デイバックは、通路側の席に置いた。座席に座ると一息つき、ペットボトルのお茶を一口飲み、後ろに少しだけシートを倒した。
発車のアナウンスが流れ、ゆっくりと列車は進み始める。修一がいつも乗車している鈍行列車と違い、重量感があるが、スムーズな走りだしだった。
「ご乗車ありがとうございます、この列車は特急列車スーパーあずさ6号東京行きです、途中、塩尻、岡谷、下諏訪、上諏訪、茅野……
そのアナウンスが、停車駅を一つずつ伝えるたびに列車は、少しずつスピードを上げていく。修一は車窓から実家の方の景色を眺めた。遠くに実家の喫茶店が見え、店舗奥部分の二階ベランダで、母が洗濯物を干している。母はいつもカーペンターズの曲を鼻歌で歌いながら洗濯を干していた。列車の中から見ているのに母の鼻歌が聞こえてくるような感じがした。
列車はさらにスピードを上げ、駅から遠ざかっていく。やがて修一の実家も車窓から消えた。修一はipodの電源を入れ、ヘッドホンを両方の耳につけ曲がランダムにかかるように設定し、再生ボタンを押した。ミスターチルドレンの90年代のポップソングが流れ始める。持ってきたお茶が結露し、ペットボトルが汗をかいたようになっていた。着ていたパーカーの袖で、ペットボトルを軽く拭き、もう一口お茶を含んで、また窓際の台へと置いた。
少しすると検札が切符の確認にやってきた。修一は特急券と東京までの切符を検札に見せる。検札は切符を確認すると、帽子を軽くとり会釈し、後ろへと歩いて行った。修一はipodで音楽を聴きながら瞳を閉じ、短い眠りと夢の中へ落ちた。
修一は奇妙な夢を見た。まだ幼い頃、先生に引率されて諏訪湖の御神渡りを見るために幼稚園のみんなで遠足に出かけた時の夢だ。諏訪湖は長野県最大の湖であり、御神渡りとは凍結した湖面が、温度差により筋状に隆起する自然現象である。担任の宮崎先生は、御神渡りにまつわる伝説を教えてくれた。
「みなさーん!御神渡りっていうのは、諏訪大社上社の男の神さまが下社の女神さまのもとへと渡る恋の道なんですよー、なんか素敵じゃないですか?」
宮崎先生は当時30代前半くらいの女性の幼稚園の先生だ。肩より短いショートヘアーで、体型はふくよかな感じであった。先生はお遊戯の時間に、修一たちの教室でピアノを弾きながら、「手のひらを太陽に」を甲高い声で歌うのが印象的だった。園児を強く叱ったりしないが、間違ったことをすると、向かい合って目を見てしっかり諭すように話をしてくれた。修一としては、あの甲高い声さえなければもっといい先生なのにと思っていた。
何人かの園児たちは、先生の話を聞かずに諏訪湖の凍結した湖面を、叩いたり、歩道を走り回ったりして遊んでいた。修一は先生が話した男女の神さまについて想像してみた。上社の男の神さまが、凍りついた湖の上を歩いて下社の女神さまのところへ向かう様子を……。そして、もし冬場に湖が凍るほど寒くならなかったら、女神さまに会いに行けないじゃないかと考えていた。
「修ちゃん、寒いねぇ! うち、耳痛いよ」
「絢ちゃん寒がりだよね、僕は寒いの慣れてるから平気だよ」
近所に住む幼馴染の絢華がぶるぶる震えながら、修一に話しかけた。絢華とは家族ぐるみで付き合うような親しい間柄だった。親同士も仲が良く、母たちはよく一緒に食事に出かけたり、買い物にいったりしていた。修一は、自分がつけている戦隊ヒーロー物の柄の耳宛てをはずし、絢華の耳につけてあげた。
「うー、修ちゃんありがと」
そう言うと、絢華は恥ずかしそうに笑い、両手に白い息を吹きかけて手もみした。
「だいじょうぶ! 僕ほんとに寒いのは慣れてるんだ、お父さんとよくワカサギ釣りにいったりするもん」
「修ちゃんのお父さん釣り好きなんだよねー、うちのママも修ちゃんのお父さんからもらったワカサギ美味しいって食べてたよ!」
修一は絢華と他愛のない話をしながら、彼女のリンゴのように真っ赤になった頬を見つめた。こうして絢華と一緒にいると、修一はふんわりとした優しい気持ちになることができた。こうやって絢華とずっと仲良しでいれればいいのにと修一は思った。
修一たちが身を寄せ合うように湖面を眺めていると、覚が話しかけてきた。覚も修一の幼馴染で仲のいい友達である。覚の親は町の小さな本屋だった。同い年の園児たちの中でもずば抜けて賢い子供だったと思う。極端な言い方をすれば神童といってもいいかもしれない。消極的で恥ずかしがり屋であったため、他の園児たちとうまく馴染めずにいるようだった。そんな覚にとって修一と絢華は、気を許せる友達だった。三人はいつも一緒にいた。
「修ちゃん、湖からぎぃぎぃ音が聞こえるよ」と覚は言った。
そうだねと修一は答え、湖の上で起きている御神渡りに目を向け、耳をすませた。湖面の氷がゆっくりと揺れて、競りあがっているように見えた。そして揺れると、ぎぃぎぃという音を立てながらさらに上に競りあがっていくようだった。
「絢ちゃんのほっぺ真っ赤だね」と覚は言い、ミトンをした小さな手で絢華の頬をさわった。
「さっ君ちびたいよ! 」そう言うと絢華は、後ろにたじろぐ。三人は、じゃれ合いながら、湖の周りにある落下防止用の柵に寄り掛かった。絢華が下を覗きこみ、柵に前かがみにもたれながら、凍った湖を見つめた。
「んっ?」絢華は驚きと疑問を持ったような声をだし、修一と覚を手招きして呼んだ。
「修ちゃん、さっ君氷の下見てみて!何かいるよ」絢華に促され、2人は氷の張った湖の下に視線をやった。修一と覚が氷の下を覗き込むと、そこには大きな人型をした白い影のようなものが、ゆっくりと泳いでいた。しかし氷が厚く張っているせいか、その動くものはぼやけていて、よく見ることができない。修一はもっとよく見ようと湖と歩道の間にある柵の下に潜り込んだ。手すりを下に潜り込み、凍った湖面に手をついて、湖の中を凝視した。それは、上下左右にゆっくりと漂っていた。修一は手のひらで氷の上をタンタンと叩いてみた。するとその人型の白い影のようなものが、修一に気付いたのかこちらに向かってきた。
「うわぁー、来た! 逃げろー」修一はそういうと絢華と覚の腕を引っ張り、湖から逃げるように下がり、腰を抜かしてしまった。絢華も覚も驚いて、眼を大きく見開いていた。
「修ちゃん大丈夫!? さっきのあれどうなったの? 」絢華は心配そうに修一の肩を揺すった。
「修ちゃん怖いよ…怖いよ…」そう言って覚は半泣きになってしまっていた。
修一の小さな口は小刻みに震え、うまく言葉を発することができない。氷の下に現れたものについて、思考と感情がうまく連動できずにいた。何かが割れるような音がした。反射的に湖面に視線を向けると、修一の思考は一気に停止した。そこにはさっき湖の底にいた白い影が、湖から浮上し柵にもたれかかりながら、こちらを見ているのだ。
絢華は激しい悲鳴をあげ、その場にへたり込んでしまった。覚は呆然と口を開け、その白い物体を眺めていた。人型だと思っていたがよく見ると胴が長く、形状は蛇や蜥蜴に近いように見える。そして口は赤く、尖った歯が不恰好に生え、眼は山羊のような目で金色だった。体長はおそらく5メートルくらいだろうか。
その白い物体は、手のように生えた部分を伸ばし絢華のことを軽く持ち上げた。修一は状況を理解できなかった。この目の前の白い物体は何をしているのか。絢華がなんでこの白い物体に持ち上げられているのか。そしてなによりこの白い物体はいったい何なのか。絢華は泣き叫んで暴れたが、その白い物体は決して離そうとはしなかった。絢華を抱え込んでその白い物体は、湖へと潜っていってしまった。
「助けて!」と叫んでいた絢華の姿が湖の底に消えた。静寂の中で御神渡りの音だけが響いている。修一の瞳からは涙が流れ出した。そして声も出さずにすごい量の涙を流した。気が付くと、自分以外の人間がいなくなっている。修一はその場に倒れこみ、目の前が真っ暗になっていった…。悲しさと悔しさと恐ろしさが修一の胸の中に混在し、ドロドロした底なし沼に沈んでいくようだった。
「お待たせいたしました、ご乗車の列車は間もなく下諏訪に到着いたします、どなたさまもお忘れ物のないよう… 」
列車のアナウンスが、次に下諏訪駅に到着すると告げている。修一は、重たい瞼を開け両腕をあげ、座席で背伸びした。目を擦り、両掌で頬をパンパンと二回たたく。ヘッドホンからはミスターチルドレンの曲が聞こえていたが、アルバム収録曲のため曲名まではよくわからなかった。修一はお茶のペットボトルの口を開けながら、車窓の景色に目をやった。諏訪湖が陽光を反射させ、金色の宝石のように輝いている。今年も雪が降る寒い日が続いていたが、湖面の凍結は見られない。列車はゆったりとスピードを緩め、少しすると下諏訪駅に停車した。ペットボトルのお茶を飲みながら修一はさっき見た夢について考えてみた。
当然だが、さっき夢で見たことは実際に修一が体験したことではない。たしかに幼少のころ、絢華と覚、宮崎先生、他の園児達と諏訪湖に遠足に行ったが、何事もなく普通に行って、普通に帰ってきた。怪物に遭遇し、絢華がさらわれるということはなかった。ただ、修一のそばに絢華は今現在いないのだが……。
絢華がいなくなったのは、修一が小学校三年生の頃だった。初夏の気配を感じ始めた六月中旬。絢華は父親の転勤で、松本から引っ越すことになった。絢華の父親は商社に勤めており、東北の営業所への転勤の辞令が出たようだった。学校でも転校のお別れ会があり、クラス全員のメッセージ色紙と花束を絢華に渡した。その時の絢華は泣くこともなく、楽しそうに笑っているのが印象的だった。後日、学校とは別で仲の良かったメンバーが集まって、絢華のお別れパーティーを開くことになった。修一と覚、絢華の親友のさやかが、集まって計画を立てたのだ。計画当日、さやかの家に、パーティーの事は内緒にして絢華を呼びだした。イロガミで輪をつくり、七夕飾りのようなものを造ったり、さやかの部屋に飾り付けたりした。テーブルの上にはスナック菓子とケーキ、オレンジジュースを準備しておいた。ケーキの上のチョコプレートには「絢華ちゃん元気でね! また遊ぼうね!」と書いてある。梅雨時ということもあり、外は雨が降っていた。
黄色い長靴を履き、黄色い傘をさして、絢華がさやかの家にやってきた。さやかは何事もないようにふるまい、玄関から二階の自分の部屋に絢華の手を引いて昇っていった。絢華がさやかの部屋のドアを開けると、息を殺して構えていた修一と覚はクラッカーを鳴らした。絢華はビクッとなり、そのあとキョトンとしていた。さやかが「今日絢華のお別れパーティーしようと思って、修ちゃんとさっ君と一緒に計画してたんだよ」と伝えるといつものように笑顔になった。
絢華は嬉しそうにありがとうと言い、テーブルの前に座った。テーブルを囲むように座り、四人とも何を言っていいのかわからずにそわそわしながら、お互いの顔を見ていた。さやかが照れくさそうに頬を右手の人差し指で掻きながら、「改まってお別れパーティーするとなんか恥ずかしいね」と言った。修一と覚もうんうんと肯き、恥ずかしそうに笑った。絢華とは普段からよく遊んでいたが、こうゆう改まった場面はあまりなかった。それでみんな困ったような、気恥ずかしいような気持ちになってしまったのだ。
絢華は嬉しくて笑うと必ずかたえくぼができた。その時もかたえくぼが頬にでき、終始ありがとうとか嬉しいと言って、笑顔を絶やさなかった。修一はそんな絢華の素直で暖かな部分が、自分には欠けていて、それを満たすために絢華は一緒にいてくれるのだと思った。絢華だけではない、覚もさやかも自分にはないものを持っていると修一は考えていた。
覚は思慮深く学校の成績も良い、体力的なことを除けば、修一が勝る部分は少なかった。それでも覚は、「修ちゃん! 修ちゃん!」と修一を慕っていた。覚の性格がどちらかと言えばおとなしく、引っ込み思案なことが原因だったのかもしれない。だから修一は覚を同い年の友達というよりも、弟のような感覚で接するようになった。そして覚もその方が、居心地がいいと思いその状態は幼い頃から続いていた。
さやかは意見が強く、物事をはっきり言うタイプの女の子だった。さやかが、このメンバーに加わったのは、修一と覚と絢華の三人と違って、小学校に入学してからであったが、積極的で思いやりのあるさやかは、あっという間に仲良くなったと思う。絢華がポーっとして、ふわふわしたことを言うのに対し、さやかはピシッとしていてハキハキと考えや思いを伝えるタイプだった。修一と覚の関係に似ていたのかもしれないが、絢華はさやかにべったりだった。さやかのようなしっかり者と一緒にいると絢華の安心できたのだろう。彼女としても絢華に頼られるのがまんざらでもないようだった。覚ほどではないが、さやかも学校では勉強もでき、運動神経も悪くなかった。ハッキリとものを言いすぎるせいで、クラスの男子からは敬遠されがちだったが、面倒見がいい性格から、女子たちからはとても人気があったようだ。
のんびり屋で優しい絢華、物静かな秀才の覚、面倒見のいいお姉さんのさやか、修一はこのメンバーで、幼少期よく遊んでいた。そして、自分にはいったい何があるのだろうかと考えるのだった。みんな自分に対して優しくしてくれたし、修一としても四人で遊んでいることがとても楽しかった。でも内心ではみんなに自分から与えられるものなんて何ひとつない。なんでみんな自分と一緒にいてくれるのだろうと考えていた。
まるで、部品が欠落した古びた機械に、最新型の高性能な部品が、組み込まれたような気持ちだった。西川修一と言う名のなんの取り柄もない機械に、素晴らしい部品が分け与えられて価値が生み出されるような感覚…。修一は三人が自分の存在価値を確かめる上で、必要な存在だと感覚的に理解していた。
みんなで出かけた思い出、絢華の転校先はどんなところかという話、転校しても遊びにいくという約束…。色んな話をしたが、話題は尽きずに気が付くと、夕方近くなってしまっていた。
パーティーが終わりに近づき、絢華からみんなへお別れのあいさつがあった。絢華は座ったままぺこりと頭を下げると、前髪をかき分け話始めた。
「えぇーと、今日はうちのためにこんな素敵なパーティーありがとう!」
そう言うと絢華は、さやかの瞳を見つめ話し始めた。
「さやちゃんはいつも、うちのことをかばってくれたよね、のんびり屋のうちを見捨てずにいつも助けてくれてありがとう! 今度さやちゃんに会う時は、さやちゃんを助けられるくらい立派な人になれるようにがんばるね!」
そう言うと絢華は、さやかに微笑みかけた。いつもの無邪気でふんわりした笑顔ではなく、どことなく寂しげでそれでいて凛とした笑顔だった。今度は覚の方に体を向け、オホンとわざとらしく咳払いすると、覚の瞳を見つめた。
「さっ君覚えてる?うちがまだ小さい頃、遅くまでお家に帰らないで、ママに怒られたことがあったよね?」と絢華が言うと覚は肯いた。
「あの時さっ君は、うちのママのところに一緒に謝りに行ってくれたよね。泣いてるうちを慰めながら、一緒に行ってくれたよね。すごく嬉しかったよ! さっ君の優しさをうちはこれからもずっと忘れないよ」
覚はそう言われて、モジモジしながらも嬉しそうに笑っていた。絢華も覚と一緒になって笑った。
絢華は最後に修一の方を向いて、修一の瞳を見つめた。修一を見る絢華の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。
「修ちゃんとは本当に小さい頃から友達だったよね!もう初めて会った時の事さえ覚えてないくらい小さかったと思うな」絢華はそういうと、緊張をほぐす様に深い深呼吸をした。修一もそわそわしながら絢華を見つめていた。
「修ちゃんはうちにとって大切な……友達です……うっぅ」
絢華はそこまで言うと、嗚咽してしまった。修一は絢華の肩に手を回し、「絢ちゃん、絢ちゃん」と言って彼女のことを抱きしめた。外では相変わらず雨が降り続け、窓を打ち付けている。絢華は声を詰まらせながら、泣き続け、修一も覚もさやかも一緒になって泣いた。そのあと修一達は、泣き疲れてさやかの家で眠ってしまった。梅雨の雨音が子守唄のように、アスファルトを叩き、音楽を奏でていた。
それから数日して、絢華は転校した。学校の授業があり最後の見送りにはいけなかった。修一の胸には大きな穴が開き、そこを冷たい風が吹き抜けていくような感覚になっていた。もうすぐ夏休みになるというのに、修一の心は雪が降り積もっているかのように極寒状態だったのだ。それでも、時間が経過するうちに気持ちが少しずつ慣れて、暖かくなるようだった。しかし修一は、沈んだ気持ちが回復することを素直に喜べなかった。あんなに大切に思っていた絢華がいない。いないのに平気になっていく自分へのイラ立ちだったのかもしれない。このまま絢華がいない状態に慣れ、いずれ忘れてしまうことが嫌だったし、怖かった。それでも時間は待ってくれなかった。夏休みが来て、終わって、秋が来て授業が始まり、また冬休みが訪れ、年が変わった。そうして季節を繰り返し、修一は大人になっていった。
下諏訪駅を発車すると車窓からは諏訪湖をさらによく見ることができた。修一は、さっきの夢と、すっかり忘れてしまっていた幼馴染について考えていた。絢華は今どうしているのだろうか。たしか小学三年生の終わりくらいまで、さやかは絢華と手紙でやり取りをしていた。手紙を見せてもらったこともあるので、間違いないと思う。その手紙はさやか宛であったが、修一と覚宛のメッセージも書いてあり、写真が中に入っていることもあった。「元気でやっています」だとか、「友達ができました」とか書いてあったと思う。しかしどういう経緯だかわからないが、気が付くと手紙のやり取りがぱたりとなくなってしまったのだ。不思議なことに手紙のやりとりが途絶えたことを三人とも気に留めなかった。まるで南瀬絢華という存在をみんなで一気に記憶から消し去ってしまったようなのだ。修一は思い出そうとしたが、絢華と連絡をとらなくなってしまった理由について思い出すことができなかった。まるでさっき見た夢のように絢華の記憶を、怪物が連れ去られてしまったようだった。
気が付くと列車は、上諏訪駅に着いていた。昇降する人はほとんどいないようだ。すぐにドアが閉まり再び列車は走り出した。もうお茶のペットボトルの中身はなくなっていた。空になったペットボトルをデイバックにしまい、ジッパーを閉めた。
修一は絢華の事を、友人たちに聞いてみようと思った。覚とは今でもよく遊んでいたし、さやかだって高校に入ってからはほとんど会っていないが、連絡すればすぐに会えると思った。そして修一は、絢華との断片的な思い出を、鉱山で鉱石を採掘するように思い返してみた。記憶を鶴嘴で叩きながら掘り進むようなイメージを修一は頭に浮かべた。たしかあれは、日本アルプスの山にある雪形を絢華と二人で見た記憶……。
雪形とは雪山の山腹にある雪が溶けて現れた模様を、動物や道具なんかに見立てたものである。たしか小学校に上がったばかりの頃に、母たちに連れられて公園で、山並みを一緒に眺めた。しかし、二人並んで見た以外はぼやけてしまっている記憶だった。最後に会った時の記憶は鮮明に覚えているのに、それ以外の記憶は妙にあいまいなのだ。これはただ古い記憶だから覚えていないというものではなく、何らかの意図があって封印されてしまったような奇妙な感覚なのだ。
修一は思った。絢華に対する自分の想いは、山々が織りなす雪形のようだと……。そしてようやく雪は溶け始め、彼女の姿が山腹に映し出された。しかし雪はまだ完全には溶けていない。絢華の姿を確認するためには、もう少し暖かい季節を待たなければならない。春はもうすぐそこまで来ているのだが……。
もうすぐ列車は茅根駅に着くようだった。茅野駅のホームには、これから東京に向かうであろう乗客たちが、列を作って列車の到着を待っている。その列の中に修一は見覚えの顔を見つけた。