ロードレーサー(6)
それは、日産の人気車種であるS-15「シルビア」だった。
後輪駆動のツードアクーペ。
ターボで過給されたその心臓部は、カタログ値で二百五十馬力を発揮する。
そのアスファルトを蹴る後輪が、旋回半径の外側に向かって振り子のように滑り出した。
公道を走る一般車が見せる挙動とは、完全に一線を画したものだ。
ドリフト。
横滑りする車体が、眼前を凄まじい勢いで通過していく。
それを見た翔一郎の唇が、ひゅう、と短い音節を奏でた。
真琴は、その行為が彼一流の感嘆符だということを知っていた。
そしてまた、それが滅多に見られないアクションであるということも。
本当に驚くのはこれからだよ、翔兄ぃ。
心の中でそう告げるポニテの少女の顔付きには、仕掛けたいたずらの成果を手ぐすね引いて待ちわびる、おてんば娘のニヤニヤ笑いがまざまざと浮かび上がっていた。
そして次の瞬間、ほぼ彼女の思惑どおり、翔一郎は驚愕に目を見張ることとなる。
彼の目が。激しいエキゾーストノートを引き連れ豪快に立ち上がろうとする「シルビア」のまさしくその直後に、新たな一台のクルマの影を見出したからだ。
「シルビア」よりもかなり小振りな青色の車体。
トヨタのミッドシップスポーツ、ZZW-30「MR-S」である。
ターボでの過給を行う「シルビア」に対し、小排気量の自然吸気エンジンを持つ「MR-S」は、カタログ値で百馬力以上も非力だ。
だが、その非力なはずの「MR-S」が、いまがっちりと「シルビア」に食らい付いていた。
いや、食らい付いているなどという段階ではもはやない。
アウト一杯に膨らんだ「シルビア」の右側、つまりコーナーの内側に占位した青い「MR-S」は、この時、パワーに勝る対戦相手を見事追い抜きつつあったのである。
凄まじい速度で接近する前走車の影は、後続車のドライバーに対して相応の恐怖心を煽ったことであろう。
しかし、「MR-S」の挙動には寸分の乱れも感じられない。
まさしく機械のような正確さと冷静さ。
それは、おびただしい数の走り込みを経て身に付けた愛機のポテンシャルと自己のテクニックに対する絶対的な信頼がない限り、決して発揮できない類いのものだ。
驚くべき手練れと言える。
「MR-S」が「シルビア」のイン側に鼻先を突っ込んだのは、ドライバーが対向車の有無を確認できるギリギリのタイミングだった。
強引な突っ込みによって無理矢理に獲得した、まさに一瞬だけの優速。
しかしそれは、相対的に非力な「MR-S」が「シルビア」の前へと踊り出るのに、必要にして十分なだけのものだった。
道はこのあと、緩やかな左コーナーへと変化する。
パワフルな心臓を持つ「シルビア」のドライバーにとって、それはよだれが出るほどアクセルを踏み込みたくなる光景であったろう。
だが、進路を阻む「MR-S」のボディが、その願いをものの見事に阻止してしまう。
八神街道は、このあたりから下り坂中心の行程となる。
すなわちそれは、比較的マシンのパワー差が発揮できないコースになる、ということだ。
なれば、馬力の優劣がまともに出る上り坂での優勢を維持出来なかった「シルビア」のドライバーが、いまおのれの前を走る対戦相手をどうにかできると考えるのがそもそもの間違いであろう。
この段階で、すでに決着は付いたのである。
翔一郎を除く三名の口から、同時に黄色い歓声がほとばしった。
「翔兄ぃ、見た?、いまの光景。凄かったでしょ」
興奮のあまり翔一郎の左腕を引っ張りながら、そう一息にまくし立てる真琴。
血が滾るのか、両脚が地団駄を踏んでいる。
それに対する彼の反応は、やや遅れて発せられた。
いかにも興味なさげな生返事。
だがそんな態度とは裏腹に、彼は激しく身震いしていた。
全身の肌が総毛立つような、はらわたが引っかき回されるような、そんな感覚が続けざまに襲いかかってくる。
武者震いだ。
そんな自分を宥めようと、意図して軽くため息をつく翔一郞。
無意識のうちに自嘲がこぼれる。
「意外と忘れないものなんだな」
それを耳にした真琴がひょいと下から覗き込んでくるのを、薄笑いを浮かべつつ頭を振って彼は制した。
変なの、という彼女が放ったひと言を、複雑な気持ちで受け止める。
そしてその評価を、もっともなことだと是認した。
確かに変だな、俺らしくない。
「どうでした、いまの走り」
内々にこもりつつあった翔一郎の意識をふたたびこちら側に引っ張り戻したのは、「ロスヴァイセ」の元気なほう、長瀬純の声だった。
「部外者として、ぜひとも感想を聞かせてください」
勝手に盛り上がる純を諫めつつも、なんとなくだが翔一郎は得心した。
彼女らにとってクルマで走るという行為は、あくまでも自己表現の直接的な手段なのだ、と。
だから、その姿を誰かに見てもらいたいし、評価してももらいたい。
しかし、そのパフォーマンスを演じるのが自分たちを代表する者でさえあれば、それが別に自分自身でなくてもなんの問題もないのだろう。
大会に出場した母校の選手をスタンドから応援する補欠の運動部員みたいなものか。
そこに強烈な自己主張は感じられない。
その点からすると彼女らは、翔一郎の知る「走り屋」という人種とは、少しだけ毛並みの違う種族のようだ。
どちらかといえば、ギャラリーのほうにこそ近いかもしれない。
まあ、あの「MR-S」のドライバーがどうなのかはわからないが。
と、そこまで思考を巡らせて、翔一郎ははたと気付いた。
そうか、あの「MR-S」のドライバーも「オンナ」なんだ、と。
たいしたもんだ。
加奈子や純を頭越しに飛び越えて、まだ見ぬ「MR-S」のドライバーに、彼は心からの賛辞を無言で捧げた。
午前中に出会った「エム・スポーツ」の倫子に続き、クルマの世界は男のものだという古臭い観念を爽快に吹き飛ばしてくれた勇者に向かって、思わず頭を下げたくなる。
やがて、本当の決着が付いたのであろう。
あの青い「MR-S」が、のんびり街道を登ってくるのが確認できた。
「『青い閃光』」
駐車場で足を停めるその存在を見詰めながら、真琴は彼に囁いた。
「最近はそう呼ばれているんだよ。リンさんの『MR-S』」
「なるほどね」
翔一郎の脳裏に、「MR-S」が「シルビア」を抜き去った瞬間の光景がフラッシュバックする。
「言い得て妙だな」
「でしょ」
兄貴分の言葉を受けて、少女は顔を綻ばせる。
その絶品の笑顔からは、彼女が「MR-S」のドライバーに注いでいる並々ならぬ敬意の量を、はっきりとうかがい知ることが可能だった。
「MR-S」の乗り手が愛車から降り立ったのは、その直後のことであった。
それは、すらりとした長身の若い女性だった。
さっぱり短めに髪をそろえたその容貌からは、見るからにアスリート然とした趣が放たれている。
ただし、あの荒々しい競り合いを制したファイターとしての雰囲気は、そこに微塵も備えられていなかった。
その清廉とした印象は、夜の路上において、むしろ場違いであるとさえ言えた。
しかし、この時の翔一郎が驚きの声をあげたのは、そんな違和感ゆえのことではなかった。
タイトなジーンズと「ロスヴァイセ」おそろいのサマージャケットに身を包んだ彼女。
あの卓越した運転技術の持ち主を、彼が見知っていたがための反応だった。
そう――。
彼女はまさしく、あの三澤倫子そのひとであったのである。
<第一巻 了>