ロードレーサー(5)
このあたりで一般的に「八神街道」というと、武蔵ヶ丘市と桜野市とを結ぶ旧国道周辺を指すことが多い。
さらに地域を限定するなら、それは武蔵ヶ丘方向から入る「八神口」から桜野方面へと抜ける「九十九坂」に続く、信号のないエリアのことだと言えよう。
制限速度は時速五十キロ。
取り立てて珍しいわけでもない、単なる峠道のひとつである。
そんな同地の知名度が急上昇したのは、九十年代初頭のことだ。
雑誌に掲載された記事をきっかけに、近隣に棲息する「走り屋」どもがこの場所を主戦場と定めたためである。
当時の八神は、紛れもなく「走り屋たちの聖地」であった。
だが、それから十年以上が経過した二十一世紀のいま、時代の感性は、リスク回避の傾向へと大きく舵を切っていた。
クルマは単なる移動手段のひとつと化し、かつてあれほど持てはやされていたマシンの走行性能は、いまや環境配慮に駆逐された哀れな羊と化していた。
しかしながら、流行に背を向けた数寄者は、いつの世にも存在する。
もし同地をつぶさに観察することが叶えば、路面のそこかしこで無数のタイヤ痕を認めることができるはずだ。
それは、この場所がいまだ「聖地」として健在であることを、百万の言葉よりも雄弁に主張していた。
夜十時。
真琴と翔一郎がいるのは、そんな非日常空間の外縁部であった。
八神口方向から坂道を登ってくると、その頂上付近に武蔵ヶ丘市街地を一望できるパーキングエリアが見えてくる。
コンクリート製の縁石で車道と分離されたその空間には、二十台程度の一般車輌が駐車可能だ。
そのような寂れた場所の一角に、明らかに場違いと思われる灯火があった。
屋台ラーメンだ。
改造されたボックスカーから立ち上るスープの香りが否応なしに食欲をそそり、風に吹かれてかすかに揺れる古びた暖簾がまるでおいでおいでをしているかのごとく客足を呼び込む。
「親父さん、チャーシューふたつね」
ボックスカーの側面に備えられた即席のカウンター。
そのど真ん中に陣取った真琴が、元気良く注文を発した。
そのどこか厚かましい態度には、常連客の趣さえ感じられる。
この屋台ラーメンは、「宗義」の名前で知られていた。
実は、知る人ぞ知る老舗の名店なのだそうだ。
とはいえ、さすがに場所が場所だけあって、客の入りはいつも寂しい。
この時間も、来ている客は真琴と翔一郎のふたりだけだった。
そんな隣を横目で見ながら、翔一郎もまた、渋々といった感じで目の前のどんぶりに箸を付けた。
駐車場に新手のクルマが進入してきたのは、真琴がどんぶりの中身をきれいさっぱり胃の中に収めきった、ちょうどそのあたりでのことだった。
黄色の塗装を施された先導車は、トヨタ製4ドアセダンの「アルテッツァ」
パールがかった緑色のもう一台は、同じくトヨタ製の3ドアハッチバック、「スターレット・グランツァ」である。
「カナさんたちだ」
まるでそれらの来訪を事前に承知していたかのように、真琴はぱっと席を立った。
キュロットスカートのポケットから自前の分の代金を取り出し、「お勘定ッ!」っとカウンターの上にそれを置く。
クルマの運転席からそれぞれ降り立ったのは、それなりに若い感じのする女性ドライバーたちだ。
小走りで駆け寄っていった真琴と親しげに言葉を交わしているところを見ると、どうも三人は顔見知りの間柄らしい。
間を置くことなく、ポニテの少女がこちらを向いた。
ぶんぶんと頭上で右手を振りながら、兄貴分の名前を呼ぶ。
やれやれ。
正直言って気が乗らないことおびただしい翔一郎だったが、髭の親父に御代を払い、呼ばれるがまま彼女らのもとへ足を運んだ。
初めまして、と元気良く翔一郎を出迎えたのは、見知らぬふたりの女性であった。
普通免許を持っていることから真琴よりは年上なのだろうが、それでも翔一郎と比べると十歳近くの年齢差がありそうだ。
要するに、この活発な妹分は、自分と価値観を共有する仲間をここ八神街道に見出したというわけなのだ。
しかも、それが歳の近い同性ともなれば仲間意識はさらに格別。
それらと時間をともにするだけである種の快感をともなうなんてことぐらいは、いくぶん堅物気味の翔一郎にだってわからないわけではない。
彼自身が、いまとなってはよく思い出せない青春時代に一度は通った道なのだから、それも当然といえば当然だった。
「チーム、なんて格好はつけてますけど、実はまだ三人しかメンバーがいないんです」
そんな翔一郎の心境を知ってか知らずか、照れ臭そうに加奈子が告げた。
「だから、真琴ちゃんが免許を取ったらぜひとも加入してもらわないと、って思っているんですよ」
三人?
翔一郎の頭上に疑問符が湧いた。
真琴を入れて三人じゃないんですか、と確認を入れる翔一郎に加奈子は、「真琴ちゃんは、まだ無免許ですから、さすがに員数外ですわ」と、さらっと答えた。
あたりまえといえばあたりまえの、至極まっとうな回答だった。
「ということは、あとのひとりは欠席ってわけですか」
「いえ、もうすぐ上がってくると思います」
加奈子は翔一郎を促すように目線を泳がすと、八神口から伸びてくる坂道のほうへ向き直った。
誘いに乗った翔一郎も、彼女と同じ方向へ視線を延ばす。
見ると、麓のほうから二台分のヘッドライトが絡み合うようにして登ってくるのがわかった。
物凄い勢いだ。
けたたましいエキゾーストノートが丘陵地帯に響き渡る。
バトル。
公道上での走り屋同士の競争を、当事者たちはそう呼ぶ。
間もなく翔一郎たちの目前を通過するであろうあの二台は、まさしくそうした行為に及んでいるのだ。
翔一郎の背筋を、とうに忘れ去ったはずの痺れが痛烈な勢いで駆け抜けていく。
「全開だな」
そんな感触を無理矢理振り払うように、翔一郎は口を開いた。
言葉自体に大きな意味を持たせたつもりはなかったのだが、その呟きは加奈子の応答を引き出すには十分な音量で放たれたものだった。
「だってあの娘は、『ロスヴァイセ』のエースですもの」
真っ赤なスポーツカーが翔一郎たちの視界に強行進入してきたのは、自慢げに彼女が口を開いた、まさにその直後のことであった。
<続く>