ロードレーサー(4)
その日の午前も終わりに近付いてきた十時過ぎ。
いったん自宅に帰宅した翔一郎が改めて足を運んだのは、馴染みにしている一軒の「クルマ屋」だった。
「エム・スポーツ」という名を持つその店は主要国道の沿線に店舗を構えており、店主の人脈が豊富なこともあってか客の入りは上々だった。
「あ、壬生さん。いらっしゃい」
文字どおり、ふらりと入店してきた翔一郎を、この店の主である水山が出迎えた。
年齢は、おおよそ三十代の前半から半ば。
体格は、百七十そこそこしかない翔一郎よりもひと回りは大きい。
肩幅の広いがっしりした体躯を紺の繋ぎに押し込んだ彼は、どことなくだが人好きのする愛嬌を備えていた。
「この前付けた脚の調子はどうですか?」
足早に歩み寄りつつ、水山が尋ねた。
「オーリンズのPCVダンパーにスウィフトのバネを組んだんで、乗り心地は悪くないと思うんですけど」
「いいですよ。思った以上に」
即答する翔一郞。
「少なくとも、助手席から文句が出たことはありませんね。ゴツゴツ感が消えて、しなやかなフィーリングになりましたから」
「純正のビルシュタインは特に固めの味付けがしてありましたからね。オーリンズも基本的には固い脚なんですけどサブピストンでシリンダーのオイルを制御してますから、減衰特性はずっとスムーズになってるはずです。ちなみに──」
意味深に笑い水山が続ける。
「車高を落とした分、コーナリング特性はもっと化けてますよ。壬生さん、ひょっとしてむかしの血が騒いでるんじゃないんですか?」
「よしてくださいよ。もう十年以上も前の話じゃないですか」
苦笑いを浮かべた翔一郎は、右手を振って彼の発言を否定した。
「ブレーキを強化したのも車高調を入れたのも、基本はドライビングフィールを向上させるためで、それ以上の意味はありませんから」
あまり愛想のいいほうではないらしい。
翔一郎の名前──壬生という名字が珍しかったためか口の中で再度疑問符とともに繰り返した以外は、まったくの無言だ。
言われるがまま「レガシィ」をガレージに入れ、黙々と整備作業を開始する彼女。
流れるように手を動かすそのさまは、とても新人のそれには見えない。
「手慣れたものですね。以前どこか別のショップで働いておられたんですか?」
そんな様子を黙って眺めていた翔一郎だったが、時間がたつにつれ暇を持て余すことに飽きたのか、唐突に倫子の背中へ声をかけた。
「いえ。趣味で、よくクルマを触っていただけです」
言いながら彼女は、額の汗を袖で拭った。
油に汚れたその手には、いくつもの火傷や創傷が刻まれている。
それは、同年代の女性たちには決して付かない痕跡だ。
「変ですか? 女なのにクルマが趣味だなんて」
「男だろうが女だろうが、好きなものは好き、でいいんじゃないですか。あくまで個人の趣味なんだから、あまり余所さまの目を気にしていてもそこは面白くないでしょう。クルマ好きの女性、僕は全然アリだと思いますけどね」
その反応を受け、翔一郞は答えた。
「実は僕の知人にもひとり、クルマ関係にハマっている女の子がいるんですよ」
身振り手振りを加えながら、翔一郎は倫子に語る。
「まあ、女の子と言うよりは小娘とでも言ったほうがぴったりくるタイプではあるんですが」
「わたしの知り合いにもいますよ、そういった娘」
気のせいか、どこか気恥ずかしそうに倫子は言った。
「まだ高校生なんですけど、ウチのグループによく遊びにきてるんです。見ているこっちが元気になりそうな、そんな明るい女の子ですよ」
「へェ」
まるで真琴のようだ、と内心で思いながら翔一郎は相槌を打った。
「高校生、それも女の子が興味を持ってくれるようなら、この業界も安泰だ」という言葉を口にしたあとで、さらにもうひと言を付け加える。
「願わくば、そういった娘が走り屋なんかを目指さないよう祈るばかりです」
「走り屋のことは、お嫌いですか?」
ふと表情を曇らせて倫子が尋ねた。
ひと呼吸置いて翔一郎はそれに答える。
どこか影のある口振りだった。
「少なくとも、世間一般に胸を張れる存在じゃあないでしょう」
彼は言った。
「いくら格好付けたところで、所詮は暴走行為の実行者に過ぎませんから」
「そうでしょうか」
倫子がそれに反論する。
「クルマの『走り』 あるいはその『速さ』を追求しようする彼らの姿勢は、もっと前向きに評価されてもいいと思うのですが」
「そうですね」
そんな倫子の言葉を、意外にも翔一郎は極あっさりと受け入れた。
「そのあたりは、単なる見解の相違って奴でしょう。言い過ぎました。よかったら、さっきの発言は忘れてください」
「じゃあ」と軽く右手をあげて、翔一郞は踵を返した。
まるで何かに追われている、何かから逃げ出そうとしている、そんな素振りだった。
<続く>