ロードレーサー(2)
「おいおい、三十路を過ぎてまで峠デビューするつもりは、俺にはないぜ」
何言ってやがる、とでも言い出しそうな表情で、翔一郎は答えた。
「大体な、そんな気があったらオートマなんて乗ってないっての」
「ちぇっ、駄目か」
さすがに玉砕を覚悟していただけあって、真琴はあっさり引き下がった。
ドライバーが手動でシフト位置を選択できるSS-ATを搭載しているとはいえ、翔一郎の「レガシィ」は間違いなくAT車だ。
クラッチ操作がない分だけ便利と言えば便利だが、一般的には「峠を攻める」といった激しいドライビングに向いていると思われていないし、実際のところもそのとおりだろう。
「いい考えだと思ったんだけどな」
自分の思い付きにまだ未練があるのか、少しだけ口先を尖らせ靴紐を結びなおす真琴。
普段はスカートの奧に潜んでいる絶対領域の付け根から、白い何かがちらりと見えた。
無防備に過ぎるその存在に一瞬ドキリとした翔一郎は、心中を悟られないようルームミラーに手を伸ばす。
少しは恥じらえよな。
ひと回り以上も年が離れているのだから、備えている価値観が違うことぐらい翔一郎も理解はする。
理解はするが、それに慣れるかどうかはまったく別の問題だった。
暖気の間の手持ち無沙汰を利用して、翔一郎は真琴に告げた。
できるだけさりげなく、されどこれ以上もなくストレートに。
内心の動揺を悟られぬよう、翔一郎は素早く話題を切り替えた。
「そういや真琴。おまえ、昨日随分遅くまで起きてたな。あんな時間までいったい何やってたんだ?」
ぶっきらぼうに彼は言った。
話を振られた少女のほうは、なんともわざとらしい態度でもってそれに応える。
「えっえっ、なんでそのこと知ってるの? もしかして、ノゾキ?」
「するか莫迦」
翔一郎は軽く一喝。
「たまたま午前さまにウチから出た時、おまえの部屋の電気がまだ点いてたのを見たってだけのことだ。ひとをどこかの変質者みたいに言うんじゃない」
「なぁんだ。自分こそ、そんな時間に外うろついてたんじゃない。ほ~んと、夜の夜中に一体全体何やってたんだか」
「おまえら未成年の学生と違って俺はオトナの納税者だからな。合法的に夜更かしする権利を社会一般からちゃんと与えられている。一緒にするな」
「ものは言い様だね。この不良オヤジ」
「オヤジで結構。だが、おまえみたいな小娘にだけは言われたくないな」
そんな憎まれ口の応酬がひととおり互いを行き交ったのち、なんとも楽しげな素振りを見せていた真琴が、声を弾ませ彼に答えた。
「DVD観てたんだよ」
「DVD?」
「そ。この間借りてきた世界ラリー選手権の奴」
「WRCねぇ」
翔一郎の口振りは、なかば呆れたようなそれだった。
「モータースポーツ好きが悪いとは言わんが、俺としちゃあ、もっと女の子らしい趣味を持ったほうがいいんじゃないかと思うんだがなぁ」
「性差別はんたーい」
芝居がかって真琴が返す。
「いいじゃん、別に。ボクが男の子みたいな趣味持ったところでさ、翔兄ぃにはなんの関係もない話なわけだし」
「ふむ。言われてみりゃあ、確かにそうだな」
翔一郎は大きく頷き、真琴の反論に完全同意の姿勢を示した。
「毎朝メシ作ってもらってる以上、俺の立場的には文句を言えた義理じゃあないか」
「そうだぞ。翔兄ぃはボクに対する感謝が足りない。もっと大事にしてくれないと、そのうち本気で拗ねるんだからね。わかった?」
「へいへい」
そんな他愛ない会話を経てようやく駐車場をあとにした翔一郎の「レガシィ」は、それなりに交通量の多い市街地を効率よく抜け出し、時間にして二十分ばかり走ったのちに真琴の通う高等学校へと到着した。
私立尽生学園高等部。
県内でも有数のレベルを誇る進学校だ。
校風もリベラルであり、学生間の人気も高い。
かつて翔一郎がここの受験に見事玉砕したという事実は、いまでも真琴には内緒だった。
ゆっくりと減速しながら、翔一郎は学校の敷地内に「レガシィ」を乗り入れさせた。
尽生学園高等部は地方鉄道が運営するバス路線の始点及び終点となっており、校門を潜った敷地の中にバス停が存在する。
なるべく目立たないよう細心の注意を払いながら、翔一郎はバス停の近くに愛車の「レガシィ」を停車させた。
学生たちの注目が一時彼らに集中するが、さすがにそれは不可抗力だ。
「サンキュ、翔兄ぃ」
そんな目線を知ってか知らずか、ウサギのように助手席から飛び降りた真琴が振り向きざまに礼を言った。
軽やかに、スカートの縁と後頭部の長い尻尾が弧を描く。
と、その直後。突然何かを思い出したものか、彼女はポンと柏手を打った。
それを認めた翔一郎が頭上にクエスチョンマークを掲げるよりもひと足早く、ふたたび助手席側のドアを勢い良く開けた真琴がズイと体ごと乗り出してくる。
間を置くことなく彼女は言った。
「翔兄ぃ、今晩ヒマ?」
「なんだよ、藪から棒に」
「なんでもいいから、答えてよ。今晩ヒマ?」
前後になんの脈絡もない質問に翔一郎は少なからず困惑したが、ここで嘘を言っても仕方がない。
彼は正直に、今晩の予定はいまのところ何もない、と真琴に答えた。
それを聞いた彼女はさも満足そうに頷くと、自分の予定に付き合ってもらいたい旨をあっけらかんと言い放った。
予定時間は午後十時。
世間的には、深夜帯の入り口とも言える時間帯だ。
翔一郎の口元が歪んだ。
彼の世代の常識として、それは女子高生が気安く出歩いていい時刻などではないからだった。その唇が追及の言葉を紡ぎだした。
フロントガラス越しにその姿を眺めていた翔一郎は、ステアリングに顎をかけつつ両目を細めた。
<続く>