ロードレーサー(1)
体を激しく揺さぶられたことで、壬生翔一郎は夢の中から現実世界へ連れ戻された。
制服の主が誰であるのかを迅速に察した翔一郎は、なんとも面倒臭そうに上体を起こすや否や、ぐっと大きく伸びをうった。
ふぁー、と大きく生あくび。
デスクワークで凝り気味の肩を軽く回してから、不満げにその口先を尖らせる。
「おまえな。日々の労働で疲労している俺のことを少しは思いやってだな、休みの日ぐらいは昼まで寝かせといてあげよう、なんて殊勝な気は起こさんのか?」
「翔兄ぃ。まだ三十代前半なのに、疲れてるぅ~、なんてオヤジ臭いこと言わないでよね。そのうち禿げるよ」
両手を腰にあっけらかんとそう言い放ってみせたのは、壬生家の隣に住む三人家族、沢渡家のひとり娘、沢渡真琴だ。
来年卒業の私立高校三年生。
好奇心いっぱいの大きな瞳と人好きのする整った顔立ち。
少々跳ね返りの強い栗色の髪を、頭の後ろでポニーテールにまとめている。
衆目を集めるという点ではいささかパンチ力に欠けるが、まずまずの美形と言っていいだろう。
少なくとも、同年代の男性が否定的見解を示すような容貌ではない。
だが次の刹那、そんな少女が紡いだ言葉は、上から目線の要求だった。
「ほらほら。朝御飯の準備はとっくのむかしに出来てるんだから、つべこべ言わずにとっとと起きる。早くしないと、せっかくのお味噌汁が冷めちゃうでしょ。急いだ急いだ」
「わかったわかった。わかったから、そう急かすな。あと三分、いやあと五分ほど待ってくれ」
「も~。往生際が悪いぞ、翔兄ぃは」
悪あがきする翔一郎を、真琴がじと目で睨め付ける。
「いつまでたってもそんなだから、いまだに彼女のひとりも出来ないんだよ。少しは真面目に自己反省してみたらどう?」
「自己反省って、おまえなァ」
「だってそうじゃない。毎朝毎朝、誰かに起こされないとベッドから離れられないなんて、まるで小学生の子供だよ。そんな翔兄ぃを構ってくれる女の子なんて、世界広しといえども、このボクぐらいのものじゃないかな」
呆れたように真琴が言った。
「だいたいさ。ボクがいないとまともな日常生活も送れないくせに、なんで翔兄ぃは、いつもそんなに偉そうなわけ? はっきり言って、自分の立場をわきまえてないとしか思えないんだけどな」
「偉そうなのは、そっちのほうだろ」
いらだち気味に頭をかきつつ、翔一郎は真琴に言った。
「おまえ、いつから俺の保護者になったんだ?」
「翔兄ぃが骨折して入院した時からだよ」
「ハァ!?」
「おぼえてないの? もう何回も言ってると思うんだけどな」
鼻白む三十路男を前にして、少女は傲然と胸を張った。
「ほら、翔兄ぃが大学生のころ、足の骨折って入院したことあったじゃん。ボクはね、あの時に壬生のおばさんから、『真琴ちゃん、うちの莫迦息子をお願いね』って直々に頼まれたんだよ。だ・か・ら、その瞬間からボクは翔兄ぃの保護者権利を委託された身だってことなの。理解出来た?」
「そんな社交辞令を真に受けたのか……」
こめかみを押さえ、その場で俯く翔一郞。
「たとえ社交辞令でも、正式な権利は正式な権利です。翔兄ぃに拒否権はありません。以上」
「ハァ……さいですかさいですか……」
「じゃあ、翔兄ぃも自分の立場を理解したことだし、ボクは先に下行ってるね。翔兄ぃは、可及的速やかに自分の義務をまっとうすること。わかった? わかったら返事!」
「イエス・マム」
足音も高らかに階下へと消えていくポニテの少女の背中を見送り、壬生翔一郞は深々と、そう本当に深々とため息を吐いた。
ああ、なんでこんな風になっちまったのかね──…
彼の毎日は、おおむねこんな感じでスタートするのが常だった。
このあとは、せきたてられるように顔を洗ってひげを剃り、きっかり三分間の歯磨きが終わったら、順序は逆だが朝食の時間だ。
作るのは、襲来者である真琴の仕事。
パン屋を営む翔一郎の両親は、帰宅も早いが出勤も早い。
午前四時前には繁華街に構えた店のほうへと向かうので、仮に彼女の存在がなかったとしたら、翔一郎の毎日から暖かい朝食というものは完全に消え失せてしまっていたことだろう。
「いただきます」
畳の上に胡座をかいた翔一郎が、食卓に向かって両手を合わせる。
何かと忙しい両親の分と、ひとり暮らしに近い翔一郎の分。
微妙に違うふた通りの食生活を年中管理しているせいなのか、見るからに活発そうな外見とは裏腹に、真琴が身に付けた料理の腕前は相当のものだ。
目の前に並べられた献立も、炊きたての白いご飯に豆腐の味噌汁、温泉卵に自家製の糠漬けという極シンプルな和風メニューの定番なのに、不思議と舌を飽きさせない。
「ごちそうさん」
「どういたしまして」
夫婦のごとき会話を最後に、朝食は終了。
なお、翔一郎が箸を口へと運んでいる間、真琴のほうはと言えば、それを楽しげに眺めているだけだ。
大分前にそのことを疑問に感じた翔一郎が、おまえは食べないのか、と尋ねたところ、もう済ませてきた、という明確な返答を受け取ったそうな。
「八時か」
気が付けば、もうそんな時間。
読んでいた朝刊を脇に置き、エプロン姿で朝食の後片付けをしている真琴に向かって、翔一郎が声をかける。
「学校大丈夫か。いつもなら、もう出てる時間だろ」
「送ってってよ、翔兄ぃ」
振り向きざま、単刀直入に彼女は答えた。
「いや~、実は朝起きたらバイクの後輪がパンクしちゃっててさ。いまからじゃ、電車に乗っても間に合わないし。あはは」
「おい」
こめかみを押さえつつ、翔一郎は真琴に言った。
「休日に叩き起こしにくるから何かと思えば、さては最初からそれが目的だったな」
実のところ、ふたりの間のこうしたやりとりは過去に一度や二度の出来事ではない。
そして最終的に意見を通すのは、いつでもどこでも真琴の側がほとんどだった。
本質的に根がお人好しの翔一郎は、口は悪いが押しが弱い。
そのため、ナチュラルに強引極まりないこの歳の離れた妹分を、最後の最後で突き放すことができないでいたのであった。
数分後、翔一郎と真琴は、壬生家から数建隔てた月極駐車場を訪れていた。
住宅と住宅の間に挟まれたその空間からは、すでにほとんどの車が出払っており、いまは翔一郎の愛車だけがぽつんと残されているような状況だった。
スバルBE-5「レガシィB4」
日本を代表するスポーツセダンのひとつだ。
色はブラックパールマイカ。
昨晩のうちに降った雨が、ボンネット上部に開けられたエアインテーク付近にいくばくかの水玉をこしらえていた。
「シートベルト、忘れるなよ」
「イエッサー」
翔一郎の言葉にさっと敬礼してみせた真琴が助手席に乗り込むのと前後して、水平対向エンジンが目を覚ました。
車体が軽く身震いした直後から、ぼぼぼ、という独特の排気音があたりに響く。
パッと見、翔一郎の「レガシィ」はまったくの無改造車に見えた。
エアロパーツこそ純正品をひととおり奢ってはあるが、どれもこれもがクルマに尖った印象を与える代物ではない。
せっかくいいクルマ買ったんだから、チューニングくらいしたらいいのに。
この「レガシィ」を見るたび、真琴は思う。
大体、運転席左右のダッシュボード上に都合四つもの追加メーターを取り付けておきながら、クルマを長持ちさせるための状態管理に使うんだ、とは、一体全体どういう感性をしているのだろうか?
「ねえ、翔兄ぃ」
助手席側のドアをばたんと閉じるなり、真琴は唐突に話を切り出してみた。
どうせ駄目もとなんだし、言ってみて損はナイじゃん、とばかりに。
「このクルマ、いじる気ないの? いろいろパワーアップして夜の八神街道走ると、きっと気持ちいいよ。やろうよ、ねぇ」
<続く>