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この作品は、あくまで作者の一意見として書いたものです。
他の方の考えを擁護したり、否定したりするものではありません。
最近、疎遠になっていた友人から突然電話がかかって来た。
月末の連休、ランチでも食べに行かないかと。
彼女とは以前勤めていた会社で、同じフロアだった。
服装や持ち物の雰囲気が似ていて、何となく感覚が合いそうだなと思っていた時に、エレベータで乗り合わせ、声をかけて親しくなった。
何年かして私は結婚し、夫の職に合わせて転職した。彼女もまた結婚して、初めのうちは何かと連絡をとっていたのだが、互いの家を行き来するアクセスが悪かったり、彼女の方は夫の実家での同居になったり、段々と年賀状のやり取りだけになっていた。年賀状だけは続いたともいえるかもしれない。
だから、着信履歴に彼女の名前を見た時は正直驚いた。全く用件に心当たりがなく、それがより一層落ち着かなくさせた。
折り返してかければ、記憶と相違のない彼女の声でランチに誘われたのだ。
彼女が指定して来た連休は、夫と一泊二日の旅行にでも行こうかという話になっていて、始めは断ろうかと思っていたのだが、断りの文句をいう間もなく世間話を矢継ぎ早に口走る彼女の様子が気にかかった。
こんなに相手の様子も考えずに話し続ける人だったろうか?
どちらかと言えば、聞き手に回ることが多かった彼女だ。
結局、しばらく話をする間、僅かに覚えた違和感に従う決断をしたのだった。
旅行の予定をキャンセルしたい、という私のわがままに夫は「いいよ、久しぶりなんだろ?」と笑ってくれた。元々優しい人ではあったけど、最近、殊更に気を使わせてしまっている気がする。それが嬉しくもあり、苦痛にも感じるのは贅沢なのだろうか。
場所は任せると言えば、彼女が指定して来たのは、ホテルに入ったレストランだった。人は多く賑やかだが、フロアが広いため窮屈さや騒々しさは感じない。
何年ぶりかに会った彼女は、ほんの少しふっくらしたと思う。なのになぜが顔は血色が悪くなって見えた。水色のワンピースのせいだろうか。
一通り、共通の知人の近況で盛り上がったあとで。
話題が途切れて、ざわめきが耳に流れ込んで来たあとで。
何かを話そうとして、水に口をつける。その動作を何度も繰り返したあとで。
今までとは全く違う声で、彼女はこう聞いて来た。
「そういえば、二人暮らしのまま?」
答えはイエスだ。
夫と私はのんびりと二人で暮らしている。でも、彼女の質問の意図は言葉とは違う。普通ならこうは聞かないだろう。もっと単刀直入に聞く筈だ。その配慮が透けて見えて、その配慮に気がついたからこそ、彼女が何か相談したいのだろうと思った。
「うん、子どももね、欲しいとは思っているんだけど、こればっかりは授かり物だからね。」
そう答えれば、彼女は微かに視線を自分の下腹部に移した。やはりそうだ。何か、彼女は悩んでいるのだ。あるいは不安なのだ。
「自分の子どもなら、どんな子でも可愛いって本当かな?」
彼女が視線を上げて、遠くの親子を見つめる。私の言葉は喉で詰まってしまった。
私はもっと簡単な理由で彼女が悩んでいるのだと思った。親になる不安。あるいは、自分の体が少しずつ違うものになっていく違和感。そういった複雑な感情が彼女を不安にさせているだけなのだと。だけれど、彼女の視線に籠る感情は相談の内容がそんなに簡単な物ではないのだと気がつかせるのに十分だった。
「何か、あったの?」
ためらいがちに問えば、また彼女は水を口に含んだ。
「妊娠、したの。」
ああ、やはり。と思う。喜ばしいことだ。
でも彼女の表情を見れば、明るい声でおめでとう、などとはとても言えない。私は引き結んでいた唇の両端を少しだけ上げると、黙ったまま頷くだけにして、先を促した。
「結婚して、35も過ぎたでしょ?だから、心配だなって思って検査したの。」
唇を震わせて続きを言おうとする彼女を止めた。
「うん、分かった。言わなくて良いよ。」
緊張の糸が切れたように肩の力を抜く姿に、自分の予想が間違っていなかったと分かった。そして、言わせずに済んでよかったと思う。
「確実なの?」
「うん。最初に検査受けて、可能性が高いって言われたから精密な検査受け直したから、99%。」
「どうするか、悩んでるんだ?」
しかし、意外なことに首を横に振るのだ。
「悩んでは、いない。決めてたもの。例え結果がどうであっても絶対産むって。だって、諦めたところで、私の年齢じゃ次があるのかどうかも分からないし。検査だって、お別れするために受けたんじゃなくて、もし、何かあったらそのための準備をしようってだけだったもの。」
迷いのない表情に言っていることが虚勢でも見栄でもない本心だと分かる。
「それに、99%だったとしても、程度には違いがあるでしょう?」
トリソミーかどうかは99%だけれど、それによる障害の程度が99%とは限らない。それは生まれて、育ってからでなければ分からないのだ。一見してそうとは分からない子もいる。
「だんなさんは何て?」
「どちらでも、受け入れるって。本心はもう一度の可能性にかけたいとは言っていたけれど、だからといって今回産むことには反対しないって。あとは出来るかどうか次第だけど、もう一人くらいなら育てられる、って。」
ごく自然な反応、いや、むしろ理想的な反応ともいえる。
「だとしたら、何か心配なことでもあるの?もちろん、だんなさん以外の家族のこととか、その先のこととかは考えちゃうだろうけど。」
「この子を愛せるのかなって。」
ずしん、と下腹部に鉄の塊を入れられた気分だった。
「きっと、この子を産んでも諦めても、周りは受け入れてくれると思う。だんなの両親も優しい人だから。検査受ける前も、私たちが決めたことなら何も言わないし、結果がどうであれ出来る限りのサポートはするって。」
「でも、もしも、もしも、産んだら、私は産む選択をした責任を負うことになるから。その時に、やっぱり産まなきゃ良かったって思うんじゃないかって。自分の子どもなのに要らないって思うんじゃないかって。」
遠くの親子連れの赤ちゃんが大きな声で泣き始めた。ホテルという場所のせいか、何人かは微かに眉を顰める人も居る。だが、そんな泣き声ですら私には愛おしい。
「実はね、私の親戚に一人居たの。ダウンの人が。」
嘘だ。
いや、全くの嘘ではない。親戚ではなく、姉、というだけであって。
彼女が息を飲む音が聞こえた。
「その家は、お金がたくさんあるという訳ではないけれど、カツカツするような家でもなくて。もう一人、下に子どもがいたけど、どちらの子もきちんと育ててた。障害があるからといって蔑ろにされたり、逆に元気だからって蔑ろにされたり、そんなことはなかった。元気な子の方も、ダウンの子を嫌っていたことなんてなかったし、むしろ、家族にそういう人が居るからこそ、色んな人に優しく出来た、って言ってたもの。でも、やっぱり一度だけ親御さんがぽろっと漏らしているのを聞いたことはあるんだ。『あの子がいなかったら、この子はもっと自由だったのかしら』って。」
私は、姉が好きだった。いつもにこにこしていて、私が泣いていたら頭を撫でてくれたりして。優しい姉だった。
「その子が言ってた言葉、一つだけあるよ?」
彼女は、また水を飲み、遠くを見た。
そして、私を見て頷いた。
「愛せるかどうか、それはきっと心配要らないと思うの。だって、検査の結果を知っても産みたいっていう意思は変わらなくて、しかもこんなに愛せるかどうか悩んでくれるお母さんだもの。もう愛してるんだよ。でもね、あなたも、あなたの旦那さんも、ご家族もみんな覚悟をもって受け入れているけれど…。」
私は言葉を飲んだ。今まで生きてきて、一度も誰にも言ったことがない私の本音。姉のことがどんなに好きでも、姉と私の二人を分け隔てなく愛してくれた両親をどんなに尊敬しても思うこと。
「後から産まれた人は選べないんだ。」
彼女は瞬きもせずに私の目を凝視していた。ああ、私自身のことだと分かってしまったのかもしれない。
小学生の時、一度だけ言われたことがある。お姉ちゃん、変わってるね。って。すぐにその子はごめんって言ってくれた。皆、言っちゃいけないことだと分かっている。姉のことで何か言われたことも、いじめられたりしたこともない。むしろお姉ちゃんを大事にしていて偉いね、と褒められたことの方が多いくらいだ。
それでも、私は思わずにはいられない。
なぜ、私を産んだの、と。
最近はダウン症があっても寿命は延びている。子どもが両親より長生きする可能性はいくらでもあるだろう。私だって、姉のことは大好きだ。これが妹ならまた、気持ちは少しは違ったのかもしれない。
だけど、なぜ、姉が居るのに私を産んだのかと。決して両親に問うことはなかったけれど、何度も何度も思った。
「だから、…ううん、きっと。きっと、障害があるとかないとかそんなの関係なく、誰でもそうだと思うんだけど。産んでも諦めても、どっちにしても良かったって思うし。」
遠くではまださっきの子が大泣きしていて、両親は困ったようになだめすかしていた。
「どっちを選んでも後悔することは一度や二度はあると思う。」
子どもの泣き声が遠ざかって行く。
「産んだら産んだで、産まない方がよかったのかもしれないって。諦めたら諦めたで、やっぱり産んでいたらってなるもの。」
きっとあの子の両親はとても居づらかっただろう。子どもが泣いて困ったことなどいくらでもある筈だ。子どもがいなきゃ、ゆっくり出来たのに、と思ったことなどいくらでもある筈だ。
でも、きっと、泣き疲れて眠る我が子の寝顔を愛おしいと思わずには居られない筈だ。
でも、きっと、そんなのどんな子どもだって同じ。
互いに視線を床の先に逸らしたまま、ずっと黙っていた。また無関係な他人達のざわめきが私達の間をすり抜けて行く。
「ありがとう。」
そう言って彼女は口元を拭う。
「話、聞いてもらえてよかった。」
帰り道の電車の中、上着のポケットの中でパスケースを握る手に自然と力が籠っていた。
早く、家に帰りたい。
早く、夫に会いたい。
気持ちが逸るほどにパスケースを握りしめてしまう。窓の外はすっかり暗くなっていた。
「おかえり。」
改札の出口に傘を持った夫の姿を見て、どれほど安堵したことだろうか。
「降らなくてよかった。さっきまで、パラパラ落ちてたから。」
思わず駆け寄ってその腕にしがみつく。良い年した男女が、とは思ってもそうでもしなければ叫び出しそうだった。様子がおかしいことには気がついているだろうけど。
「帰ろう。映画でも見てゆっくりしよう。」
小さくこくりと頷いて、私はまたパスケースを握りしめた。
パスケースには一枚のエコー写真が入っている。
とても新しい命が宿っているとは分からないほどの画像。教えてもらわなければノイズと区別ができないくらいの微かな陰。
私は、諦めた側の人間だった。
自分に宿った命が姉と同じだったと知って、諦めた。
皮肉なことに、自分に宿った命を消した三日後、姉も亡くなってしまった。両親には言っていない。きっと、自分達を責めてしまうだろうから。この後悔を背負うのは私だけで十分な筈だ。
結局のところ、彼女がどんな決断をしたのかは分からない。
あの後、また疎遠になったからだ。
年賀状もついに来なかったし、私も送らなかった。
まだ、携帯電話のアドレス帳に番号は残っているけれど、かけることはないだろう。唐突だった着信履歴の番号も時間が経てば消えてしまうだろう。
多分、あの一言が私の本心だと気が付いたんだと思う。だから、選択の結果がどちらだったにしても伝えられなかったのだと思う。
私はと言えば、夫と気ままな二人暮らしを続けている。
だけれど、幸せを噛み締めるたびに、諦めてしまったあの子を犠牲の上の幸せだと後悔が私を襲う。でも、幸せかと尋ねられたら幸せだと間違いなく即答する。
それと同時に、こうも思う。もしあの子を諦めていなかったら、自分達が子どもよりも先に死んでしまうことへの恐怖に怯えて、それでも子どもがいる幸せを覚えて暮らしていただろうと。
でも結局は全ては仮定の話。私は今、幸せだ。
新婚の時に買ったダブルベッド。隣でゆっくりとした調子の寝息が聞こえてくる。眠気は覚えているのだけど、眠りに落ちられずに布の合間から夫の手を探り当てて握った。ぐっすり寝ているのかと思ったけれど、優しくしっかりと握り返してくれた。気がつくとまた単調な寝息が聞こえて来た。
今日もまた、静かに、穏やかに夜が更けて行く。
賛否両論が分かれる作品だと承知しております。
あくまで、出生前診断に関わらずこの類の問題について考えるきっかけになればと思い投稿致しました。
青田早苗