プロローグ
一
北方の島国、ニチ。
都市国家が多い中、この国は数少ない多くの町からなる国である。山岳地帯が多いこの国では、主に林業が盛んで、その合間を縫うように畑が広がっていた。国土も狭く、裕福な国とは決して言えない。平野となるような部分は少なく、収穫出来る作物もそれ程多くはない。
国の経済は完全に国内に依存しており、外国とのやり取りは少ない。その主たる原因は外国とを隔てる海にある。荒海に隔たれたニチは、天然の要塞に守られていると同時に、天然の障害で外国とのやり取りを難しくする。
それでも細々と大陸とは交易をしていたが、輸出出来るのは工芸品ばかり。貴重な金属などは、大半が外国に頼っているといっていい。
ニチにある過去の遺跡には、豊富な金属が朽ちながら眠っているが、それを採掘する手間はかなりのものだ。採掘するには、輸入する倍近い費用がかかる。それも、この三百年程で殆ど取り尽くし、遺跡は殆ど残っていない。
天候も時に厳しく、夏には容赦なく照りつける太陽。冬は極寒のような寒さ。普通なら人が住むような所ではないかもしれないが、それでもここから離れようとしないのは、歴史がそうさせるのかもしれない。
世界でも珍しく、過去の歴史が詳細に残っており、住む人々はそこから何かを学ぼうと必死になっている。しかし、それで天候がどうなる訳ではないが。
この国が国として保っていられるのは、遙か昔から続く皇王という存在と、それとは別に五百年前から続く、竜王という存在があるからだ。
皇王は神格化された存在であり、この国で皇王を脅かそうという者は、現在は現れていない。その権威は絶対であり、他の追随を許す事は無かった。
それに対して竜王は力の王であり、幾度となくその地位を脅かされてはいたが、それでも力の王というだけあり、その力はなおも健在だ。
そんな二つの王がいる国に、新しい王子が生まれようとしていた。
「竜王、まもなく王子がお生まれになりますね」
側近で、竜王が信頼を寄せている一人、タウル・ススが巨大な玉座の横に立ちながら、その時を待つように言う。
あまりに広い玉座のため、まるで舞踏会場かとすら思わせるが、あるのは竜王の座る玉座とその后の席だけだ。旗もいくつか掲げられてはいるが、それ以外は石造りの簡素な宮殿ともいえる。
玉座には宝石等がちりばめられている事は無く、朱に染まった腰掛けや背もたれ自体が美しい。
席その物は石を積み重ねて作られており、座る者がただならぬ者である事をうかがわせる。
ススは身長二メートルはある筈だが、それでも玉座の肘掛けにすら届かない事からしても、席の主が巨大である事は疑う余地もない。もう一つ空いた席もまた玉座と同様に大きく、同じく朱で染まった席は、立派な物である事は疑う余地もない。
しかし、それ以外は本当に質素なものだ。
玉座から離れた所にも、何名かの竜人たちが直立不動の姿勢でいる。誰もが玉座のある部屋だけあり、正装をしている。軍の礼服もいくつか見られるが、殆どは文官の正装だ。
「タウル、お前は息子にも忠誠を誓ってくれるか?」
巨大な玉座の主、オクノミトコ・ナハ竜王が首をもたげて言う。
彼の巨体はその玉座よりも大きい。正真正銘の『竜』の王だ。玉座に座っているとはいえ、それでも五メートルを超える高さは、ススの四倍以上の差がある。白い鱗をした巨大な竜は、他の者を寄せ付けない圧倒的な威圧感がある。
羽や翼と呼べる物はないが、巨大な巨軀はそれ自体が周囲を威圧させるに十分だ。
また、それは決して着ている服だけから発せられるものではない。それでも、白い肌に青の王族の衣装は目に映える。また、背中にある赤いマントが印象的だ。
「当然でありましょう。私は竜王にお仕えして二百年。死ぬまでそれは変わりません。とは言っても、もう私も長くないかとは思いますが……」
「すまぬな。本来なら君にももっと裕福な暮らしを約束してやりたいが、今は国土を平定するので手一杯。今暫く辛抱してくれ」
タウルだけに聞こえるよう小声で言った。
ほぼ国内全域を、一応平定はしているが、それでも時たま大きな反乱がある。大半は竜人族を王にする事を良しとしない人族の反乱だが、力で勝る竜人族は、常に力でねじ伏せてきた。
「何を仰います。竜王がそれで心をお痛めになっている事は十分承知の上。私など竜王様に比べれば取るに足らない存在でしかありません。それは、私の息子も分かっております」
「そう言ってもらえて嬉しい」
「国内の反乱も少なくなれば、もっと食料の生産量も増えましょう。それまでの辛抱だと思っております」
確かにススの言うとおりだとは思っていたが、同時に別の事を思っていた。
「力だけで押すのは必ずしも良くないと思うが。彼らにも理由があろう。何より、我らを生み出したのは彼らなのだ」
今それを知る者は減ったが、竜族や竜人族、その他の獣人族を生み出したのは、他ならぬ人族であると記録にある。なにより、自身の名を授けたのが人族なのだ。それをオクノミトコは気にかけていた。
「私もはじめは力押しで対抗したが、それだけでは平和は保てないのではないか? 他に方法があるのであれば、それを試すのも我々の役目だろう」
「仰りたい事は分かりますが、彼らは我々の話に耳を貸そうとはしません。力でねじ伏せるのが一番早いかと思いますが」
そこまで言うススに、もう一度歴史を学べと言ってやりたかったが、自身より半分も生きていない者にそれは酷なのかと思ってしまう。
「それと、皇王のお加減は?」
たとえ竜王といえど、皇王にはその存在を譲るほどの人物だ。その皇王が病で床に伏せている知らせを受け、それを気にかけていた。
「残念ながら……しかし、お世継ぎの問題はございません。今は見守られる事がよろしいかと」
「そうか……」
皇王の病はかなり深刻で、最近ではごく親しい側近でさえ会うのが難しい程の病状だ。その気になれば会う事は出来るが、病に倒れている皇王に、無理に面会を頼む程愚かでもない。
それに、皇王は人族の頂点でもある存在。下手に動く事は良くないと、何よりも分かっている。
「竜王様は、なぜ皇王にそれ程固執されるのですか? 竜王様のお力だけでも平定は簡単かと思いますが」
「それは違うな。我々竜族や竜人族は確かに力は強い。しかしそれだけで国は保てない。皇王は力以外の存在なのだ。それは時として力より強い」
「仰る事が分かりかねます」
「先にも言ったように、この国は元々人族のものだ。我々は新参者に過ぎない。それは時がいくら経っても同じ事。出来るだけ、彼らの言い分も聞いてやる事が必要だと思うのだがな」
そうは言いつつ、ススに理解出来るかは疑問だった。自身でさえそれを理解するのに数百年かかった。それを彼には理解し難い事だろうと思う。
「この国は、力だけでは保てないのだ。その為の皇王であり、それが皇王の存在価値だ」
「失礼しました。先ほどのご無礼をお許し下さい」
「構わぬ。それが分からぬ者は多いからな。ここにいる者で分かっている者がどれほどいる事か……」
あらためて玉座の前にいる竜人たちを見る。恐らく誰一人として分かってはいないだろう。
「お生まれになりました!」
駆け寄ってくる近衛兵が大声を上げながら近寄ってくる。それを聞き、玉座から立ち上がった。巨大な深紅のマントが大きく揺れる。
「で、男か、女か?」
「男のお子様でございます」
息を切らしながら兵が告げる。
「そうか……良かった」
安堵し、玉座に深々と腰掛けた。
「おめでとうございます。竜王様、お名前はお決めになられているのですか?」
周囲を見渡してから、自分が何を言うかを待っている家臣達の顔を見た。どの顔も喜んでいるように見える。
「シロンだ」
全員に聞こえるようはっきりと告げる。
「それでは、早速シロン様誕生の知らせを皆に伝えます」
兵が礼をしてから立ち去ってゆく。二百五十年待ってはじめての世継ぎ。確実に盛大な催しが行われるだろう。
「カクラスミアの方はどうか」
それを聞いて、家臣の一人が急ぎ立ち去る。二人の命があってこそなのだ。なぜ報告がこうも手間がかかるのか。
「お妃様もご無事かと思います。それにしても本当におめでたく」
「ああ、そう願う。まあ、カクラスミアの事だ。そろそろシロンを連れて顔を出してもおかしくないかもしれんな」
そんな事を言っていると、遠くで騒がしい声が聞こえた。
「お退きなさい。立ち会いを認めなかったのはあなた方でしょうが! この子を次に見せるのは竜王様に他ならないわ」
「やれやれ、噂をすれば何とやらだ」
大きな扉が開けられ、そこから青い鬣と巨大な白日ともいえる翼を乱しながら入って来る、もう一人の巨大な竜があった。
「カクラスミア、その辺にしておけ。どれ、シロンの顔を見たい」
カクラスミアは仰々しく近寄ると、まだ生まれたばかりの子竜を見せた。オクノミトコから見れば本当に小さいが、それでも竜人たちの半分程の大きさは充分にある。
「貴方の子です。これで国が平和になると、さらに宜しいでしょうに」
「平和は必ず手に入れる。この子の為にもな」
母親の手の中で寝息を立てているシロンを見つめながら言った。
父親と同じ純白の鱗に、母親と同じ青い髪と鬣。そして背中には一対の白い翼があった。しっかりとシロンは両親の特徴を受け継いでいる。
「今日は宴だ! 新しい王子の誕生を祝おうではないか」
ナハの言葉に、周囲の竜人全てが片膝をついて礼を捧げた。
二
青い竜人と白の竜が歩いている。
青い竜人は儀礼服を着用しており、白い竜は王族の衣装だ。
頭と鬣の青い毛、そして白銀に輝く翼が美しい。身長一メートル八十センチほどの竜人に比べ、白い竜は八メートル程あろうか。
「シロン王子、こちらへ」
青い竜人のウラガ・ガルッフが言う。
あまり好きな人物ではないが、側近の一人であり、統合参謀本部議長、大陸制圧軍副長官、本土治安維持総監、王室警備隊総監を一人で担っている以上無視する訳にはいかない。
まあ、最近は大陸側の制圧ばかりをしているようで、城に来ることも少ないが。
ニチを平定して二百年あまり。今はガルッフの命で大陸に進出しようとしている。
別に大陸にまで手を出す必要はないのではないかと思いながらも、発案者本人の手前、それを言うほど愚かでもない。
しかし、個人にこれほどの権力を与えて良いものかと思ってしまう。
他の者でもここまで権力を掌握している者は王しかいない。自身さえ、これ程の権力はない。
それに父親の竜王はガルッフの事をそのまま復唱するだけで、事実上の最高権力者だ。
戴冠式の予行とはいえ、面倒だと思う。父親が引退するとはいえ、まだ死んだ訳ではない。だいたいその父親もまだまだ元気だ。今回の引退も、ガルッフが無理に勧めた事は分かっていた。
確かに他の竜人族から比べれば父親は高齢だろう。しかし、我々竜族の寿命はまだ分かっていないのだし、無理に引退させる事もないと思う。
「今日の立ち会いは少ないな……」
周囲を見渡してみると、今回の立ち会いは取り巻きの数人だけだ。最後の部分の予行とはいえ、こんなに少なくて良いものかと思ってしまう。大体、戴冠式に予行など本当に必要なのかと思うが。
「で、竜王がお見えにならないが、誰が代わりをするんだ?」
肝心の父親も姿がない。
「今日は着用していただく品のサイズ合わせを兼ねた予行でございます。ですので最低限の人数でよろしいかと」
そんなものかと思いながら、玉座のそばに置かれた王冠などを見る。
王冠まで新調する必要があるのかと思いながらも、他の品々を見た。まだ国の経済が安定している訳でもないのに、何と無駄な事をと思ってしまう。そんな中に一品だけ、金ではなく銀色をした腕輪のような物があった。
「その腕輪は?」
「何かの時に戦地で付けていただきたく、一応ご用意させていただきました。私や他の兵士が持つ守護の腕輪と同じような物です」
言われてみれば確かに似ていた。ただ、それだけが銀色なのには、他が金で出来ているだけ異様に映る。しかし、今さら言ったところで、どうにかなるものでもないだろう。
「では、試着をお願いします」
言われて最初に目の前に置かれたのが、その腕輪だった。
「戦地など行く事もないだろうに……」
そう言いながらも腕輪を手に取る。かなり軽い素材である事は分かった。
「どちらにはめればいい?」
「通常は左腕でございます」
「分かった」
腕輪をとり、左手にはめてみる。少しサイズが大きい。
「少し大きいな」
「左様でございますか」
その時ガルッフの顔に微笑みが見えたような気がした。
「すぐにサイズは問題なくなりますよ」
何の事かと思いガルッフに聞こうとすると、突然頭が痛み出す。
「王はすでに幽閉させていただきました。貴方も邪魔ですからね。こうして力を封印させていただくんですよ」
何の事かと思いガルッフに近寄ろうとするが、体が鉛のように重く動かす事も出来ない。
「き、貴様、何をした!」
「簡単な事ですよ。貴方をその腕輪に封印するのです。そうすればこの国から竜王はいなくなる。その方が私にとって都合が良いですから」
ガルッフの冷たい言葉に悪寒が走る。
一瞬目が眩んで、そのまま気を失ってしまった。
瞬間、玉座の後ろにあった巨大な槍の一つが消えたが、それに気が付く者はいなかった。
「ふふふ、ははははは!」
ガルッフの声が宮殿に木霊する。他の者は何も気にかけていないようだ。
当のシロンは目の前に竜人族の姿となって転がっていた。
肌や髪、鬣こそそのままだが、完全に竜人族と同じ姿は、誰もそれが王子だとは思わないだろう。翼もなくなっていた。そして銀色をした無垢の腕輪には、いつの間にか力強い竜の絵柄が浮き出ている。
「生きているだけでも幸せと思ってもらわないとな。おい、衛兵!」
近くの衛兵を呼ぶと、二人の緑の肌をした竜人が近寄ってくる。
「城の一番深い地下に封印しろ。封印の間の中央に魔陣を描いておいた。そこに置いておけ。外から鍵をし、中から開く事の無いようにするんだ。後、昔の資料も全て封印させ、一切の閲覧を禁止する。今すぐかかれ」
まるでシロンが物であるかのような言い方で指示を飛ばす。
ガルッフは、シロンと竜人たちを残しその場を去っていった。
三
静かな月の夜、いくつものテントが谷の中にある。
所々に篝火が焚かれており、谷のそこだけが明るく照らし出されていた。篝火は風に揺れており、谷底を風が通っている事が分かる。
人影は少ないが、それでも何人かの姿は見えた。ただ、それは人ではなく、いわゆる竜人と呼ばれる人々だ。
全身に鱗をまとい、太い尻尾は文字通り蜥蜴を彷彿とさせる。
しかし、彼らは自信の事を蜥蜴と呼ぶ事はない。中には体毛を持つ者もいるが、それはごく僅かで、しかも背中の背骨沿ったラインか頭だけに限られる。
体色は緑が多いが、中には赤や黒、紫、白などもある。しかし統一されているのは、腹に当たる部分が必ず白に近い事だ。多少の個体差はあるが、基本的に白をしてるといっても過言ではない。
彼らは鎧を着ている事から、兵士だという事が分かる。テントの周囲を巡回しているのは歩哨だろう。いずれも腰に帯刀しており、二人一組で巡回している。
鎧は緑で統一されており、派手な飾りは特に見られない。胸にある階級章と思われるマークが異なる事だろうか。しかし、歩哨に回っている者の階級章は、黄色い横線一本があるだけの者か、それすらない者のどちらかしかいない。
テントの中央部付近にいる歩哨は、ラインが二本ある者もいるが、それも希だ。
頭部以外は全身を覆っており、頭部は後ろの首筋と頭だけが防御されている。その兜には、最上部から何かの動物の物と思われる毛が生えるように装飾され、後ろになびいている。こちらは色がいくつかあり、部隊を表す物らしい。
左腕には直径五十センチ程の丸盾を腕にはめており、指は自由になっているようだ。
その指は三本指や四本指、五本指と個体差がある。しかし、左腰に帯刀している剣に違いがみられないところをみると、指の本数による差は少ないのかもしれない。
剣の鞘は茶色で、長さはおおよそ一メートル二十センチ程度。柄の部分が三十センチ程度の両刃の直刀だ。
テントの中央付近にいる一人だけ、他の歩哨とは違い毛のコートを羽織っている。黒のコートで、後ろから白の尻尾だけが出ている。しかし、それでも寒いのか、篝火に当たりながら腕を組んで振るえていた。
「全く、なんて寒さだ」
ぼやくようにその人物が言う。
いくら士官用の防寒着とはいえ、あくまで戦闘服用の防寒着だ。本格的な防寒着と比べると明らかに見劣りする。その上、今は風の吹き抜ける谷間にいる。風から逃れる場所が無いので余計に寒い。
「ヤエ少佐、この防寒着どうにかなりませんか?」
緑の竜人族の男も、震えながら焚き火に当たっていた。彼は防寒着は着用していない。
「どうにかなるのであれば、まず自分の物をどうにかしているよ。君だってそうだろう、ルイペ大尉」
第一大隊の指揮官であるルイペ大尉の問いに、旅団の副官であるヤエが答えた。そのヤエも肌が露出している白い尻尾が震えている。竜人族はその特徴的な尻尾を防寒出来る戦闘服を持っていない。
そもそも、尻尾に防寒装備を持っている種族などどこにもない。他の種族なら尻尾には大抵毛が生えており、防寒する必要がないからだ。竜人族の尻尾は毛に覆われていないので余計に寒さを感じた。
「そうですよね」
同じように肌が露出しているルイペの尻尾も震えている。
「歩哨の方はどうなっている?」
昼間まで進軍してきた谷間の方角を見た。暗くて今は見えないが、敵が後ろから襲ってくる事も考慮しなくてはならない。
「各中隊規模で、二名一組で歩哨に当たらせています」
一八人体制で歩哨をしているのかと計算した。もう少し多く出しても良いとは思ったが、襲われる可能性があるのは前後だけ。前後で九組もあれば、何とかなるだろう。
「出来るだけ交代の間隔を早めてやれ。連中も寒いだろう」
交代間隔を大隊長の指示に任せているため、あまり口出しをしたくは無かったが、寒い中長時間の歩哨は疲労が大きい。交代を早めれば少しは疲労も何とかなるだろうと考えた。
「分かりました」
ルイペは近くにいた伝令に新たな命令を伝えに行った。その後姿もやはり震えていた。
「ヤエ少佐。本当に襲ってくる可能性があるのでしょうか?」
震えた声で別の緑の竜人族の男が聞いてきた。第三大隊の指揮官、チセ大尉だ。
「中佐が警戒しろと仰るんだ。寝床を襲われたくないだろう?」
答える声も寒さで震えてしまう。
「こんな仕事、近衛旅団のやる事ではないですよ」
「そうぼやくな。後方で一番近い部隊が我々だったんだ。諦めろ」
そうは言いつつ、納得はしていない。しかし他に部隊が無いのであれば諦めるしかなかった。
それに近衛旅団といっても、全部で五個ある旅団のひとつに過ぎない。
第一旅団や第二旅団なら本国の防衛任務となるかもしれないが、第四旅団で本国の防衛などまずありえなかった。
他の師団や旅団から比べればまだ良い方だが、それでも便利屋に過ぎない。
最前線の部隊で無いだけ、損耗率はほぼゼロであり、その点ではこの部隊に配属されただけでも幸運といえた。少なくとも自分が戦死する可能性は限りなくゼロに等しい。
「風が強くなってきたな。寒さの上にこの風か。全く酷い夜だ」
「副長も鎧を着られたらいかがですか? 大分違いますよ」
赤い竜人族の男が進言する。そうは言っているものの、その男も寒そうだった。
「おいおい、イナウ大尉、私にまで当直をやらせようというのか?」
二人とも笑っている。勿論ヤエが当直をする事は無い。イナウは当直の指揮を執っている事になっているが、実際たまに来る伝令を聞く以外に仕事など無かった。
「辛いと思うが、後を頼んだぞ」
イナウは敬礼する。返礼すると旅団長のテントがある方向に向かった。
「了解しました。おやすみなさい。あの……ヤエ少佐、どちらへ?」
テントとは違う方向に向かっていたので、イナウが呼び止める。
「一応旅団長に挨拶してくる。起きていらっしゃればだが」
「分かりました、お気をつけて」
気をつけてと言われても、何に対してだと思ってしまう。旅団の駐屯している真ん中で襲われる方を考える方が難しい。
足早に旅団長のテントへ向かった。ゆっくり歩いてもよかったのだが、寒さが大分身にしみていたからだ。
「全く、上層部は何を考えているんだか……」
独り言のようにぶつぶつ呟きながら文句を言う。
実際、今から行う任務などどう考えても近衛旅団の行う任務ではなかった。
「最近こんな任務ばかりだ。それ程人員が不足しているとも思えないが」
独り言は続く。それを見ていた下級兵士が、きょとんとした顔で眺めていたが、ヤエは気づく事もない。
「旅団長はどうお考えになっているのだろうか。この際だ、きちんと聞いてみよう」
独り言は旅団長のテントに到着するまで延々続いていた。
第四近衛旅団の指揮官であるナハ中佐は、専用のテントで上層部から送られてきた命令書を見返していた。
白い竜人族の彼は、外にいる者とは違い、黒に統一された軍服を着用している。テントの中には専用の深紅のマントも置かれていた。胸には階級章の他に数々の勲章が並んでいる。
今は作戦指令書を読んでいる最中。色々書かれてはいるが、要約すると後方のゲリラ部隊を殲滅せよとの事だ。命令自体は単純だった。
しかし、単純であるが故に、余計にこの命令には疑問を持っていた。
内容を見る限り、近衛旅団が行う任務ではない。そもそも、旅団で殲滅しなければならない部隊を、普通はゲリラとは呼ばない筈だ。しかも指定された座標は、ゲリラがいるとは思えないような地形だった。
今は谷の底にいるが、谷の上は平らな台地が広がる。そこには殆ど草木もなく、荒れ果てた大地だ。当然隠れられるような場所は無い。
谷底の奥にあると書かれている洞窟にしても、もし本当であれば、入り口を塞いでしまえば何もしなくても勝てるような場所だ。
そんな事を考えながら、淡々と業務日誌を付ける。勿論作戦に関する疑問は書いていない。
日誌が書き終わり、命令書を決まったケースにしまうと、テントの外から声がした。
「ナハ中佐、よろしいかな」
同時に青い竜人族が入ってくる。
「アチカ参謀か。そろそろ休みたいのだが、今でなくては駄目かな」
アチカも階級はナハ中佐と同じだ。旅団付の参謀で、作戦の立案と実行に深く関わっている。
「夜のうちに済ませておこうと思いましてね。その方が楽ですから」
アチカである事を確認し、再び簡易机の方を向いた。寝る前に片付ける事がまだ幾つかあったからだ。
それを見たアチカは、何も言わずに背後に近寄る。
「用事があるなら早めに済ませようじゃないか」
そう言った瞬間、背中に何かが刺されたのを感じた。さらに全身の力が抜ける感じがする。そして、目眩がして立っていられなくなった。
「き、貴様、何をした」
目眩がする中で、アチカの肩を鷲掴みにしたが、手には力が入らない。
「邪魔なんだよ、ナハ中佐。君はここで戦死する。上層部もそうお望みだ。変更はない」
裏切られたという思いが駆け巡る中、アチカの言う上層部が、どの人物を指すのかが頭をよぎる。しかし、思考はそれ以上続かなかった。
「案外簡単だったな。裏切られている事に気が付いていないとは、本当にお人よしだ。後は全身に薬が回れば、呼吸が止まる」
まるでゴミか何かを見ているような目で、アチカはナハを見ていた。
見るのをやめ、命令書が入っているケースを取り出すと、持っていた鞄に入れ、日誌も同時に鞄に放り込んだ。そしてテントの中を簡単に荒らすと、まるで賊が入ってきたかのような状態にする。時間は殆どかからなかった。
「後はあのいけ好かない副官もろとも、部隊が全滅すれば最高なんだがな」
アチカは最後にナハの脈を計る。次第に弱まっているのがすぐに分った。
「一応ガルッフ様からも確認しろと言われている以上、もう暫く待つか」
本当なら待ちたくなどなかったのだが、命令が来ている以上確認しない訳にはいかない。そんな事を思いつつ、テントの中を確認する。回収指示だけ受けた命令書と日誌以外には全く手を付けていなかったが、実際その命令書と日誌を回収する意味があるのかすら疑問だった。
ふとナハを見てみると、うつ伏せでまるで死んでいるとしか思えない。再度脈を確認しようと首に触れたとき、アチカは目を疑った。
確かにそこにはナハが横たわっているのだが、首に触れようとすると、まるでもやを触るかのように、何も触る事が出来ない。驚いて頭を触ろうとしたが、はやり触れる事は出来なかった。
「馬鹿な、何が起きているんだ!」
目の前の出来事が信じられなかったアチカは、とっさにナイフを取り出すと、ナハの腰をめがけて突き刺す。しかし手ごたえはなく、刃が直接地面に突き刺さる。
「こんな……ありえない。こうなったら!」
今度は背中全体をめがけてナイフで切り裂こうとした。今度は手ごたえがあったが、しかし想像していた物とは違っていた。
確かに何かを切り裂いた感触はあるのだが、しかしそれは肉体を突き刺したとは程遠く、軟らかい果物のような物に刺さったといった方が近い感覚だ。しかし、ナイフの柄の部分からは微かに血が滲んでいた。
何を思ったかアチカは背中をめがけて何度もナイフを突き刺す。しかし、突き刺す感触はその度に薄れてゆき、さらにナハの体が透けていくのが分る。
「ば、化け物か!」
血のついたナイフを落とすと、絶句してナハを見続けていた。数分とせずにナハはその場から消えていた。地面には血の跡があったが、それが致命傷になるほどの血かどうかは、アチカには分らない。
それと同時に、アチカの背後にあった柄の長い槍が一瞬で消えたが、アチカはそれに気が付く事はなかった。
「良かった、まだ起きていらっしゃる」
テントの明かりを見て、もしかしたら既に休まれているのではないかと思っていたヤエは、テントの入り口に立つと声を上げた。
「ナハ中佐、失礼します」
テントの前で敬礼してから中に入る。中の様子を見て驚愕した。
「一体何があったんだ!」
ヤエの言葉に、近くにいた兵士が寄って来た。兵士も中の様子を見ると絶句する。
テントの中は小さな机と簡易ベッドがあるのだが、机は中がすべて開けられ、書類が散乱していた。
更に悪い事に、ナハ中佐の姿はなかった。
「おい、ナハ中佐を見なかったか!?」
隣に来た兵士に問いかける。兵士はただ呆然と立っているだけで、何も返答が無い。
「おい、しっかりするんだ。兵士を何人か集めろ。ナハ中佐を探せ!」
叱咤に兵士は我に帰り、仲間の兵士の元へ駆け出して行った。
「どうなってるんだ。歩哨だって立ててるんだ。襲われる訳が無い……」
自身も混乱している。何よりテントの中が荒らされれば物音がしない筈が無い。絶対に誰かが気が付く筈だが、そんな報告を受けていなかった。
もう一度テントの中を見渡す。書類が散乱している事から、何か盗まれた可能性があったが、知らない指令書であれば分からない。
足元を見ると、そこには血が滲んでいた。それなりの量に驚いて後ずさりしてしまう。
顔から血の気が引いていく。ただでさえ白い顔が余計に青白くなる。
襲撃にあった事は明白だった。しかし誰も気が付かずに、指揮官のテントだけを襲う事など可能だろうか……分からない。否、絶対に無理だと思う。
テントの中を再び見渡した。何か証拠がある筈だ。こういう時はどうすればいい……自分は副長だ。副長なら冷静に対処しなければ。
心に色々な事が渦巻くが、すべての答えは『どうすればよいのか分からない』という事だけだった。