嗚呼、女王陛下! (3)
三洗さんは口をあんぐりと開けたまま、しばらく私と野良犬(実際には女王陛下)を見つめていた。私は慌てて立ち上がったものの、何か言い訳しようにも言葉が出てこない。
ええ、と。三洗さんはどこまで目撃したのだろうか。私が野良犬に泣き付いているところ? まさか、野良犬が人間の言葉を話しているところ? 後者なら非常にマズイ展開だ。
私はとにかく考えを巡らせるのに必死。三洗さんはおそらく今見たことを整理するのに必死だろう。無言で視線だけがぶつかり合う。
『あの、これは……』
私に代わって誰かが言い訳を始めようとした。もちろん一人(いや一匹)しかいない。さらにややこしい展開になりそうなので、私はその声に重ねるように声を発した。
「あの、これはね。私、学園祭で野良犬に愛情を注ぐ女の子の役に挑戦することになって、ちょうどいいから練習していたのよ。そしたら、なんだか感情が入り過ぎてしまったみたいだわ。ほほほ……ほほ」
なぜか三洗さんは目をウルウルさせながら答えた。
「いいえ、いいえ、葉月さん。それは葉月さんの心が本当にお優しいからですわ。こんなうすぎ……いえ、どんな見た目でも同じ生き物ですものね! 見捨てずにこうして助けてあげて、そのうえその境遇に同情までなさって。ただの演技の練習ではそこまで泣くことはできませんもの。三洗カツ世、こんなお優しいお嬢様のお世話ができて幸せでございます!」
―― 三洗さん、シニアタレントに応募したらいいんじゃない? ――
ともかく、三洗さんは野良犬と会話しているところは目撃していなかったようだ。ホッと胸を撫で下ろしていると、さらにラッキーな展開になった。
「大丈夫です! この三洗カツ世、このわんちゃんを美しく変身させて、ぜったいに奥様を納得させてみせますわ! 善吉なんかより、ずっとずっとイケメンにしてみせます!」
突然引き合いに出された善吉はくぅんと切なそうに声を上げる。それは善吉に失礼よ、三洗さん!
……って、『イケメン』?
三洗さんに云われて、思わず野良犬(もとい、アドリエンヌさま……いや、その。もう、どっちでもいい!)の股間に目を遣る。
…………立派なモノがちゃんとある。
「それでは早速、善吉用バスタブにお湯を沸かしてきますわ!」
三洗さんは張り切って庭から出て行った。彼女は汚い物を綺麗にするということに異常に燃えるタイプなのだ。その対象が汚ければ汚いほど興奮する。
それよりも、憧れの女王陛下が♂犬だったということで、私の心は激しく動揺していた。(なぜか、犬になっていたことよりも、♂だったことのほうがショックが大きい)
「アドリエンヌさま。犬になられたのも驚きですが、まさか♂とは。あの、どうお呼びしたらいいのか……」
まだ私の頭の中でいろんなものが誤変換したままだ。
『そうなのよ。マドゥーラには性別を変えてとまではお願いしていなかったのですけど、彼なりにあたらしい気持ちで人(犬?)生をやり直してほしいと気を遣ったのでしょうね。でも私、どうしても皆が幸せな生活を送っているかどうかを見届けたくて、自分の強い意志で前世の記憶と人間の知恵を留めておいたのよ。それがなんだかおかしなことになってしまって。
でも貴方も同じでしょう? ヴォールターナー』
犬が微笑むというのは容易に想像できないだろうが、アドリエンヌさまである♂犬はたしかに上品な微笑みを浮かべていた。
あらゆる想像力を結集させて、この複雑な状況を想像してほしい。いや、私はいまそれをしようと頑張っているのだ。想像力をフル稼働しなければ、このややこしい状況を理解できそうにない。
しばらく経って、なんとか自分の中で折り合いを付ける。
『犬の中にもオネエは存在するのだ!』
「私の心の中では敬愛するアドリエンヌ女王さまに変わりありませんが、やはりここではいろいろと不都合ですので『アドル』とお呼びいたします。敬称も略させていただきます」
『もちろんよ、ヴォールターナー。あなたの傍に置いていただけるだけでこんな心強いことはないわ!』
「お湯がわっきましたよぉ~。三洗カツ世の腕の見せ所ですわぁ~」
テンションが最大限に上がっている三洗さんが腕まくりをしながら再び庭に戻ってきた。私は慌ててアドリエンヌさ……もといアドルに耳打ちする。
「それから、決して私以外の人間に、人間の言葉をしゃべってはなりません! 言葉が分かるような仕草をしてもなりません! アドルの分かる言葉は『お手』『おかわり』『ふせ』『待て』分かりましたね!」
「ばう」
さすがに聡明なアドルは、早速私の言ったとおり、そ知らぬ顔を装って小さく鳴いた。
前の飼い主宅でもその辺りは気をつけて暮らしていたのだろうが、もしかするとさっきのように、何かの拍子に地が出てしまい、気味悪がられて追い出されたのかもしれない。
そんな私たちの横で、善吉が呆れたように欠伸をした。