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嗚呼、女王陛下! (2)



「ばう?」


 多くの人が行き交う街中ではあまり聞くことのない声を聴いて、驚いて下を見る。すぐ前に私の膝の高さを越えるような大きな犬がいてこちらを見上げていた。首輪はしていないので野良犬のようだ。


「ひぃっ!」


 私は犬が苦手なわけではない。家ではわがままで手の掛かるトイプードルと、だいぶ年を取ったゴールデンレトリバーを飼っているので犬の扱いは慣れているほうだ。しかし野良犬となると話は別だ。だいたい人の往来の激しいこんな場所になんで野良犬が放置されているのか分からない。

 いきなり逃げ出したら追いかけてくるかもしれない。その前に恐怖で脚がすくんで動けない。私はその野良犬としばらく見つめ合うことになった。

 こげ茶色? いやほとんど汚れなのだろう。本当の毛の色は分からない。薄汚い毛はところどころ禿げたり泥が付いたりしている。目の周りには目やにがびっしりこびり付いている。もうだいぶくたびれた感じだ。

 身体が大きいわりにどこか弱々しいその野良犬は私の方をつぶらな瞳でじっと見上げていた。私に何か訴えようとするかのように口を空けて舌を出し長い尻尾を必死に動かしている。はじめは警戒していた私だったが、見つめ合っているうちに何故かその犬が憐れに思えてきた。


「おまえ、お腹空いているの?」


 はっはっはっと息をしながら犬が頷いたように見えた。


「ついておいで」


 自分でもどうしてそんな行動を取ったのか分からないが、その犬の頭を軽く撫でてそう言うと、先に立って歩き出した。犬は私の後を嬉しそうに付いてきた。


 グワラン、グワラン……

 ひょこ、ひょこ、ひょこ……


 大きく物騒な道具を抱えた東塔女子の学生とその後ろを付いていく薄汚い犬。駅からまっすぐに延びる大通りはかなり混み合う時間帯だったが、私たちの行く手だけさーっと人が避けていく。



「ただいま」


「おかえりなさいませー。ひぃっ!」


 いつも笑顔で出迎えてくれるお手伝いの三洗(みたらい)さんが玄関先で固まった。


「葉月さん、その犬は……」


「なんかお腹空いているみたいなの。善吉の餌分けてあげようと思って」


 ちなみに善吉とはうちのゴールデンレトリバー、十五歳のおじいさん犬のことである。

 奥からぎゃんぎゃんぎゃんと騒がしい声が響いてきた。やんちゃなトイプー、桃子を抱っこして母親が玄関ホールに出てきた。私の連れてきた野良犬を見るやいなや桃子よりもうるさく騒ぎ出す。


「は、葉月さん! なんですか、その不潔な犬は!」

 ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん!

玄関(ここ)に入れないで頂戴! いますぐ追い出して!」

 ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん!


 けたたましい叫び声と鳴き声に野良犬はクウンと鳴いて私の後ろに隠れる。


「分かりました! 餌だけ持って庭に連れていきます」


「に、庭って! 飼うおつもりなの?」

 ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん!


「だって、お腹空かせているのよ。追い出すのはかわいそうよ」


「止めて頂戴! お庭が汚れるでしょう!」

 ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん!


「あー、はいはい、分かりましたっ! 餌だけあげたら追い出します。とりあえず三洗さん、善吉のドッグフードをお皿に一杯持ってきて!」


「葉月さんっ!」

 ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん!


 私は玄関先に道具を放り投げると、三洗さんが慌てて持ってきたドッグフードを受け取り、野良犬を連れて庭に回った。

 広い芝生の庭に小人の家のようなログハウスがある。入り口の上に木の札が打ち付けてあって『善吉の家』と書いてある。ログハウスの住人である気の良い老犬は、私の連れてきた野良犬を見ても特に騒がずに前足に頭を乗せたまま少し上目遣いに見ただけだった。

 善吉の家の前で持ってきたドッグフードを勧めると、腹を空かせた野良犬はがつがつと食べ始めた。しゃがんでその様子を見ながら私は独り言のように野良犬に語りかけた。


「ごめんね。母は犬嫌いではないけど潔癖症なのよ。三洗さんにお前をかくまってもらうように頼んでおくから。落ち着いたら綺麗に洗ってあげるからね」


 なんで通りすがりの野良犬にそこまでしてやろうと思ったのか自分でも分からないが、私はもうすっかりこの犬を飼うつもりでいた。見た目は薄汚いけれど、私を見つめるつぶらな瞳に心を奪われてしまったのかもしれない。

 野良犬はお皿を最後まできれいに舐めると顔を上げて満足そうに私を見た。


『ありがとう』


「え?」


 今、女の人の声がしたような。振り返るが誰もいない。もう一度野良犬を見ると、相変わらず満足そうな顔をしてじっとこちらを見ていた。


『お蔭で助かったわ』


 え? えーっ? 陳腐な昔話じゃないんだから! まさか野良犬の恩返し?


「……今、何か言った?」


 自分でも頭がおかしいんじゃないかと思うが、私は野良犬の顔を覗きこんでそう語りかけていた。くうんという鳴き声に重なるようにまた女性の声がする。


『言ったわ。あなたにはまた助けられたわね』


 野良犬の目を見つめているうちに、かちっと記憶の歯車が合わさる音が聞こえたような気がした。この目、この瞳、昔からよく知っている。まさか!


「ア、アドリエンヌ、さ、ま……?」


 野良犬が首を傾げてくうんと鳴くと、また女性の声が聴こえてきた。


『久しいわね。ヴォールターナー』


「な、なんで、犬に?」


『前世では権力も富も何でも持っていたわ。たくさんの人が私に従って私を助けてくれた。けれどいつしかそれを奪われることに怯えなくてはならなくなった。私に従う人々の命を守らなければいけないという責任が重く圧し掛かってきた。だからマドゥーラにお願いしたの。みんなを希望どおりに転生させたら最後に私を人間以外のものに生まれ変わらせてと』


「そ、それで、犬……。でも、だからといって、何もこんな生活をなさらなくても、どこかの家に飼われてのんびり暮らすことも出来たでしょうに」


 野良犬は今度は反対側に首を傾げて鳴いた。


『はじめは人間に飼われていたのよ。飼い主は優しかったわ。でも前世で誰かに従うということを知らなかった私はとても居心地が悪かったの。それで逃げ出して街の隅を彷徨いながら生きてきたのよ。自業自得ね』


「おいたわしや、アドリエンヌさま……」


 私は敬愛する女王陛下の今の姿を嘆いて、思わず野良犬を抱き締め、おいおいと泣き出した。


 背後でがらんと何かが落ちる音がした。振り返ると三洗さんが唖然とした顔で立っていた。彼女は野良犬のために器に水を入れて持ってきてくれたようだが、私の異様な行動を見て思わずその器を落としてしまったのだ。


「は、づ、き、さん!」




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