恵那という人 4
東京の一角にある閑静な住宅街。家というより屋敷が立ち並ぶ一等地に、高麗邸はあった。
門に立って左右を見回せば、目を楽しませる緑が客を迎える。日本で一般的な庭のイメージではなく、より自然に近く、より計算された庭園は散歩をするにはもってこいの様子だった。人の身長を越える程度の木々、うれしそうに日を浴びる花々。手入れが行き届いた様子はめったに帰らぬ主人たちを、せめて精いっぱいのもてなしで迎えたいという家人たちの心意気が表れている。
そして門からの道を少し進めば見えてくるのは三階建て、一部四階建ての建物だ。中世ヨーロッパのマナーハウスを思わせる外見はそのまま中に入っても裏切られない。上品な調度品や空間をふんだんに使った部屋の数々。「ここは本当に日本か」と疑うこの屋敷は、よく映画やドラマの撮影などにも使われている。
本館の三階、屋敷の主とその近しい親戚たちの部屋がある私的な空間。とある一室で、笑い声がはじけた。
「――もうっ! そこまで笑わないでよ、祥鋭さん!」
「いや、お前……これが笑わずに」
残りの言葉はかみ殺せなかった笑い声に飲み込まれた。
響き続ける笑い声に、恵那はふくれっ面を隠さない。それが余計祥鋭のツボに入っているのだが、本人は全然気づいていなかった。
広い部屋の中、ソファーセットに座っているのは恵那と祥鋭だけだった。ちなみにここは祥鋭の私室の隣の応接間だ。空也や祥鋭、秋は「保護者の役目」とかなんとか言いつつ忙しい時間を調整し、頻繁に恵那と話す時間を取っていた。それは褒められることだろうし、恵那としてもうれしいことなのだが、今は全然うれしくない。ふくれっ面のままテーブルの上のカップを取り、紅茶を飲み干した。ベルガモットの香りが心をなだめてくれる。
陶磁のティーポットからもう一杯つぐころには笑い声もだいぶ下火になっていた。恵那は無言でカップを差し出す。
「ありがとう」
微妙に上がった語尾に祥鋭の警戒心が表れている。彼はテーブルの上を見、紅茶のにおいをかぎ、異常をないことを確かめて一口含み――ソーサーにカップを叩きつけるように戻した。
「うわっ、甘っ……!」
甘いもの嫌いな祥鋭は、大量に砂糖を混入された紅茶に目を白黒させる。その様子を見てようやく溜飲が下がり、恵那は口直しの紅茶――もちろん砂糖抜き――を差し出した。
「あんまり笑うからだよ」
「お前、報復のやり方がえげつない……」
まだ味が残ってる、と祥鋭は口元を押さえ、ついで普段は目もくれないサンドイッチに手を伸ばした。本格的に口直しをしないといけないほど甘かったのだろう。溶けるだけ砂糖を放り込んだ紅茶は、甘いもの好きな恵那でも飲みたくない味のはずだ。少しだけ反省する。茶葉を作った人、ごめんなさい。
「お前が演劇とは、まあ華があるだろうが、他の役を食ってしまわないか? 内容はどんなものだ?」
味覚を落ち着かせた祥鋭は気を取り直して話を続けた。しかし、恵那は今度は顔をしかめた。
「……の、リメイク」
「え?」
ぼそりとした言葉は後半しか聞こえない。思わず聞き返すと。
「――だから、……『空の人』の、リメイク」
祥鋭はしばし考えた。
「俺の記憶が確かなら、それって今放映中の大戦をモチーフにしたドラマじゃなかったか?」
「大戦をモチーフにして魔法族を主人公にしたあのドラマです。――まったく、なんて皮肉」
確かに、魔法族を主演にしたドラマのリメイクで主役を演じるのが、当の魔法族の一員とは。
知らぬとはいえとんだキャスティングである。居心地が悪すぎる恵那の気持ちはよくわかった。何せあのドラマの「魔法族」は本当に英雄扱いで、気分が悪い。
激甘紅茶のせいでなく顔をしかめた祥鋭に、恵那はこてんと首をかしげた。
「それ、空也も同じことを言っていたわ。英雄視しすぎだって……。でも実際、大戦に介入して戦後処理まで手伝ってるよね?」
間違ってないんじゃない? という恵那に、祥鋭は意外そうに瞬いた。
「……うん? 恵那、お前、ひょっとして知らないのか?」
「何を?」
「アイズがどうして大戦に介入したのか」
「……人間が地球壊しそうになって、魔法族にも被害がたくさん出たから――じゃないの?」
少なくとも恵那はそう聞いている。
違うの? と尋ね返す恵那に、祥鋭は得心がいったと渋い顔をした。アイズの中ではほぼ常識となっていることだから、誰からも聞く機会がなかったのか。
「まあ、お前が知っていることも間違いじゃないんだが……アイズが大戦に介入した、一番大きな理由はあれに魔術師が関与していたからだ」
非合法な研究を行う魔法使いの蔑称を聞き、目を見開く恵那。大戦に魔術師が関与していた?
「え、どういうこと? 魔術師って人工聖石とか人造魔法使いとかそんな研究しているマッドサイエンティストだよね? それが大戦のどこに――」
関わっていたというのか。最後まで言う前に、恵那は答えを見つけた。
「魔術師が関わっていて」、「魔法族に被害がたくさん出た」悪夢の兵器。
「……まさか、広域殲滅兵器を――?」
わななく声に、祥鋭は無表情でうなずいた。
人類史上最大の戦争と呼ばれる大戦。それは参加した国の数もそうだったし、犠牲になった人々の数としても、それまでの戦争とは桁が違った。
広域殲滅兵器“レイヴン”、そして“シュヴァルツヴァルト”――。
それぞれの陣営が合計で五発使ったこの兵器は既存の最終兵器、核兵器よりある意味でたちが悪い。それは威力の調節が容易で、当時のシェルターもほとんど役に立たない新技術が使われていたこと。さらに特筆すべきは、生き物の被害状況に比して建物への被害が小さいということだ。
百万人単位の大型都市も、一発でのみこみ、死の町に変えるその力。それは人間の科学ではなく、魔法族の魔力運用技術が用いられたものだった。
「……広域殲滅兵器はどちらも基本的な機構は同じ。聖石未満の屑石を大量に詰め込んだうえで負荷をかけて暴発、一定範囲に魔力乱流を起こす。身体機能の多くを魔力であがなう魔法族なら触れた時点でストアへの過負荷で即死――。魔力を感知できない人間でも、ものには限度ってものがある」
高濃度の魔力飽和現象が起きたら、地上で活動する生体は圧死か窒息死することになる。さらに一定密度を越えたら、魔力は魔法使いを介さなくても諸現象となって発現する。最初の衝撃に耐え、運よく生き残ったものがいたとしても――。
恵那の顔から血の気が引いた。同じように魔法と科学を融合させたものを扱う彼女だから、どんな現象が起こるのか――否、どんな現象を起こせるのか、明確にわかった。最初の設定さえうまくすれば、命なきものを無視し、生者のみを選別して殺すことができる。……もっとも、話に聞く広域殲滅兵器は建物も壊していたというので、魔術師たちはそこまで精密な設定は出来なかったようだが。
しかし、それでも被害は大きかった――魔法族は特に。
広域殲滅兵器は、その構造ゆえ、心臓にあたる魔法族の核、ストアを傷つけることができたのだ。
ありえないことだった。
あってはならないことだった。
それまでは、なかったのだ。ストアをダイレクトに狙って成功した方法など。魔力乱流を起こすとしても、それは突き詰めれば磁場を破壊する第一手だ。磁場が破壊されれば魔力は結合できず――魔法族は、死に絶える。
だから誰も使わなかった。
だから誰も使えなかった、狂気のすべに――魔術師は、手をかけてしまったのだ。
これは存在するべきではない。アイズ上層部は瞬間的に判断した。だからこそ彼らはすべての手順をすっ飛ばし、最高戦力ナンバーズを投入して広域殲滅兵器製造工場を破壊した。……撃たれた五発のために、どれだけの魔法族が犠牲になったのか――のちの調査で判明した数字は、アイズを人間から引き離すに十分すぎた。生き残った魔法族も、実に三十年もの間、一人も子供が生まれなかった。広域殲滅兵器はそれほどの代物だった。
「だからアイズが大戦に介入したのは、いわばそのあと始末だ。広域殲滅兵器製造方法の抹消が主たる目的、戦後処理に協力したのは単なるお詫びだな。――それに、ほかにもいくつか目的があったようだし」
たとえば人類の情報通信環境を一新したネットワークシステム。あれはアイズメインコンピュータ、ノアが人間側の監視ができるようにという思惑あって提供されたものだ。二度と人間と魔術師が組むことがないように――また、争乱の火種を早めに見つけ出し、処理できるように。アイズが違法研究を片端から発見できるのはそういうわけである。
また、魔法族が抱える様々な問題――人間との混血化や、人間科学による穢れの進行など、それらの問題を解決するために近い将来、人間側と何らかの接触を図らなければならないことは自明の理だった。その時のためにいい印象を与えておきたい、という打算もあったらしい。
ちなみにこれら、すべて公式文書に記載されていたとか。恵那は変な顔をした。アイズが歴史を隠さないことは知っているが、そこまで詳細に書かれると夢も希望もない。
「……魔法族が見目がいい人ばかりだったっていうのは、最後の目的のため?」
籠絡するつもりだったのかと、変な顔のまま問いかける。一般に流布するこの俗説にだけは首をかしげている恵那だ。それは、アイズはみんなそれなりに武芸を身に着けているから体の動かし方は綺麗だし、体つきも極端に肥っているという人もいないのだけれど、見目がいい人ばかりかと言われればそうというわけでもない。下の人はいないけれど中の人は多い、そんな感じだ。
「いや、別に籠絡するつもりはなかったろう。見目がいい奴ばっかりが派遣されたのは、間違っても死なないやつらを中心に編成したからじゃないか?」
「……ああ!」
苦笑した祥鋭の見解に、恵那は手を打ち合わせた。
魔法使いの魔力保有量と容貌の美麗さはほぼ比例する。というのも変な話だが顔がいい人ほど魔力保有量が多い、という事例が非常に多いのである。恵那の周りの人たちなど、空也を筆頭に目の保養ができる美人ばかりだ。それは目の前にいる祥鋭にも言えることであるが。
つまり、大戦の時に「魔法族は見目のいいものばかり」という俗説が流れたのは、逆に言えば見目のいいものばかり――つまり魔法使いとして優秀なものばかりを派遣したということで。
「なるほどね。当時のアイズの魔法族って言ったら光族かエルフ族だよね。何かのはずみで人間に殺されちゃったら、絶対戦後復興放り出して引き上げるわよね。それを警戒してたんだ」
地球において少数派である魔法族、特にアイズに集うものたちは非常に強固な仲間意識を持っている。おまけに彼らは神話の時代以降戦争に明け暮れていたため、人を傷つけたり、殺したりという罪の意識がほとんどない。さらにとどめに魔法族のほぼすべての集合体では復讐が部分的に合法化している。
さすがにアイズでは「人間への復讐は(組織を巻き込む限り)ダメ」と明文化しているのだが……カッコ内の表記からして、それがどれほどの強制力を持つかは推して知るべし。殺されたら困るから腕利きばかり送るという当時の司令官たちの判断は妥当と言えよう。
「まあ、そういうわけで、大戦に介入したのは別に人間のためじゃない。こちらの都合だ。もしあれに魔術師が関わっていない核戦争だったら、アイズは手を貸したりしなかっただろうよ」
たとえそれで人間が滅びたとしても、それは生物進化の一幕に過ぎないから。突き放したような物言いに、恵那の視線が下を向いた。
「……祥鋭さんは、人間が嫌いなの?」
カップを持ち上げた祥鋭の手が、ふと止まった。
「……好きとはとても言えないな。人間が生み出した穢れで死んだ仲間は数えられない。――母も、そのせいで長くは生きられないと言われていたしな」
彼女は結局敵対する魔法使いに殺されたけれど。祥鋭は言わない言葉を紅茶とともに喉に流し込む。
「私は……嫌いじゃないよ」
下を向いたまま、恵那は小さな声で言った。
知識としては知っている。人間は魔法族を無意識のうちに殺す。彼らの科学技術は進化するにつれ恵みを穢してきた。その穢れは恵みを濾過する時魔法使いの体に残って毒素となり、彼らをむしばむ。……アーバにいる魔法族で、この穢れに苦しんでいないものなどいやしない。人間を憎むものも多い。
「同僚には人間も多い。人間混じりはもっと多いし、魔法族と関係ない人たちでも、清佳とか、クラスのみんなとか……。知ってるから」
それでも、恵那は。
「嫌いじゃないんだ。彼らのこと、すごく好きだよ。……人間は嫌いかもしれないけど、彼らは嫌いになれない」
個人を知ってしまったら、もう、嫌いになれない。
祥鋭は先ほどまで浮かべていた鋭い光を消し、優しく笑った。手を伸ばし、顔を上げない恵那の頭を軽くなでる。
「それでいい。俺たちは別に憎み合いたいわけじゃない。戦争に――魔法族の戦争に加わっていたものなら、その無意味さをいやというほど知っている」
憎み合い、恨みと痛みを重ねることで理由さえ失った「戦争」。
名前さえ付ける必要のないその傷跡は今でも生々しく、彼らを縛って離さない。
「戦争を知らないお前は、これから続々と生まれ来る次の世代、その先駆けだ。周りが何を言っても関係ない。好きでいたいなら好きでいていいし、助けたいなら助ける、守りたいなら守る。本当なら……」
黒髪をなでていた手が止まった。恵那は不思議そうに黙り込んだ祥鋭を見る。
「……本当なら、俺たちも、そうあるべきなのに……」
「祥鋭さん?」
痛みをこらえるように眇められる赤い瞳。心配そうな声に視線を揺らし、何かを言いかけ――けれど祥鋭は言葉をのみこんだ。さっきまで恵那を撫でていた優しい手で、顔を押さえて。
「……恵那。明日、アイズに来るか?」
「……? うん。今日千早に任せていた改修の状況も確認しなきゃいけないし」
そうか、と答える。不安そうな表情を浮かべる少女は、まだ、知らない。敵対するものがいなくなって、たった四年で巻き起ころうとする不穏な嵐のことを。
けれど、隠し通すのは初めから無理な話。彼女は情報系列隊第二分隊を預かる長老会の一員であり、アイズの全てを知るノアの管理者でもある。隠し通せることでなく、隠しても害が大きいことならば。
(……晶樹さん、すまない。俺はあなたの望みを裏切る)
伝聞でしか知らぬ大伯父に心の中で詫び、祥鋭は薄く笑った。それはわずかな自嘲と諦めの発露。
しかし次の瞬間にはその残滓さえ振り切り、まっすぐ恵那の目を見る。彼女は思わず背を伸ばした。
「明日――日本時間の十三時から長老会議を開く」
息を詰める恵那。その目から目をそらさずに。
「――アニルで戦争が起こる。そのことについての話し合いだ」
祥鋭は告げた。戦いが起こることを。戦いを知らずにおれるはずだった、最初の一人に。
『……損な性分ね、あなたは』
恵那が出ていってしばらく。耳元に響いたノアの声に、祥鋭はかすかに肩を揺らした。
「嫌な役回りだとは……思うさ。優姫と、恵那と。妹を二人とも戦いに巻き込む」
『力を持つ魔法使いの宿業。……と言うのもむなしいわね。戦争なんて、もう終わったものと思っていたのに』
「俺たちだってそう思っていた。だから、これで、ようやく――逃れられると思ったのに」
分かたれていた種族が一つに戻って、確かにまだ問題は各所に残っている。けれど上位の魔法使いが出るような――そして何よりあの子が必要とされるような場面はなくなって、だからこそ、普通に生きてほしかったのに。
『恵那のこと、話すの?』
「まだだ。まだあの子を巻き込むと決まったわけじゃない。……できるだけ巻き込まない。それは変わらない」
でないとお前が拗ねるろう? と問いかけると、当たり前でしょう? と返される。知っているのは本人、賢十会、それと情報系列隊隊長だけだが――ノアの最優先事項はアイズではなく、あの子を守ることだ。最高司令官による命令より、恵那の命令をノアは優先する。
「だからもういいだろう? 長老会に会議のこと、伝えてくれ」
探りを入れるのはもういいだろうと言うと、相手は『はーい』と答えた。肩をすくめる様子が脳裏に再現されたのは如実に伝わってきた雰囲気のせいか。ようやく自分以外の気配がなくなった部屋の中、祥鋭はこぼした。
〈どうして、こううまくいかないんだろうな〉
ただ日々を平穏に過ごしたい――それだけが、彼らの願いなのに。
何百年分の記憶をもつ魔法使いは、深い、深いため息をつき、重い腰を上げた。
祥鋭の部屋から出た恵那は、同じ階にある彼女の部屋に入った。
めったに戻らない部屋はメイドによってきれいに掃除され、調度も恵那の年ごろの女の子が好む雰囲気に整えられている。それに感謝しつつ、恵那はチェストに近づいた。ガラスの置物やきれいな写真立てが飾られている中、上品な細工の宝石箱を取り上げる。
鍵口にそっと指を近づける。どういう仕組みなのか、触れるだけでかすかな音がして上蓋が開いた。その中に収められたものを、恵那は泣きそうな目で見つめた。
それは紅色の石を銀の鎖のトップにしたペンダントだった。指の先ほどの丸い石を巻貝のような螺旋状の檻に閉じ込めているのが珍しいと言えば珍しい形だが、真っ先に目を引くのは燃え立つような石、そのものだった。炎を閉じ込めたような石は自ら燃え立ち、存在を主張している。
恵那はそっと鎖をつまみ、取り上げた。宝石箱をチェストに戻し、両手でペンダントを包み込む。
震えた喉が、小さな音を紡いだ。
「……晶樹さん……」
か細い声はたよりなく空中に溶けていく。本人にも届かなかった声を聞いた紅い石は――恵那の手の中、刹那、応えるようにきらりと光を放っていた。
2013/07/26 加筆修正