第一部 入居
春でよかった。
淡い風が胸を締めつけて、悲しみを追い出すような気がしたから。
母が亡くなって、僕は一人になった。
長時間労働の運送会社を辞めて、約六年の闘病と介護の生活。四十歳を過ぎて、都営住宅を出ることになった。新居を探したが、天涯孤独の中年無職男に、民間の賃貸は良い顔をしなかったので、わずかな遺産と貯金を使って、この公営の団地に流れ着いた。
十九号棟。七階建ての四階、四〇四号室。終末患者に繋がる管のような外付けのエレベーターが奇数階だけに止まる。部屋は八畳ほどのダイニングキッチンと、四畳半の和室。風呂とトイレ別。築六十年と聞いていたが、内装は改装され、壁紙も床も新しい。その匂いが、落ち着かなかった。窓を開けると向かいの十八号棟が見える。灰色の壁に、同じ形の窓が規則正しく並んでいる。ここ一帯に、鉄筋の箱が三十棟以上も密集している。戦後の住宅難を解消し、都市部への労働力供給のため、「憧れの団地族」というラベルが貼られたこともあったらしい。今では入居者は高齢化し、昼も夜も人の気配が薄い。不気味なほど静かで、まるで漂流する宇宙船のようだった。
この部屋は特定物件だった。前の住人は孤独死で、発見は二週間後だったという。どの部屋で、どんな風に最期を遂げたのか、具体的なことは何も訊かなかった。もし訊いてしまえば、壁や床を見るたびに思い出してしまっただろう。
白い壁紙と、白い天井。どこにも痕跡など残っていない。何も感じやしない。むしろ、持ってきた最低限の家具と、僕自身が、新品のフライパンにこびりついた焦げのように場違いだった。玄関ドアの表札入れに、「真山」と書いた紙をガムテープで貼ったが、ただそれだけで、他に何もなかった。何かを始める気力とか、生きる意味だとか、ましてや夢だとか、もう考えることもない。僕の中で何かが消えて、空いた穴に酒を流し込んでいるような日々だった。とはいえ、このまま貯金を切り崩し続けるわけにもいかなかった。
そんなとき、近所の二十四時間スーパーで夜勤募集のポスターを見つけた。面接はWebで、と書いてある。最近は直接会うことすらしないらしい。
人間関係が希薄になったとは思わないが、そこに、漠然とした疲れのような空気を感じた。画面越しで話す気分になれず、僕はその場で店に電話をかけ、対面での面談を頼んだ。その足で文房具売り場に向かって履歴書を買った。数年ぶりに机に向かうと、案の定、手が止まる。何度も書き損じて、ようやく完成したそれは、自分のもののはずなのに、知らない人間の経歴のように見えた。
面談に現れた店長は、頭髪の半分が白い六十前後の小太りの男だった。小さな眼鏡をずり上げながら履歴書に顔を近づけ、「じゃあ、すぐお願い」と言った。渡された制服は湿ったように汚れていて、埃っぽい匂いがした。
帰り道、弁当の入ったレジ袋をぶら下げて団地まで歩いた。夜風は生ぬるく、虫の声は聞こえない。城壁のようにそびえる団地の間の暗い道を進むうち、無数の窓に囲まれていることに気づき、僕は少しだけ見下されているような気分になった。
深夜のスーパーでの仕事は思っていた以上に肉体労働だった。仕事を教えてくれた本田さんは、六つ年上の四十六歳。短髪をジェルで固め、彫りの深い顔をした恰幅のいい男だった。夜勤専門で、もう三年ここで働いているという。声はよく通り、話し方も明るく人当たりも良い。失礼だが、夜の人間だとは思えなかった。
この時間の勤務は基本的に二人だけだ。トラックで運ばれてくる商品の搬入と品出しをしながら、客の対応とレジ業務もこなす。店の広さは小学校の体育館ほどもないが、それでも、二人で回すには余裕がなかった。運動不足の体と慣れない作業で、筋肉だけでなく頭の奥まで重くなる。動くたびに身体と脳に痛みが走った。
初勤務を終え、店を出ると、外はもう明るかった。帰宅し、すぐに風呂場に入る。小さな窓から差し込む光にシャワーの雫が眩しい。久しぶりの労働の心地よい疲れ、湯気の中で、なぜか本田さんの「お疲れ。よろしくな」という別れ際の言葉を思い出していた。理由はよく分からないが、目頭が少し熱くなった。
そのときだった。ふと、視界の端で黒い影が動いたような気がした。
反射的にのけ反る。足が滑って、危うく転倒しかけた。慌てて顔を拭って、そちらを見るが何もいない。クリーニングされた白いタイルが濡れた光を反射しているだけだ。首を振り回して周囲を確かめる。あの大きさの黒い影といえば、思い当たるものは一つしかない。しかも、こちらは全裸だ。総毛立った。浴槽の縁や排水溝周りを探すが、やはり何も見つからない。疲れで見誤ったのかもしれないが、どこかに潜んでいるかもしれないと思うと、気持ちが悪かった。
◇
一か月が過ぎた。
僕は、まだ新居に馴染めずにいた。団地には家族で暮らしている世帯もあるはずで、子供の姿が見えても不思議ではない。それでも、廊下や階段で誰かとすれ違うことはほとんどなかった。朝、白髪の老婆が、ぼろぼろの押し車を押しながら歩いているのを見かけるくらいだ。
仕事には慣れ、少しずつ他の従業員や客とも言葉を交わすようになっていた。真剣に生きている人もいれば、そうでない人もいる。想像を超えるような状況でも、笑っている人間がいることも知った。
季節は春から初夏へ移ろうとしていた。
休日の昼過ぎ、僕はインターホンの音で起こされた。初めて聞いたその音量はかなりのボリュームで、心臓が跳ねた。スウェットのまま、マスクを着けてドアを開ける。そこには警官姿の男が二人立っていた。
「こんにちは。こちらにお住まいの真山さんで間違いないですか?」
まだ若そうな警官が言った。隣の初老の方が玄関の奥へ視線を向けたのが分かった。
曖昧に頷くと、若い警官は自分の所属と、吉田という名前を告げた。
「少しお話を伺いたいんですが……。最近、何か変わったことはありませんでしたか」
急激に覚醒する頭をフル回転させて、状況を把握する。おそらく巡回連絡というやつだろう。定期的な聞き込みだ。
「……特には」
「お隣の方とは、最近お会いになりましたか」
「いいえ……引っ越してきたばかりで、一度、ゴミ捨て場で挨拶したくらいです。あ、でも、隣人かどうかも、はっきりしません」
後ろめたいことがあるわけでもないのに、警官を前にしどろもどろになってしまった。冷静に考えると、隣人については表札にある『田村』という苗字しか知らない。たまに壁越しに何かを転がすような物音を聞いたことがあるくらいだ。
「亡くなられたことはご存じでしょうか」
「え、そうなんですか……。まったく知りませんでした」
「昨晩、室内で倒れているのが発見されました」
「すみません。夜勤なもので……」
なぜか謝ってしまった。初老の警官が手帳を開き、何かを書きこんでいる。
「一週間から十日ほど前に、物音とか、異臭、不審な車など、見かけませんでしたか」
「……いや、なかったと思います」
「そうですか。一応、身分証を拝見してもよろしいですか」
僕が免許証を渡すと、確認した後、吉田は自分の名刺と一緒に返した。
「何か思いだしたら、こちらに連絡してください」
二人は軽く頭を下げ、踵を返した。
ドアを閉めると、玄関に静寂が戻った。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
母の死後、病気や死ぬことについて考えないようにしていた。意識して遠ざけていた。それなのに、降って湧いた「隣人の死」に、身体がこわばって動けなくなった。冷や汗が背中を伝っている。聞き込み内容から考えて、不審死だ。まさか殺人犯として疑われていることはないと思うが、足が震えている。
発見は昨晩だと吉田は言っていたが、いつ死んだかは分からない。どれくらいの間、僕は死体の隣で寝起きしていたのだろうか。そういえば、この部屋の前の住人も、孤独死だった。
……どこだ。どの部屋で死んだ。
僕は打たれたように動き出した。和室、押し入れ、袋棚、浴室、トイレ、リビング、ベランダと、すべての扉を開けて回る。痕跡を、名も知らぬ誰かの、最後の痕跡を、探さずにはいられなくなった。
と、視界の隅で、何か黒く小さなものが動いた。反射的に目で追う。が、何もいない。確かに見えた。小さな虫のような影だ。壁に張り付いていたのか、空中を飛んでいたのか、素早くどこかへ隠れた。視線の先、押し入れに、まだ荷ほどきをしていない段ボールがあった。ガムテープを引き剥がして、乱暴に開ける。どうでいい小物や、欠けたコップ、学生時代のアルバム、捨てられなかった想い出のガラクタが顔を出した。虫などいるはずもない。
突然、耳元で羽音がした。一匹ではない。複数の虫がまとわりつくような音だ。狂ったように、両耳を両手でバタバタと叩きながら、ぐるりと振り返る。何もいない。なぜか見つからない。
ふいに、開け放った窓から風が吹き込み、カーテンが大きく揺れた。僕は乾いた風に当てられ、力なくその場にへたりこんだ。おそらく虫は、外へ逃げたのだろう。




