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少女たちの地獄(カレイドスコープ)~価値なしと言われた令嬢たち~  作者: 宮野夏樹
第3章 静止の地獄(スタティック・ヘル)~熱を捨てた令嬢は、燃え盛る火の中で眠りにつく~

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第1話 霧の島は何も求めない


 冬の海は、怒らない。ただ、すべてを等しく冷ましていく。熱も、正義も、欲も。寄せては返す波の反復は、それらすべてを「無意味な飛沫」へと還元していく。レナート島の朝は、いつも同じ色をしていた。


 灰白色。境界の曖昧な深い霧が海と空を溶かし、時間の流れさえも希釈する。ここでは、太陽が昇ることも、星が沈むことも、重大な出来事ではない。ただ、世界が白く塗り潰されている。それだけが、この島の唯一の事実だった。波打ち際に、一人の少女が横たわっている。


 リヴィア・フォン・レナート。


 この「忘れ去られた島」の領主にして、世界で最も無関心な存在。防寒のための外套も羽織らず、湿った冷たい砂に身を預けたまま、彼女は瞬きすらしない。薄灰色の髪は砂に汚れ、海水に濡れるに任せている。開かれた瞳は、何も映していない。遠くの水平線も、寄せては返す波も、価値を持たぬ現象として等しく無視されている。その傍らで、一人の男が黙々と石を積んでいた。


 カイル・ヴァン・ブライト。


 かつてイグナーツ皇国で「数字の正義」を信仰し、アストライアの尖兵として世界を最適化しようとした男。かつての鋭利な知性は今、意味のない作業を選び取る隠者の沈黙へと変貌していた。彼は砂浜から平らな石を選び出し、それを積み上げる。一つ、二つ。三つ目で崩れれば、また一つ目から。


 完成を目指さない。積み上げた数を記録することもない。かつて彼がアストライアに捧げた完璧な統計データは、セレスティーヌという「物語」の前に無力だった。その敗北が、彼の「数字への信仰」を破壊した。今、彼を現実に繋ぎ止めているのは、石の冷たさが指先に伝わるという、ただそれだけの、計算不能な感触だけだった。


 少し離れた岩陰で、もう一人の男が静かに湯を沸かしている。


 フェリクス・フォン・バルマ。


 かつて聖教国で「神の歌声」と称えられ、セレスティーヌの偽りの奇跡を音楽で彩っていた天才芸術家。今の彼が心血を注いでいるのは、音を殺すことだった。


 茶器が触れ合って音を立てぬよう、厚手の布を噛ませる。湯気すら立てぬよう、極限まで火加減を調整する。彼にとって、「美しさ」とは人を欺くための毒であり、耳を汚すノイズに過ぎない。装飾を剥ぎ取った、無機質な行為だけが、彼の摩耗した精神を救っていた。


 奇妙な静謐。だが、三人にとっては、これが完璧な均衡バランスだった。リヴィアが、ぽつりと呟く。


「……今日は、潮が重い」


 意味を成さない感想。気象学的な根拠も、詩的な情緒もない、ただの独り言。だが、カイルは石を積む手を止め、真剣な面持ちで頷いた。


「ええ。浮力がありません。積み上げるそばから、重力に負けていく感覚がある」


 フェリクスは何も言わず、淹れたての茶を差し出す。リヴィアは受け取らない。ただ、すぐ脇の流木の上に置かれることを許す。それでいい。この島では、何かを“する”必要も、応える必要もないのだから。




 正午前、その均衡は「外部」によって破られた。境界の霧を裂くようにして、二隻の船が姿を現したのだ。


 一隻は、漆黒の船体に黄金の鷲を刻んだ皇国の軍船。

 もう一隻は、純白の帆に聖印を掲げた聖教国の宣教船。


 同時に、同じ島へ。まるで、過熱しすぎた世界が、残された唯一の「空白」を埋めるために押し寄せてきたかのようだった。カイルの指が、積み上げようとした石を不器用に取り落とした。


「……来ましたね。彼らは、空っぽな場所があることが許せないんだ」


 フェリクスは、無意識に一歩、リヴィアの前に出た。それは守るための動作ではなく、彼女の視界を「外の汚れ」から遮るための拒絶だった。リヴィアは、ようやく緩慢な動作で上体を起こした。髪についた砂を払おうともせず、眠たげな目で、上陸してくる使者たちを見つめる。


「……面倒ね。放っておけば、勝手に沈むでしょうに」


 上陸してきた使者たちは、互いを牽制する火花を散らしながらも、リヴィアの前では同じ「正義」の顔を作った。


「リヴィア・フォン・レナート領主! この島は皇国にとって、戦略的要衝であると結論づけられた。即刻、資源調査と軍事拠点の設営に協力を―――」

「聖なるルミナリスの教えを広めるため、この島に礼拝堂を。停滞は罪です、信仰による発展こそが民の救いに―――」


 効率。最適化。救済。熱狂。言葉は違えど、その本質は一つ。


 ―――お前の「無」を、私たちの「有」に差し出せ。リヴィアは、砂の上に立ち上がった。潮風に吹かれ、薄いドレスが彼女の華奢な輪郭を浮き彫りにする。


「……それで?」


 皇国の使者が眉をひそめ、声を荒らげる。


「それで、とはどういう意味だ! 世界情勢を見ろ。アストライア様の合理的統治が進む中で、この島だけが取り残されている。非効率だとは思わないのか!」

「効率的に、正解を出して。嘘を信じ込ませて、奇跡を演じて。……それで、その後はどうするの?」


 リヴィアは、欠伸を噛み殺しながら首を傾げた。


「その先に何があるっていうの。……面倒なだけじゃない。いつか滅びる国のために、今の安眠を捨てるなんて」


 空気が凍りついた。皇国の「正論」も、聖教国の「熱狂」も、リヴィアが放つ絶対零度の虚無に触れた瞬間、意味を失って砕け散る。


「貴女は、この島の領主でしょう! 義務があるはずだ!」

「世界、ね」


 リヴィアは、霧の向こうを一瞥した。そこにはアストライアが作り替えた「正しい世界」と、セレスティーヌが塗り替えた「幸福な世界」があるはずだった。


「ここから見えないものは、全部同じ。砂粒に名前をつけて管理するような、無駄な努力」


 リヴィアは一歩、前に出る。使者たちは、その圧倒的な「やる気のなさ」に、毒を盛られたかのようにたじろいだ。


「島を戦場にすればいいんじゃない? 皇国と聖教国で、殺し合って、最後の一人が死ぬまで戦えばいい。……そうすれば、後には誰も残らない。死体は波が洗ってくれる。片付けが楽になるから、私は賛成よ」


 脅しでも、挑発でもない。ただ、心の底から「その方が効率的で楽だ」と信じている者の、純粋な言葉。価値そのものを、ゼロに還元する宣告。背後で、カイルが小さく息を吐いた。その顔には、狂気的な安堵が浮かんでいた。


「……ああ。そうだ。数字を積み上げた先にあったのは、ただの崖だった。リヴィア様、あなたの言う通りだ」


 フェリクスは、音を立てずに深々と一礼した。美しさも正しさも、この島に満ちる「静かな虚無」の前では、ただの騒音に過ぎない。使者たちは、退いた。理解できない深淵から、人は本能的に距離を取る。彼らが背負ってきた「大義」は、この少女の前では、赤子が振るうガラガラほどの重みも持たなかった。霧が、再び島を包み込んでいく。




 夕刻。三人は、また朝と同じ場所に戻っていた。潮風が砂を運び、男たちが踏み荒らした足跡を平らにならしていく。何も変わらない。何も進まない。明日には、すべてが忘れ去られている。それが、このレナート島の唯一の価値。リヴィアは、再び砂に横たわった。


「……ねえ」


 カイルとフェリクスが、同時に視線を向ける。

 

「今日は、もう何もしなくていいわよ。……明日も、その次も」


 二人は、静かに頷いた。それこそが、彼らがこの世界で最後に見つけた、唯一の祈りだった。


 世界が燃え上がる音を、霧と虚無で冷やし続けること。レナート島は、今日も何も生まない。だからこそ、ここでは何も壊れない。冬の海は、怒らない。ただ、すべてを等しく、優しく、冷ましていくだけ。

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