第4話 虚構の礎あるいは最初の嘘
深い闇の底で、私は古い夢を見ていた。まだ私が「聖女」という名の偶像ではなく、ただの「魔力を持たない欠陥品」として数えられていた頃の記憶だ。
十年前。聖教国ルミナリス。伯爵家の三女として生まれた私は、一族の期待と失望を一身に背負い、魔力測定の祭壇に立った。白い石床は冷たく、裸足の裏から現実が這い上がってくる。
測定器の針は、動かなかった。
一度も。
微塵も。
神官たちの溜息が、合唱のように重なった。
「……記録なし」
「反応ゼロか」
それは宣告だった。
「無能な花嫁。ド・ラ・フォンテーヌ家の恥晒しめ」
父の言葉は、感情を伴わない分、冬の刃のように鋭かった。私は泣かなかった。ただ、足元が崩れる感覚だけがあった。
その日から、私の価値は帳簿から消えた。社交界からも、将来からも。行き場を失い、教会の図書室の隅で本の背表紙に額を押しつけていた私に、声をかけたのが一人の少年だった。
「泣いても、空気の振動が増えるだけですよ。お嬢様」
顔を上げると、眼鏡の奥からこちらを観察する視線。感情ではなく、事実を見る目。当時、孤児として教会の雑用をこなしていた少年―――ノア。
「……変わった慰め方ね」
「慰めてはいません。現象を述べただけです」
可愛げのない少年だった。だが、不思議と腹は立たなかった。私たちは、似ていた。
私は「能力」がなく、彼は「身分」がない。この世界では、どちらも“存在しない”のと同じだった。
「ノア」
私は小さく言った。
「私、死にたくないわ」
声が、震えた。
「このまま役立たずとして、どこかの修道院に閉じ込められて、誰にも期待されずに朽ちていくのは……嫌」
ノアは少しだけ考え、やがて頷いた。
「なら、計算を書き換えるしかありません」
彼は埃をかぶった古文書を机に広げた。そこにあったのは、魔術ではない。
薬学。
物理。
人体反応の記録。
―――奇跡を、再現するための禁忌。
「成功確率は?」
私が問うと、「低い」―――彼は即答した。
「ですが、ゼロではありません」
それで、十分だった。最初の嘘は、とても小さかった。薬で熱を下げただけの子供。自然治癒の範囲だったのかもしれない。けれど母親は泣き崩れ、「聖女様が救ってくださった」と叫んだ。
―――その瞬間。私は、確かに感じてしまった。嘘でも、人は救われるという事実を。そして、決定的な転機が訪れる。
皇国からの親善大使。一人の少女。アストライア・フォン・オズワルド。彼女は、私の必死の演出を一通り眺め、静かに言った。
『あなたの祈りには、再現性がないわ』
声は淡々としていた。
『それは統計的な誤差、あるいは―――稚拙な手品ね』
『ルミナリスの信仰とは、これほどまでに非効率なものなの?』
その瞳は、澄み切っていた。泥水越しに私を見るような、残酷な透明さ。
正しかった。あまりにも。
彼女の正論は、私が必死に積み上げた小さな嘘を、理路整然と、完璧に、否定した。あの瞬間、私は理解した。
―――この人は、嘘をつかずに生きられる。
羨ましい、と思った。ほんの一瞬だけ。
同時に、悟った。この正しさは、私を殺す。アストライアが去った後の静寂の中で、私はノアに言った。
「ノア。私は決めたわ」
声は、もう震えていなかった。
「彼女がこの世界を“掃除”するなら、私は“増築”する」
「彼女が正論で壊すなら、私は嘘で守る」
唇を噛みしめ、続ける。
「たとえ、それが地獄への道だとしても」
ノアは、しばらく沈黙し、やがて言った。
「……喜んで」
そして、初めて私の名を呼んだ。
「あなたの舞台監督を務めましょう。セレスティーヌ」
あの日、私たちは初めて手を繋いだ。冷たく、震える手。だがその絆だけは、どんな真実よりも強固だった。
―――目が覚めると、視界にノアの顔があった。
現実の。十年後の、共犯者。
「……長い夢を見ていたわ」
「薬の副作用でしょう。心拍数は安定しています」
彼は淡々と額の汗を拭う。だが、その指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。
「カイル・ヴァン・ブライトは?」
「皇国へ報告に戻りました」
「『聖女の魔力は観測されたが、その運用には疑念が残る』……彼らしい中間報告書を残して」
私は、重い体を起こし、窓の外を見る。朝日が、ルミナリスの街を白く染め上げている。
アストライア。あなたは今も、正しい世界を作っているのでしょうね。
でも、見ていて。あなたの正論に焼かれ、切り捨てられた“端数”の私たちが、この嘘の金箔で塗り固めた王国を、どこまで大きくできるか。
「行きましょう、ノア。次の舞台の幕を開ける準備を」
「承知いたしました。……聖女様」
私は鏡に向かい、血の気の引いた唇に紅を引く。完璧な微笑みを、再び顔に貼り付ける。
真実が私たちを拒むなら―――私たちは、嘘を真実にするだけ。




