第4話 価値のない誇りは、誰も救わない
イグナーツ皇国による統治が始まって、半年が過ぎた。旧カスティエロ王国の民が真っ先に目にした変化は、血の流れる粛清ではなく、冷徹な「数字」だった。
広場に掲示された新しい魔法帳簿。そこには、前政権がいかに不透明な理由で重税を課し、それを王族の遊興費に溶かしていたかが、残酷なまでに可視化されていた。
「……税が、減った?」
当初、民は疑った。だが、減ったのは税だけではない。理由も告げられぬ徴発が消え、道が整い、兵は略奪者から「守る存在」へと変わった。
「『国を売った女狐』だなんて、誰が言ったんだ……」
酒場で、誰かが震える声で呟いた。
「売られていたのは、俺たちの方だったんじゃないか。あのアドニス殿下に、安い飾りとして」
その言葉の続きを、誰もが沈黙で肯定した。アストライアが国を売ったのではない。彼女は、不当に搾取されていた民という名の「資産」を、正当な市場へと解き放っただけなのだ。
変化を受け入れられぬ旧貴族たちが企てた報復も、実行に移される前にすべて露見し、摘発された。
「自覚が足りませんね」
摘発の報告書を閉じ、アストライアは淡々と告げた。
「今のオズワルド領は、皇国の一部です。反逆の相手が誰か、理解してから動くべきでした。……シリル、彼らの『処分費用』は、没収した私財で賄えますか?」
「もちろんです、アストライア様。一銅貨の無駄もなく、彼らの骨まで換金して差し上げましたよ」
シリルは、まるで美しい花を捧げるような手つきで、断罪された貴族たちのリストを差し出した。
そして───最後まで、何も変えられなかった男がいた。アドニス・カスティエロ。
王城を追われた後も、身なりだけは整え、誰も敬わぬ命令口調だけは死ぬまで失わなかった。
「僕は、王族だぞ。アストライアを呼べ、早く僕を迎えに来させろ」
誰も、応えない。最後に目撃されたのは、裏路地で身なりの良い男娼に縋りつき、かつての華やかな夜会の話を延々と語る惨めな姿だった。
凍える冬の朝。彼はゴミ溜めの傍らで、誰にも看取られることなく、ただの「無価値な死体」として発見された。
「……死体としての市場価値もゼロ、ですか」
その報告を受けたアストライアは、眉一つ動かさなかった。元国王夫妻、エドワードとイザベラは、地方の小さな館でただ嘆息した。
「……私たちは、息子を育てたのではなく、『飾り』を甘やかしていただけだったのね」
贅沢はないが、尊厳だけは与えられている。それがアストライアが下した「元・王族」への適正な処遇───「生かさず殺さず、ただの人間として朽ちる」という、彼女なりの最も残酷な憐れみだった。
ある夜、アストライアは高楼から街を見下ろしていた。
「……これで、よろしいのですね」
ふと漏れた独り言に、背後から熱を帯びた声が返る。
「ああ。君は、この国の機能を完全に取り戻した。……そしてようやく、君を仕事から奪い去る権利を俺が手に入れた」
ヴァレリアンが隣に立ち、彼女の細い指先を絡め取る。
「この街の灯りは、すべて俺が君に与えた報酬だ。だが、報酬を受け取ったからには、それ相応の『拘束』を受けてもらうぞ。二度と、俺の目の届かない場所へは行かせない」
足元では、シリルがアストライアのドレスの裾を握りしめ、恍惚と呟く。
「あなたが救った民衆には、あなたの微笑みなど必要ありません。彼らには数字を。……そして僕には、その冷たい足蹴りと、終わりのない命令を。死ぬまで僕を使い潰すと、もう一度誓ってください」
アストライアは、夜風に髪を揺らし、微笑んだ。独占したい支配者と、壊れたい側近。二人分の異常な愛を天秤にかけ、彼女はそれを「維持コスト」として受け入れることにした。
歴史は、最後にこう記すだろう。
『王国は滅び、皇国は拡がった。だが、真に救われたのは───名もなき民であった』
そして、その裏頁には、決して消えない血と蜜の契約が刻まれている。一人の有能な女狐と、彼女を逃がさない二人の怪物の、永遠に続く「経営」の記録が。
───幕は、静かに下りる。




