第2話 王国解体───あるいは、掃除の作法
イグナーツ皇国の城門は、音もなく開かれた。そこには熱烈な歓迎の儀仗も、侵略者を呪う怒号もない。ただ、すべてを理解した者たちが作り出す、深海のような沈黙があるだけだった。
馬車を降りた私は、冷たい空気の中で白い手袋を整える。
「───“手土産”は確かに受け取った。期待以上の精度だ、アストライア」
隣に立つヴァレリアン殿下が、手の中の青い魔法結晶を見つめて告げる。そこに収められているのは、カスティエロ王国の物流、財政、そして全貴族の急所。もはやこの国は、剣を振るうまでもなく、指先一つで解体できる「機能不全の残骸」だった。
「では、始めましょうか。汚れは早いうちに落とさねば、染みになりますから」
私の声に、怒りも哀しみもない。あるのは、膨大な事務作業を前にした実務家としての、冷徹な優先順位だけ。
改革は、外科手術のような迅速さで行われた。まず着手したのは、王国の中枢で寄生していた無能な血縁貴族たちの「切除」だ。彼らが誇っていた世襲の特権は、私が提示した『能力評価基準表』の一枚によって無効化された。魔法結晶に刻まれた「不正の証拠」を突きつければ、彼らは反論の余地もなく爵位を剥奪されていく。
「……アストライア様。旧王家の縁者から、助命と地位保全の嘆願書が届いておりますが」
シリルが、可笑しくてたまらないといった様子で紙束を差し出す。その指先が、私の指先に触れるか触れないかの距離で止まり、まるで熱病に冒されたような視線が私を射抜く。
「不要です。腐敗は、温度を下げれば止まるものではありません。切除して廃棄すべきです」
内容を一瞥することなく切り捨てると、シリルは「ああ……」と、責め苦を悦んでいるかのような溜息を漏らした。
「仰せのままに。あなたのその『切り捨て』こそが、僕にとっての最高の報酬です。さあ、次はどの無能を、あなたの足元へ跪かせましょうか?」
軍制改革も同様だった。豪華な装飾に身を包んだ「名ばかりの将軍」たちは、戦場ではなく査定の場で全滅した。不満を漏らす暇さえ与えず、彼らの「居場所」そのものを組織図から消去したのだ。
そして、最も残酷だったのはカスティエロ王家への処置である。
私は彼らを処刑しなかった。民衆の前で晒し者にして、悲劇の主人公にするような真似もしなかった。ただ、「政治的価値がゼロの一般人」として、歴史の舞台裏へ静かに押しやった。王という自覚さえ持てなかった彼らにとって、誰からも関心を持たれず、ただ生かされるだけという現状は、死よりも重い刑罰となった。
一方、私の生家であるオズワルド公爵領については、皇国議会で一つの決定が下された。
「オズワルド領は、イグナーツ皇国領として編入する。ただし、現領主の統治能力は極めて高く、民心も安定しているため───自治権と地位を完全に据え置くものとする」
ヴァレリアンの宣言に、異論を唱える者は誰もいない。当然だ。オズワルド領は、私がアドニスと婚約していた数年前から、すでに皇国の経済圏と密かに結びついていたのだから。
その夜。皇城の高楼で、私たちは並んで夜景を見下ろしていた。
「……本当に、容赦がありませんね。あんなに鮮やかに国をバラバラにするなんて」
シリルが、恍惚とした表情で私を見つめ、静かに私の足元に膝をつく。彼は私の靴を脱がせようとするかのように、その足首を恭しく、しかし逃がさないという確かな力で掴んだ。
「褒め言葉として受け取ります。非効率な構造を維持するのは、資源の無駄ですから」
私は、足首を掴むシリルの手を払うこともせず、静かに紅茶を啜った。
「アストライア。私としても、これほど楽な征服はない。君が来てから、無駄な血が一滴も流れていないからな」
「血を流すのは、交渉が失敗した際の最終手段です。……最初から勝てる帳簿を作れば済む話でしょう?」
ヴァレリアンが背後から歩み寄り、私の手からティーカップを取り上げると、テーブルに無造作に置いた。彼は私の背を抱き込み、耳元で低く、独占欲を孕んだ声を響かせる。
「ああ、その通りだ。だが、この国の『資産価値』は、君一人の価値には遠く及ばない。アストライア……君が組み替えたこの世界は、俺が君を閉じ込めておくための、最も広大な『鳥籠』に過ぎないんだ」
ヴァレリアンの支配的な抱擁と、足首に絡みつくシリルの献身的な視線。
かつての王国は、もう存在しない。
歴史書は、後にこう記すことになる。
『王国は滅びたのではない。真に価値を知る者の手に、正しく移譲されたのだ』
独り占めしたい男と、使い潰されたい男。その二人に挟まれながら、アストライアは自分が「適正価格」をつけた世界を統べるために、ただ前へと進んでいく。




