第1話 白銀の断罪あるいは不潔な聖域
王宮は、腐っていた。磨かれているはずの大理石の床には、幾層にも重なった古い酒の染みが、光沢ではなく粘り気となってこびりついている。天井から無数に垂れ下がる水晶の燭台は、ただ過剰なだけで、油煙に曇った光は空気の濁りを強調する役にしか立っていない。そこにあるのは、甘ったるい香水と、隠しきれない汗と、煮詰まった欲望の混合物。
そして何より―――音。
笑い声は卑俗に濁り、足音は統制を欠いて乱れ、衣擦れはだらしなく、呼吸さえも節度を失っている。調律を放棄された楽器のような、不快な雑音が謁見の間を埋め尽くしていた。
その腐敗した空間の、中心。そこだけ、絶対零度の冷気が立っていた。白銀の鎧を纏った一団。聖騎士団。先頭に立つ女は、まるでこの場所だけが異なる地平に属しているかのようだった。
―――エルザ・フォン・アーレント。
透徹した氷青の瞳は、瞬きさえも厳格に節制され、背筋は一寸の歪みもない垂直な線として存在している。白銀の髪は、後頭部で寸分の乱れなく結い上げられ、鏡面のように磨き抜かれた鎧は、周囲の醜悪さをただ拒絶するために輝いていた。それは装飾ではない。不浄に対する、絶対的な拒絶である。
「ほう、来たか。余の『白い処刑人』よ」
王が笑った。脂肪に埋もれた喉が不快に震え、酒臭い吐息がさらに空気を汚染する。
「褒美を取らせよう。余の伴侶にしてやろうぞ?」
王の太った指先が弾かれると、傍らに控えていた女が押し出された。薄布を纏っただけの、堕落の象徴のような娼婦。むせ返るような香油の匂いが漂う。女は媚びた微笑を浮かべ、エルザの足元へ跪こうとした。
その指先が、白銀の甲冑に触れかける。止まった。物理的な接触はない。だが、エルザの視線が落ちた瞬間―――広間の空気が物理的に凍結した。女の呼吸が止まり、王の笑い声が途切れ、楽師の指が旋律を忘れる。鋭利な氷柱を突き立てるような声が、静寂を切り裂いた。
「近づかないでください」
囁きに近い音量。だが、それは一切の交渉を拒む絶滅の宣告だった。女は蒼白になり、床に額を擦りつけるようにして後退した。悲鳴を上げることさえ、彼女の「正義」には許されない。エルザはもう女を見ていなかった。視線は王へと戻されている。
「……潔癖だな。だがそれも良い。では働いてもらおう」
王は杯を傾け、こぼれた酒で服を汚しながら言った。
「国境の村を焼け。徴税率が悪い寄生虫どもの巣だ。一匹残らず『浄化』してこい」
沈黙。誰もが理解していた。それは命令ではなく、酔漢の気まぐれに過ぎないことを。
だが。エルザは跪いたまま、ゆっくりと顔を上げた。瞳の温度は、すでに生物のそれを超えている。
「陛下」
声は、無機質な計器のようだった。
「その命令は、法に照らして不当です。ゆえに、執行する価値が存在しません」
王の眉が、不快そうに跳ね上がった。
「……何だと?」
「従って」
彼女は、淡々と断じた。
「この場をもって、陛下を『国家の不純物』と定義いたします」
それは、爆発よりも遅れて訪れる衝撃だった。
「な、何を―――」
誰かが叫ぶより早く、黒い影が滑るように動いた。エルザの三歩後ろ。常にそこに影として存在する男。副団長、ヨアヒム・カイン。彼は音もなく一歩前へ出ると、一通の封書を掲げた。封蝋には王家の紋章。だが、その印影は無残に潰されている。偽造の、あるいは廃棄の証。
中に記されているのは、数字に裏打ちされた「汚れ」の記録。横領、売国、私刑、密輸。王が積み上げてきたすべての汚泥が、完璧な書式と、あまりに整った筆跡で列挙されていた。それは、数年前から精緻に用意されていたものだ。この日のために。
(ああ……美しい)
ヨアヒムは、誰にも見えない角度で口角を歪めた。エルザは今、自分の高潔な意志で王を裁いていると信じている。だが、違う。
彼女がこの瞬間に至るための情報は、すべて自分が濾過し、提供してきた。彼女の正義が最も純度高く、最も美しく燃焼する濃度を計算して。エルザが立ち上がった。剣は、まだ抜かない。
「清掃を開始します」
その一言で、音が消えた。次の瞬間、聖騎士団が動いた。速いのではない。そこに「躊躇」という摩擦がないのだ。側近の腕が拘束され、逃げ惑う貴族たちが冷徹に押し伏せられる。短い抵抗と、短い悲鳴。そして、完璧な沈黙。
血は飛ばない。飛ばさない。騎士たちの剣は、飛沫が上がる前に急所を断ち、溢れる前に布で吸い取られる。エルザの周囲には不可視の障壁が展開され、一粒の塵の侵入さえも許さない。王が椅子から転げ落ちた。
「ま、待て! 余は王だぞ! 国そのものだ!」
「はい」
エルザは歩み寄り、冷たく剣先を王の喉元へ突き立てた。
「だからこそ、排除するのです。不適合な部品は、機械全体の精度を損なう」
王は泣いた。鼻水を垂らし、唾を飛ばし、醜い音を立てて命を乞う。
「助けろ……! 褒美をやる! 女も、金も、この国の半分でも―――」
「雑音です」
刃がわずかに押し込まれ、王の言葉を物理的に断つ。
「貴方の存在が、この国の平均純度を下げています」
沈黙。不純物が取り除かれた後の、死のような静寂。
夜のテラス。吹き抜ける風が、王宮に残った不浄な臭気を浚っていく。眼下には、王都の灯が広がっていた。歪んだまま、濁ったまま。エルザは、その光景をただ見下ろしている。
「……まだ、濁っていますね」
吐き出された独白。背後に立つヨアヒムが、一歩近づき、エルザの肩の鎧を指先で払った。そこにあるはずのない、目に見えない塵を拭うように。
「お見事でした」
熱病のような囁きが、彼女の耳朶を打つ。
「次は、どの『汚れ』を地獄へ送りましょうか?」
エルザは答えない。ただ、街を見つめる。その瞳には慈悲も怒りもなく、あるのはただ、冷徹な測定だけだ。純度。濃度。除去率。やがて、彼女は言った。
「全部です」
夜風が止む。王都はまだ、死にゆく前の宝石のように美しい。だが、その瞬間。この国の未来は、確定した。完全な浄化―――誰も救われることのない「正義の地獄」が、幕を開けたのだから。




