第3話 盲目なる崇拝あるいは静かなる埋葬
島は、奇妙なほど穏やかだった。沖合では皇国と聖教国の艦影が黒い染みのように水平線を汚し、世界は再び「大義」という名の熱を帯びつつある。だというのに、レナート島の空気だけは絶対零度のまま凪いでいた。厚い霧はすべての色を奪い、風は止まり、打ち寄せる波の音すらも、砂に吸い込まれるように角が取れていた。
リヴィア・フォン・レナートは、海の見える寝椅子に深く身を預けている。瞳は開いているが、何かを見ているわけではない。通り過ぎる雲も、足元の男たちも、彼女にとっては価値を持たぬ背景に過ぎない。すべてが等しく彼女の視界を透過し、何も留めず、何も残さない。
その足元で、カイル・ヴァン・ブライトは跪き、黙々と作業を続けていた。手のひらに収まる、小さな石。海岸で拾ってきた、ただの海石。彼はそれを、指先で転がし、布で磨き、その角を削り落とす。かつてその指先は、国家予算の不整合をミリ単位で暴き、数万人の生死を机上で裁いていた。
だが今、彼が全神経を注いでいるのは、石の曲面がどれほど滑らかになったか、それだけだ。意味はない。用途もない。完成しても誰にも評価されず、明日にはまた波に返されるだけの無意味。それが、今の彼にはたまらなく心地よかった。
「……リヴィア様」
彼は磨き上げた石を一つ、そっと差し出す。
「今日の石は、昨日よりも滑らかです。……数字にはできない、純粋な曲線だ」
「そう」
リヴィアは視線を向けない。石にも、それを捧げたカイルにも。その徹底した無関心が、カイルにとっては刃のように鋭く、そして真綿のように優しかった。見られていない。期待されていない。正しくあることを求められない。それは、アストライアの「正しい視線」に追い詰められていた彼が、生まれて初めて手に入れた「透明になる権利」だった。ここでは、何者にもならなくていい。役に立たなくていい。正解も間違いも存在しない場所で、カイルは静かな恍惚に浸っていた。
寝椅子の反対側。フェリクス・フォン・バルマは、岩の上に腰を下ろし、古い弦楽器を抱えている。彼は、歌わない。弦に触れる指先は、限界まで力を抜き、音が生まれる直前の「震え」だけで止められる。旋律を拒絶し、調和を捨て、ただ空気が微かに揺れるだけの無音を奏でる。かつて彼は、その歌声で数千人の心を震わせた。感動を演出し、涙を誘い、セレスティーヌの嘘を「神の奇跡」へと昇華させてきた。美しさという名の暴力を振るい続けてきた彼が、今、手に入れたのは―――音の死骸だ。
「……美しい」
誰に向けたとも知れぬ言葉が、白く冷たい霧に溶ける。
「ここには、演出がない。意味も、期待も……汚れも。何一つ、存在しない」
フェリクスは、リヴィアの足元に視線を落とす。霧で湿った彼女の裾を、指先で丁寧に整える。感謝も拒絶もされない、一方的な奉仕。だが、そうして彼女の「静寂」の一部に加わっていることだけが、彼の壊れた魂を繋ぎ止めていた。彼女は、応えない。応えられることが、どれほど残酷な「義務」を強いるかを、フェリクスは知っている。だからこそ、この一方的な虚無を愛していた。
カイルは、ふと顔を上げた。衝動に突き動かされるように、リヴィアの膝にそっと額を預ける。許可は取らない。だが、拒絶もされない。触れた彼女の体温は低く、一定で、感情の揺らぎがひとかけらも感じられない。まるで、精巧に磨かれた墓石のようだ。だがカイルは、そこに顔を埋めながら思う。
―――ああ、これは、埋葬だ。アストライアに教え込まれた「正しさ」も、背負わされた「使命」も、挫折した「誇り」も。そのすべてが今、リヴィアという名の虚無の下で、静かに土へと還っていく。
フェリクスはその様子を、感情を排した瞳で見つめていた。羨望も、嫉妬もない。同じ墓穴の中に、三人で静かに横たわっている。それだけで、世界は完結していた。
リヴィアは、二人を救おうとしていない。手を差し伸べてもいない。導いても、癒やしても、愛してもいない。ただ、そこに「何もない」ことを許容しているだけだ。だが、だからこそ。熱に焼かれ、光に目を潰された者たちにとって、この冷え切った空虚こそが、この世で唯一の聖域となる。
―――盲目なる崇拝。
―――静かなる埋葬。
霧の向こうで世界が再び燃え上がろうとも、三人は何もない場所で、何も持たず、ただ互いの呼吸だけを確認し合っていた。
それ以上の幸福を、彼らはもう、知らなかった。




