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朝鮮の虎  日本初の世界ランキングボクサー 徐 廷権(1913- ?)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/01/04

日本統治下の朝鮮出身でありながら、悲願の世界ランキング入りを果たしたことで、徐は日本人ボクサーとして世間から認識されていた。とかく差別の多かった時代だけに、徐の活躍は同胞たちの誇りであり、日韓

の友情を結ぶ懸け橋でもあったのだ。

 戦前最強の日本人ボクサーといえば、真っ先に名前が上がるのが「拳聖」と謳われた堀口恒男だが、玄人筋からはその堀口に勝るとも劣らなかったという評価を得ていたのが、徐廷権である。

 この二人は同世代で階級も近いことから、公式戦でもグローブを交えているが、一階級上の堀口が全盛の頃に落ち目の徐に勝った(四ラウンドTKO)という記録だけから両者の優劣をつけるのは難しい。逆にデビュー直前の堀口は、スパーリングで一歳年長の徐から滅多打ちにされているのだ。


 徐廷権は日本占領下の朝鮮全羅南道順天府の両班の家に生まれ育った。両班というのは朝鮮のエリート家系で、一種の貴族階級に相当する。

 安田財閥が創立した東京植民貿易学校に学ぶため来日した徐は、学校に通う傍ら日本拳闘倶楽部(略称・日倶)でボクシングに打ち込んでいた。

 当時の日倶はアマチュアを標榜していたため、徐はアマチュア試合にしか出場する機会が与えられなかったが、実力はズバ抜けていて、昭和四年の明治神宮大会、五年の関東学生選手権、六年の全日本アマチュア選手権(いずれもフライ級)の三冠を制している。しかもこの時はまだ十七歳の若さだった。

 昭和六年四月に日倶がプロ参入を宣言したのは、徐の素質に期待してのことだった。

 同年四月二十日、日比谷公会堂で行われた徐のプロデビュー戦の相手に、人気絶頂の日本フライ級チャンピオン柏村五郎が選ばれたのは、渡辺勇次郎会長が愛弟子に華々しいデビューを飾らせたいという一念からである。

 「プロとアマの最強のフライ級の激突」と書けば、話題性は十分だが、今日ではこんな無謀なカードは絶対に組めない。

 美青年の柏村は女性人気も凄かったが、二十七勝四敗(十六KO)九引分の戦績が示す通り、実力も一級品である。仮にオリンピックの金メダリストであっても、今日であれば世界ランカークラスの日本チャンピオンをデビュー戦の相手に選ぶのはリスクが大きすぎる。

 当日の日比谷公会堂は、柏村がアマの天才少年をいかに料理するかを期待して集まったファンで大盛況だったが、いつもの「ゴローちゃ~ん」という黄色い声の応援が飛び交う前に試合は終わってしまった。

 一五七センチの徐は、小さな身体を丸めこむようなクラウチングスタイルでするすると柏村の懐に入り込むと、機関銃のような左右フックをボディに叩き込み、試合開始六十秒で柏村をキャンバスに沈めてしまった。試合巧者の柏村にとってこれはボクシング人生初の、そして唯一のKO負けであった。

 顎周辺へのピンポイントブローでKOされたボクサーは、一瞬神経が麻痺するため眠るように倒れるが、これがボディへの連打となると、苦悶の表情を浮かべてキャンバスでのたうち回る凄惨なシーンが展開される。いつものように凛々しい表情で勝ち名乗りを受ける柏村の姿を想像していたファンの期待は完全に裏切られたのだった。

 普段の柔和な顔からは想像がつかないような荒々しいファイトから、徐は「朝鮮の虎」と呼ばれるようになった。

 上半身が柔軟な徐は、フィリピンの英雄パンチョ・ヴィラ(世界フライ級チャンピオン)ばりの低い体勢でダッキングしながら相手の懐に入り込むのが実に巧く、回転の速いショートフックの連打は後年のファイティング原田を彷彿させるものがあった。

 柏村戦の後も連勝を続ける徐の人気が高まってゆくにつれ、日倶には入門者が次々と押しかけてきたが、生真面目な徐はビギナーとのスパーリングでも手抜きをしないため、退会する者も後を絶たなかったという。

 徐はなにも弱い者いじめをするつもりだったわけではない。自分より格下の相手を防戦一方にして打ち据えることで、ラッシングスピードとパワーを磨くという独特の練習法だったのだ。

 「新人殺し」などという有難くないニックネームを付けられた徐は、実力が抜きん出ているがゆえに練習相手にも事欠く有様だったが、再戦でも柏村を返り討ちにした(六ラウンド判定勝ち)直後の八月、アメリカから帰国した大先輩から稽古をつけてもらえることになった。

 この大先輩こそ、アメリカ西海岸で「ノックアウト・アーティスト」の異名を取った中村金雄である。

 さすがの天才少年も、海外で場数を踏んだ中村には完全に動きを読まれ、ラッシュ攻撃もカウンターの餌食になったが、驚くべきはその打たれ強さで、中村が手応え十分と感じたクリーンヒットを浴びながらも決してダウンすることはなかった。

 

 攻撃面だけが強調されがちだった徐が並々ならぬ打たれ強さを印象付けたのが、同年十二月十二日に行われた“青竜刀”こと植村竜郎との一戦である。

 後の中村と伝説的な四連戦を繰り広げることになる植村は、日本のリングではまだ一年目の新人で十勝八敗(八KO)九引分という不安定な成績しか残せていなかったが、大物食いで知られ、十二連勝中のエリートボクサーにとっても過去最強の相手といってよかった。

 この試合は柏村戦とは別の意味でファンの予想を覆す展開となった。

 ゆったりとしたモーションから繰り出す植村の左右スイングは、振りは大きくとも果断なく打ち続けるため、徐も間隙を縫って懐に飛び込むタイミングがつかめず、躊躇しているところにスイングを浴びてはキャンバスに横転した。

 中村のフィニッシュブローにも耐えた徐がたった一撃でなぎ倒される姿は、日倶のセコンド陣にとっても衝撃だった。なんと徐は三ラウンドまでに四度ものダウンを奪われたのだ。

 それでも不幸中の幸いというべきか、クリーンヒットではなかったためダメージは少なく、ダウンのたびに起き上がっては猛然と打ち返し、なんとかKOだけは免れた。

 そのうち打ち疲れた植村のスイングスピードが落ちてきたのに乗じて、得意のインファイトに持ち込めたおかげで劣勢を挽回し、かろうじて引き分けに持ち込めた。

 植村が軽量級きってのホープから何度もダウンを奪ったことで大いに株を上げた一方、徐も植村の青竜刀と恐れられたスイングに耐え、根性とタフネスにおいても筋金入りであることを証明できたことを考えると、両者にとって価値ある引き分けだったといえよう。

 同門である中村との対戦がない徐にとって、植村以外の軽量級は取るに足りない相手ばかりだった。

 結果、デビューから一年で十七勝〇敗(三KO)八引分と国内では敵なしになったところで、中村と同じくアメリカでの武者修行に送り出された(昭和七年五月)。

 渡米直後の前座試合で四連勝(三KO)して名を上げた徐は、程なくメインエベンターに昇格し、八月一日にヤング・トミーに判定負けするまで日米通算で二十三連勝を記録する。

 渡米二年目の昭和八年から九年にかけては軽量級トップクラスとの対戦が相次ぎ、十六勝十三敗と苦戦を強いられるが、後に東洋王座三階級制覇を達成するリトル・パンチョに一勝二敗一分と善戦したほか、後に世界バンタム級チャンピオンになる二人、スモール・モンタナ(一勝一敗)とルー・サリカ(〇勝一敗)との熱闘が認められ、九年十一月十五日には日本人としては三人目となるMSGの舞台を踏む機会を得た。

 この間世界ランキングでもバンタム級六位に名を連ねることになったが、ランキング入りは新人時代にコーチをしてくれた木村久以来のことで、十位以内は本邦初の快挙だった。

 まだ弱冠二十歳の徐の未来は明るいかと思われたが、MSGのデビュー戦でインディアン・キンタナに不覚を取ったのがケチのつき始めで、そこからははめっきり白星から見放されてしまった。

 勝負の年だった一九三五年(昭和十年)にスモール・モンタナに連敗したことで世界への夢は諦め、主戦場を日本に移すことになった。

 それでも「世界六位」の肩書きを持つ徐の帰朝は日本のスポーツ界ではビッグニュースで、七月十六日にサンフランシスコから龍田丸に乗船する予定であることから、横浜港まで出迎えに来た両親へのアメリ

カ土産として自動車を贈呈したことまでかなり事細かに報道された。

 庶民には縁遠い自動車をはるばるアメリカ西海岸から運んできた羽振りの良さも羨望の的となったが、世界チャンピオンクラスと互角に打ち合った強打者ぶりが過大広告され、“実質世界一”の拳闘選手として紹介されたのは、商業政策とはいえ、すでに選手としてのピークを過ぎていることを自覚していた徐にとってはちょっとした後ろめたさもあり、かえって大きなプレッシャーになったのではないだろうか。

 九月七日の帰朝第一戦の相手は世界ランカー相手にふさわしい実績の持ち主だった。

 フィリピンからやってきた前東洋J・フェザー級チャンピオン、クリス・ピネダは、過去に東洋バンタム級タイトルも同時に保持していたことがある試合巧者で、ラッシュのスピードが衰えた徐はピネダのカウンターの格好の餌食となった(十ラウンド判定負け)。

 ピネダは数ヶ月後に東洋バンタム級王座を奪回するほどの強豪ではあったが、“世界”の肩書きを引っ下げた徐が完敗してしまったことは日本のボクシング関係者には期待はずれだっただろう。戦評には徐が本来の実力を発揮できず、ピネダの奸計にしたやられたかのように書かれていたが、渡米前の徐を知る者から見れば、スピードの衰えは明白だった。

 昭和十一年二月四日、日比谷公会堂で行われた関斎との一戦でも、前評判では絶対有利を謳われながら、地味なテクニシャンでパンチ力には乏しい関を攻めきれず、デビュー以来の対日本人ボクサー連勝記録まで断たれるという失態を演じている。

 この試合は国内では人気絶頂の日本フライ級チャンピオン花田陽一郎の試合がセミファイナルで、無冠の徐がメインエベンターだった。それだけ徐のネームバリューが大きかったのだろう。しかし、その後の徐は日本人相手にも勝てなくなり、あっという間に過去の人になっていった。

 十二年一月四日に国技館の正月興行として挙行された堀口恒男戦は、いかにもビッグマッチという趣きではあるが、所詮は前年度十五勝〇敗(十二KO)二分という驚異的な成績を残していた東洋フェザー級チャンピオンの箔付け試合に過ぎなかった。派手な宣伝とは裏腹に、徐の勝利を予想する声は全く聞かれることがなかったのだ。

 この試合、徐は堀口のピストンラッシュの前に防戦一方となり、四ラウンドにボクシング人生二度目のストップ負けに退いた。

 かつては子供扱いした堀口に一方的に打ちのめされた徐の屈辱感も察して余りあるが、勝者堀口にとってもこの日のKO勝利は感慨深い一勝になったはずだ。徐に雪辱したばかりか、現在でも日本記録として燦然と輝く四十七連勝目になったからだ。

 この年いっぱいで現役を退いた徐は、故郷韓国に戻って徐廷権拳闘会の師範として、戦前、戦後を通じて後進の育成に尽力した。

 昭和四十一年夏には、約三十年ぶりの来日を果たし、かつてのライバル達と旧交を温めたが、以後の消息は不明である。

 生涯戦績 四十三勝二十七敗(十三KO)十五引分 

徐は傑出したアマチュアボクサーだった。現在だったら高校七冠とか八冠とかで大騒ぎされていただろう。

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