翳る名も 其は灯火と 花は云ふ
いい出会いも、そうじゃない出会いも一期一会じゃないですか?
で、それが?って感じですよね。そんな深く考えて生きていません。普通は。
分布域の朝は、いつもやけに明るい。
新しい家で迎える初めての朝ごはん――そのはずだったのに、テーブルの上はすでに修羅場だ。
「ちょっとヨマリ!またヒメのご飯奪って!ダメってば!」
「ネェ…カンガエテモミテクダサイ。ワタス、イッパイウゴク。ゲンキ。」
「…ぶはッ!だからって――あっ!」
油断した。一瞬面白くて笑っちゃった隙にヨマリの口にはパンの端がしっかり収まっていた。
しかしそのヨマリの背後から、すっと腕が伸びる。
「ほれ!ヨマリ!自分のパンへの注意が甘いよ!」
「ナノハァァァァ!!!返せぇぇぇ!!!」
ヨマリが振り返ったとき、ナノハは器用にパンをこねて犬の形にしようとしていた。
「大丈夫、返すから!犬パンだよ!」
「何でお前はいつもパンを捏ねるんだ!手ェ洗ってんだろーな!!」
私は苦笑しつつも、転がり落ちそうなスープ碗を慌てて押さえる。
気を抜くとテーブルごとひっくり返るんじゃないかと思うほどの騒ぎだ。
「……はぁ。せっかく完成した家なのに、初日からこれじゃあ先が思いやられるね」
ヒメは額に手を当てて溜息をつく。巡り巡ってヒメの皿に舞い戻った犬パン。
心なしか……いや絶対怒ってるこの犬パン!顔が!
しかし、不思議と心地よかった。
木槌の音と汗のにおいに包まれていた昨日までとは違って、
こうして笑って、喚いて、少し騒がしいだけの“普通の朝”。
ふと、気づく。
「あれ……そういえば、ミオウは?」
四人で顔を見合わせた。
そう――ひとり足りない。
「すぴーー…すぴーーー…」
ミオウは絶賛、寝坊中です
食器を片付け、テーブルを拭き終えたころ。
一仕事終え、場の空気はどこか妙に間延びしていた。
「ふぅ……」
ナノハが床にぺたんと座り込み、天井を仰ぐ。
「なんか、やることなくない?」
「……あ」
ヨマリが口を開けたまま固まった。
「ほんとだ。昨日までは建てろ!打て!運べ!って忙しかったのに……」
「今日は……なにもしないでいい……?」
ヒメも珍しく手持ち無沙汰に、スケッチブックを抱えたまま視線を泳がせている。
ページをめくる癖が出るが、もう書き込む余地はほとんどない。
家は完成してしまったのだ。
私も椅子に腰を下ろして、ふと気づく。
――たしかに、やることがない。
「……え、これってつまり」
ヨマリが両手を広げて、力強く宣言した。
「暇だ!!!」
「……暇だね」
「暇だな……」
「暇ぁ……」
三者三様の声が揃い、部屋に響いた。
その空虚さに、なぜか笑いがこみ上げてくる。
昨日まで命がけで家を建てていたのに、いまは“暇”という贅沢を持て余している。
変な話だ。
「……どうする?ほんとに暇だよ」
私が呟くと、ヨマリが両手をぶんぶん振り回した。
「こういうときはだな!体を動かす!走る!飛ぶ!蹴る!それしかない!」
「飛ぶのはわたしの専門だから、ヨマリは地上専門でいいんじゃない?」
ナノハがさらりと返す。
「むっ……役割分担された!?」
ヨマリが口をへの字に曲げて肩を落とす。
そんなやりとりを横目に、ヒメが静かに提案した。
「……散歩でもしてみない?考えごとするのに、歩きながらの方がいいときもあるよ」
「さんぽ!」
ナノハが即座に反応して、椅子から飛び上がった。
「いいじゃんいいじゃん!この分布域、広すぎてまだちゃんと見てないとこもあるし!」
「さんぽかぁ……」
私はちょっとだけ迷った。早くもぐうたらに体が慣れ始めている。
いや、これはいかん!家の中でぐだぐだしているよりはずっといい。
「……じゃあ、そうしよっか。みんなで散歩」
「おーっ!!」
ヨマリが木槌を肩に担ぎ、やる気満々で立ち上がる。
「ヨマリ待て、もうそれは使わないでしょ。置いて行きなさい」
「相…棒…」
木槌をそっと撫でながら、ヨマリは涙目で玄関に向かった。
「……なぁ、今ここはどの辺を歩いてるんだ?」
ヨマリが道端の石を蹴り飛ばしながら言った。
「うーん…地図が必要かもね?」
「そうだねぇ、私も考えたことはあったけど…」
私は苦笑する。
「昔勉強したんだ、地図の作り方。すごい大変なんだよ。実際に歩いて、一歩の長さで
距離を測って線を書いて、ってやるんだって」
「えー!一歩の長さなんて一歩ごとに変わるから無理ぃ」
ナノハが情けない声を出す。
「…そうだ!ミオウがいるじゃん!!」
「え?」
「ナノハに空高くまで連れてってもらって、ミオウが覚えてきて紙に描くんだよ!」
「なん…だと…?」
ヨマリが冴えすぎている。今日は分布域に雪が降るか?
「む、無理だよぅ、人抱えてそんな高く飛べないもん」
分布域は今日も晴天なり
「ぐぬぬ……じゃあ、私がミオウを思いっきり空に蹴り上げるか」
「ヨマリさいてー」
「……いずれにしても無理だよ。実はあの子、ものすごい絵が下手なのよ」
「完全に記憶できるのに?!」
「この前一生懸命毛虫の絵を描いていたから、覗き込んでみたら
絵の右下に『ヒメさん』って書いてあって…」
「…思わず引っ叩いたよね…」
「うわぁ…」
「思いっきり腹蹴り上げられて死に物狂いで記憶してきた地図が毛虫だったら…」
「涙を禁じ得ないな…」
そんなくだらない会話を続けながら、私たちは分布域の外れへと足を進めていった。
どうでもいいような話題で道を埋め尽くしながら、私たちは歩いた。
いつも行く方とは反対方面の分布域の外れ。あまり足を運んだことのないこの場所の
空気は、ほんの少しひんやりとしている。
その時だった。
ふわり、と風に乗って何かが視界に舞い込んできた。
朝日の光を反射して、きらめきながら揺れる――蝶。
「……あれ、蝶?」
ナノハが立ち止まり、空を指さす。
羽ばたきは弱々しい。けれど近づいてくるにつれて、私たちは息を呑んだ。
それはただの蝶ではなかった。
細い手足。かすれた声。
背中に蝶の羽を生やした、小さな女の子だった。
「ひ、人……?」
思わず口に出してしまう。
近づいてきた少女は、どこか壊れた人形のようだった。
布切れのように破れた服。欠けた羽。
その瞳は焦点が合っていなくて、見ているのは遠くなのか、私たちなのかすら分からない。
「……あ、あの!」
少女は声を振り絞るように叫んだ。
「ブン太……ブン太を知りませんか?!大切な友達なんです!!」
羽ばたきが大きく乱れる。
地に落ちそうになりながら、それでも必死に姿勢を立て直し、こちらに縋るように声を上げ続ける。
その必死さが痛々しくて、胸が締め付けられた。
「おい……サク」
ヨマリの声が低くなる。
ナノハは一歩前に出て、震える声で言った。
「この子……なんか、様子がおかしい……足の先、溶けてる……」
見れば、少女の足先から黒い液体のようなものが滲み出し、蝕むように広がっていた。
あの光景に、私は覚えがあった。
――ダウンソードナイト。虫の異形。
かつて対峙したものと同じ「崩れ方」だった。
「……!」
息が詰まる。
少女は焦点の合わない目をこちらに向け、声を震わせた。
「友達……探さなきゃ……名前……名前は……」
その言葉の途切れ途切れの響きに、背筋が冷たくなる。
少女の声は今にも途切れそうで、足元からは黒い液体がじわじわと広がっていく。
誰も動けなかった。
ナノハは胸の前で手を握りしめ、ただ小さく震えている。
ヒメは一歩前に出かけて、けれど足を止めてしまう。
ヨマリですら拳を強く握るだけで、その場に立ち尽くしていた。
「……どうするの……」
自分の声が自分の耳に届いたとき、かすかに震えていたのが分かった。
少女の瞳は焦点を結ばず、空を、地面を、そして私たちの顔を彷徨っている。
見ているようで見ていない。
それが余計に怖かった。
「ブン太……どこ……?どこに行っちゃったの……」
羽音が、次第に弱まっていく。
――このままじゃ、消える。
言葉が喉に詰まる。
手を伸ばしたいのに、何をどうすればいいのか分からない。
「……待って!」
私は一歩踏み出し、少女に声を投げかけた。
「まず、あなたの名前は? それを教えて」
一瞬、少女の羽ばたきが止まった。
視線がこちらに向かう――けれど、焦点は結ばない。
「わ、わたしの……名前……?」
口元が震える。
声も震える。
思い出そうとするように胸の前で両手を握りしめ――次の瞬間。
「あ、ああぁ……ああああああ!!!」
叫び声が響いた。
少女の身体から黒い液体があふれ出すように広がり、羽は裂け、肌はひび割れ、形を保てなくなっていく。
「なっ……!」
ナノハが息を呑む。
ヨマリが拳を握る。
ヒメがかすかに首を振る。
けれど誰も、一歩も動けなかった。
光と闇が入り交じるように、少女の輪郭は揺らぎ続ける。
もう、助からないのか――そう思った、その時。
「みなさ〜んっ!ひどいですっ!何で起こしてくれなかったんですかぁ〜!」
呑気な声が、あまりにも場違いに分布域に響き渡った。
振り返ると、髪もまだ寝癖のまま、顔を赤らめながら駆けてくるミオウの姿があった。
手をぶんぶん振りながら、のほほんとした笑みまで浮かべている。
「ちょ、ちょっとミオウ!ごめん今それどころじゃ――」
私は叫んだ。
けれど、ミオウは足を止めて、崩れかけた少女をじっと見つめる。
「…あれ〜? もしかして……フィリスさんじゃないですかぁ〜?」
まるで道端で偶然知り合いを見つけたみたいに、ぽろっと出た一言。
その瞬間、黒に覆われかけていた少女の身体が、ぱあっと光に包まれた。
羽の裂け目は閉じ、溶けかけた足が元の形に戻る。
衣服も羽も、最初から傷ついていなかったかのように蘇っていく。
ただひとつ確かなのは――ミオウの声が、彼女を引き戻したのだ。
「……え……」
光の中から現れた少女――フィリスは、ぐったりと力なく、気を失っているが
黒い異形の痕跡はどこにもない。
「戻った……の……?」
呆然と呟く彼女に、ナノハが目を丸くして声をあげる。
「……ほんとに、戻った……」
私も言葉を失った。
あれほどまでに崩れていた姿が、一瞬で――名前を呼ばれただけで――完全に戻ったのだから。
静けさが落ちた。
フィリスの身体は、光の中からゆっくりと姿を現したものの、そのまま力尽きるように地面へ倒れ込んでいる。
かすかな呼吸が上下する胸。まだ生きている――それだけが、私たちに安堵を与えていた。
けれど、安堵はすぐに疑問へと姿を変えていく。
心臓の鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻したとき、胸の奥に引っかかって離れない違和感が浮かび上がった。
私は、その違和感を押し殺せなかった。
「……ねえ、ミオウ」
声をかけると、ミオウはぱっと顔を上げた。
「はいっ! なんでしょうかぁ〜?」
場の緊張感とは裏腹に、無邪気で、どこか弾むような返事。
黒い影に覆われたあとの残滓がまだ漂う空気の中で、その調子はあまりに場違いに思えて、胸がざわつく。
「……なんで。なんであの子の名前を知ってたの?」
その問いに、ナノハとヨマリとヒメの視線が一斉に集まった。
みんな、同じことを考えていたのだろう。
ミオウは目を瞬かせ、首をかしげる。
「だって……フィリスさんは、フィリスさんですもん?」
さらりと、あまりにも当然のように答える。
その響きは、こちらにとって余計に意味がわからなかった。
私は息を詰めた。
――自分の名すら曖昧になっていた存在。
その名を、どうして。なぜミオウだけが、当たり前のように呼べるのか。
沈黙の中、フィリスの寝息がかすかに響く。
その音がやけに大きく聞こえて、逆に私の心をざわつかせた。
「……昔から知ってたみたいに言うけど」
私は、その胸のざわめきを押さえきれずにそう言った。
ミオウはぱちくりと瞬き、しばらく考えるように視線を宙へ泳がせる。
「えっと……そうですねぇ……」
言葉を探しているのか、それとも言葉にすることをためらっているのか――その境目がよく分からない。
「私、まだ“人間さん”がいっぱいいたころ……桜の木だったんですよ」
さらりと、当たり前のことを告げるみたいに口にする。
ナノハが何となく繰り返す。
「桜かぁ〜」
「そうですそうですっ。ナノハさんはナノハナですよね!私は桜!春になると、いっぱい花を咲かせてました!」
ミオウは両手をぱっと広げる。まるでその場で花を散らすみたいに。
「その下で、お祭りとか、大会とか。毎年、たくさんの人が集まってたんです。にぎやかで楽しくて……私も、うれしかったんです」
私は息をのむ。
大会…
「私たちと同じブレイブでも、戦うために生み出されたブレイブ、――フィリスさんはRE:brave Columnの戦士ブレイブだったんです!」
「春のRE:brave Column大会…毎年のように見てたんですよ。あの子と生みの親の博士さんを
声は少し柔らかくなった。
「強かったんですよねぇ、あの人。会場のみんなに名前を呼ばれて。だから、自然と覚えちゃってたんです。……フィリスさんって」
無邪気な笑みと共に告げられた言葉。
けれど、その奥に潜む意味の重さを、私は痛いほど感じ取っていた。
忘れられて消えていくはずの名前。
それを、桜の木として見守っていたミオウだけが覚えていた。
それが、彼女を――この場に繋ぎ止めた。
ダウンソードナイトが言っていた言葉も思い出す
忘れられたら、もう2度と元には戻れない…と。
「ミオウ…ナイス!」
「えぇ!そうなんですかぁ〜?やったー!」
「寝起きのミオウってなんかアホの子全開だな」
「なんだとですっ!」
ムッとしながらもミオウは、どこか遠くを見る目で、でも相変わらずのんびりした声色のまま語り出した。
――スピーカーから張りのある声が響く。
「お待たせしました! 今年の春大会も、いよいよ決勝戦です!
春のRE:brave Column大会ーfrom親川ーグランドファイナル――会場は満開の桜の下からお届けします!」
ざわめきが、うねりに変わる。
屋台の旗がぱたぱたと揺れ、花びらが放送席の上を流れていく。
私はすべてを見ていた。
「赤の列!昆虫博士の名は伊達じゃない!今年も勝ち上がってきました!イツキ選手!」
「そして青の列!誰がこの男の無敗伝説を止めるのか!チャンピオン―キサキ選手!堂々の決勝進出!」
歓声が跳ねる。誰かが紙吹雪を撒いた。
司会の声が重ねる。
「先に二本先取で勝利! ルールは昨年と同じ特別ルールで、フィールドアーツの同時展開はラストターンの一度のみ!」
土の匂い。油の匂い。焼き団子の甘い匂い。
風が通るたび、枝の隙間に光が散って、地面にゆらゆら落ちる。
コート中央、二人が歩み寄る。
白衣に細い網を背負った昆虫博士。
対するは、無駄のない立ち姿の男――
博士が軽く会釈する。
「やっぱり最後はあなたですか……チャンピオン」
男は口角だけで笑って、カードケースを指で叩いた。
「いいバトルにしようぜ」
「それでは――召喚、スタート!」
同時に、二人のカードが掲げられた。
博士の手元に、薄緑の光輪。春の匂いと微かな鱗粉のきらめき。
「ブレイブ召喚! ――フィリス!」
ぱっと、光の鞘が割れる。
蝶の羽を背に、軽やかに舞い降りる少女。
イツキがもう一枚、そっと撫でるようにカードを切った。
「ブレイブ、アシスト! ――ブン太!」
キィ、と澄んだ音。
円らな瞳の小さな仲間――黒曜石みたいな殻を持つ、ちいさな“虫の戦友”がくるりと宙返りして、フィリスの肩にとまる。
観客席から幾つも声が飛ぶ。昆虫博士イツキの必殺コンボだ。
「フィリス――!」「博士いけーっ!」「ブン太ーー!!」
対して、青の列。
男はカードを縦に掲げると、静かに息を吐いた。
「ブレイブ召喚――ダウンソードナイト」
会場の気圧が、ひとつ落ちた。
雲の裂け目みたいに、空間が細く開く。
そこから降りてくる影――落つる剣を両の手で受け止め、そのまま着地する騎士。
現れた瞬間に、剣先を土へ打ち下ろし砂塵が環のように広がった。
「おっとぉ!?両者共に早速切り札コンボだ!さぁ――先手はどちらだ?!」
博士が即座にアーツを切る。
「アーツカード:昆翅陣! フィリスの移動に加速バフ!」
フィリスの足首に、薄縁の光輪が二つ、三つ。
「ブン太、いくよっ」
肩の相棒がキィと短く鳴いて、前方に向けて小さな閃光を散らす。
フィリスが滑るみたいに地面を蹴る。蝶の羽がひとつ煌めいて、空気が追いつけない。
「落剣の間合いに入るな」
チャンピオンの低い声。
騎士が一歩。地面が沈む。
剣を横に構えて、落剣の軌道を生む崩しの一手。軸が、怖いほどぶれない。
博士が重ねる。
「アーツカード!鱗粉幕!視界カット!」
ふわり、と桜の花粉と見紛う白金の幕。
観客席がどよめく。
「見えない!」「フィリスは――?!」
私は、上から見ていた。
鱗粉のひらめきの“合間”に、フィリスが半身をずらす。
剣の軌跡に一拍の“余白”が生まれる。
そこへ、ブン太が――小さな体で、ちょんと騎士の肘関節の外を突いた。
ほんの、指先一つぶん。
それで、軌道が紙一重ずれる。
「入った――! フィリスのカウンター!!」
フィリスの踵が土を蹴る。
蝶の羽がきらめき、音が遅れてくる。
騎士の胸甲に、花びらみたいな光の傷がひとつ、咲いた。
観客席が揺れる。
「フィリス!」「フィリス!」「フィリス!」
キサキはほんの少し目を細めただけだった。
「いい攻撃だ」
ダウンソードナイトは剣先を土から引き抜き、静かに息を整える。
その背に、青の列の応援が重なる。
「ダウンソードナイト!」「守れ――!」
博士は白衣の裾を握る手を緩めなかった。
「焦らないよフィリス、僕を信じて」
肩の相棒が短く鳴く。
フィリスが、こくりとうなずいた。
私は、何度も何度もその名前を聞いた。
フィリスーー
アナウンスが、観客が、子どもたちが、屋台の人が、春風までもが、その名前を運んだ。
勝っても、負けても。
名は呼ばれ、空に融けて、桜の私に降り注いだ。
「一本、赤! 先取はフィリス!!」
歓声。抱き合う人。跳ねる子。
男――チャンピオンは、うなずいて剣先を落とし直す。
博士は息を吐き、白衣の袖口をきゅっと握り直す。
決勝は、ここからだった。
……でも、ミオウの回想はそこでふっと淡くなる。
枝先に積もった記憶は、花びらの重みみたいに確かなのに、指でつまもうとするとするりと落ちてしまう。
ミオウは、目を細めて言った。
「だから、覚えてたんです。何度も、何度も呼ばれていたから。
フィリスって。呼ばれる名前は、春風みたいに残るんです。桜の上に、ずっと」
私は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
名を呼ぶことが、こんなふうに誰かを繋ぎとめる。
さっき、ミオウがただのほほんと口にした一言が、異形化の縁からあの子を戻した理由――
それを、私はやっと、骨の内側で理解した気がした。
足元では、まだ気を失って眠るフィリスの胸が規則正しく上下している。
ミオウは、いつもの調子で小さく笑った。
「……だから、呼んじゃったんです。フィリスさん、って。
なんか、こう――そこに“春”がある気がして」
私はうなずくしかなかった。
言葉にすればこぼれそうで、でも、いま確かに胸の内側に咲いた“理解”を、そっと守るように。
フィリスのまぶたがゆっくりと震え、やがて細い睫毛の隙間から光が差し込んだ。
瞳は揺れて、まだ世界をつかめない。
そんな彼女の目が初めて捉えたのは、目の前で覗き込むピンク色の少女――ミオウだった。
「……あの……」
小さな声。ひどく掠れていて、それでも真っ直ぐで。
「名前……思い出させてくれて……ありがとうございます」
開口一番、フィリスから聴こえたのはミオウへの感謝の言葉だった。
言葉は震えていたが、確かにそこには「感謝」が宿っていた。
ミオウは一瞬きょとんとしたが、すぐににこっと顔を輝かせた。
「えへへっ! よかったです〜!」
その声に、場の空気がほっとほどけた。
けれど、すぐにフィリスの表情は影を帯びる。
伏せた睫毛の影が頬に落ち、彼女は唇を噛みしめて言った。
「……あの」
指先が震え、胸元で強く握られる。
「ブン太……ブン太を知りませんか? 小さくて……でもすごく強い……私の、大切な……友達なんです」
その名を口にした瞬間、フィリスの声はかすれた。
必死にこらえていた感情が、堰を切ったように滲み出す。
私も、ナノハも、ヨマリも――息を呑んだ。
それはフィリスが、崩れかけてもなお、自分のことより優先していた存在。
彼女にとって最後の拠り所なのだと、誰の目にもわかった。
そして。
「ブン太さん、ですかぁ!」
ミオウの声が弾む。
瞳をきらきらさせ、ぱっと顔を上げた。
「もちろん覚えてますっ! 一緒に分布域に来てたんですね! 小さいから探すのはちょっと大変かもですが……ね、サクさん!」
急に話を振られて、私は思わず目を瞬かせた。
でも、迷う理由なんてない。
「……うん、もちろん。一緒に探しに行こう!」
「おーーーっ!」
ナノハが両手を突き上げ、ヨマリも大声で続いた。
拳を打ち合わせる音が空気を弾ませる。
ただ、その輪の中で――ひとりだけ。
ヒメは声を上げなかった。
手を無意識に握りしめ、静かにフィリスを見ている。
その日の夕暮れ、分布域の空は赤紫に染まっていた。
光を受けた壁や屋根はまだ新しさを残していて、ようやく“家”らしく見えてきた。
けれど、私たちの体も心も今日はすっかりくたびれていた。
フィリスの異形化しかけた姿を目にした衝撃、そして彼女を救えた安堵。
それらが重なって、みんな妙に静かだった。
「……ブン太を探すのは、明日からにしよう」
誰も反対はしなかった。
「そうだな、今日はもう疲れたぞ……」
ナノハはこくりとうなずき、ヒメも「…それがいい」と小さく呟いた。
そして今夜から、この家にフィリスが泊まることになった。
「わ、わたしなんかがご一緒していいんですか……?」
「当たり前でしょ!もう仲間なんだから!」
ナノハの言葉を聞いたフィリスは、少し瞳を揺らしたような気がした。
夜。
囲んだ食卓は、昼間の騒ぎが嘘みたいに穏やかーーなわけないだろうが!
結局また大騒ぎである。疲れてるんじゃなかったのか…
ヨマリが大皿の煮物をまるごと抱え込み、ナノハが横から箸を突っ込んで「返せー!」と叫ぶ。
ヒメは静かに食べ続けていたけれど、目の前のお魚が消し炭になり戦争に参戦
「…ねぇ、何で、何でお魚が消えるような騒ぎを起こせるの??」
「ぴぇッ」
「…どうしてそんなにお行儀が悪いの??」
「あ、あの!ホントにごめんて!怒らないでほしいぞ!」
ヒメがおバカの躾をしてる間フィリスはそれはそれはお行儀よくご飯を食べていた。
その隣ではミオウがスープをストローで飲もうとしている。何故学ばないのか。習性なのか?完全記憶は?
「ウゥゥアッツァッッッ!!!」
言わんこっちゃない。激しくのたうち回るミオウ。
「おいおバカども!一旦席につけぇぇ!」
「ま、待ってろサク!ぃぃぃいますぐこの恐怖魔人ヒメをやっつけて……」
「何ですって?」
「…ふふっ」
ついにこのドタバタに耐えられなくなったのかフィリスが笑いを溢す
「お、始めて笑ったね」
ナノハがヨマリと取っ組み合いながら声をかける。
「いやなんだか、おかしくって…ふふっ、ぁははは!」
「何だそれぇ、私はナノハから煮物を…あは、あははは!」
ヨマリがつられて笑い、ナノハも続く。
「…全く、仕方のない子たち」
呆れたように顔伏せる仕草のヒメも、あれ、笑ってる!珍しい!
結局この場は口内やけどで悶絶するミオウを除き笑いに包まれた。
こんな日々が続けばいい。いや、守るんだ、私が。
片付けを終え、布団を並べると流石のみんなもおやすみモードに…
「あの、せっかくですし少しはしゃぎませんか??」
言い出したのはミオウだった。寝坊して遅れて合流した彼女は元気が余っているらしい。
「枕投げとか!」
「いいじゃん!」
ヨマリが即賛成。
「いやいや、明日からまた忙しくなるんモフッッッ」
異様にスピンのかかった枕が私に直撃した。
「私にとって、枕投げは何より大切な儀式なの。手を抜いたら、ユルサナイッッッ‼︎」
ナノハがすごい剣幕で吠える
「始まっちゃいましたー!」
ミオウも笑顔で参戦。
ヒメまで観念したように枕を構え、
「……手加減はしないから」
とぼそり。空気が読めるのだ、ヒメは。
「ヨマリ!待って!蹴るのは!蹴るのはダメ!枕か、当たった人か、最悪はどちらも消滅しちゃう!」
「…ヨマリの足をこう、余ったロープで縛っておく?」
「うわー!何するんだー!」
うわぁ、なんか生々しい絵面だ…
しかし直後弾け飛ぶロープ。こえぇ…
その夜、分布域の新しい家は、羽毛の飛び散る音と笑い声で満ちていた。
フィリスも最初は戸惑っていたけれど、枕が頭に当たって「きゃっ」と声を上げた瞬間、
みんなに混じって声をあげて笑っていた。
やがて疲れて横になると、屋根の上からは夜風の音が聞こえてきた。
隣で眠るフィリスの寝顔は、昼間とは別人のように安らかだった。
私はその横顔を見つめながら、心の中で小さくつぶやいた。
――もう一人じゃない。ここに、ちゃんといるんだよ。
朝ごはんの席は、いつもより落ち着いていた。
いつもならパンの取り合いだの、スープをストローで飲むだの、くだらない小競り合いで大騒ぎなのに。
今日は違った。
ナノハはもりもりとパンを頬張り、ヨマリも箸をカチカチと鳴らしながら黙々と食べている。
ヒメは魚をきれいに骨だけ残して、フィリスは姿勢正しく小さく口を動かす。
ミオウでさえ、口いっぱいにご飯を詰めながらも不思議と静かだった。
「……なんか、みんなお行儀いいね」
私が言うと、ナノハが口の端にパンくずをつけながら笑った。
「だって、今日は大事な日だもん」
ヨマリが木椀を空にして、大きく息を吐いた。
「そうだぞ!ブン太探しだ!力を蓄えておかないとな!」
ヒメも小さくうなずく。
「……うん。体力は温存しておいた方がいい」
そんな空気の中で、私は少しだけ胸が熱くなった。
誰ひとり欠けず、同じ方向を見ている。
今日から、私たちみんなの目的はひとつ――ブン太を見つけることだ。
「よし……じゃあ、行こうか!」
椅子がいっせいに鳴って、朝の光の中へ歩き出した。
分布域の朝は、空がまぶしいくらいに澄んでいた。
みんなで外に出て、視線を交わす。
「……ブン太を探そう!」
私がそう宣言すると、全員の顔が一気にぱっと明るくなった。
「おーーっ!!!」
ヨマリが両手をぶんぶん振り回す。
「任せとけってな!ブン太は必ず見つけるぞ!」
「ふふっ、そうだね!」
ナノハがフィリスに向かってにこっと笑う。
フィリスは少し目を丸くして――それから、力いっぱいうなずいた。
「……はい!ありがとうございます!」
「大丈夫ですっ!完全に記憶できるわたしが一緒ですから!」
ミオウが胸を張る。
「ほらほら、こういうときこそ役立つんですっ!」
「……あやしいな」
ヒメが小さく呟く。少しだけ口元が緩んでいた。
「じゃあ今日はこの辺りから歩いて探そうか」
私が言うと、ナノハが両手を広げてぴょんと跳ねた。
「さんせーい!こういうときは私が大抵隊長だよ!」
「大抵は、な。残念だが今日は私が隊長だ!よっしゃ、ヨマリ隊長いくぞーっ!」
「…残念な2人。隊長でもいいけど逸れないでね」
「「誰が残念だ!」」
くだらない掛け合いに、フィリスがふっと笑った。
「じゃあ、出発ーーっ!」
「「「「おーーー!!!」」」」
「お、おーー…!」
数分後
「……なぁ、今ここはどの辺を歩いてるんだ?」
ヨマリが道端の石を蹴り飛ばしながら言った。
「うーん…地図が必要かもね?」
「そうだねぇ、私も考えたことはあったけど…」
私が言うと――
「…って、昨日と同じこと言ってるよ、私たち」
ヒメが涼しい顔で指摘を入れる。
「あー?そういえばそうだな。確かミオウを蹴り飛ばしてぶち上げるんだっけか」
「へっ?!なんでそんな急に?!どういう脈絡ですか?!」
「違うよ!ミオウは毛虫だから!」
「なんか私!いじめられてますか?!」
いつもの調子に、フィリスがふっと口元を和らげる。
「…じゃ、今日の方針。林沿いを時計回りで一周、見落としゼロで。」
ヒメがスケッチブックを開き、歩幅でざっくり距離を刻む。
地図を書こうとしている?
ミオウは「見かけた目印は全部覚えますっ!」と胸を張り、
ナノハは「上からも見てくる〜」と低空をふわり。
ヨマリは拳を握って「おーっ!」と声を張る。
フィリスは小さく息を吸って、前を見た。
「…お願いします。わたしも、ちゃんと探します」
「もちろん。一緒にね」
私はうなずき、歩き出す。
ナノハが低空をふわふわと飛びながら、頭上からの視界を確かめている。
「見えるのは木ばっかりだねぇ。…でも、この辺りに大きな倒木があるよ!」
彼女が指差す方向を、みんなで足を向ける。
倒木の下を覗き込んだヨマリが声を上げた。
「おっ?虫っぽい影が……って、ただのカブトムシだ!惜しい!」
「惜しくないよ。」
ヒメが即座にツッコミを入れる。けれどその口調は、少し柔らかかった。
フィリスはと言えば、両手を胸の前で握りしめるようにして歩いていた。
羽は震えもなく、けれど視線は落ち着かない。
「…ブン太、こんなに小さいのに……見つけられるでしょうか」
その不安げな声に、私は笑顔を作った。
「見つけるよ。みんなで探せば、絶対に」
「絶対!」
ナノハがくるりと宙返りして加勢し、
「小さいって言ったな?安心しろ、私の目は節穴じゃない!」とヨマリが胸を張る。
「……カブトムシばっか見つけないでよね」
ヒメの冷静なツッコミに、みんなが思わず笑った
川沿いの道に出たとき、私はふと足を止めた。
視界の端に、古びた木の看板が立っていたのだ。
風雨にさらされ、文字は少しかすれていたけれど、そこに書かれている言葉ははっきりと読めた。
「川を綺麗に 花深川」
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――思い出した。
まだ私がただの子どもだったころ。
家族と一緒に、この川に遊びに来たことがあった。
おばさんが作ってくれたおにぎり。
父の笑い声。
それらが一気に蘇ってきて、目の前の景色と重なった。
同じ川なのに、今は私たちしかいない。
「……ここ、知ってる」思わず口にしていた。
すると、隣で立ち止まっていたフィリスが、小さく息を漏らした。
「……そうですか」
彼女は看板を見つめ、ゆっくりと羽を震わせる。
「ここは、本当に不思議な場所ですね」
その声は、懐かしさと寂しさが混じったような響きだった。
「不思議?」
私が問い返すと、フィリスは少し笑みを浮かべて言った。
「私にとっても……思い出のある場所なんです。だけど今は……静かで、きれいで……別の世界みたいで」
彼女の横顔を見ながら、私はうなずいた。
――そうだ。この分布域は、失われたものと今の私たちが、同じ場所に折り重なって存在している。
それが、不思議で、そして少し切ない。
ヨマリの「おーい!置いてくぞ!」という声で、我に返る。
ナノハとミオウも先を歩き始めている。
「……じゃあ、そろそろ行こうか」
私が口を開くと、みんながそれぞれにうなずいた。
「ブン太を見つけなきゃね!」
ナノハが拳を軽く握って言うと、ヨマリも「おーっ!」と声を張る。
フィリスは少しはにかみながら、それでも真っ直ぐに前を見た。
「ありがとうございます……。わたし、ひとりじゃ……とても……」
「これも運命です!フィリスさんが独りになる因果なんてなかったんですよ!」
ミオウが軽い調子で笑う。寝癖はもう直ってるけれど、その無邪気さは相変わらずだった。
「みんなで探せば絶対見つかりますって!」
ヒメはほんの少しだけ視線を伏せた。
けれど次の瞬間には顔を上げて、「……とりあえず、この川沿いを下ってみましょう」と提案した。
その声は冷静で、けれどどこか影が差しているように思えた。
「よし、行くぞ!」
ヨマリが小石を蹴り飛ばす。ぱしゃん、と水面を跳ねる音が響いた。
私たちは並んで歩き出した。
川面にきらめく光と、草の匂いと、遠くに聞こえる鳥の声。
その全部をかき混ぜながら、探し物の一歩目が始まった。
川沿いを歩き始めてしばらくしたころだった。
ナノハの頭に何かが落ちてきた。
「いてっ……ん、ねえ、これ……」
彼女の掌の上には、黒曜石のように光る小さな殻が乗っていた。
丸みを帯びたフォルム。コガネムシの魂の抜け殻だ。
「ブン太……」
フィリスの声が震える。
指先をそっと伸ばして、けれど触れられずに止める。
視線は殻に釘付けで、今にも涙がこぼれそうだった。
「まだ……近くにいるかもしれません……」
搾り出すように言ったその声には、祈るような響きが宿っていた。
私たちは、何も言わずにただうなずいた。
言葉よりも、その想いを受け止めることの方が大事に思えたからだ。
重たい空気を払うように、ミオウが「えへへっ」と笑いながら鞄をガサゴソ探り始めた。
「じつはぁ〜……昨日また描いてみたんです!完璧な地図をっ!」
ドヤ顔で取り出された紙。
……そこに描かれていたのは、妙に脚の多い巨大な毛虫。
「……」
「……」
「……ねぇミオウ、それって地図なの?」
私が恐る恐る聞くと、ミオウは胸を張って答えた。
「そうですとも!このあたりの地形を忠実に再現したマップです!!」
「もう一度!自分の記憶の風景と、その毛虫を比べてみるんだミオウ!」
「毛虫?!」
ヨマリが即ツッコミを入れ、ナノハは腹を抱えて笑い出した。
「いやぁ……完全記憶が泣いてるよ……」
ヒメも口元を押さえて、珍しく肩を震わせていた。
そして――その笑い声につられるように、フィリスの表情も少しずつほぐれていった。
「……ふふっ」
小さく漏れた笑いが、川のせせらぎに溶けて消えていく。
それはほんの一瞬だったけれど、たしかに重たい空気を和らげた。
「あ、ちなみにこれはヒメさんの似顔絵なんですけああああーー!!いたい!!叩かれた!?」
「…直ちにその毛虫を処理しなさい。」
私たちは再び歩き出した。
川の水音が途切れることなく流れ、夕陽の名残が水面にきらめく。
抜け殻と毛虫地図。笑いと涙。
全部ひっくるめて、この瞬間が絆になっていくのを、私ははっきりと感じていた。
「今日は、帰ろう!また明日、今度は今きた方向の反対側に!」
私は努めて明るく言う。
「さんせーい!今日はもう疲れたぞー!」
ヨマリも続く。肩や頭には今日、従えた3匹のカブトムシがしがみついている
「フィリスさんも、今日は帰りましょう!無理をしてもいいことありませんし!」
ミオウが優しくフィリスに言う。
「…そう、ですね!みなさん、今日はありがとうございました!」
フィリスはまだ捜索を続けたそうではあったが、無理をしてはいけない。
私たちは少しトボトボと家路についた。
食卓に料理が並ぶと、部屋の空気がぱっと華やいだ。
昼間の緊張はまだ残っていたけれど、みんなで囲む湯気のあたたかさが、それを少しずつ溶かしていく。
「わーーー!カレーだーーー!!!!!」
ヨマリが勢いよくスプーンを伸ばす。
「だーめ!」
ナノハが横からすばやく割り込んで、ブロックする。
「フィリスの分まで食べちゃダメだからね!」
「大丈夫!大丈夫だから!!!」
興奮冷めやらないヨマリに、フィリスは思わずくすっと笑った。
「あ……ご、ごめんなさい。なんだか可笑しくて……」
「謝らなくていいんだよ!笑ってくれたほうが嬉しいもん!」
ヨマリを制しながらナノハが即座に返す。
その横で、ヒメは静かに魚をほぐしてフィリスの皿に取り分けた。
「はい、どうぞ。……甘口だから安心して」
しかしフィリスは少し戸惑ったように
「カレーって…何ですか??」
…と、初めてみる食べ物に困惑する。
するとナノハたちもたちどころに
「…あれ、ホントだ!カレーって何だ!」
「…テンションが上がったのは事実だけど、食べたことなんてないしな!」
「…そもそも、おにぎりも卵焼きも、食べたことないのに知ってたよね」
と、どよめき始める。
「私はカレーにも詳しいですよ!キャンプやバーベキューの際は安定で作っておくと間違い無いですよね!
食べたことはないけど!」
ミオウはへへんっとドヤ顔をかます。
「私はもはや知らない料理ですが…美味しそうです…!」
フィリスも目を輝かせている。
私は一瞬、虫のブレイブにカレーなどたべさせてしまっていいのか考えてしまったが
多分大丈夫だ。食ってんだもん。花が。嬉々として。
「御託はもういい!いただきまーーーす!!」
ヨマリが叫ぶとみんなも続く。
「「「「いただきまーす!」」」」
今日も賑やかな夕食が始まった
フィリスはスプーンを持つ手を口元に添え、声を立てて笑っていた。
昼間の不安そうな顔とはまるで別人みたいに。
その笑顔に、私も胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
――フィリスも、ちゃんと一緒に笑ってる。
その夜の食卓は、羽目を外すほどに賑やかで、
でも確かに「みんなで同じ時間を過ごしている」ことを実感させてくれるものだった。
誓いを胸に迎えた翌朝。
朝食の席では、みんな無言でパンを頬張っていた。昨日の騒ぎが嘘のように、ひたすら口を動かし、黙々とエネルギーを蓄える。
「今日は絶対に見つけるんだ」という思いが、それぞれの背中にのしかかっていた。
川沿いを歩き、森の奥まで足を伸ばし、丘の斜面をひとつずつ確認していった。
けれど、どれだけ探しても、答えは返ってこなかった。
フィリスの呼び声は、春風に溶けて、ただ遠くへ流れていくばかり。
二日目。
空は澄んでいるのに、心は重く、歩幅は自然と小さくなっていた。
それでもヒメが描いた地図を片手に、ヨマリが「ここはまだだ!」と声を張り上げ、ナノハが「よし、次はこっち!」と応じる。
ミオウも「絶対に大丈夫です!ブン太さんはきっと見つかります!」と笑顔を絶やさなかった。
けれど夕暮れ、沈みゆく陽に照らされたフィリスの横顔は、笑顔を取り繕っていても、瞳の奥に影を落としていた。
三日目。
森の中で見つけたのは、ただの獣道と、冷たい風が運ぶ鳥の声。
誰かが声を上げても、返ってくるのは木霊だけだった。
本当にいるのか?なんて嫌でも思ってしまう。
それでも夜になると、家の食卓にはちゃんと灯りがともり、全員で椅子を囲んだ。
「今日はダメだったけど、明日はきっと」と口にして、スープをすくい上げる。
わかっている、無理にでも声にしなければ、胸の奥の重さに潰されてしまうから。
そうして数日が過ぎた。眠りにつくたび、探しても見つからない時間が少しずつ積み重なっていく。
朝になればまた探す。夜になればまた集まる。
繰り返しの中で、胸の奥の焦りと不安だけが、静かに膨らんでいった。
夜の分布域は、頭痛がするほどひどく静かだった。
私は布団の中で目を閉じていたけれど、眠気はまるでない。
胸の奥が重たくて、呼吸がうまく入らない。焦りと疲れが渦を巻いて、身体の芯をぎしぎしと締めつける。
その時だった。
「……サク、ちょっといい?」
耳元で、低く抑えた声がした。
びくりと肩が跳ね、振り向くと、窓辺にヒメが座っていた。月の光を浴びて、白い頬が硬く照らし出されている。
彼女は手招きした。私は音を立てないように布団を抜け出し、そっと外へ出る。
夜風が肌を撫で、広い空の下でようやく息が吸えた気がした。
「……どうしたの?」
自分の声が、想像以上にかすれていた。
ヒメはしばらく黙っていた。言葉を選ぶように、唇を噛み、夜空を仰いでいる。
やがて、決意を固めたように私を振り返った。
「……多分ね。私たちが探しているブン太は、もう異形化してる」
心臓が跳ねた。
冷たい水を浴びせられたみたいで、足先が震えた。喉が詰まり、ひゅっと浅い息しか出ない。
ヒメは視線を落とし、淡々と続ける。
「フィリスとブン太が離れて、もうだいぶ経ってる。本来なら……とっくに危ないはずなの」
その声は冷静だった。けれど、隠しきれない悲しみがにじんでいるのを、私は聞き取ってしまった。
考えてみれば確かにそうだ。互いの名を呼び合うことで辛うじて耐えてきた二人。フィリスでさえ、あんなに危うかったのだ。
ブン太が無事だなんて、どこに保証がある?
「……でも、もし異形化してるなら、痕跡くらいあってもいいはずでしょ?」
自分でも必死だと分かる声が口から漏れた。
「毎日、あれだけ探してるのに何も見つからない。……それって、まだ無事だってことなんじゃ……」
ヒメは小さく首を振った。
「……逆よ。痕跡がないってことは、もうここにはいないってこと」
「……」
「ここは空に浮かぶ分布域。もしここにいないなら、どこに行ったと思う?」
ヒメの言葉が胸を抉る。
私は息を飲んだ。けれど、答えはわかっている。
ヒメはその沈黙を見逃さず、静かに告げる。
「……覚えてるでしょ。あの異形の甲虫。フィールドアーツすら使った、あの怪物。私たちが戦って……地上に落とした」
耳の奥で、あの羽音がよみがえる。
崩れる家。必死で力を振り絞ったあの日の戦い。
「……あれが、ブン太だったんだと思う」
ヒメの声は、冷たい刃みたいに鋭かった。
だけど、その奥にあるのは悲しみだった。自分で告げながらも、どうしようもなく。
「……そんな……」
声にならない声が、唇から漏れた。
胸の奥が潰れていく。呼吸が浅く、震えが止まらない。
――フィリスの大切な相棒。
あの子が必死に探し続けていた名前。
それを、私たちは――もう倒してしまったのかもしれない。
私は服の裾を握った。けれど、どうしようもない。
ヒメの言葉は理屈として正しくて、反論なんてできなかった。
静寂の中で、家の中から聞こえる仲間たちの寝息がやけに鮮明に響いていた。
それが余計に胸を締めつける。
「……どういう……ことですか……?」
背後からの声に、血の気が引いた。
振り返った先で、フィリスが月明かりに照らされながら立ち尽くしていた。
目は大きく見開かれ、指先は小刻みに震えている。
「あ……フィリス……ちが、これは……」
言葉が詰まる。喉が焼けるみたいに重くて、うまく出てこない。
けれど、ヒメは逃げなかった。
その瞳を真っ直ぐに見据えて、低く告げた。
「……ごまかしても、いずれはわかってしまうことよ」
「……そんな……ブン太が……」
フィリスの声は、細い糸のように震えていた。
「……嘘……ですよね? ねぇ……?」
「ちがっ……!」
私は慌てて声をあげる。
「フィリス、聞いて! まだ確証があるわけじゃ――」
「――サク、ダメ」
ヒメの声が鋭く遮る。
「もう、目を背けていられる段階じゃないの」
「…………」
フィリスの瞳に、月明かりとは違う光が宿る。
黒い影が、その細い体の輪郭ににじむように広がり始めた。
「……あなたたちが……」
掠れた声。
それは涙とも怒りともつかない響きだった。
「……お前たちが……ブン太をッッッ!!!!」
瞬間、夜の分布域を突風が駆け抜けた。
黒い風が渦を巻き、砂塵を巻き上げ、木々を鳴らす。
「な、なんだッ!?!?」
ヨマリの叫び声が家の中から飛び出す。
「……っ!? 空気が……重い……」
ナノハが顔を覆って外に出てきた。
「ひゃあぁぁぁ!?!? な、何ですかこの風ぇぇ!!!」
ミオウも寝癖のまま飛び出して、声を上げる。
「フィリスッ!一旦落ち着いて!!まだ!!可能性の話っ…だからッ!」
爆風で声が通らない。息ができない。
ただ黒い爆風の繭から唯一聞こえた苦しい悲鳴だけが分布域にキンと響いた。
「知らない……知らない……フィリスなんて名前――知らないッ!!!」
ーーー後編へ続く
此度もここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
SleePです。
今回は「出会い」をテーマに描きました。
フィリスという存在は、とても小さくて儚いのに、彼女が放つ“名前の力”は大きくて温かい。
その奇跡をミオウが繋いだことで、一時は安堵を得られた気がします。
この章は「希望」と「予兆」を同時に抱えた、いわば前半戦。
次でいよいよ物語は、もう一段階踏み込んでいきます。
それでもやっぱり、今は“出会えた奇跡”にありがとうを。
次回も、どうぞよろしくお願いします。