荒む凪 花は幾度も 散ると識る
…喧嘩して、しばらく口をきいていない人、いませんか?
余計なお世話だと思うので仲直りした方がいいとか、言いません。
好きにしたらいいと思います!
【役目】
「うぎゃーーーー!」
澄んだ朝の空気を切り裂くような声が、分布域に響き渡った。
その声の大きさと甲高さに、胸がぞわっとして、私は手にしていたカップを落としそうになる。
何事かと顔を見合わせた私たちは、音のする方へ駆け出した。
まだ朝露が残る仮拠点の外。
草葉についた露が、足元でぱちぱちと弾ける音を立てる。
広場に飛び出すと、そこにはミオウがいた。
肩を小さく震わせ、両手で口を押さえながら、地面の一点を凝視している。
その視線の先へ足を踏み出した瞬間――私の呼吸が止まった。
分布域の大地を、真っ直ぐに貫いた巨大な穴。
暗い穴の底には、かすかに揺らめく光と、はるか下の地上の景色が、歪んだレンズ越しのように覗いている。
下から吹き上がる風が冷たく、足元の草花をざわざわと揺らしていった。
「……ああ、そういえば」
ナノハが小さく呟く。
「虫さん退治のときの大穴……まだ開きっぱなしだったんだね」
「虫さん……」
その言葉を、私は口の中で転がす。
すごい必死に戦った。
その末やっと決着がついた。
でも――勝ったのか負けたのか、その瞬間のことだけが、妙に霞がかっていた。
名前や姿を思い出そうとすると、必ず靄の向こうに消えてしまうような。なんというか、非現実的すぎて実感が湧かない…のだろうか?
「サク、これ……埋められないの?」
ヒメの声が、冷たい風を断ち切った。
私は穴の縁を見つめ、少し考えてから頷く。
「……たぶん、できるよ」
腰のカゴへ手を伸ばす。
指先が、あのカードの角をなぞると、
胸の奥でかすかなざわめきが波打った。
すると、
「おいおい、落ちたらどうすんだよこの穴」
ヨマリが腰に手を当てて穴を覗き込む。
「ま、私なら三段ジャンプで帰ってこれるけどな!」
「はーい1名様、奈落の大穴落下ツアーご案内ー!」
言うや否やナノハがヨマリの背後から抱きつきフワリと浮遊を始めた
「え、ねぇ!待って!!待ってって!冗談!嘘!嘘なの!!」
いつもの無表情のまま、声だけは必死なヨマリ。
「ヨマリを抱えて飛ぶことはできるんだ」
私が言うとナノハは
「サクは重いんだもん!」
と、笑顔で…笑顔で言いやがるんだ…
涙を堪えながら私は一枚のカードを引き抜く。
「――フィールドアーツ…ナノハナ分布域!」
黄色い光が穴の縁から芽吹き、花と草が大地を覆っていく。
風が温もりを帯び、空気がやわらかく変わっていった。
その瞬間――
胸の奥に、忘れていた感覚が流れ込む。
地響き。吹き荒れる風。迫りくる影。
そして――それを打ち払った確かな手応え。
「あ……」
息が浅くなる。
頭の奥の欠片がぴたりとはまり込む。それは「やっつけた」という確信だった。
やっと胸の奥に温もりが広がっていく。
「おお〜すげぇ!完璧に塞がったな!」
ヨマリが空中で足をバタバタさせながら言う。
「なあサク、もっかい穴開けて!バンジージャンプ台をここに作ろう!」
「ナノハ、もっかい穴開けるから、ヨマリを落としちゃおっか」
「やーめーてーよーーー!!!」
「…ふざけてないで、朝ごはんにしましょう」
冷静なヒメのツッコミに私たちは空腹を思い出すのだった。
朝ごはんは――まあ、無事に終わった。
「無事に」というには、ちょっとだけ賑やかすぎた気もするけど。
「ミオウ!スープをストローで飲むんじゃありません!!!」
「えっ、でも楽かなってぅアッッツアアア!」
口を押さえて跳ねるミオウの足元で、スプーンがカランと転がる。
「ヨマリ!他の子のご飯を盗むんじゃありません!!!」
「だって私これだけじゃ足り…ああぁーー!!ナノハにパン盗られた!ナノハにパン盗られた!!」
両手にパンを持ち逃げるナノハ。
「ナノハ!奪ったパンを練って食べにくい食感に改造するのをやめなさい!!!」
「ヨマリはよく噛まないで食べるから人のパンを盗むの!!一生このギッチギチのパン噛んでな!」
「一生?!一生なのか?!」
…ありだなそれ
「ヒメ!!……あー、あなたも何か問題を起こしなさい!!」
「…えぇ…」
微妙な沈黙の後、ヒメは手元のカップを両手で持ち上げ、一口だけ静かにお茶を啜った。
……まあ、そんなこんながありつつも、片付けが終わるころには、
テーブルの上も心も妙にスッキリしていた。
「じゃ、行くか!」
ヨマリが木槌を担ぎ、やる気満々で立ち上がる。
「お家づくり、再開だ!」
外に出ると、ミオウはすでに仮拠点のあちこちを覗き込み、
何やら宝探しのように歩き回っていた。
「なにしてんの?」と聞くと、にっこり笑って、
「ふふふ、ちょっとした準備ですっ!」とだけ返ってくる。
何か気になることでもあるのかな?
その声に邪気はなく、特に気にせず私たちは現場へ向けて歩き出した。
もう何度も歩いた道を通り、今日もまたここで作業をする。お家を建てると決めた場所。
虫さんに壊された場所。ミオウと出会った場所。
家の骨組みはすでに完成し、壁材や屋根材を取り付けるだけの状態になっている。
乾いた木の香りが漂い、朝日に照らされた梁が、完成後の姿を思わせた。
「よし、今日で外観は仕上げだな!」
ヨマリが木槌を肩に担ぎ、軽くスイングして音を鳴らす。
ヨマリは資材置き場の前でしゃがみ込み、板の端を叩いては「これ音がいい!」と意味のない評価を繰り返し、ヒメは作業台に置いた施工図面を広げる準備をしていた。
その横では――ミオウが軽やかに動き回っていた。
壁材の山を覗き込み、屋根材を一枚ずつ確認し、時には梁の位置を見上げて「ふむふむ」と頷いている。
「じゃあまず、南側の壁材から立てかけましょうっ!」
ミオウが軽く手を叩くと、ヒメが軽く目を見開く。
「お、いいな! あったまってきたぞ!」
ヨマリが資材を持ち上げる。
ヒメはまだ図面を開いていなかったが、ミオウは迷いなく次の指示を出す。
「で、そのあと屋根の梁を渡して、ここを二人がかりで固定ですっ!」
その言葉を聞いた瞬間、ヒメの手がぴたりと止まった。
……あれ、これ、図面の手順と全く同じじゃない?
まだ広げてもいないはずなのに。
ミオウは気づかないまま、楽しそうに手を動かして説明を続ける。
ヒメは、図面の端を指で押さえたまま、ちらりとミオウを見やった。
……いや、偶然かもしれない。
でも、資材の置き場所も作業順も、まるで図面を見ているかのように的確だ。
「じゃあ、北側の補強材はこの順番でお願いしますっ!」
ミオウが指先で梁の位置を指し示す。
「うぃっすー!」
ヨマリが、まるで部活の掛け声みたいな勢いで返事をする。
ナノハはその横で「ミオウ、監督みたいだねぇ」と楽しそうに笑っていた。
ヒメはふと、自分のスケッチブックの存在を思い出す。
そこには、家の構造だけじゃなく、家具や装飾のアイデアまでぎっしり詰まっている。
……まさか、それまで覚えてるなんてことは――いや、考えすぎだろう。
彼女は小さく首を振り、図面を広げた。
でもその目は、どこか釘付けになるようにミオウの動きを追っていた。
「サクさん、あそこの板、もう一段下げたほうが安定しますっ!」
ミオウが指を伸ばす。
その声があまりにも迷いなく響くので、私は思わず手を止めた。
「……あ、ほんとだ。そうしたほうが収まりがいいな」
作業を手伝っていたヨマリも素直に板を下げ、釘を打ち直す。
「じゃあ次は、窓枠を先に取り付けちゃいましょう! そうすると梁との干渉が減りますっ!」
「おお〜、さすがミオウ、現場慣れしてるなぁ!なんでだ??」
ナノハが感心したように笑いながら、窓枠の木材を抱えてくる。
ヒメは、その横で図面を見開いたまま立ち尽くしていた。
……この順番、この指示の仕方――全部、私の設計通りじゃない。
「似てる」じゃなくて、「一致してる」。
「……ふーん」
小さく息を吐くと、ヒメは図面を閉じた。
偶然の一致にしては、あまりにも完璧すぎる。
それでも、声には出さない。
ミオウは笑顔で、次の作業を指示している。
その姿がまぶしく見えてしまう自分に、ヒメはちょっとだけ苦笑いした。
…まぁ、いい。自分にできることをしよう、と。
木槌の音と釘を打つ音が、午前の空気を規則正しく刻んでいた。
柔らかな陽射しが板の隙間から差し込み、材木の匂いが漂っている。
「じゃあ次は――」
ヒメが腰のバッグを探り、スケッチブックの端を指先でつまんだ、その時だった。
「はいっ!」
弾む声が横から割り込む。
「この板を二枚合わせにして梁の下に差し込みますっ! そのあと、この壁材を斜めに立てて……ほら、この辺りから組みますっ!」
ミオウは迷いなく、手元も見ずに的確な指示を出していく。
「……え?」
ヒメの手が止まった。
スケッチブックは半分引き出されたまま、ぱらりとページが一枚めくれる。
そこに描かれていたのは――ミオウが口にした内容と、図の角度まで寸分違わぬ設計図だった。
それはもう、偶然と言うには無理があるレベルで。
「で、そのあと窓枠の位置を少し上げて、光を取り込みやすくして……」
ミオウは軽やかに続ける。
その声は悪気のない明るさで満ちていたが、ヒメの耳には重く響いた。
ヒメはそっとページを戻し、スケッチブックを閉じる。
その動作は静かで、しかし妙にきっぱりとしていた。
バッグの口が音もなく閉じられ、金具がかすかに触れ合う音がやけに耳に残る。
「…ヒメさん?どうかしました?」
ミオウが首をかしげる。
ヒメは目を合わせず、短く答えた。
「……別に」
その声は淡々としていて、余計な感情を一切混ぜていない――だからこそ、余計に冷たい。
すぐそばでは、ヨマリが木槌を振るい、ナノハが板を抱えて歩いている。
ふたりは作業に集中していて、このわずかな空気の変化には全く気づいていない。
木槌の音だけがやけに大きく響く。
ミオウは小さく瞬きを繰り返したあと、何事もなかったように笑顔を作って近づく。
「ヒメさんっ、あの……さっきの案、やっぱりすごいですっ!」
明るい声色が、午前の光に少し浮いて聞こえる。
「わたし、全部覚えちゃって……だから、この先の組み立ても手伝えますっ!」
…やっぱり、記憶してたんだ。
ヒメは目を上げず、「……そう」と短く答えた。
それは感情の温度が完全に抜け落ちた声で、余計に冷たく響く。
ミオウは気づかないふりをして、手に取った板を軽く掲げる。
「じゃあ、この釘打ちはわたしがやりますっ!」
勢いよく木槌を振るが――カンッ!と乾いた音を立てて釘が斜めに入ってしまう。
「あれ……もう一回……」
慌てて直そうとするが、今度は板がずれてしまう。
その小さなミスが、静かな空気をさらにぎこちなくした。
ヒメは黙ったまま別の板を運び、ミオウの方を見ようとしない。
ミオウは釘を持ったまま、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
何がいけなかったのか分からない――けれど、この場の温度だけがじわりと下がっていくのは確かだった。
「ヒメー! 次はどうすればいいんだー?」
板を抱えたヨマリが、少し離れたところから声をかける。
ヒメは一瞬だけこちらを振り返り、ほんのわずかに間を置いて答えた。
「……ミオウに聞けばいいんじゃない?」
その声はかすかに震えていて、しかし感情を押し殺したような平坦さを帯びていた。
ヨマリは「あっ……」と、小さく声を漏らす。
何かを察したように、視線が一瞬だけミオウとヒメの間を往復する。
同じ瞬間、ミオウも自分が出しゃばりすぎていたことに気づき、胸の奥がきゅっと縮んだ。
口を開いて謝ろうとした――けれど、それより早く、ヒメは工具を置き、短く言う。
「……私、少しあっちで休んでるから」
それだけ言い残し、背を向けて現場の端へ歩いていく。
木屑を踏む小さな足音が遠ざかるたび、場の空気が静まり返っていくようだった。
作業の手を止めて見送るミオウは、結局「ごめんなさい」と言う機会を逃す。
ナノハはただ、その光景をじっと見ていた。
胸の奥に、先日の自分を思い出し、切なさがひとしずく落ちていった。
少し離れた位置でそれを見ていた私は、息を飲む。
すぐに声をかけるべきか、一瞬迷った。
でも……これは、花同士の間で起きた小さなひび。
第三者である私が無理に口を挟めば、余計にこじれるかもしれない。
だから私は、あえて何も言わず、別の場所で壁板を運ぶ作業に戻ることにした。
視線の端で、ふたりの距離と沈黙を確認しながら――。
ヒメは現場の端に腰を下ろし、膝の上で細い指を絡めていた。
背筋はきちんと伸びているのに、肩だけがかすかに沈んでいる。
視線は足元の材木の影を追っているが、その焦点はとうに外れていた。
(……私、いらないのかな)
その言葉は、心の奥でじわじわ広がり、胸の中を重くしていく。
施工図を描き、段取りを考え、現場に立つときはいつも頭の中に設計全体が浮かんでいた。
なのに今日は――ミオウが笑顔で口にした指示が、自分の図面と寸分違わず、軽やかに空を跳んでいった。
その瞬間から、胸の奥に置かれた“自分の役目”が、するりとすべり落ちたような感覚があった。
「ヒメさんっ!」
弾む声が、陽射しの反射みたいに横から飛び込んでくる。
ミオウだ。
「お水どうぞっ! ちゃんと休憩しないと倒れちゃいますよ!」
手にした水筒は陽に透けてきらきら光っている。
ヒメはそっと手を伸ばしかけ――しかし、ほんの指先で押し返した。
「……いらない」
声は小さく、けれど切っ先だけは鈍らせないまま。
ミオウは一瞬瞬きをして、すぐ笑顔を整える。
「じゃあじゃあっ、代わりにこの板削ります? きっと気分変わりますよっ!」
ノミとカンナを手に、小さく胸を張って見せる。
ヒメは目を伏せ、浅く息を吐いた。
「……そういうの、今はいい」
「じゃあ! 私が作業歌でも歌いましょうかっ! “のこぎりゴーゴー♪”とかっ!」
声の調子は相変わらず軽やかで、悪意なんてどこにもない。
けれどヒメには、その明るさが自分の影を濃くしていくように感じられた。
「……あっち行って!」
抑えていたものが、不意に弾けるように飛び出した。
それは大声ではなかったが、刺すような鋭さを帯びていた。
ミオウの笑顔がわずかに揺らぎ、言葉が止まる。
その髪飾りから、桜の花弁がひとひら、またひとひらと風に解けて落ちていく。
ミオウは、一歩近づいた。
「ヒメさん、あの……さっきの、私……」
声は明るさを保とうとしていたが、ほんのわずかに震えていた。
ヒメは釘を選ぶふりをして、視線を上げない。
「……別に」
その短い言葉に、ミオウの笑顔が一瞬だけ固まる。
「そ、それじゃ……手伝いますっ!」
努めて元気な声で言い、ヒメの前に置いてある木材の端に手をかけようとする。
「いい。ひとりでできるから」
ぴたり、と動きが止まった。
ヒメの声音には怒りも苛立ちもなかったが、それが逆に距離を感じさせた。
「……じゃ、じゃあ…」
ミオウは少し離れた釘箱を抱えて持ってくる。
「これ、近くに置きますねっ!」
ぎこちない笑顔と一緒に差し出すが、ヒメは軽く首を振る。
「そこ、置かなくていい」
そのたびに、ミオウの声は小さくなっていった。
「……そうですか……」
背中にかかる陽射しの中、ミオウの桜の花飾りからまた花弁がひとひら、ふわりと落ちる。
それでも諦めきれず、もう一度口を開く。
「……ヒメさん、さっきの図面、すごくきれいでしたっ」
精一杯の賛辞も、ヒメは受け取らなかった。
「……ありがと」
その「ありがとう」は、まるで扉の向こうから届く声のように遠かった。
ミオウは小さく唇を噛み、視線を足元に落とす。
もう一枚、花弁が静かに舞い落ちる。
足元の木くずの上に淡い桃色が積もっていくのを、彼女自身は見ようとしなかった。
「……あっち行って」
ついにヒメがそう告げた。
ミオウは一瞬だけ息を呑み、そして小さくうなずく。
「……はい」
その背中は、さっきまでの軽やかさが嘘のように重く、花弁の重さまで一緒に背負っているみたいだった。
足音が、板の上で小さくきしんだ。
振り向くと、ミオウがそこに立っていた。
いつもの張りのある声はなく、肩がわずかに下がっている。頬の色も薄く、視線は地面に落ちたままだ。トレードマークの桜の髪飾りもいつのまにか花弁が2枚しかついていない。
「……サクさん」
その呼びかけは、耳を澄ませなければ聞き逃すほど弱かった。
ふわり、とまたひとひらの花弁が風に乗って離れ、足元に落ちる。
「わたし……ヒメさんに、嫌われちゃったんでしょうか」
声が震えていた。
明るさも自信も削がれたその表情は、ただ必死に涙をこらえている子どものようだった。
瞬間、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
何か言おうとして、けれど言葉を選ぶために息を一度飲み込む。
「……そんなことないと思うよ」
腰の釘袋を外し、静かにその場にしゃがみ込む。目線を合わせると、ミオウの瞳がわずかに揺れた。
言葉が出ない様子だが、助けを求めていることはわかる。
「…うん、心配しなくていいよ。ちょっと行ってくる」
ミオウは下唇を噛み、視線を落とす。
それでも、ほんのわずかに顎を引き、信じるように小さく頷いた。
私は静かに歩き出す。
背後で、最後のひとひら桜の花弁がはらりと落ちた。
それは、ミオウの心から少しずつ色がこぼれていく音のように聞こえた。
足元の砂利を踏むたび、しゃり、と乾いた音が響く。
木の香りと、さっきまでの釘の音が少しずつ遠ざかっていく。
作業場の端、日陰になった壁材の山のそば……そこに、ヒメはいた。
膝を抱え、腕の中に顔を半分うずめている。
腕越しに覗く瞳は、曇った水面みたいに揺れていた。
私に気づくと、すぐにそっぽを向いてしまう。
「……ここにいたんだ」
声をかけても、返事はない。
風が通り抜け、ヒメの髪をほんの少し持ち上げては落としていく。
「ミオウ、心配してたよ」
それでもヒメは黙ったまま。
抱えた膝に額を押しつけ、肩がかすかに上下していた。
私は深呼吸をして、膝を折り、ヒメの横に座った。
何から話せばいいのか、すぐには決められない。
けど、この沈黙のまま戻ることだけはできなかった。
膝を抱えたまま、ヒメはぽつりとつぶやいた。
「……私のできること、全部、あの子にできる」
その声はかすかに震えていて、力が抜けたように聞こえる。
「私……もういらないの?」
顔は上げない。けど、膝に押しつけた額の奥で、目が潤んでいるのがわかる。
私は、何も言えなかった。
ヒメがこんなふうに自分を比べて落ち込むなんて、想像したことがなかったから。
いつも冷静で、必要なことだけをきっぱり言う。
感情を大きく見せることはほとんどない。
――でも、知っている。
虫に家を壊されたあの日、ヒメは静かに、けれど凍りつくような怒気を孕んだ声で言った。
その言葉は短く、淡々としていたのに、空気がぴんと張り詰めたのを今も覚えている。
この子はきっとすごく感情豊かなんだろう…
「……っ」
堪えきれなくなったのか、ヒメの腕の中から小さな嗚咽が漏れる。
肩が震えて、声にならない息が何度も途切れる。
私は、そっとその背中に手を添えた。
木陰に腰を下ろしたヒメは、膝を抱えて顔を伏せたまま、こちらを見ようともしない。
風が髪を揺らすたび、表情の影が深くなる。
「ヒメ、ミオウのこと…気にしてる?」
私が問いかけても、しばらく返事はなかった。
「別に…」
小さな声が落ちる。でも、その「別に」に力はない。
「でも、あの子、悪気あってやったわけじゃないと思う」
「わかってるよ。それでも…」
ヒメは言葉を切って、小さく肩をすくめた。
「…私、いらないのかなって」
胸が痛くなった。
「そんなことないって。ヒメがいなかったら、ここまで家だって形になってない」
「でも、今日のあの感じ…全部あの子ひとりで進んでたよ」
「それは…たまたまだって」
「たまたま、が続いたら? 私の居場所、なくなるよ」
その言葉に、どう返せばいいかわからなくなった。
否定しても、慰めても、彼女の中の疑いが消える気がしない。
言葉を探すたび、喉の奥がつかえていく。
「…サクは、私がいなくても困らない?」
「困るよ。すごく」
「じゃあ…なんで、あの時、何も言ってくれなかったの」
「……」
返事が詰まり、息だけが漏れる。
本人同士で解決…なんてあやすような言葉は、事実であれ言えない。
私の沈黙が、ヒメの瞳をさらに曇らせてしまった。
「……サクはさ」
ヒメがぽつりと口を開く。
「もし私がいなくなったら、どうするの」
「どうするって…探しに行くに決まってる」
「そういうことじゃなくて」
ヒメは顔を上げ、真正面から私を見る。
その瞳は淡い色をしているのに、問いかけだけは鋭かった。
「作業は、困る?」
「困るよ。だってヒメがいないと――」
「でも、あの子がいればできちゃうよね」
間髪入れずに遮られる。
否定したいのに、言葉が絡まってうまく出てこない。
「……ヒメのやり方じゃなきゃ、うまくいかないことだってある」
「それ、本当に思ってる?」
「思ってる!」とすぐ返したけど、自分の声が少し上ずっているのがわかった。
ヒメはその反応にわずかに目を伏せる。
「私ね、別に誰かに褒められたいわけじゃないの。でも…必要とされたいんだ」
「されてるよ」
「じゃあなんで、あの時、私を見なかったの」
言葉が詰まる。
思い返せば、あの場面で私の視線は確かにミオウに向いていた。
その一瞬が、ヒメには突き刺さっていたらしい。
「……ねえサク」
「なに」
「私の居場所、ちゃんとある?」
その問いはまるで試すようで、でも泣きそうに揺れている。
「あるよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
「……嘘っぽい」
胸の奥がきゅっと痛んだ
「じゃあどうすれば信じてくれる?」
「わかんない。……でも今は、何を言われても信じられないかもしれない」
ヒメの声はかすれていた。
それは怒りでも拗ねでもなく、限界まで縮こまった小さな心の音に聞こえた。
私は手を伸ばしかけて、しかしその手を空中で止めた。
今触れたら、きっと壊れてしまいそうだった。
「……信じられないかもしれないって言われるとさ」
私は苦笑いを作ろうとしたけど、唇が震んで、うまく形にならなかった。
「どうすればいいのかわからなくなる」
「私もわからないよ」
ヒメは膝に額を押し付けたまま、かすれた声をこぼす。
「ただ…あの子が全部できちゃうなら、私の存在ってなんなんだろうって」
「ヒメはヒメだよ」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
けれど、その返しはあまりにも軽すぎて、自分で言いながら胸が痛くなる。
「それ、便利な言葉だよね」
ヒメは顔を上げないまま、少しだけ口元を歪めた。
皮肉というより、自分を遠ざけるための防波堤みたいな響きだった。
私は何か言い返そうとして、息を吸う。
けど、口の中で言葉が迷子になる。
結局、吐き出せるのは息ばかりで、意味を持つ音は出てこなかった。
沈黙。
風が木の葉をかすかに鳴らし、どこかで鳥が短く鳴いた。
遠くから木槌の音が一定のリズムで響いてくる。
その音が、今の二人の間の距離を余計に際立たせていた。
「……サクは、私がいなくても困らない?」
何度も同じ質問。決まりきった答えを返す私。きっとここがヒメにとって1番大切な部分。
でも、ヒメが納得する理由を見つけ出せない。自分の不甲斐なさに辟易とする。
「困るよ。すごく」
それは本心だった。でも――。
伏せられた瞳の奥に、怒りというより深い寂しさが滲んでいる。
その目を真正面から受け止めるのが怖くて、一瞬だけ視線をそらしてしまう。
私の沈黙が、ヒメの表情をさらに曇らせた。
手元のスカートの布を、彼女は小さく握りしめる。
指の関節がわずかに白くなっていた。
何か…何か言わなきゃ。
でも、頭に浮かぶ言葉はどれも、空虚で、軽くて、届きそうになかった。
このままじゃ、手を伸ばす前に、ヒメはもっと遠くへ行ってしまう――そんな予感だけが強くなる。
胸の奥が、どうしようもなく締め付けられていく。
それでも私は、動けなかった。
その時だった。
「……あの、すみませんっ!」
声が、風を裂いて近づいてくる。
振り返ると、ミオウが小走りでこちらに向かっていた。
頬は上気していて、唇を固く結び、目は真っ直ぐにヒメを捉えている。
「ごめんなさい!確かに私…ヒメさんのスケッチブックの内容、全部覚えちゃいました」
言葉は息を切らしながらも、はっきりとしていた。
「でも、それを“生み出す”ことは、私にはできないんです」
ヒメの眉がわずかに動く。
ミオウは一歩、二歩と近づいて、声の調子を落とした。
「私は、目で見たものの情報を読み取ってそのものの10秒後までの未来が予測できるんです…
その特技の副次的なものに「完全記憶」があって…それで」
ミオウは言いながら前髪を右手でかきあげ両目を見せてくる。
その目は普段の透き通った桃色ではなく、深海から覗く空のような深い蒼に染まっていた。
ヒメは、じっとミオウを見ていた。
その瞳の奥に、ほんのわずか、硬さがほどけていく気配があった。
深い蒼色の奥で、淡く揺れる光がひとつ。
それは言い訳でも自慢でもない――ただ、必死に伝えようとしている証だった。
「…それでも、あなたが全部できちゃうなら、私は…」
ヒメの声はかすれていた。
「できません!」
ミオウは首を振った。勢いで前髪がふわりと戻り、瞳に桃色が戻る。
「図面を生み出す発想も、この家をこうしようって思える力も…私にはないんです。
ヒメさんがいなきゃ、私はただの“真似”しかできません」
その言葉が、ヒメの胸の奥に落ちていく。
スカートの布を握る手が、少しだけ緩んだ。
「…真似、か」
「はい。だから、あの時は…本当にごめんなさい」
ミオウは深く頭を下げた。
私は黙って見守っていた。
ヒメが返事をするまで、余計な言葉は挟まない方がいい気がした。
花同士――なんて理屈じゃない。ただ、ここは2人の間で完結するべきだと思った。
しばらくの沈黙。
やがてヒメはふっと息を吐き、ミオウの方にだけ視線を向ける。
「…じゃあ、次はちゃんと、私に相談して」
「あ…は、はいっ!」
ミオウの顔に、ぱっと笑みが戻った。
その笑顔に合わせるように、なくなってしまった髪飾りの花弁がそっと形を取り戻す。
少しして、ヒメはゆっくりと立ち上がった。
膝についた草を払う仕草は淡々としているのに、その瞳にはもう迷いはなかった。
「…じゃあ、戻る」
短くそう言い、私とミオウの横を通り抜けて現場へ向かう。
ミオウは一瞬ぽかんとしたが、すぐに笑顔になってその後を追った。
骨組みの間をくぐり抜け、腰のバッグからスケッチブックを取り出すヒメ。
ページをぱらりとめくり、鉛筆の先で図面をなぞる。
「ヨマリ、その板は少し角度を変えて。ナノハはこっちの壁材を支えてて」
「お、おう…?」
「え、あ…うん!」
急な復帰に、ヨマリとナノハは目を丸くする。
けれどヒメは気にせず、次のページを開き、さらに指示を飛ばした。
その声にかぶせるように、ミオウが動く。
「ヨマリさん、その位置は危ないですっ! 三歩下がって!」
一瞬、ミオウの瞳が深い蒼に染まる。
その視線の先――梁の端で固定が甘くなった板が、わずかにきしんでいた。
「うわっ!」
ヨマリが後ろに下がった直後、板がずるりと滑り落ち、地面に鈍い音を立てて転がる。
「危なっ…! 今の、もし当たってたら…」
「頭に直撃してましたよー」
ミオウは何事もなかったように笑い、すぐにまたヒメの指示に合わせて動き出す。
「ナノハさん、そのまま三秒キープしてください!…はい、今です!」
「わーっ、ちょっと腕ぷるぷるしたー」
ナノハは笑いながら板を押さえ続け、ヒメが釘の位置を決める。
テンポよく交わされる二人の指示。
「おおっ…忙しさが2倍になったぞ!」とヨマリが苦笑しながら木槌を振る。
私はその様子を少し離れて見守っていた。
さっきまで漂っていた重たい空気は、木の香りと笑い声に溶けていっていた。
ヒメが図面を開きながら先を読み、ミオウが現場で危険やズレを察知して補正する。
まるで、ふたりの息が最初から合っていたかのようだ。
「その釘、もう少し右ですっ!」
ミオウの声と同時に、ヒメが「そこ」と短く補足する。
ヨマリは木槌を構えたまま、「うお、二方向から指示が飛んでくる!」と笑った。
「ナノハ、この板はこっちに倒して――そう、もう少し」
「ナノハさん、その姿勢のまま五秒耐えてくださいっ!」
「ひゃー、腕もげるぅ…!」
それでもナノハは、笑い声を混ぜながら最後まで支えきった。
ふと、梁の上でわずかな軋み音がした。
「ヒメさん、その上! 釘が浮いてます!」
ヒメはすぐさま脚立を動かし、迷いなく金槌を打ち込んだ。
コンッ、コンッ――響く音が、骨組みをまたしっかりと結びつけていく。
「……ありがと」
ヒメが小さくつぶやくと、ミオウはふっと笑った。
その笑顔は、さっきまでのぎこちなさを微塵も感じさせなかった。
私は少し離れたところから、そのやり取りを見ていた。
二人が互いを補い合い、自然に動く姿は、見ていて心地よかった。
つい数十分前まで重く垂れ込めていた空気が、いつの間にか軽やかな風に変わっている。
梁の上で、ミオウが身を乗り出す。
「そこ、もう少し右ですっ!」
言うと彼女の瞳がまた一瞬、深い青に染まる。
「……あと三秒で崩れます!」
その声に、ヒメがすかさず足場を支え、ナノハが板を押し込んだ。
「よし、固定!」
カン、カン、とヨマリの木槌が小気味よく響く。
陽射しを受けて、木屑が金色の粒になって舞い落ちた。
ヒメは図面を片手に、次の指示を出す。
「南側の壁、ナノハとヨマリで先に立てて。ミオウはその間に梁を支えて」
「はいっ!」
声が重なり、手が動く。動線が自然と交わり、木と木が音を立てて組み合わさっていく。
私はその様子を少し離れて見ていた。
最初はぎこちなかったみんなの呼吸が、今はまるで最初からこうだったみたいに噛み合っている。
木の枠が立ち上がり、壁が形を持ち、屋根が乗せられていく――その一つひとつに、全員の声と笑顔が刻まれていった。
日も沈みかけて辺りが真っ赤に染まる頃 最後の屋根板をヨマリが高々と掲げる。
「これで終わりだな!」
その板が梁に嵌まり、最後の釘が打ち込まれる。
コンッ――乾いた音が、完成の合図のように響いた。
ヒメがスケッチブックをそっと閉じ、息を吐く。
「……できた」
その言葉に、ミオウが両手を合わせて小さく跳ねた。
「本当に、できちゃいましたねっ!」
髪飾りの桜は満開で、風に揺れている。
ナノハは屋根を仰ぎ見て、目を細めた。
「……綺麗」
ヨマリは腕を組み、「忙しさが二倍だっけど、楽しさも二倍だったな!」と笑う。
私はみんなと並んで、出来上がった家を見上げた。
骨組みから壁、屋根まで――まるでここにずっと前からあったかのように、凛と立っている。
新しい木の香りが風に溶け、空の青と混ざって広がっていく。
「……ここが、私たちの家だね」
その一言に、全員が笑顔で頷いた。
「……じゃあ」
私が深呼吸して、取っ手に手をかけた。
指先に伝わる木のひんやりとした感触が、なんだか特別なもののように思える。
みんなの視線が、私の背中に集まっているのを感じた。
「入ろっか」
そっと押すと、蝶番がきゅう、と短く鳴った。
途端に、乾いた木の香りがふわっと流れ出す。
まだ何も飾っていないのに、もうここが「私たちの場所」だと告げているみたいだった。
「おおぉぉーっ!」
一番に声を上げたのはヨマリ。
弾かれたように駆け込むと、中央でぴたりと止まり、梁を見上げる。
「この高さ! ブランコ吊るせるぞ!」
「やめてくださいよっ! 梁が壊れます!」
ミオウが慌てて追いかけるけれど、口元は笑っている。
ヒメは入口で立ち止まり、視線をゆっくり天井から壁、床へと滑らせた。
「……図面通り、だね」
その声には、ほんのわずかに誇らしさが混じっている。
戻ってきてからの彼女の横顔は、どこか晴れやかだった。
床板は、真新しい木目がまっすぐで、踏むたびにかすかに軋む。
窓からは午後の光が差し込み、壁に柔らかな四角形を描き出している。
その光が揺れるたび、室内の空気もやさしく波打った。
「ここ、私の場所にしよ!」
ナノハが窓際の光の中に腰を下ろし、両手を広げる。
「いやいや、そこは荷物置き場だ!」
「なら私は、荷物でいいです。どうぞお構いなきよう…」
「お荷物」
「空飛ぶお荷物」
「…分布域のお荷物」
「…あっ、おい!ナノハが泣いたぞ!」
みんなが思い思いにナノハいじりをしている間、
ミオウは壁際を歩きながら、指先で木の表面をなぞる。
「……この手触り、好きです」
桜の髪飾りが揺れ、花弁が光を受けて淡くきらめいた。
彼女の瞳は、どこか安心したように細められていた。
私はみんなの様子を見渡して、ぽつりと問いかける。
「じゃあ、ここで何から始めようか」
全員が顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。
「お昼寝!」「料理!」「室内野球!」「お風呂!」
声が重なり合い、反響して壁に跳ね返る。1人おバカがいたようだけど…
その笑い声は、まだ空っぽの部屋の隅々まで染み込み、
まるで家そのものが私たちを歓迎してくれているように感じた。
「そう言えば家の周りにある不自然な五つのサークルは何?」
「…何って、塔を浮かせる予定地だけど…」
「…諦めて、なかったのか…」
此度も、ここまで読んでくださって、本当ありがとうございます!
SleePです!
今回はちょっと短めですがどうでしょう?物足りなかったですかね!?
ミオウとヒメの喧嘩じゃないけど、すれ違いというか、なんというか…
描いてて気まずくなっちゃって気づいたらいつもより短くなってましたよね
まあでも無事に仲直りできたことだし、よかったよかったぁ。
家も完成したし、今後はここが本拠点になるわけです!
相変わらず毎日平和で下界で起こっていることに比べて可愛いことしか起こらない分布域!
次回は何が起こるのか、乞うご期待でございます!
ではみなさま、次回までごきげんようです!