うるみ子の 花を携へ 立つ朝け
どんなに泣いても、明日は来る。
なら――泣いたぶんだけ、笑ってやろう。
第一章『反撃』
「それで……」
ナノハが、真剣なまなざしで切り出した。
「具体的には、どうやって虫さんを結界に閉じ込める??」
「「「うーん」」」
声を揃えて、みんなが悩み込む。
フィールドアーツは、なんでも自由に扱える魔法みたいな力じゃない。一度発生させてしまえば
場所を動かすことはできないし、効果を後から変えることもできない。
できることと言ったら、場所を産み出し、場所を消すくらい。
「えっとね、多分なんだけど――」
私は指先で床に線を描くような仕草をして、言葉を続けた。
「私がフィールドアーツを出す場所に虫を誘き寄せるか、逆に虫の動きを封じて、
そこに発生させるか……どっちかしかないんだよね」
そのとき、ヨマリがずいっと身を乗り出してきた。
「それで! 閉じ込めたあと、どうするんだ?!」
ごく自然な疑問だ。たしかに、異形の虫を空間ごと封じ込めるにしても、
そこにずっと「虫のモニュメント」が残り続けると言うのは…考えるだけでも気持ちが悪い。
「飼育する!」
ふざけろ
「祀り上げよう!!」
月一で祭り開くぞいいのか?
「こいつの生体エネルギーを使って発電とか発熱に応用しよう!!」
黒幕か
なるほどヨマリ、この子はただものじゃないな。
いつも通りの真顔でとんでもないことを言い始める。
「えっ、じゃあじゃあ! 周りを剣山で囲って……串刺しにしようぜ!!」
ヨマリが無邪気に叫んだ瞬間——
「「「グロい話ーっ!!!」」」
私は顔をしかめ、ナノハは本気で引いて、思わず全員で突っ込んだ。
誰かが「そういうの、戦い方じゃないよぉ…!」と呟く。
でも——なぜだろう。みんな、笑っていた。
別にやけになっているわけでも、おかしくなったわけでも、
怖さを忘れたいわけでもない。
“ちゃんと勝てる”って信じてるからこそ、作戦を立てる余裕が出てきたんだ。
「まったく……」
と、そのとき。
少しだけ遠くから、ヒメの声が落ちてきた。
さっきまで静かにみんなのボケ合戦を眺めていた彼女が、すっと立ち上がる。
「呆れちゃうよ……ほんとに。でもね、」
ヒメは、少しだけ得意そうに、でも照れたように言った。
「いい作戦、思いついたの」
静けさが落ちる。
「まずは今言った通り、あいつを閉じ込める結界を作るの。動かない、壊れない、絶対に逃げられないやつ」
「そのあと、別のフィールドアーツで、分布域の大地に大穴を開けて結界ごと下に落とす」
「突き落とすの。地上まで。そしたら……もう戻ってくることはない。」
全員が息を呑んだ。
「結界を閉じて落とす……って、そんなこと……!」
ナノハがぽかんとした口で言いかける。
ヒメは言った。「二枚のフィールドアーツを使う」…と
「ひとつは、閉じ込める空間を生み出すアーツ」
「もうひとつは、その空間の足元に何もない空間を作り出すアーツ」
「……それって、まさに……」
ナノハが言葉を飲み込んだあと、顔を輝かせて叫んだ。
「確定コンボじゃん!!!!」
その言葉に、場の空気がパッと弾ける。
「ほんとだ! 絶対勝てるぞ!」
ヨマリが拳を突き上げる。
でも私は、少し怖気付いてしまった。
「……でも、フィールドアーツ、二つも同時に使えるかな」
私がぼそっと言うと、ヒメがこちらを振り返った。
「無理して出す必要はないよ。タイミングを合わせて、順番に出せばいいだけなの」
「でも……」
「サクの負担が大きいのは確かだよね。だから、できるだけサポートするつもり」
私は黙った。
でも、覚悟は決まっていた。
そもそもこれ以外、ナノハナ分布域からあれを除外する方法が思いつかないし。
「…よし、それじゃあさ、次は――」
ヨマリが腕を組んで、一歩前に出る。
「サクのフィールドにどうやって虫さんを誘導させるか、作戦を考えるぞ!」
「うん……そこに来てくれないと、せっかくの結界も無駄になっちゃうもんね」
ナノハが頷く。
会議の空気が、すこしだけ沈んでいた。
虫を閉じ込める結界を作る案までは出たけれど、その中に誘導する方法が思いつかない。
みんなの眉が曇っていて、さっきまでの賑やかさが、どこかへ遠のいていく。
「……どうしようかなあ」
私はぼんやりと、地面に小石で線を描きながらつぶやく。
強引に追い込む? でも相手はこっちの言うことなんて聞いてくれない。
誰かが囮になる? でもそれは、危険すぎる。
なんとかして、この状況を突破するアイデアがほしい。けど……。
ふと、目の端に、ナノハの小さな手が見えた。
そっと、私の袖口を引いている。
「サク……ひとつ、聞いてもいい?」
「ん?」
「……その、前にさ、空を飛んで、「ぬぇ〜〜ん」から逃げた時のこと……」
「ぬぇ〜〜ん…」
おとーさんのブレイブ「ダウンソードナイト」が異形と化した姿のことを言っているのだろう。
確かにあの時私はナノハと一緒に空に飛び出し、落ちた。
ナノハは言いながら、自分の手のひらを見つめた。
その手が、風に乗ったときの記憶を思い出しているように、ふわっと揺れる。
「私、1人なら結構高くまでふわふわ飛べるんだ、早くは飛べないけど、」
「そうだった……ナノハ、飛べるんだった……」
まぁあのときは落ちたがな
私の声に、みんなの視線がナノハに向く。
「うん、だから、私が、空から虫さんを誘導して……」
言葉の先を、ナノハは少しだけためらった。
けれど、すぐに、まっすぐ私を見て、言い切った。
「——囮になる」
静かな決意だった。
私は即座に否定の言葉を口に出そうとした。がそれより早く制止が入る。
「待ったぁぁぁああああ!!」
ヨマリの声が跳ね上がる。
「ナノハだけにそんな危ないことさせてたまるかーっ! わたしだって得意なことくらいあるぞっ!」
勢いよく手を挙げたヨマリは、どこか得意げに胸を張ってみせた。
「……というか、走るのだけはめっちゃ速いんだ、わたし! なにしろ毎朝、自主トレで五周は回ってるからな!」
「そんなことしてたの……?」
私がぽつりと呟くと、ヨマリがドヤ顔でうなずいた。
「だからナノハが空から誘導してくれたら、地上は任せてくれ! 虫をかく乱するのは、わたしの全力スプリントでいけるぞ!」
どこか得意げなヨマリに、空気が少しやわらぐ。
そのとき。
「ふふっ……じゃあ、わたしは……」
ヒメが、静かに口を開いた。
「もし、みんなが怪我したり、疲れたりしたときに……すぐに回復できるように、そばにいるよ。……それが、わたしの特技、なの」
そっと目を伏せたヒメの言葉に、私は思わず息を呑む。
戦う力ではないかもしれない。
でもその言葉は、いちばん深く、あたたかく、みんなを支えてくれる気がした。
「……ありがとう、みんな……」
胸の奥が、ぽうっと熱くなる。
恐怖に囚われていたはずなのに、こうして、ひとりひとりが自分の特技を差し出してくれる。
逃げるんじゃなくて、向き合おうとしてくれてる。
私は、そっと拳を握った。
「……よし」
小さく呟いて、顔を上げる。
「そうと決まれば、私たちの力、確認と練習をしておこう!」
第二章「奇襲」
陽の光がほんの少し傾き始めた頃、
私たちは分布域の外れにある、広い広い草原へやってきた。
空にはぽっかりと雲が浮かび、風が優しく吹いている。
それだけで、さっきまでの作戦会議が、どこか夢だったみたいに感じられるくらいに、穏やかな空気。
今はもう、誰の表情にも迷いはない。
やるべきことは決まった。
「よーし、それじゃあまずは――」
私は大きく手を叩いて、みんなを振り返る。
「ナノハの飛行訓練から、始めよう!」
「はぁいっ!」
ナノハが元気よく手を挙げて、ふわっと駆け出す。
黄色い花冠が風に揺れて、キラキラと光の粒を跳ね返している。
その姿があんまりにも綺麗で、私は思わず笑みをこぼしてしまう。
「でも……あらためて練習するってなると、ちょっと緊張するかも……」
ナノハはそう言いながらも、胸の前で手を組んで、目を閉じた。
深く息を吸って、吐いて、もう一度吸って――。
「いっくよ〜っ!」
ふわり、と。
ナノハの体が、足元からじんわりと光を帯びて、
それがそのまま、花びらをすくい上げるように浮かび上がった。
「……おおっ」
思わず小さく声が漏れる。
彼女の髪が、光のなかで銀色に輝く。
服の裾が揺れ、肩が風に撫でられている。
まるで、空に溶けていく花びらそのものみたいに、彼女はふわふわと宙を舞い始めた。
ふわり、と風に舞う花びらみたいに、ナノハは空中でひとつ回転すると、ゆっくりと弧を描いて――
「ナノハ、すごいよ!」
「えへへ、どうかな? あんまり速くは飛べないけど……」
彼女はほんのり頬を染めて、こちらを見下ろす。
私はナノハに聞こえるように大きな声で言う。
「正直ナノハの飛行に綺麗なイメージはなかったけどーー!1人だったらまさに妖精さんみたいで綺麗!」
「え待って、ひどくなーーーーッ」
次の瞬間――
「うわっ、ちょっと待って!?油断した!風つよいっ!」
ぶわん!と煽られて、くるんと横回転。
「ぴぎゃっ!」
そのまま草原にずしゃーっと着地して、見事に大の字。
服にくっきり草の模様がついてしまって、図らずともイメージ通りのナノハ飛行に戻ってしまった。
「だ、大丈夫!?」
「……だ、だいじょうぶ。……かも?」
涙目になりながら、ナノハがぐっと親指を立てる。
その姿を見て、私はつい笑ってしまった。
「よーし、じゃあ次はもうちょっと風を読んでね、ナノハ!」
「いや。サクのせいだと思ってるからねわたしこれ……」
彼女は立ち上がり、草のついた服をぱたぱたとはたいて、もう一度空を見上げる。
その顔は、少し赤くなっていたけれど、くじけてはいなかった。
「おおーっし! 今度はわたしの番だな!!」
ヨマリが腰に手を当て、勢いよく立ち上がる。
どこからか取り出した謎のバンダナを、ばしっとおでこに巻きつける仕草に、やたらと気合がこもっていた。
似合うな。この子は土木系装備が。
「ナノハが空を飛べるなら、地上はわたしの担当だ! 虫の足元に忍び寄る影、それが……ヒマワリヨマリ!」
「なにその中二感……」
思わずツッコミそうになる私をよそに、ヨマリはすでに戦闘態勢に入っていた。
両脚をパタパタと動かして、その場で助走をはじめている。
「では! 皆さまにお見せしよう! これぞ分布域最速のブレイブによる、地を滑る閃光!」
「ネーミングだけはかっこいいな……」
その瞬間だった。
「いっけええぇぇぇぇえええ!!!」
ヨマリが地面を蹴った瞬間、風が裂けた。
……正確には、“風が避けた気がした”。
「――え? どこ行った?」
一同、ぽかん。
残されたのは、ぼんやりとたなびく風の尾と、遠くでガラガラと揺れる花畑だけ。
「今、音速超えてなかった……?」
ナノハがぽつりとつぶやく。
ヨマリの走った軌跡には、文字通り“線”が残っている。砂埃のライン、花弁の渦、そしてところどころ風で倒れた木。
「ひとまず一周目おわったぞおおおお!!」
遥か向こうから届いたその声は、山びこのように響き渡った。
「……今、分布域を一周って言ったよね?」
「しかも、五周するって言ってなかった?」
私たちはそのまま口を閉じる。次の瞬間、再びヨマリの姿が現れたかと思うと――
「いにゃっ!!」
ドンッ!!
「痛いっっ!?」
ヨマリが急ブレーキに失敗して、謎の木杭に突っ込んだ。どうやらナノハが立てていた「ここでお昼寝しないでね」立て札らしい。
「わ、わたしとしたことが……! このヒマワリヨマリ、花として恥ずかしい!!」
そう言ってガクッと項垂れる姿は、なぜか謎のスポーツアニメのラストシーン感があった。
「だ、大丈夫!? 無理しなくても……!」
「ふ、ふふ……これくらい、どってことないぞ……!」
よろよろと立ち上がりながら、顔は土まみれ。バンダナもずり落ちてる。
そのまま二周目、三周目と、ヨマリは文字通り風のように駆け抜けた。
が、四周目あたりから明らかにスピードが落ちていく。
「ぜ、ぜえっ……ご、五周目ぇええ……っ……これは……まさか……酸素が……うっすい……っ……」
「ヨマリ、分布域は酸素の濃度、地上とそんな変わらないよ……」
とうとう五周目、ヨマリは大の字になって崩れ落ちた。
「つ、つかれた……けど……これで虫さんが来ても……任せてくれ……な……!」
両手を広げて地面に倒れ込んだヨマリの顔は、達成感でいっぱいだった。
「すごかったよ、ヨマリ!」
ナノハが駆け寄って、その手をそっと取る。
「ありがとう……」
「えへへ……ナノハに言われると……がんばった甲斐が……あるな……」
そう呟いたヨマリの顔には、土と汗と、ほんの少しの誇らしさが混じっていた。
「ヨマリ……だ、大丈夫……?」
ナノハが、汗まみれで大の字になっているヨマリに駆け寄った。
「ふ……ふふふ……大丈夫、だとも……!」
ぜえぜえと息を切らしながらも、ヨマリはピースサインを浮かべる。
「なにせ! ヒマワリヨマリは! 最後の最後まで全力で駆け抜ける女だからな……!」
そう言って、またばたりと倒れた。
「……あ、あの、わたしもちょっと、くらくらしてきたかも……」
ナノハもその隣でぺたんと座り込む。
「高くまで飛べたのはいいけど、ずっと風に乗ってたら……ぐるぐるしてきた……」
「それは飛びすぎだよ、ナノハ……」
私が駆け寄ろうとしたとき、すっと静かな影が差し込んだ。
「ふふっ……じゃあ、ここは……わたしの出番、なの」
ヒメだった。
相変わらずやわらかな微笑みをたたえて、そっと膝を折り、ふたりの隣に座り込む。
「ナノハ、手を出して?」
「う、うん……」
ヒメがそっと、ナノハの手のひらに自分の手を重ねる。
その瞬間――
ふわり。
光が舞った。
黄色くて、やわらかくて、どこか花の香りがするような、あたたかな光。
「……わあ……なんか、ぽかぽかする……」
ナノハの頬がほのかに赤く染まり、ゆっくりと呼吸が整っていく。
「疲れも……どこかに消えていくみたい……」
ヒメは何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。
そのあと、今度はヨマリの番。
「ヨマリ、手を貸して?」
「う、うぃ……」
へにょへにょになったヨマリが、そろりと手を差し出す。
「な、なんかこういうの……くすぐったいな……」
「……ふふっ、がんばったごほうび、だよ」
ヒメのやさしい声と共に、また光が灯る。
ヨマリの指先に触れた光が、するすると全身へと染み込んでいって、まるで熱がゆっくり抜けていくみたいに、ヨマリの肩の力が抜けていく。
「……わ、なんだこれ……ふくらはぎが、軽い……!」
「さっきまで、ぜんぶの筋肉がぎゅーってしてたのに……なんか、ほぐされてる感じする……!」
「あったかい、ね……」
ナノハとヨマリがぽつぽつとつぶやく。
そんなふたりを見守りながら、ヒメはそっと言った。
「わたし……すぐに戦えたりはしないけど……でも、みんなが疲れた時には、いつでもそばにいるから……安心して、がんばってほしいの」
その言葉が、そっと、胸に届く。
ヒメの笑顔は、ナノハの花冠みたいに、優しくて、でもすごく強い。
「……ありがとう、ヒメ」
私は自然とそう口にしていた。
戦う力じゃないけれど――
それは、きっと一番、みんなを救う力だ。
そして、いよいよ。
私の番だった。
私は深呼吸を一つして、目を閉じた。
鼓動が耳の奥で響いてる。
でも……さっきまでとは違う。
震えるような怖さじゃない。
みんながいてくれるから。
この手に、力を集められる気がした。
「……よし」
そっと目を開ける。
風が、静かに流れている。
分布域の空は、穏やかな昼のまま。
けれど、空気は張りつめていた。
きっと私の、集中が、空間ごと静かにしてるんだ。
私は、一歩、前に出る。
「閉じ込めて……!」
右手を、前に伸ばす。
掌に、何かが生まれる感触が走る。
「フィールドアーツ……!」
その言葉に呼応するように、
空中に、淡い光の粒が集まり始める。
光は手のひらの上で揺れ、まるで紙のような形を成していく。
カードが――現れていく。
まるで、私の想像がそのまま形になるみたいに。
「《怒りの虫かご大結界》!!」
風が、巻いた。
咆哮のような風じゃない。
でも、意思を持ってるみたいに、私の髪を揺らした。
カードの中央に、イメージが浮かび上がる。
鋼鉄の枠組み。
透明な結界壁。
空に浮かぶ四角い牢獄。
その中に、虫の異形が入る姿が、はっきりと“見える”。
イメージの投影が、フィールドアーツへと変わろうとする。
境界線が走る。
地面が、うっすらと光を帯びる。
空間が、囲まれようとして――
「ッ!?」
そのときだった。
耳の奥で、“ブゥウゥゥゥゥゥン……”という、
聞き覚えのある、いや、聞きたくなかった羽音が響いた。
「ッ――!!」
振り返るより早く、
空の向こうから、何か黒い影が、こちらへと突っ込んできた。
あの、何とも形容し難いドロドロと尖った脚。
心の臓まで覗かれているような白い大穴。
異様なまでに黒い、羽のきらめき。
「虫さん……!」
ナノハの声が裏返る。
襲撃。
タイミングは、最悪だった。
フィールドアーツは、まだ完成していない。
投影のイメージは途中で、カードは手の中で震えている。
私の集中が、音を立てて崩れた。
足はすくんだまま、手の中のカードだけが、わずかに光を残して揺れていた。
「サクッ!!」
ヨマリが叫ぶ。
ナノハが私の肩を掴む。
でも――体が動かない。
どこから現れたのか。
結界の発動に集中していた私には、その気配すら感じ取れなかった。
異形の虫が、一体。
私たちのいる草原に、確かに、そこに立っていた。
「……ッ」
やっぱり身体が、動かない。
目だけが、そいつを捉えている。
冷たい汗が、背中を這っていく。
結界の完成を目前にして、集中を一気にかき乱された私は、まるで電源を落とされた機械のように、地面にへたり込んでいた。
喉が乾いて声も出ない。
逃げようと思っても、脚が鉛のように重く言うことを聞かない。
「サクッてば!!」
またヨマリの叫びが聞こえる。
その声に応えることもできず、私はただ、うずくまったまま動けなかった。
「……まだ……フィールドアーツの……練習ができてないし……戦う時じゃない……」
必死に、口を動かす。
しぼり出すような声だった。
「……逃げよう……」
その言葉に、ナノハがこくんと頷くのが見えた。
ヨマリも、ヒメも、目の前の事態の異常さに顔を強張らせながら、私の言葉に同意してくれた。
でも。
最悪は連鎖して止まらない。
「……ヒィイイ……ィ…………」
耳をつんざくような、ざらついた空気を這う声。
「フィーる……ド……アあアーー……ツツ……」
私は、聞き間違いかと思った。
けれどその“音”は、はっきりと、聞き覚えのある発音だった。
フィールドアーツ。
あり得ない。
あり得ないはずだった。
それは私たちだけの、“Emクリエイター”の力のはずだった。
異形が、それを使ってくるなんて――。
「っ……」
咄嗟に立ち上がろうとするが、脚が言うことをきかない。
恐怖が神経を凍らせていた。
異形の虫は、音もなく、私たちに近づいてくる。
這うように。
ゆっくりと、けれど確実に、逃げ道を塞ぐように。
ナノハが一歩後退し、ヒメの手が震える。
ヨマリは前に出ようとするが、その異様な気配に、肩が小刻みに揺れていた。
異形は、歩みを止めることなく、私たちのすぐ目の前に立つ。
まるでこちらの恐怖を楽しむように、首を傾け、ゆっくりと――
まるで“観察するように”、私の顔に、顔を近づけてきた。
私は目を逸らすことができなかった。
異形の顔には、見たまんまの虫の顔があった。
サクの目の前でそれは二つに割れて、中から白目でドロドロに溶けたような
人間の顔が出てきた。
「……ヒッ、イ……イヤ…」
それはサクの顔をひと舐めすると、嬉しそうに笑った。
そして満足そうに、そして楽しそうに唱えた。
「…………アブソリュート・プレデーション・スペース」
言葉は、はっきりと、意味を持っていた。
その瞬間。
私たちの周囲の空気が、ぬるりと粘る。
「っ、え……なに……?」
ナノハが声を上げる。
そして、空が――地面が――空間そのものが変わった。
四方を囲むように、液体のような壁が現れ始める。
天井にも、壁にも、にじむように。
ドロッ……ドロドロッ……
「ちょ、ちょっとこれ……なに……?!」
ヨマリが声を上げる。
その頬に、わずかに液体が飛び散る。
「っ、ヨマリ!!」
ヒメが彼女を引き寄せる。
ヨマリに当たらなかった液体は、分布域の花のひとつに落ちた。
ジュッ……という音とともに、
その花は、跡形もなく溶けた。
「……酸、だ……これ……」
私は、足元の草花が、次々と音もなく溶けていくのを見ていた。
もう、逃げられない。
このフィールドは、閉じられた。
虫の異形が、まるで“学習”したかのように、私たちを囲ってきた。
「……閉じ込められた……」
誰が言ったかも、わからなかった。
でも、私たちは、理解していた。
これはもう、ただの虫じゃない。
喋り、力を真似し、知性を持ち、罠を張る。
これは、完全に、“私たちを狙っている”存在だった。
第三章「応戦」
「ヒメ、ナノハ、下がれ!!」
ヨマリが声を張る。
けれど、その声すらも粘液の結界に吸い込まれるようで、どこか籠って聞こえた。
サク、しっかりしろ。
声が、聞こえる。自分の中の。
まだ……私、何もできてない。
みんなを守れるカードも、力も——
「サク!! 目、つぶるな!!」
ヨマリが叫ぶ。
「サクが動けなきゃ、わたしたち全員……やられるぞ!」
彼女の瞳は、震えていた。
けど、ちゃんと前を見てた。
「わたしが囮になる! だからそのあいだに……もう一度、フィールドアーツを……!」
「ナノハが空を取るなら、わたしは地上でかく乱する!!」
ヨマリが地を蹴る。
「……そして、わたしが……ふたりを、癒すから」
ヒメがそっと囁いた。
その言葉が、私の心に届いた。
もう一度、拳を握る。
もう一度、カードを握りしめる。
「わたしが……」
ひとりごとのように、私は呟いた。
「……閉じ込める」
「いくぞ……!」
ヨマリの叫びとともに、酸の結界の中で戦いが始まった。
目にも止まらぬ勢いで、彼女の足が地を蹴る。
一瞬で視界から消えたかと思えば、異形のすぐそばに現れ、また次の瞬間には反対側へ。
——速い。
それはもう、「速い」という次元を超えていた。
「おーらおらおら! こっちだぞ、こっちっ!!」
異形がぎょろりと目を動かすが、追いつけない。
「愚かな…」
「私の俊足は分布域最速です。」
どうやら少しちょける余裕があるらしい。背後をとるたびにどこかで聞いたようなセリフを吐く
6本の脚を同時に振り下ろすが、そのすべてを、ヨマリは紙一重でかわしていく。
「このスピード、ついてこれるもんなら、ついてきてみろっ!!」
その声は、恐怖をごまかすための強がりなんかじゃない。
本気の怒りと、本気の挑発だ。
「よくも、わたしたちの家を……!!」
地を裂く脚が、酸を飛び散らせる。
風圧だけでも吹き飛ばされそうなその中を、ヨマリは一直線に駆け抜けていった。
その後ろで、ヒメが小さく祈るように手を組んでいた。
「……どうか、守って」
酸の結界のなかに散っていた小さな光粒が、ヒメの指先に集まっていく。
それはやがて、まるで花びらのような淡い光となって、ヨマリの背へと滑り込んだ。
「うぉっ、なんだこれ、あったけぇ……!」
ヨマリが一瞬だけ驚いた声を上げる。
「——ヒメ、ありがとな!」
「ううん、がんばって……!」
笑い合う余裕はない。けれど、そこに確かにあった。
互いを信じる気持ちが。
「よし……!」
息を整えたヨマリが、再び駆け出す。
その瞬間、空から風が巻き起こった。
「次は、わたし!」
ナノハが空中からまっすぐ滑り込む。
ふわり、と柔らかな髪が弧を描き、酸の光を反射する。
その手には、小さな光の種。
空気を掴むように羽ばたくたびに、その種がきらめく。
「今のうちに、サク……!」
ヨマリが叫ぶ。
「チャージしてっ!」
「——うん!!」
私は胸元から、さっき生まれたばかりのアーツカードを取り出す。
カードの表面には、まだ不完全なイメージの残滓が揺らいでいた。
「集中して……集中……!」
私は膝をついて、酸の熱を感じる地面に手をついた。
イメージを結ぶ。
あのとき、みんなと考えた作戦のかたち。
怒りを、悔しさを、守りたいという気持ちを、すべて
小さく、息を吐いた。
カードが、かすかに光る。
でも、まだ——完成には至っていない。
「急がなきゃ……!」
私は顔を上げた。
ナノハが、ヨマリが、ヒメが。
みんなが、それぞれの役割を果たしながら、この瞬間を守ってくれている。
異形の虫が、ひときわ大きく吠えた。
「ギィィィ……シャァアア……!」
空気が震える。
まるでこの閉じられた空間そのものが、怒りの波動に歪むようだった。
「来るぞっ!」
ヨマリが跳ねるように身構えた、その直後だった。
――ズドンッ!!
6本の脚が同時に地を穿ち、酸を跳ね上げる。
今までとは桁違いの速度と威力。地響きとともに迫った一撃が、ヨマリの足元に突き刺さる。
「きゃ……ッ!」
辛くも回避したものの、爆風で吹き飛ばされ、結界の壁すれすれまで弾かれる。
ヨマリのすぐ傍に液状の壁が迫る。
「ヨマリ!!」
ナノハが反射的に飛び出し、ヨマリの腕を掴む。
軽やかに宙へと引き上げ、ギリギリで接触を免れた。
「た、助かった……ナノハ……!」
「無理しないで! 疲れてるんだよ、ヨマリ!」
「大丈夫!ここで止まったら、意味ないから……っ!」
ヨマリは肩で息をしながら、それでも目だけは強く、まだ戦意を宿していた。
そんなふたりのもとに、柔らかな光がふわりと届いた。
「ふたりとも、止まってて……!」
ヒメが足元で静かに手を伸ばしていた。
その手から溢れた光が、花びらのように舞う。
それはまるで、痛みをそっと包み込む春の風。
「……癒えていく……」
ナノハの傷が、すっと消えていく。
そしてヨマリの呼吸が、少しずつ整っていく。
「ありがと、ヒメ……」
「だいじょうぶ、まだ、がんばれるから……」
ヒメは小さく微笑んで、ナノハとヨマリを見つめた。
三人が肩を寄せ合うように立っていた。
——その背中を、私は見ていた。
(こんなに……強いんだ、みんな……)
私だけが怖がってるわけじゃない。
みんなも怖いはずなのに、それでも、前を向いてる。
なら、私も。
ふるふると震える手で、私はアーツカードを握り締めた。
「……いける。やれる……!」
深呼吸。
カードを目の前に掲げる。
視界の隅で、異形の虫がふたたびこちらに目を向けるのがわかった。
時間は、ない。
でも、それでも。
「今度こそ……完成させる」
手の中で、何かが形を取り始める。
まるで、怒りと祈りを抱いた“檻”が、ゆっくりと世界に生まれていくように。
深く吸い込んだ息が、胸の奥で震える。
吐く息とともに、全身の力がカードへと収束していく。
異変を感じとった虫の異形は、視界の端で、ふたたびこちらに狙いを定めた。
天井の膜を這うように、ぬらりと身体をくねらせている。
でも、もう遅い
あたたかくて、でもどこか鋭い、祈りと怒りが混ざりあったような力。
それが、檻となり、空間に輪郭を描き出していく。
「今……!」
私が足元を叩くように叫ぶと同時に、ナノハが大きく旋回し、虫の動線を断った。
ヨマリも、それを察して虫の懐から一気に跳び退く。
「ヒメ!」
「——うん!」
ヨマリがヒメの腕をつかみ、虫と私の交錯範囲外へ引き込む。
そして虫の異形が、こちらに向かって跳びかかろうとする——その瞬間。
「フィールドアーツ!」
声が、ほとばしる。
「《怒りの虫かご大結界》ッ!!」
叫びと同時に、カードが弾けた。
光が爆ぜるように広がり、その中心から、黄金に縁取られた結界の檻が、展開されていく。
ずしん、と地面が揺れたような感覚。
宙に、地に、壁に、六角形の魔法陣が次々と刻まれていく。
ぐらりと身を揺らした虫の異形が、それに気づいた時には、もう遅かった。
空間ごと、“閉じる”。
バンッ、と音が鳴ったわけではない。
ただ、空間の縁が「そこまで」と告げたかのように、静かに、だが確実に、境界が完成する。
虫の異形が動こうとする。
天井へ、地へ、膜を引き裂くように羽ばたこうとする。
けれど、無理だった。
その足が、腕が、翼が、すべて檻に阻まれてぶつかる。
「ぎ、ィ……ィアアアアッ……!」
かすかに、人語のような、苦鳴が混じる。
虫が暴れ、壁に突進する。
だが、結界はびくともしない。
それどころか——
その脚が、結界に触れたとたん、白く発光し、焼けるように消えていった。
「サク……!」
ナノハの声がする。
「……できた、よ」
私は、足元に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
震えが、ようやく止まる。
光の檻の向こうで、暴れ続ける虫の影が、ほんの少しだけ小さく見えた。
だが休んでいる暇はない。この虫がいつ虫かごを突き破って出てくるか。
もしそうなったとき、私たちにもう1ラウンド行う体力はない。
私は、ふたたび前に出た。
「…サク、大丈夫…何だよね…?」
ナノハが不安そうな声をかけてくる。
「ありがとう、大丈夫だよ、みんな」
空を見上げ、両手を高く掲げる。
「……来て」
小さな呼びかけに、空気が静かにざわめく。
その指先に、光が生まれた。
フィールドアーツ――いや、“想い”そのものが、
私の手の中に顕現する。
私はカードを握りしめ、
深く、息を吸い込んだ。
浮かべるのは、ただひとつのイメージ。
この分布域の“底”に、大きな大きな穴を穿つ。
その奥底まで、異形ごと、封じ込めるために。
――落とすんだ。
全身に力を込め、カードを前に突き出す。
「道を開けて!!フィールドアーツ!クリア・スペース!!!」
空間が軋み、周囲の風がざわりと揺れた。
分布域の地面が、ごう、と音を立てて沈む。
……けれど。
できた穴が大きな穴であることには変わらないが、大地の厚さと比べると
薄皮程度しか削れていない。
まるで、爪でひっかいた程度。
「っ……ダメだ、これじゃ……」
焦りとともに、ぐらりと視界が傾く。
どこかからナノハの声がする。
ヨマリの叫びも聞こえる。
ヒメの手が、背に添えられる気配がする。
でも、私は振り返らない。
もう一度、カードを強く握りしめた。
「もっと強く……もっと深く……!」
脳が熱い。
頭の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
それでも私は、
指先に渦巻く力をさらに重ね、重ね、重ねていった。
「今度こそ……!」
カードに、全力のイメージをぶつける。
大穴が――“世界そのもの”が――裂けるほどの力で。
その瞬間、
ドンッ、と空気がはじけたような衝撃が走る。
ごぉぉおおおお――という音とともに、
結界の中心が、大きく、深く、崩落していく。
黒い穴が、大地に開いた。
重力がねじれるように、虫の異形が引きずられる。
酸の結界ごと、ずるずると地面にめり込み、
音もなく、奈落の底へ――落ちていった。
「…………っ……」
安心する間もなく、
視界が、ぼやける。
鼻の奥がツンとして、何かが垂れる感覚。
鼻血だった。
「……ぅ、あ……」
力が、抜ける。
「サクッ!!」
声がする。
すぐそばで誰かが叫ぶ。
でも、目を開けていられない。
あたたかい腕に、包まれる。
その温度に、少しだけ、ほっとした。
最後に、ぼんやりと誰かの泣きそうな顔が見えた気がして――
私は、静かに、意識を手放した。
奈落へと落ちていった異形は、もうどこにもいなかった。
けれど。
「サク……!」
ナノハが、崩れ落ちるように、涙をこぼしながらサクのそばへと駆け寄る。
「どうして……どうしてこんなになるまで……!」
ヨマリも、額にうっすらと汗をにじませながら、地面に手をついてサクの肩を支える。
「……サク……っ、ちゃんと生き返るよね……?」
震える声だった。
ヒメはそっと膝をつき、サクの頬に手を当てる。
目を閉じ、祈るような口調で、ぽつりと呟いた。
「熱は、ない……でも、力を使い果たしてる……」
指先から、淡い光が灯る。
それは、いつものような“回復”の魔法ではなかった。
花のように、静かに咲く、ただの“願い”だった。
「サク……お願い、戻ってきて……」
風が、吹いた。
分布域の空気が、さっきまでの戦いが嘘のように、穏やかに静まっていく。
それからしばらく、花たちはサクを代わりばんこに背負って、仮拠点へ向かっていた
虫が落ちたあとの大穴には、もはや何も残っていない。
黒い空洞だけが、ぽっかりと、どこまでも深く続いていた。
「……落ちた先で、何が起きるかなんて、わたしたちにはわからない」
ナノハが、遠くを見ながら言った。
「うん……」
ヨマリが、深くうなずく。
「心配いらない。大丈夫。地上で仲間とよろしくやってる。」
ヒメが言ったその言葉に、みんなが何も言わず、頷いた。
夕暮れが、訪れる。
サクはまだ目を覚まさない。
けれど、その顔は、どこか安らかだった。
ヒメがそばで見守り、ナノハがそっと髪を梳かしている。
ヨマリは、なんかサクの足とか脇腹とかをくすぐっている。
いるよな。倒れた時に笑わそうとしてくるクラスメイト。
——ともあれ、サクたちは自分たちの力で分布域の脅威を排除した。
それはサクたちにとって大きな誇りと自信になることは言うまでもないだろう。
第四章「空白」
サクが気を失ってから、1日がたった。
ナノハは、ずっとサクのそばにいた。
サクの手を握って、髪を梳いて、時には子守唄のように小さな声で歌っていた。
眠っているサクに届くようにと、やさしい声で、何度も名前を呼んでいた。
「サク……だいじょうぶだからね……わたしたち、ずっとそばにいるから……」
時折こみ上げる涙は袖で拭って、笑顔を浮かべようとする。
けれど、まぶたの奥には、あのときの光景が焼きついて離れなかった。
ヨマリは、じっとしていられなかった。
仮拠点の周囲をぐるぐる歩き回ったり、虫の落ちた穴を警戒して見張ったり。
「何か起きたら、すぐぶっ飛ばしてやるからな!」
そう口では言いながら、サクの顔を覗き込んでは、すぐ視線を逸らした。
「……………」
ヨマリの目の奥には、ずっと消えない焦りが揺れていた。
それでも、誰にも見せないようにと、背を向けていた。
ヒメは、祈るように寄り添っていた。
サクの額に手を当て、呼吸を感じ、時折ふわりと光をともして、様子を見守る。
「命に関わるような傷はないの。だから……安心して。眠ってるだけだよ」
ナノハとヨマリにそう説明する声は落ち着いていたけれど、
その瞳の奥は、ずっと祈っていた。
ヒメにとって“癒し”とは、ただ回復することではない。
寄り添い、信じて、待つこと。
「サクが頑張ってくれたんだから、今はわたしたちが……」
そう言って、ナノハやヨマリの疲れもこっそり癒していた。
そして、夕方。
分布域に、橙色の光が差し込んできたころ。
ナノハが、またそっと、サクの頬に手を置いた。
「……そろそろ、目を覚ましてもいいんだよ?」
ナノハの声が、風に乗って揺れた。
ヨマリは、手近な石を拾っては投げ、落ち葉を蹴っていた足を止める。
「なあ……もう、そろそろ起きてよ? サク、なあ……」
ヒメも、光を灯しながら、静かに頷く。
そのとき。
ふ、と。
サクのまぶたが、ぴくりと揺れた。
小さな吐息が漏れ、手がわずかに動く。
「……あ……」
その瞬間、三人の顔がぱっと輝いた
サクのまぶたが、ふるふると震え、ゆっくりと持ち上がった。
「……ここ……は……?」
かすれた声が、唇の隙間から零れた。
最初に、その声を聞いたのはナノハだった。
「サクっ……!」
泣きそうな声で叫ぶと、ナノハは勢いよく身を乗り出して、サクの手をぎゅっと握った。
「サク、サク……! よかった、よかったよぉ……!」
その目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
笑おうとしても、頬がくしゃくしゃにゆがんでしまって、うまく笑えない。
「ばかっ……! ひとりで、がんばりすぎ……!」
「ご、ごめん……」
サクが、かすかに笑った。まだ身体は動かないけれど、声には少し力が戻ってきていた。
「でも……ありがとう、ナノハ」
「うん、うん……! なによりも、おかえり……!」
次に声をかけたのはヨマリ
「サク!……やっと起きたな!」
泣きはしないぞと言わんばかりの顔で、サクの足元からのぞき込んだ。
「……心配かけて……!」
そう言いながらも、肩の力が抜けたように、ぺたりとその場に座り込む。
「ほら……ちゃんと“勝った”んだぞ。あの虫、サクが落っことしたから……!」
声は震えていたけれど、ヨマリの目には涙の代わりに誇りがにじんでいた。
「…虫?…おっことす??」
サクはまだ頭がふわふわしているのか、自分の最後の記憶があまりないようだ。
ヒメは、そっと最後に歩み寄ってきた。
サクの額に手を当て、なめらかな声で、囁くように言った。
「…おかえりなさい、サク。待ってたんだよ、ずっと」
「……ただいま」
サクは、ようやく小さく頷いて、ゆっくりと目を閉じた。
みんなの顔が見える。
自分の名前を呼んでくれる声が聞こえる。
誰も欠けていない。誰もかけてない…よね?
それが、何よりも嬉しかった。
夕焼けが、分布域の空を照らしていた。
どこか、あたたかな色だった。
そのあと、ヨマリは意味もなくサクの脇腹をつついては「動くかどうかの確認だ!」とか言い、ナノハは「やめてよもう〜!」と慌てて止めに入り、ヒメが「お腹に優しくないよ」と静かに笑う。
ようやく、いつもの日常が、少しずつ戻ってくる気がした。
——こうして、虫の異形との激闘と恐怖に包まれた分布域の大ピンチは、
サクの“ただいま”と、花たちの“おかえり”で、ようやく幕を下ろした。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
作者のSleePです!
今回は《ナノハナ分布域》に侵入した、と言うより、はじめっからいた異形の虫をめぐる、戦闘と決断の物語となりました。
作戦会議の段階ではまだ余裕もありましたが、いざ虫と対峙した瞬間、
やっパり恐怖が、一気にサクにのしかかってきます。
ナノハやヨマリ、ヒメといった花たちは、それぞれの方法で勇気を示し、
サクを助けようとする姿勢を見せてくれました。
それでも最終的に、“異形を封じる”という役割を担ったのはやはりサク自身であり、
それなりの代償を支払いナノハナ分布域に大穴を開けてその力を使い切ることになります。
次の章では、またしばらくギャグと日常のターンです。それでも、この出来事が花たちに、そしてサクに与えた影響は、
きっと、じわじわと残り続けていくはずです。
改めまして、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
また次の章でも、どうぞよろしくお願いいたします。
追伸
挿絵が間に合ってません、そのうち必ず挿入します!
——SleeP