婚約破棄された『地味』令嬢、隣国の寡黙な騎士団長に「ずっとお慕いしておりました」と電撃求婚される ~私の隠れた刺繍スキルが彼の心を射抜いたらしい~
降り注ぐ午後の陽光が、部屋の埃をキラキラと照らし出している。けれど、私の心は分厚い曇天模様のまま。ファーン伯爵家の長女、セレスティア。それが、今の私のすべて。いや、「元」婚約者のいる令嬢、と言うべきか。
数日前、長年婚約者だったエドワード侯爵子息から、あっさりと婚約破棄を告げられた。理由は、私の妹――リリアナに心惹かれたから、だそうだ。きらびやかで、社交的で、いつも注目の的である妹。それに比べて私は、地味で、口下手で、取り柄なんて何もない。父にも母にも、「お前がもっと魅力的だったら」と溜息をつかれたばかりだ。
「……地味で、取り柄のない私」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく部屋の空気に溶けて消える。庭からは、楽しそうなリリアナとエドワード様の声が聞こえてくる。心臓がきゅう、と縮こまるのを感じて、私はぎゅっと目を閉じた。
唯一、こんな私にもできることがある。それは、刺繍。
針を持ち、色とりどりの絹糸で布地を埋めていく時間だけが、私を現実から少しだけ遠ざけてくれる。今は、小さな野の花を散りばめたテーブルクロスの続きを刺していた。柔らかなリネンに、忘れな草の青、雛菊の白、撫子の淡いピンクが少しずつ咲いていく。この作業だけが、私の心を無にしてくれる。
ちくり、と指先に痛みが走った。見れば、小さな血の粒が滲んでいる。ああ、またやってしまった。涙が零れて布に染みを作る前に、慌てて指を口に含んだ。……情けない。こんな時でさえ、私は上手くやれないのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その数日後、王宮で開かれる夜会への参加を余儀なくされた。もちろん、気など進むわけがない。新しいドレスを着て着飾ったところで、私など誰も気に留めないだろう。案の定、会場に着いても私に声をかける人などなく、早々に壁の花と化していた。
きらびやかなシャンデリアの光が降り注ぐホールの中央では、リリアナがエドワード様と楽しそうに踊っている。あの場所は、本来なら私がいるはずだった場所。俯くと、惨めさで胸がいっぱいになる。早くこの場から立ち去りたい。そう思った、その時だった。
ふいに、会場のざわめきが少し変わった気がした。視線が一方向に集まっている。何事かと顔を上げると、そこに立っていたのは、屈強な体躯に見慣れぬ軍服を纏った男性だった。彫りの深い顔立ちは整っているけれど、その鋭い眼光と纏う威圧感は尋常ではない。確か、隣国からいらしている騎士団長だと、父が話していたような……?
『戦鬼』――彼の異名が脳裏をよぎる。戦場での苛烈さで知られる、隣国の英雄。そんな彼が、なぜか周囲の視線も気にせず、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。
え? まさか、私のところへ?
そんなはずはない。きっと、私の後ろにいるどなたかに用があるのだろう。そう思って壁に張り付くように身を縮めたけれど、彼は私の目の前でぴたりと足を止めた。
「……」
黒曜石のような瞳が、じっと私を見つめている。あまりの威圧感に、呼吸すら忘れそうだ。周囲の貴族たちが、好奇と困惑の入り混じった視線でこちらを窺っているのがわかる。お願いだから、何か言ってください。それか、どこかへ行ってください! 心の中で叫んでも、彼は微動だにしない。
沈黙が、痛いほど長く感じられた。
やがて、彼がゆっくりと口を開いた。予想していたよりも低い、けれど落ち着いた声だった。
「――失礼、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
思いがけない言葉に、私はただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人目を避けるように、彼は私を夜風の心地よいテラスへと誘った。二人きりになると、先ほどまでの威圧感は少し和らいだように感じるけれど、それでも緊張で指先が冷たい。
「あの、私に何か……?」
おずおずと尋ねると、彼は夜空を見上げていた視線を私に戻した。
「ファーン伯爵令嬢、セレスティア様、とお見受けしますが」
「は、はい、そうでございますが……」
なぜ私の名前を? 疑問に思っていると、彼は再び口を開いた。
「突然で申し訳ない。私は隣国の騎士団長、アレクシス・グライフと申します」
「……グライフ、騎士団長様」
やはり、あの『戦鬼』アレクシス様だった。ますます、私のような地味な令嬢に何の用があるのかわからない。
「実は、セレスティア様にお伺いしたいことが」
そう言って、アレクシス様は意外なことを口にした。
「数ヶ月前、中央教会に寄贈された祭壇布をご存知でしょうか。青い鳥と白い百合が見事に刺繍された……」
「え? ああ、はい……」
それは、私が匿名で寄付したものだった。母に言われて仕方なく作ったけれど、誰にも見せるつもりのなかった、ささやかな刺繍。
「あの刺繍には、見る者の心を打つ力がある。静謐で、清らかで、それでいて……強い意志を感じさせる。私はすっかり魅了され、ずっと作者を探しておりました」
彼の真摯な言葉に、私は息を呑んだ。私の、刺繍を? あの、誰にも見向きもされないと思っていたものを?
「様々な方に尋ね歩き、ようやく貴女に辿り着いたのです。セレスティア様、あの素晴らしい刺繍は、貴女がお作りになったのではありませんか?」
真っ直ぐに見つめられて、嘘はつけなかった。小さく頷くと、アレクシス様の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「やはり……!」
そして彼は、思いもよらない言葉を続けた。まるで長年秘めていた想いを打ち明けるかのように、真剣な眼差しで。
「セレスティア様。貴女の指先が生み出す糸の煌めきは、どんな宝石よりも美しい。あのような作品を生み出せる方を、生涯大切にしたいと思ったのです」
「……え?」
「貴女の清らかで強い魂に、私は惹かれました。どうか、私の妻になってはいただけないでしょうか」
……妻?
今、この方は、何と言ったのだろうか。
求婚? 私に? この『戦鬼』と恐れられる隣国の騎士団長様が?
あまりのことに頭が真っ白になり、言葉が出てこない。自分の刺繍が褒められたことも、こんな風に真っ直ぐに見つめられたことも、そして求婚されたことも、すべてが現実味を帯びていなかった。ただ、彼の黒曜石の瞳だけが、嘘ではないと告げている。
混乱と、初めて向けられた賞賛への戸惑いと、そして心の奥底で微かに灯った温かい光。それらが混ざり合って、私はただ立ち尽くすしかなかった。
その時だった。
「あらあら、お姉様ったら、こんなところでグライフ騎士団長様と何をしていらっしゃるの?」
甲高い声とともに、リリアナがエドワード様を伴ってテラスに現れた。私の返事を待たずに、リリアナはアレクシス様に媚びるような笑みを向ける。
「騎士団長様、こんな地味な姉のどこがいいのですか? 何の取り柄もないんですよ?」
「そうだとも、グライフ卿。彼女は見ての通り、華やかさも愛嬌もない。妹君の方がよほど……」
エドワード様までが同調して私を貶める言葉を並べる。顔から血の気が引いていくのがわかった。ああ、やっぱりそうだ。私なんて、誰からもそう思われているんだ。涙が滲みそうになるのを、必死で堪える。
しかし、次の瞬間、アレクシス様が放った冷たく低い声に、その場の空気が凍りついた。
「黙れ」
地を這うような声だった。先ほどまでの穏やかさは微塵もない。
「私の目に狂いはない。セレスティア様の価値がわからぬとは、節穴だな」
彼は私を一瞥し、それからリリアナとエドワード様を射抜くような視線で睨みつけた。
「そして何より、私の未来の妻に無礼を働くことは許さない。二度と、このような真似をするな」
「ひっ……!」
リリアナが小さな悲鳴を上げ、エドワード様は顔面蒼白になっている。アレクシス様の揺るぎない言葉と態度に、私はただただ驚いていた。
私の、未来の妻……?
彼が私を庇ってくれた。私を、価値ある人間だと、そう言ってくれた。恐怖と屈辱で震えていた心が、不意に温かいもので満たされるのを感じた。この強面で寡黙な騎士団長様が、今はとても頼もしく見えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
求婚の返事は、保留させていただいた。あまりにも突然のことだったし、何より私自身が、自分の気持ちを整理する必要があったからだ。
数日後、アレクシス様が我が家を訪ねてきた。応接室ではなく、庭園を散策したいと彼が申し出たのは少し意外だった。
二人きりで庭を歩く。春の花々が咲き乱れる中、彼は相変わらず寡黙だったけれど、時折ぽつりぽつりと呟く言葉は、私の心を和ませた。
「この白い花は、スノードロップか。……可憐だな」
「まあ、ご存知なのですか?」
「ああ。私の故郷でも、春先に咲く」
彼は私が丹精している花壇の前で足を止め、私が刺繍のモチーフによく使う野の花の名前を正確に言い当てた。戦場で名を馳せた『戦鬼』のイメージからは想像もつかない、繊細な感性。
「先日の祭壇布の百合も、見事だった。糸の色選びが絶妙だ。まるで月光を浴びているようだった」
「そ、そんな……」
褒められることには慣れていないけれど、彼が私の刺繍を本当に大切に見てくれていることが伝わってきて、頬が熱くなる。
不意に、彼が懐から小さな包みを取り出した。ぎこちない手つきで私に差し出す。
「……もし、迷惑でなければ」
包みを開けると、中には都で評判のパティスリーの焼き菓子が入っていた。女性に贈り物をすることに慣れていないのだろうか、少し照れたような彼の表情に、思わず笑みがこぼれてしまった。
「ふふ、ありがとうございます。嬉しいですわ」
私の笑顔を見て、彼も少しだけ口元を緩めたように見えた。その瞬間、私の心の中で、彼への警戒心がするりと解けていくのを感じた。この人は、怖い人なんかじゃない。不器用だけれど、とても優しい人なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さらに数日後、私はアレクシス様に招かれ、彼が滞在している隣国の大使館の応接室を訪れていた。改まって何の話だろうか、と少し緊張している私に、彼は静かに椅子を勧めてくれた。
紅茶が運ばれてきて、しばらく他愛のない話をした後、アレクシス様はふと真剣な表情になり、テーブルの上に小さな木箱を置いた。
「セレスティア様、これを」
促されるままに蓋を開けると、中には一枚の古びたハンカチが、大切そうに畳まれて入っていた。生成り色の地に、忘れな草の小さな刺繍が施されている。それは……見覚えのあるものだった。
「これ……」
「貴女が数年前、市場の小さな手芸店に卸していたものではないだろうか」
息を呑んだ。そうだ。これは、私がまだ十代の頃、ほんの少しのお小遣い稼ぎのために、名前を伏せて売っていたものだ。まさか、こんな形で再会するなんて。
「……私は、戦場で心がささくれだった時、偶然手に入れたこのハンカチに、何度も慰められてきた」
アレクシス様は、少し照れたように、けれど真っ直ぐに私を見つめて言った。
「この繊細な針目に、作り手の優しさと強さを感じていたのです。どんな方が作られたのかと、ずっと思っていた」
彼はそっとハンカチを手に取り、慈しむように指でなぞる。
「まさか貴女だったとは……教会で祭壇布を見た時、このハンカチと同じ魂を感じた。運命を感じずにはいられなかった」
そして、彼は再び私に向き直り、その黒曜石の瞳で、私の心の奥底まで見透かすように言った。
「セレスティア様。私は、貴女の刺繍だけでなく、貴女自身の傍にいたい。……もう一度言います。どうか、私と、結婚してほしい」
彼の顔が、ほんのりと赤い。あの『戦鬼』が、こんな風に顔を赤らめて、必死に想いを伝えてくれている。
私の、価値がないと思っていた私が作ったものが、この人の宝物だったなんて。
私の刺繍だけでなく、私自身を求めてくれているなんて。
じわり、と目の奥が熱くなった。それはもう、悲しみの涙ではなかった。感動と、喜びと、そして込み上げてくる愛しさで、胸がいっぱいになる。
「セレスティア嬢、貴女という存在そのものが、私には宝なのです」
その言葉が、私の心の最後の扉を開けた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「……私のような者で、本当によろしいのでしょうか」
数日後、私は実家の応接室で、アレクシス様の求婚に対する返事をしていた。まだ少し、自信なさげな声が出てしまう。すると、彼はふわりと優しく微笑んだ。
「貴女だから、いいのです。貴女がいいのです、セレスティア」
初めて名前で呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。彼はそっと私の手を取り、その大きな手で包み込んでくれる。不器用だけれど、とても温かい手だった。
「……はい。よろしく、お願いいたします。アレクシス様」
顔を上げて、精一杯の笑顔で応える。もう、俯くのはやめよう。この人が、私の価値を見つけてくれたのだから。
私たちの婚約は、すぐに正式に発表された。リリアナとエドワード様は信じられないといった顔をしていたけれど、幸せそうに微笑み合う私たちを見て、何も言えなかったようだ。両親も、隣国の英雄であるアレクシス様との縁談に、手のひらを返したように喜んでいる。まあ、それはどうでもいいことだけれど。
隣国へと旅立つ日。アレクシス様にエスコートされ、立派な馬車に乗り込む。窓から見える景色が、今までとは違って輝いて見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
隣に座るアレクシス様が、私の手を不器用に、けれど大切そうに握ってくれた。その温かさに、私は心からの微笑みを返す。
地味で、取り柄がないと思っていた私。でも、私の指先から生まれた小さな煌めきが、遠い隣国の騎士団長の心を射抜き、こんなにも大きな幸せを運んできてくれた。
これから始まる新しい生活は、きっと穏やかで、優しくて、そしてたくさんの愛に満ちている。そんな確信を胸に、私は隣にいる不器用で優しい騎士団長様の手を、そっと握り返したのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
どう思われたか↓の★~★★★★★の段階で評価していただけると、励みにも参考にもなるので、
ぜひよろしくお願いいたします!