神出鬼没
ケイトはギルドのロビーにあるイスに座っている。個人データの登録が完了し、シエラに冒険者カードを作ってもらっているのだ。
冒険者カードとは、その名の通り冒険者であることを証明するカードであり、それだけであらゆる国境や街の警備を通り抜けることが可能であるという。
しかし、その発行にはそれなりの時間がかかるようで、ケイトはそれを待っているのである。
「暇だ……やることもねぇし、ちょっと寝てようかな?」
ケイトはイスの背もたれに体重を預け、目を瞑る。
「思えば色々あったな。なんにもないところで悪魔みてぇなやつと会ったり、スライムに消化されそうになったり、魔族と殺し合ったり、殺戮マシーンと戦ったり……異世界転移したばっかりのやつにする仕打ちじゃねぇだろ」
ケイトの意識が段々と遠のいていく。ミカエルとの戦いの疲れが今頃襲ってきたのだろう。
そんな状態では、壁越しに聞こえてくる街の喧騒すらも子守唄のように感じられる。
ケイトは眠気に逆らわず、身を任せる。
「しばらくはゆっくりしてぇな……」
ケイトの意識が闇に落ちる。
「――きゃああああ!!」
「な、なんだ!?」
ギルドの外から女性の悲鳴が聞こえてくる。
ケイトの意識は一気に表層まで引き上げられ、飛び起きるとすぐにギルドの扉を開く。
そこには、地面に座り込む女性とそれを見下ろす黒いモヤを発している人型の何か、そしてその周囲にはたくさんの屈強そうな人々が倒れていた。
「まさか魔族――」
「なんだぁい? キミもやるのかぁい?」
ケイトが敵意を向けるやいなや、人型の何かはいつの間にかケイトの目の前に立っていた。
その顔は真っ黒い煙のようで、白く細い線のような目と口らしきものがついている。
声は男性のようだが、ねっとりとしていて気持ちが悪い。笑顔で見上げてくるその表情は恐怖心を煽り、ケイトの顔を強ばらせる。
「いい表情だねぇい」
男がゆっくりと、それでいて反応できない速さでケイトの腹部に手を添える。
次の瞬間、ケイトは受付のカウンターの中まで吹き飛ばされる。受付の人々はその状況に恐怖し、悲鳴をあげながら逃げていく。
「ぐっ……!」
「いいねぇい。楽しめそうだねぇい」
男はまたいつの間にかケイトに近づいている。ケイトは咄嗟に男に拳を放つが、男はふと消え、拳は空を切る。
「消え――」
「こっちだよぉい」
振り向いたケイトの顔面に男の蹴りが直撃する。ケイトは吹き飛び、大量の書類が宙を舞う。
「アッハハッ!」
「クソっ!」
男はケイトの滑稽な姿に手を叩いて笑っている。
ケイトは体勢を整えると、男に向かって走り出す。その途中でデスクを持ち上げ、男に向かって投げつける。
「そんなもの当たるわけないでしょぉい」
男はケイトの背後に瞬間移動する。そしてそのままケイトに近づこうとする。
「バレバレなんだよ!」
「ほぉい?」
ケイトは書類をまき散らし、男の視界を封鎖する。さらに、男がいるであろう場所に向けて何度も蹴りを放つ。
しかし――、
「っ……!」
「残念だったねぇい」
ケイトの蹴りは書類を散乱させただけに終わり、男はケイトの後方の棚の上に座って、ニヤニヤと汚い笑みを浮かべている。
「でもやっぱり、キミはさっきの有象無象とは違って面白そうだねぇい」
「楽しそうだとか面白そうだとか、魔族はどいつもこいつもそんななのか?」
「まるで魔族と戦ったことがあるかのような口ぶりだねぇい。キミ程度の実力で生きてるってことは、相当な弱い魔族と戦ったんだろうねぇい」
「はっ! 勝手に想像してろ!」
ケイトはデスクを足場に男に殴りかかる。男はやはりその場から消え、気づいた時には受付のカウンターで寝転がってあくびをしている。
「来ねぇのかよ?」
「んー……もう少しからかっても面白そうだからねぇい」
「余裕ぶっこいてると足元すくわれるぜ」
「足取りも掴めてないのによく言うねぇい」
ケイトは男に殴りかかる。
男は足を組み、理解するつもりなどない資料を開く。
ケイトは男に殴りかかる。
男は気ままに壁にペンで落書きをする。
ケイトは男に殴りかかる。
男は無意味にライトを付けたり消したりする。
ケイトは男に殴りかかる。
男は棚の書類を一つひとつ丁寧に床に落とす。
ケイトは男に殴りかかる。
男はカウンターの上で腰を振って踊る。
「クソっ! 攻撃が届かねぇ! ここまで俺を舐め腐った動きをしてるってのに……!」
ケイトは顔を歪ませて男を睨む。男はそれを愉快そうな表情で眺めている。
だが、時計を見ると、何かに気づいたように少し悲しげな顔を見せる。
「もう少し楽しみたかったけど、ボクにもやらなくちゃいけないことがあるんだよぉい。残念だけど、そろそろ終わりにしようかぁい」
男はパンと手を叩くとケイトの背後に瞬間移動し、ケイトの背に手をあてる。
「くっ――」
「ネッセ」
ケイトの反撃は間に合わず吹き飛ばされ、ギルドの扉を破壊して外に放り出される。
「ガハッ! クッソが――」
「ネッセ」
「な――」
ケイトは既に回り込んでいた男の攻撃によって空高く舞い上がる。
その後も、ケイトは男の連続攻撃に手も足も出せず、ケイトの体は数分間空中を飛び回る。しかし、その終わりは至ってシンプルなものだった。
「飽きてきちゃったなぁい」
「ガハッ!」
男はケイトでお手玉するのをやめ、地面に突き落とす。
ケイトはふらつきながらも立ち上がり、男を睨みつける。男はそれなりに驚いた顔を見せる。
「凄いタフだねぇい」
「一回死にかけてるしな……! この程度、屁でもねぇよ……!」
「その割にはゼイゼイ言ってるけどねぇい」
男はケタケタと笑う。とてもご満悦の様子だ。
ケイトは息を整えると、男に向かってゆっくりと拳を構える。
「わざわざ死ににくるなんてねぇい。そのまま死んだふりでもしておけばよかったのにぃい」
「俺は今この街の人々の命を背負ってんだ……! そんな状況で全部投げ出して逃げるような男にはなりたくねぇんだよ!!」
「とっても人間らしい考え方で好きだよぉい。でもごめんねぇい。もう遊んでる時間はないんだぁい」
男はまたもやケイトの背後に瞬間移動する。ケイトは諦めず男の攻撃に対処しようとするが、反応が間に合わない。
「死ねぇ――」
「ピオ・ナルラ!」
高い声が街の喧騒を切り裂くように響く。その声を皮切りに、男に向かって空から大量の水が押し寄せる。
男はそれを瞬間移動で難なく避けると、水の放たれた方向を見上げる。
その視線の先、売店の屋上には、男に向かって腕を突き出す小柄な女性の姿があった。
女性は毛先が外にはねた青白いショートボブを揺らし、髪と同じ色の瞳を男にじっと向けている。
「平和を揺るがす魔族め! この私、Cランク冒険者のセスナ・シンメイが相手してあげる!」
「おっとぉい? 自分の実力をきちんと把握できないおバカさんは早死にするよぉい?」
「そっちこそ、相手の実力をきちんと把握できないおバカさんは早死にするよ」
「その強気、嫌いじゃないよぉい」
男はセスナの背後に回って蹴り飛ばそうとする。
「私が今まで何もしてなかったと思ってるの?」
「なにぃい?」
男の蹴りがセスナに当たる直前、男の脚は何かに弾かれる。男がよく目を凝らして見ると、セスナの周りで何かが太陽の光を反射してキラキラ光っている。
「水のバリアかぁい? 無駄な小細工を――」
「でも、時間は稼げた。ピオ・デレーソ!」
男に向かって水の刃が飛ぶ。
男は瞬間移動でそれを避けるが、セスナが男に指を向けると、刃は軌道を変えて男へ向かっていく。
瞬間移動で逃げ続ける男を追って縦横無尽に動き回る水の刃は、太陽光を乱反射して青い光彩を辺りに振り撒く。
「ネスロムぅい」
男は水の剣を黒いモヤで囲い込む。しかし、水の剣はモヤを切り裂いて脱出し、男の皮膚を切りつける。
その傷口から白い血が流れ出す。男は指で血を拭い、それを恍惚な表情で舐め取る。
「なるほどぉい。これは厄介だねぇい」
「早く諦めたらどう?」
「こっちのセリフだぁい。ずっとそんな複雑な動きをさせていたら魔力の消費も激しいだろぉい」
セスナの顔が曇る。男はそれを見て高らかに笑い出す。
「それじゃ、終わりにしてあげようかなぁい」
男がセスナに急接近する。
先程男を弾いた水のバリアは男にあっさりと破壊され、水の刃が届くよりも早く男はセスナの顔面を掴む。
「ここから落ちてもボクにアレを飛ばし続けられたら一撃受けてあげるよぉい」
「最っ高じゃん……!」
「バイバァイ」
セスナは突き落とされる。そのまま為す術なく自由落下し、受け身も取れないまま地面に叩きつけられる――
「俺を忘れるんじゃねええええ!!」
ケイトはセスナの真下に立ち、落ちるセスナを両腕で受け止める。男はそれを見ると驚愕した顔をケイトに向ける。
「まだ動けたのかぁい。本当にタフなやつだ――」
「いいのかよ、俺のこと見てて」
「何――」
男の胴体に水の刃が突き刺さる。
「グハァッ!」
男はよろめきながらも立ったままでいる。そして水の刃を掴むと一気に自身の体から引き抜く。その瞬間に水の剣は霧散して消え、男の腹部からは大量の白い血液が流れ出る。
「舐めんなよモヤモヤ魔族! この程度、屁でもねぇっつってんだろ!」
ケイトはセスナをおろし、勝ち誇った顔を男に向ける。
男の顔は影になっており、ケイトからはどんな表情をしているか見ることができない。
しかし、男の体は小刻みに震えており、どんな感情がその心の中に渦巻いているかは一目瞭然だった。
「許さなぁい……許さないぞぉぉぉぉぉい!!」
男の叫びとともに大量の黒いモヤが噴出する。モヤは空を覆い尽くし、街を陽の光の届かない暗闇に閉じ込める。
「ボクは魔王軍部隊長にしてエヌス様の右腕、ベリロスだぞォ! こんなクソゴミカスどもに遅れをとっていいはずがないんだァァァ!」
ベリロスは憤慨しながら空に浮かぶモヤを操る。モヤは小さな町ほどある巨大な拳を形作り、その矛先をケイトに向けている。
「まずい……!」
「もう遅ォい! この街の全てを消し去って――」
ベリロスの動きが止まる。さらにその顔は徐々に青ざめていく。
ベリロスはケイトに聞こえないほどの小声で2、3言話したかと思うと、広範囲に展開していたモヤを吸収して元の姿に戻る。
「悪いねぇい。ついカッとなってしまったみたいだぁい」
ベリロスはそう言うと、ケイトの目の前に移動する。その目は笑っているのにも関わらず、ありえないほどに暗く冷たい。
「覚えておけぇい……次はなぁい」
ケイトが拳を振り抜いたときには、そこには既に何も無かった。
ベリロスの痕跡は全て消え去り、街と人々の心には大きな破壊の跡だけが残った。