逆転の一手
そこは地獄だった。
徘徊する漆黒の暴力は絶望を響かせ、降り頻る血の雨は希望を押し流す。ひとつまたひとつと炎が掻き消されてゆき、未来を照らした光束は、今や虫も近寄らない。
世界を守る英雄たちは小さな蝋燭を掲げ、屍の道の上で列をなし、断頭台へと歩き進む。それは運命と言って差し支えない。滝壺に落ちるが如く、逆らうことすら馬鹿馬鹿しい。
そんな世界の直中で、一人の少女はただ運命に抗っていた。
「はぁ……はぁ……。あと少し……!」
セスナはその小さな背中にケイトとエティナを担ぎ上げ、一歩いっぽ着実に進んでいる。
か細い可能性の糸を少しでも見誤れば、一瞬にして死の螺旋に吸い込まれてしまう。そんな恐怖と疲労で膝が笑い、心臓は今までにないほどに速く、けたたましく鳴る。
足を止めるな。止まったらもう動けない。
心を強く持て。折れてしまったら後は無い。
限界を忘れるように己を鼓舞し、未来を失わないように前へ進む。
突如、セスナの眼前にデュロがそびえ立つ。
セスナは動きを止める。止まったことに後悔しながらも、動いてはいけないと脳が司令を出している。
鼓動が速くなる。発汗が止まらない。息が詰まる。
隣り合う死の恐怖に今にも気が狂ってしまいそうだ。
気の遠くなるような数秒の後、デュロはセスナを見つけることなくどこかへ去ってしまう。
セスナの周囲には水のベールが張られており、その存在を世界からひた隠している。そのおかげで、セスナは死中に活を掴み取ったのだった。
だが、絶望の中で淡く光る希望は、絶望とそう違わないものである。
セスナは無理に心を落ち着け、再び歩き始める。安堵している余裕などなく、思考に時間を費やすのも無駄と断じ、ただ前進だけを目的とする。
しかし、セスナは考えるべきだった。
なぜデュロはセスナの眼前に現れたのか。
「っ――」
背中に悪寒が走ったと同時に、セスナは二人を前方に投げる。
「ピオ――」
セスナは反転しながら魔法を放とうとした。しかし、ほんの僅かに間に合わず、セスナの胴体にデュロの極太の前腕が薙ぎ払われる。
「ゴフッ……!」
セスナの体は吹き飛び、地面との衝突を繰り返す。そして数秒間転がった後、木の幹に激突してようやく停止する。
うつ伏せになるセスナの前に、デュロが無音で出現する。セスナの体には激痛が走っている。肋骨が何本も折れ、内蔵に突き刺さっているようだ。
それでもセスナは吐血しながら立ち上がる。目に光を浮かべながら、デュロをまっすぐに睨みつける。
デュロはふらふらのセスナを無感情に見下し、その動向を冷静に窺っている。
「来なよデカブツ……! 果ての果てまでぶっ飛ばしてやるよ!」
セスナが水の弾を放つ。デュロはそれを簡単に避け、岩のような握りこぶしを振り下ろす。セスナは水のバリアで一瞬だけ攻撃を受け止め、その間に後ろに跳ぶことで拳をギリギリ回避する。
「ピオ・デレーソ!」
血の滲んだ咆哮が響く。現出した水の剣が虹の軌跡を残しながらデュロに突き進む。しかし、デュロはセスナの背後に瞬間移動し、再びそのこぶしを振り下ろす。
「そのくらい読めてるよ!」
セスナは何重にも水のバリアを展開する。デュロはそんなセスナの抵抗を歯牙にもかけず、バリアを一枚ずつ破壊していく。
そして、ついに最後のバリアを破壊したデュロは――水の剣に刺し貫かれた。
その無理解に、デュロはほんの数瞬動きが止まる。
「この瞬間を待ってた!」
血反吐を吐きながらようやく得た絶好の瞬間。セスナはありったけの魔法をデュロに叩き込む。1秒にも満たない時間の中で数え切れないほどの水しぶきが弾け、僅かな太陽光で虹が乱立する。
最高の状況から繰り出されたセスナの全力はデュロに甚大なダメージを与えることに成功したが、倒し切るには至らなかった。
だが、確実に勝機はある。そう思わずにはいられなかった。
――まさかそれが命取りとなるとは夢にも思っていなかった。
ぶつん。
セスナの左腕が宙を舞う。ゼイパーの刺突が上腕を穿ち、体からちぎれたのだ。
「っ――!!」
セスナは左腕のあった場所を押さえ、唇を強く噛みながらうずくまる。
剥き出しの神経が空気に晒され、想像を絶する痛みがセスナを襲う。一気に大量の血を失い、頭が朦朧としてくる。
そこへ無慈悲にも新たなデュロが現れる。デュロは痛みに喘ぐセスナを見つけると腕を振り上げ、完全に息の根を止めようとしている。
「……ほんと……最悪……!」
セスナは尋常でない痛みに耐えながら言葉を吐く。その動力源は苛立ちによるものだった。
「あそこまで……ハァ……ダメージを……ハァ……与えたのに……ハァ……全部無駄に……なるなんて……!」
セスナはゆっくりと立ち上がっていく。
常人なら精神が壊れてしまいそうな程の激痛を感じながら、その目は未だ勝利を諦めていないように見える。
人の目には、それは狂気や執念の類のように映るかもしれない。だが、セスナの立ち上がる理由はそういったものではなかった。
「ほんとに……ハァ……あと少し……だったのに……。あと少しで……お前らを巻き込まずに済んだのに……!」
デュロの拳が振り下ろされる。それは、今のセスナには決して避けることのできない一撃である。
そう、今のセスナには――
「シュリオ!」
デュロの拳が世界を殴る。その衝撃に天は震え、地は割れる。
災害と呼ぶことすら烏滸がましい、帰無の戦鎚が全てを簒奪していく。
そうしてこの場に存在する全ての生命は、余すことなく奪い尽くされた――はずだった。
「ピオ・シヴィオ!」
水の槍がデュロに飛ぶ。デュロは回避し、飛んできた方向に体を向ける。
「まったく、完全な不意打ちだったはずなのに」
その視線の先には五体満足のセスナが立っていた。その体には一切の傷痕も見つからない。デュロは訝しげな様子で慎重にセスナを睥睨している。
「何が起きたか知りたい? 教えてあげる。今のは回帰の魔法」
セスナは人差し指で空中に円環をなぞる。
「周囲の生物の時間経過を少しだけ巻き戻して、擬似的な回復効果を得てるらしいよ。ま、私の魔法じゃないから私もよく分かんないんだけどね」
セスナは肩を竦める。デュロはセスナの話を聞き終えると、セスナの背後に瞬間移動して腕を振り上げる。
「――言ったでしょ、周囲の生物を回復させたって」
デュロの腕が切り飛ばされる。デュロは振り返るが、そこには誰もいない。デュロは深いダメージを負い、じきに消滅することを察すると、なりふり構わずにセスナへと襲いかかっていく。
「――もう仲間には手ぇ出させねぇよ」
デュロの首が飛ぶ。一人の男が銀色に輝く長剣で切り飛ばしたのだ。男はセスナの前に着地すると、無遠慮に煌めく剣をその手に提げながらニコリと笑いかける。
「悪い、迷惑かけた」
「はぁ……迷惑の分はこれからの働きで取り返してね、ケイト」
風に吹かれて散り散りになっていくデュロの横で、二人は笑い合う。そこへ2体のデュロが二人を挟み込むように急襲し、腕を振り下ろす。
「――空気の読めない方たちはお呼びじゃないよ。ゼフォロ・シヴィオ」
一本の雷の槍が空を迸り、2体のデュロを貫通する。デュロは一瞬にして黒い灰となって消滅する。
「ありがとうございます、エティナさん」
「いいのいいの。それより、最後の仕上げといきましょう」
エティナが指をさす。その先では、最後に残されたモンスターであるゼイパーが上空から未だ次々と冒険者たちを串刺しにしている。その雲のような体はさらに肥大化しており、今にも空の全てを覆ってしまいそうなほどだ。
「ゼイパーを倒すには核を破壊する必要がある。でも、あの大きな体のどこに核があるかは分からない。じゃあどうすればいいと思う?」
エティナがセスナに話しかける。セスナはとっくに分かっていた解答を口に出す。
「物量で押し潰す!」
「正解!」
平原全体を埋め尽くすほどの大量の水と雷の礫が空へと撃ち放たれていく。ゼイパーは棘を突き出して応戦するも、そのあまりの数に対処しきれない。無数の礫が雲を貫いてゆき、十数秒ほど経ったところで雲が霧散して晴れていく。
「よっしゃあ!」
「喜ぶのもいいけど、まだ戦いは終わってないよ」
ケイトは前方からまた大量のモンスターが進撃してきているのを見つける。
「今までの戦いでこっち側にもかなりの被害が出たけど、ベリロスがどこにいるのかもまだ分かってない。気を引き締めて進んでいくよ!」
「はい!」
三人は休む暇も無いまま、よく晴れた空の下をモンスターの大軍に向かってひた走る。




