スライム怖い
啓人は無限とも思える平原を歩いている。
道などはない。短い若草を踏みしだき、ただ地平線へ向かって歩いている。
既に太陽は高く登っており、陽光が啓人の頭の頂点に真っ直ぐ降り注ぐ。
気温は少し高く、啓人がなるべく日陰を歩いているにもかかわらず、その背にはうっすらと汗のシミができている。
「このまま歩いてていいのか? もしあの夢とこの場所が同じ場所なんだったら、あと何時間歩けばいいのか分かんねぇぞ……」
啓人は地平線を懐疑的に見つめる。
そもそも夢と現実を重ねること自体がナンセンスであると言いたいところではある。しかし、どうしてもあの夢を夢と断ずることは啓人にはできなかった。
それよりも、啓人は一つだけ気になることがあるのだ。
「結局、ここって異世界だったりすんのかな? ラノベの読みすぎで思考が毒されてると言われても否定できないけど、異世界転移だと言われればこの状況は納得できちゃうんだよな」
啓人の周囲にいる動物はどれも今まで見たことのないような異常な姿形をしており、とてもここが地球上に存在する場所とは思えない。
「もし異世界だとするなら、人間以外の種族とかいたりすんのかな。ドワーフとかエルフとか。会ってみてえよなー」
まだ見ぬ存在に思いを馳せながら、啓人は角が10本ほど生えている動物が眠っている横を、静かに通り過ぎる。
その時、前方に見覚えのありそうな存在を発見する。
「あれって……」
啓人はゆっくりとそれに近寄っていく。
ある程度近づいたところでこっそり観察してみると、それは水色の半透明なゲル状の体をもつ、いわゆるスライムのような姿をしていた。
その仮称スライムは這いずり回りながら、周辺の草を体内に取り込んで分解していく。恐らく食事をしているのだろう。
「あれはスライム……でいいよな? ってことはやっぱりここは……」
啓人はここがきっと異世界なのだろうと判断する。そうなると、啓人は異世界転移を果たしてしまったことになる。
しかし奇妙なことに、啓人は異世界転移をしたことに対して、あまり驚きの感情を覚えなかった。
創作の中でしか存在していないと思っていた異世界転移を果たしたとなれば、ほとんどの人間は驚きや焦燥を覚えるだろう。
しかし、啓人にはその感覚はなく、至って冷静にこの状況を納得することができたのだった。
「意味わかんねぇ……」
啓人はその不可解に得心がいかない。
そのとき、啓人の独り言が聞こえたのか、スライムが啓人に寄ってくる。
「なっ、なんだ?!」
啓人は後ずさって、スライムから一定の距離をとる。
スライムはゲル状の体を立体的にウネウネと動かしながら啓人の動向を探っているように見える。
「ど、どうしたらいいんだ……? スライムを倒したら経験値とか入ってレベルが上がったりすんのか……?」
啓人は落ちていた木の棒を拾い、引け腰でスライムに向ける。
スライムはなおも変形しながらゆっくりと啓人に近づいてくる。
「そ、それ以上近づいたら叩くぞ!」
スライムは言うことを聞かない。それか、聞こえないか通じないのかもしれない。
スライムは水色の半透明の体を上下左右に大きく広げ、啓人のことを威嚇しているかのような体勢をとる。
「くそっ……!」
啓人は思い切ってスライムに近づき、木の棒で叩いてすぐに逃げる。
そして、しっかりと離れたところで振り向き、スライムの方を見てみると、スライムは未だ健在であった。
「やっぱりあの程度じゃ無理か……」
啓人は深呼吸をし、再び木の棒を構えてスライムと相対する。
スライムは啓人に怒っている様子はなく、ただウネウネと啓人に近づいてきていた。
「このやろっ!」
啓人は素早く木の棒をスライムに叩きつける。するとスライムは激しく体を震わせ始め、数秒の後に地面にべちゃっと潰れて動かなくなる。
「た、倒したのか……?」
啓人は恐る恐る近づき、スライムの成れの果てをつつく。スライムに反応はない。
「よ、よし、ひとまずは安心だな。でも、強くなった感じはしないな。経験値が足りないのか、それともそもそもレベルが存在しないのか……」
啓人の視界の端が明るく光る。気になって視線を移すと、何かが太陽光を反射しているようだ。
「なんだ?」
啓人は近づいてその正体を確認する。それはスライムの青い液体で濡れた、水色の球体だった。
腰をかがめて木の棒でつついてみると、金属質な見た目をしているにもかかわらず、プニプニと弾力のある柔らかさをしている。
だが、その他に特徴的な性質は持っていないように思われた。
「スライムのドロップ品か?」
よく分からなかったが、とりあえず害はなさそうだったので持っていくことにした。
啓人は水色の球をポケットに入れて歩き出そうとする。その瞬間、啓人のいる場所が突然陰になる。
「なっ!?」
驚いて振り向くと、啓人よりも大きなスライムが啓人のことを見下ろしていた。
巨大なスライムは、さっきのスライムのように体をさらに大きく変形し、今にも啓人に襲いかかってきそうな様子を見せる。
「マジかよ!」
啓人は一目散に逃げる。だが、スライムはその巨体から触手のようなものを伸ばし、逃げる啓人を追尾する。
「嘘だろ!?」
そのスピードは啓人の走りよりも速く、あっという間に啓人を捕まえてしまう。
触手は一瞬にして啓人に絡みつき、ものすごい力で啓人をスライムの元へ引っ張っていく。
「クソっ! 放せっ! このっ!」
啓人は腕や足を振り回して暴れようとするが、想像以上に触手の力が強く、簡単に押さえつけられてしまう。
そしてそのままズルズル引きずられ、啓人はとうとうスライムのすぐそばまで運ばれてしまった。
「クソっ! 俺の異世界ライフこんなところで終わりかよ! まだなんもしてねぇじゃねぇかよ! これから俺の新しい人生が始まるかもしれないってちょっとワクワクしてたのによお!」
啓人は全力で抵抗する。しかし、無情にも啓人の体はスライムの体内へと引きずり込まれていく。
啓人は先程スライムが草を分解していた様子を思い出す。
「……やだよ俺、死にたくねぇよ……!」
そのあまりの恐怖と悔しさに、多量の涙と鼻水が止めどなく流れ出る。
啓人は顔を引きつらせながら一生懸命に足掻くが、抵抗むなしく全身が完全にスライムの内部に取り込まれてしまう。
スライムの中は粘度の高い青い液体で満たされ、呼吸をすることができない。
啓人は苦しくなって必死にもがくが、進んでも進んでも押し戻されて、スライムから脱出することができない。
もう……ダメ……だ…………。
意識が遠のき、啓人の腕が力なく垂れ下がる。
青かった視界が端から段々と黒く染まっていく。
「――ゼフォロ」
黄色い閃光が弾ける。同時に、激しい爆発音とともにスライムが四散する。
「ゲホッ! ゴホッ!」
謎の光に吹き飛ばされた啓人は、胃に入ったスライムを吐き出し、呼吸を整える。
顔を上げると、スライムは既に活動を停止していた。
「はぁはぁ……な、なんだ?!」
「助かったみたいで良かったです」
声のした方へ振り向くと、啓人のすぐ近くにローブのフードを目深に被った何者かが立っていた。その何者かは啓人の無事を確認し、フードを取る。
そこには美しい女性の笑顔があった。女性は長いストレートの金髪をローブから出し、啓人に向かって笑いかける。
女性の優しい笑顔は啓人の時を止めた。
「だ、大丈夫ですか?」
「え……あ、ああ、はい! 大丈夫です!」
「良かった! どこかケガさせちゃったかもって心配で」
「い、いえ全然! ピンピンしてますよ!」
啓人はテンパってらしからぬ発言を口走る。
その反応に女性は安心したように胸を撫で下ろし、再び啓人に柔和な笑顔を向ける。
風にたなびく金髪。微かに赤らんだ頬。黄金に輝く瞳に風鈴の音のような涼やかな声。本当は天使なのではないかと疑うほどの人間が、啓人の眼前に間違いなく存在していた。
ああ、これは――
啓人は思わず嘆息する。
「私はエティナ・テルニム。あなたの名前は?」
青く澄んだ空が広がっている。