92.安心できる場所
「閣下、お待ちくださいっ……!」
外の回廊からハイノさんの声が聞こえるけど、反応できない。……まさか、駐屯所へ来るなんて。会議の時ではなかったのか、仕事は離れても大丈夫なのだろうか。
そう聞きたくても声にすることができず、深くて美しい青い瞳から視線を逸らすことができない。
シルヴェスター様と最後に会ったのは、今朝だ。
お互いに普通に朝食を摂り、王宮へ出仕するシルヴェスター様を見送り、挨拶を交わしたのが最後だ。
たったの数時間前のこと。なのに──その姿を見て、ひどく安心する。
「──アリシア」
重低音の声が私の名を紡ぐと同時に、長い足が足音を立てて早歩きでこちらへやって来る。
そして私の前へやって来るとじっとこちらを見る。その瞳の奥が、何かを恐れているように見えるのは気のせいだろうか。
「怪我はないか?」
「い、いえ。……エストが守ってくれたので」
一瞬、詰まらせながらも無事だと告げる。……エストがいて本当によかった。彼女のおかげで私は無事なのだから。
怪我はないと告げると張り詰めていた空気が幾分か緩和し、いつも以上に硬くなっていた表情がほんの少しだけ和らぐ。
「そうか。──無事で、よかった」
先ほどと同じ重低音の声。だけど一年間、この人の隣にいて見てきたから分かる。
その短い言葉には確かに安堵が含まれていて、心から私のこと案じてくれていたのが伝わってきて、胸がいっぱいになる。
「……はい、私はこの通り無事です。ご心配、ありがとうございます」
噛み締めながら感謝の言葉を紡ぐ。……どうしてだろう。助けられて、安全な場所にいたのにそれでもどこか不安や恐怖は残って消えなかったのに。
それなのにシルヴェスター様を目にした瞬間、不安はどこかへ消え、ようやく安心してしまった。
「事件の取り調べはもう終わったのか?」
「終わりました」
問いかけるシルヴェスター様に簡潔に答える。事件のことは一通り話したからあとはもう問題ないはずだ。
頷くと青い瞳がハイノさんたちの方へ向ける。
「そうか。──取り調べが終わったのなら屋敷へ帰宅しても?」
「大丈夫です。また何かお話を伺うことがあるかもしれませんが、その時は公爵閣下でもよろしいでしょうか」
「ああ、そうしてくれ」
「かしこまりました」
シルヴェスター様とハイノさんとディーターさんの三人で話が纏まる。屋敷に帰られるのなら早く帰りたいのが本音だ。
やり取りが終わると、再びシルヴェスター様がこちらを見る。
「屋敷へ一緒に帰ろう。馬車も既に停まっているから」
「シルヴェスター様もですか? その、お仕事は大丈夫なのですか? 会議とか……」
「会議はないから問題ない。急いで対応しなければならない案件も今はないから共に屋敷へ帰ろう」
心配になって尋ねるも淡々とした口調で問題ないと返される。……仕事人間のシルヴェスター様だ。そのシルヴェスター様が大丈夫と言っているのなら嘘ではないだろう。
仕事ができる故、すぐに仕事中毒になる人だから余裕があるのなら休んだ方がいいのは明白だ。
「そうなのですね。では一緒に帰りましょうか」
「ああ」
「それではこちらをお通りください。こちらの通路は比較的人の通りが少ないので」
シルヴェスター様の提案に了承すると、ハイノさんが人通りの少ない通路を案内してくれる。その通路は駐屯所に来た時も通った通路だ。
ハイノさんたちに案内されながら歩いて行くと二台の馬車とレナルドを見つける。
「アリシア様、エストさん。よかった、ご無事だったのですね」
ほっとした顔を浮かべるながらレナルドが呟く。レナルドの穏やかな笑みを見ていると自然と安心感が生まれる。
「エストのおかげよ。ロフマンは……?」
「ロフマンさんは既にこちらの馬車に乗っています。意識も回復しているのでゆっくりと走らせれば大丈夫だと言われたので」
「本当? ……よかった」
生命に別条はないと教えられたけど、意識も回復しているとは。その報告に胸を撫で下ろす。
屋敷に到着したらゆっくりと療養してほしいと思う。
「エストは俺たちと一緒の馬車へ。レナルドはロフマンと一緒に乗ってくれ」
「かしこまりました」
「はい、分かりました」
エストとレナルドに指示すると馬車へ乗り、シルヴェスター様も私の隣に座る。
そして見送りに来てくれたハイノさんとディーターさんに窓越しに頭を下げると、ハイノさんは同じく頭を下げ、ディーターさんは口角を上げて笑う。やっぱり対照的な二人だと思う。
馬車がゆっくりと動き出し、窓越しの景色が変化していく。……やっと、屋敷へ。
予定より遥かに遅くなったけどそれでも屋敷へ帰れると思うとやっぱりほっとする。
「っ……」
同時に、目眩がして頭を抑える。……安全な屋敷へ帰ると認識したからか、急激に眠気が襲ってくる。
「どうした?」
「いいえ、何もありません」
隣にいるシルヴェスター様に問いかけられるけど小さく首を振る。眠いけど、まだ眠るわけにはいかない。まだ、やることがあるのだから。
私を狙った犯人。敵対派閥の継戦派の仕業か、シルヴェスター様を慕う貴族令嬢か。正体が分からないからこれから調べないといけない。
堪えるもそれでも眠気は消えず、必死で瞼を閉じないように耐えていると、シルヴェスター様がもう一度問いかける。
「眠いのか?」
「……少し」
船を漕ぎながら短く答える。……屋敷に戻ったらサマンサにコーヒーでも淹れてもらって眠気を飛ばさなければ。
変わらず襲ってくる眠気に抗っていると、隣から声が聞こえてくる。
「なら眠ればいい。──大丈夫だ、屋敷につけば教えるから」
「っ……。は、い……」
優しい、重低音の声で告げられる。さっきより近い気がするけど、そろそろ眠気を堪えるのも限界だ。
そして、ふらふらと揺れる頭は固定され──完全に意識を落とした。




