76.ハンカチ作り
静寂な部屋に、時計の動く針だけが響き渡る。
音のない静かな時間は嫌いじゃない。友人たちと一緒にお茶会や夜会で談笑するのも好きだけど、屋敷で読書をして過ごす時間も同じくらい好きだ。
そんなことを頭の片隅で考えながら、針を生地に刺してゆっくりと、丁寧に縫っていく。
それを何度も繰り返し、最後まで縫い終えると手を止める。
「うん、いい感じ」
使用した針を裁縫道具入れに戻してハンカチを裏返す。表も裏も悪くないと思う。
貴族令嬢の嗜みとして裁縫は学んでいるので基本はできるけど、今まで人に贈ったことはなかったから時間がかかってしまった。
特に今回贈る相手は友人じゃなくてシルヴェスター様だ。お守りとして、怪我をしないように祈りながら一針一針丁寧に縫ったこともあり、ゆっくりとなってしまった。
「……でも、上手にできたのならいいかな」
できあがったハンカチを見ながら納得して次へ工程へ進める。ハンカチを縫って終わりではない。次は図案を決めて刺繍を施さなければ。
立ち上がり、本棚に収納されている刺繍の図案が纏められた本に手を伸ばしてページを捲る。
図案集には花を始め、犬や鳥などの動物、剣や盾などの武器と様々な図案と縫い方が記載されていて、それらを順番に眺めていく。
そうしてしばらく考えながらページを捲っていると、ドアがノックされて顔を上げる。
「はい」
「奥様、エストです。入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
許可するとエストが静かに入室する。
そして入室すると、黄緑色の瞳がテーブルに置かれたハンカチへと吸い寄せられる。
「完成したのですか?」
「ええ。でもまだ刺繍が残っていて。図案集を見て考えていたところなの」
「そうなのですね。それでは少し休憩しては? 集中してお疲れではありませんか?」
状況を説明するとエストが提案してくる。確かに丁寧に作ろうと時間をかけていたので手が疲れているから少し休んでいいかもしれない。
「そうね……。なら少し休憩しようかしら」
「はい」
エストの提案に頷く。シルヴェスター様は華美なデザインを好まないからシンプルな刺繍でいいから今日中にできるはずだ。
一休みすると決めると喉が少し乾燥していることに気付く。ハンカチ作りに集中していて気付かなかった。
「エスト、喉が渇いたから何か飲み物をお願いしてもいいかしら?」
「実は、休憩にどうかとお茶を運んできたのです」
「本当? ふふ、やっぱりエストってすごいわ」
既に用意していると聞いて笑ってしまう。さすがはエスト、今日も仕事が完璧だ。
テーブルの上にあった裁縫道具を片付けてハンカチと一緒に机に置くと、部屋の前に置いていたティーカートを押して入室してくる。
そして、てきぱきとした動きでお茶を淹れると、花のような香りに頬が緩む。
「いい匂いね」
「はい。春になったので本日は花の香りが楽しめるお茶にいたしました」
「そうなのね。それじゃあ早速いただくわ」
カップを持ち上げ、花の香りを楽しみながら一口含む。花の香りがするお茶はあまり飲んだことなかったけど、甘酸っぱい味わいにほぅ、と息を零す。
「……おいしい」
「よかったです。軽食はどうしますか? 必要なら用意するように手配しますが」
「ううん。これだけで十分よ」
焼き菓子でも貰うと刺繍する時間が遅くなる。まだ図案も決定していないからここは飲み物だけでいい。
ゆっくりとお茶を飲みながら、ここ数日の日々について思い出す。
ラウレンツ様の帰宅後、まずシャーリーたちに参加する旨を手紙で伝え、同時に荷造りの準備を始めた。
狩猟大会が行われる王家直轄地は王都から早馬で行けば約半日、馬車なら約一日かかる場所にあり、荷造りする必要がある。
加えて数日王都を空けるということで数日先の書類も片付ける必要があり、ここ最近はその対処で忙しく過ごしていた。
そして──最も懸念していたラウレンツ様だが、幸いにも今のところ来訪の気配はない。
「ラウレンツ様だけど、諦めてくれたのかしら」
「……どうでしょうか。懲りずに何度もレストランに観劇と色々と誘っていましたからね」
呟くとエストが微妙な反応する。
エストは微妙な様子だけど、もしかしたらシルヴェスター様が何か言ってくれたのかもしれない。二人共、職場は違うけど王宮勤務だから会うことはあるはずだから。
ロバートが対応してくれるとはいえ、申し訳ないなという気持ちがあったから来訪がないのなら何よりだ。
「シルヴェスター様もだけど、エストも手厳しかったものね」
「そうですね。ラウレンツ様は昔から面倒くさ……少々厄介な人だったので」
今、面倒くさいと言おうとした。そして、訂正したけどあまり意味がない気がする。
「当日ですが、旦那様がおられるので問題ないと思います。ですがご存じの通り、自由奔放なお方なのでお気を付けください」
「もう大丈夫だと思うけど……分かったわ」
エストのラウレンツ様に対する認識に苦笑いする。大丈夫だと思うけど、一応気を付けよう。
ラウレンツ様から話題を変えて、エストに尋ねる。
「狩猟大会だけど、エストも同行するのよね?」
「はい。とはいえ、お茶会の準備は王宮側の侍女がするので私は部屋で待機となりますが」
「そうなのね。初めてで知らなくて」
宰相補佐官として忙しかったからか、それともシルヴェスター様のように狩猟大会に興味がなかったのか、父も狩猟大会に参加していた記憶がない。なので詳しくは知らない。
ちなみに母に手紙で聞いたところ、父は上司である宰相──フォーネス侯爵と共に王宮に残って仕事をするらしい。だから両親と狩猟大会で会うことはない。
「久しぶりの開催なので奥様と同じような方も多いと思います。名前の通り、男性が主役の大会なので奥様はお茶会を楽しんだらいいかと」
エストが小さく微笑みながら進言する。……確かにそうだ。
陛下が久しぶりに開催したのは開催地が王都から近いからだろう。何か不測の事態が起きても早馬ならすぐに王都に戻ることできるから開催を決めたのだと思う。
陛下は王都を離れる。だけど、代わりに王都にはフォーネス侯爵がいるから大丈夫なはずだ。ランドベル公爵家と同じく生粋の国王派の侯爵がいるのなら安心だ。
「そうね。王家が保有する離宮でお茶会なんて滅多にない機会だもの」
「はい」
王妃様と仲良くなってから数回、招待されて王宮でお茶をしたことがあるけれど、当然ながら離宮はない。離宮でお茶会をする機会なんてそうそうないから心から楽しむべきだ。
「エストもその間はゆっくりしててね」
「分かりました。それでは大会中、同僚に勧められた本でも読もうと思います」
休むように告げるとエストが開催中の過ごし方について話す。数時間はかかるから好きに過ごしてもらえたらと思う。
最後の一口を飲み終えて、そっとカップをソーサーに戻す。
「休憩はここまでにして、刺繍をするわ」
「かしこまりました。何か必要な物はありますか?」
「大丈夫よ。刺繍糸も領地で買った絹糸を使うつもりだから」
話しながら見せるのは領都の視察中に購入した絹糸だ。せっかくだから領地の特産品を使って刺繍しようと思う。
取り出した絹糸を見せると、エストが目を細めて微笑む。
「素敵ですね。旦那様も領地の特産品である絹糸が使われていると知ると喜ぶと思います」
「本当? それならこれで刺繍してみるわ」
閉じていた図案集を広げながら微笑む。……喜んでもらえるように頑張ろう。
「私もこれで失礼します。何かありましたら呼び鈴を鳴らしてくださいませ」
「ええ。ありがとう」
「いいえ」
お礼を言うと美しい姿勢で一礼してエストがティーカートを押して退室する。エストも私に気を遣って退室してくれたし、今日中に終わらせよう。
いくつかの候補の中から刺繍する模様を決定し、失敗しないように適度に休憩を挟みながら取りかかる。
そうして指先に集中しながら取り組み──狩猟大会当日を迎えた。




