24.小さな変化
十八歳の誕生日を迎えたある日、父から王命による婚約者ができたと伝えられた。
相手は財力・家柄・血筋・権勢とどれを取っても実家のエインズワーズ伯爵家より格上の最上級の名家・ランドベル公爵家の当主のシルヴェスター様だった。
そして婚約してすぐに本人から「これは政略結婚だ」と告げられ、シルヴェスター様に恋していなかった私はこの政略結婚の意味を理解してランドベル公爵夫人となった。
その、王家に忠誠を誓い、国王陛下の親友で懐刀であるシルヴェスター様と結婚して約一ヵ月半。
政略上の妻でもシルヴェスター様は私を重んじてくれ、公爵家の使用人はみんな優しくて快適な生活を送っている。
家令のロバートと侍女長のサマンサから公爵家の歴史や実際の家政の仕事を教えてもらいながら公爵夫人としての仕事をこなす事ができていると思う。
「奥様」
聞き慣れた声に読んでいた本から視線を外して顔を上げる。
女性にしては低い声で私を呼ぶのは専属侍女であるエストだ。
「どうしたの?」
「旦那様が帰ってこられました」
「もうそんな時間?」
エストからの報告を聞いて時計を見ると時間は午後七時を過ぎていて少し驚く。読書に集中して気付かなかった。
「お出迎えいたしますか?」
「そうね。挨拶するために行くわ」
「かしこまりました。では私も参ります」
「ええ」
シルヴェスター様を出迎えるために図書館から借りて読んでいた推理小説に栞を挟んで部屋を出る。
公爵家の屋敷は実家の伯爵家より遥かに広く、エントランスホールへ行く間にラウラを始めとする数人の使用人とすれ違い、頑張ってくれているみんなに邪魔しないように一言だけ言葉をかけて階段へ向かう。
エントランスホールに近付いていくと話し声が聞こえてきて進むスピードを緩める。
「──とのことです」
「そうか。詳しく話を聞きたいから一度報告書を提出するように命じてくれ」
「かしこまりました」
二階から階段の手すりに掴まって帰宅したシルヴェスター様とロバートを観察する。
ロバートが話しているのなら領地の話だろうか。どうやら何かしらの報告を聞いているようだ。
別に出迎えは必ずではない。だから領地の大事な話をしているのなら立ち去ろうかと僅かに思案しているとレナルドがシルヴェスター様に耳打ちをし、シルヴェスター様がこちらを見る。
「アリシア。ただいま」
帰ろうかと考えているとレナルドが報告したようでシルヴェスター様が挨拶をする。無視するわけにはいかないので下りていって私も挨拶をする。
「おかえりなさいませ、シルヴェスター様。お邪魔して申し訳ございません」
「いや、たいしたことはないから気にしないでくれ」
「そうですか?」
そっ、と観察すると深海のような青い瞳からは不機嫌さも苛立ちも感じられず、シルヴェスター様の言葉は嘘ではないと判断する。よかったと内心ほっと息を吐く。
そしてシルヴェスター様の後ろに控えるレナルドに目を向けて、そちらにも声をかける。
「レナルドもおかえりなさい」
「はい、ただいま帰りましたアリシア様。エストさんもただいま帰りました」
「…………」
「エスト……」
シルヴェスター様の従者であるレナルドにも声をかけると穏やかな笑みを浮かべながら私とエストに挨拶をする。
だけどエストは無視。その光景に苦笑する。
これも嫁いできてずっと見ているのでもう驚くことはないけれど、レナルドも無視されたり毒舌吐かれるのに声をかけて健気だと思う。
「ロバート、食事はできているか?」
「はい。あとは旦那様と奥様が座っていただければ夕食が出せる状態です」
「そうか。ならアリシア、食事を摂ろうか」
「はい」
シルヴェスター様が外套を脱いでロバートに預けると私と一緒に食堂へ向かいながら歩いていく。
「お忙しそうですね」
「ああ。最近は忙しくて陛下に外務大臣とあっちこっちと呼び出される」
「そうなのですね」
隣を歩くシルヴェスター様を見上げると少し疲れた表情を見せながらネクタイを緩める。本当にお疲れのようだ。
あっちこっちから呼び出されるのはランドベル公爵家が代々外交を司っているからだろうけど、シルヴェスター様自身も外交官としても臣下としても優秀だからだと思う。
「お仕事が大変なのは分かりますが、しっかりと休んでくださいね。シルヴェスター様自身のためにも、同僚や外務大臣の方、そして国王陛下のためにも」
「……善処しよう」
心配の声をかけるとやや沈黙の後にそう返してくる。「する」じゃなくて「しよう」か。まぁ、シルヴェスター様の立場を考えると簡単には休めないからそんな言い方になるのは分かるけど。
「シルヴェスター様、そこは『しよう』じゃなくて『する』と言った方がよろしいかと」
「黙ってくださいレナルド。旦那様がお忙しいのは分かっているでしょう」
「それは分かりますがアリシア様のためにもそう言った方がいいじゃないですか。それとエストさん、そんなに睨まないでくださいよ」
「どうやら注意するよりどうやらその口を縫い付けた方が早そうですね」
私が思っていたことを数歩後ろにいるレナルドが声を上げて進言してすかさずエストに注意される。
そしていつも通りの展開へと発展する。ついさっきもしていたのに。これこそ水と油と表現すればいいのだろうか。
「相変わらずだな」
「そうですね」
「だがいつも通り騒がしいのは平穏の証だ」
「おっしゃる通りですね」
既に見慣れてしまった光景に私もシルヴェスター様も何も言うまい。
「……仕事のことだが」
「?」
ポツリ、と呟くシルヴェスター様に目を向けるとゆっくりと口を開く。
「仕事のことだが……できる限り善処する」
「……! はい」
レナルドの進言が功を奏したのか、シルヴェスター様が言い直して私にそう告げてくる。
少しだけ驚いたものの、シルヴェスター様のその発言に微笑みながら返事をする。
ちなみに二人の、いやエストの毒舌はサマンサが咳払いするまで続いた。
***
食堂へたどり着くと互いに自分の席に座り、食事の挨拶をして会話をしながらバランスの良い夕食をゆっくりと摂っていく。
「今日は家政仕事や勉強以外で何をしていたんだ?」
「今日はメデェイン王国発祥の小説を読んでました。話す方と聞く方はできるようになったので最近は読む方に力を入れています」
「読書か。メデェインは平和だった時代が長いこともあって文化が発展していて、中でも文学は他の追随を許さない国だな」
「メデェイン王国は『文学のメデェイン』と有名ですよね。今は推理小説を読んでいるのですがこれが中々難しくてついつい読み耽ってしまいます」
そしてシルヴェスター様が帰宅するまで読んでいた推理小説を思い出す。
メデェイン王国の推理小説はウェステリア王国と違って謎が難しく、トリックもとても手が込んでいる。よく種明かしのところで、あ、と思う場面がある。
そしてここ最近の悩みは夢中になってついつい夜更かししてしまうことだ。
面白くて区切りが良いところまで読んでしまうため、たまに日中眠いことがある。
「メデェインの作品は面白い内容が多いから分かるな。勉強も読書を楽しむのもいいが体調を崩さないように」
「実は最近は私が日中眠そうな様子に気付いてエストがコーヒーをよく淹れるようになったんです。それにサマンサとエストが見張りするようになり、夜更かしが難しくなってきているんです」
「サマンサか。なら安心だ。俺も幼い頃は何回か注意されたな」
サマンサの名前を出すとシルヴェスター様が小さく口角を上げて懐かしそうに語り出す。どうやらシルヴェスター様も経験済みのようで、サマンサへの信頼は高いようだ。
「…………」
何気ない会話をしているけど、結婚当初はこんな会話をすることになるとは思っていなかった。
全ては、あの騒動以降からだ。
ベナード侯爵令嬢の件からそれまで互いに一切触れていなかったエレオノーラ様のことを初めて口にしてから、私たちの距離は少しだけ近くなった気がする。
互いに口にしていいのか分からなかったエレオノーラ様だけど、ベナード侯爵令嬢の一件で話す機会ができて、結果的には良い方向へ転がってよかったと思う。
シルヴェスター様と他愛のない話しをできるようになったし、シルヴェスター様は以前は一人称を「私」だったのが「俺」と素の話し方をするようになった。
たかが一人称の変化くらい、と思うかもしれないけど、私からしたら壁が消えたように感じて少しだけ嬉しい。
例え、国王陛下からの王命による政略結婚でも“パートナー”として信頼関係を築きたいと思っていたからこの変化は素直に嬉しいのが本音だ。
「そういえば、リカルドから手紙が届いたんだがアリシアにも届いたか?」
「はい、少し前に。私の騒動を聞いたようで案じてくれていて」
「俺のところにも似た内容が届いたんだが、ようやく軍事演習が終わったようで王都へ帰ってくるみたいだ。それで、見舞いに行きたいと書いているんだが会えるか?」
どうやらリカルド様が軍事演習を終えて王都へ帰還するようだ。
無理ならいいと言うけど、わざわざ遠方から私の様子を心配してくれたのだから私も顔を出すべきだろう。
それに、リカルド様もシルヴェスター様同様に私に優しくしてくださっている。会わないのは筋違いだ。
「無理なら構わないがどうだろうか」
「いいえ、大丈夫です。私も久しぶりにリカルド様にお会いたいしたいと思います」
「そうか」
了承するとシルヴェスター様が声色と表情がほんの少し柔らかくなる。
「なら今週の末でもいいか?」
「分かりました。それでは時間作っておきますね」
シルヴェスター様に頷いて返事をする。
太陽のように明るくて元気なリカルド様がいれば公爵邸が賑やかになるだろう。
そうしてシルヴェスター様と話しながら夕食を共にした。




