幕間2.恋が砕け散る瞬間
ナディア・フォン・ベナードは国王派寄りの中立派・ベナード侯爵家の当主の末娘として生を受けた。
ナディアには兄と姉がいたが年が離れて生まれた娘ということもあり両親からは殊更かわいがられ、ほしいドレスにアクセサリー、珍しい菓子に他国の品物と望むものは全て両親から与えてもらい、蝶よ花よと甘やかされて育った。
そんなナディアが恋をしたのは一年前の十五歳。父に用があって侯爵邸に訪れたシルヴェスターの姿を見て、一目で恋に落ちた。
彫刻のように整った美しい顔立ち、冬の夜空を切り取ったような黒みを帯びた紺碧の髪に深い、深海のような青い瞳。
息を呑むような美しさにナディアは客人の帰宅後に父に来客は誰なのか、と尋ねると客人はランドベル公爵家の当主だと教えられた。
ランドベル公爵家。それは政治や派閥に疎いナディアでも知っている国の中で五指に入る家名で、彼はその公爵家の当主だと言う。
端整な顔立ちで家柄も優れた名門貴族の当主となると、彼の隣を望むのは当然だった。
だから父に望んだ。彼──シルヴェスターの婚約者になりたい、と。
しかし、それをねだるとこれまでたくさんの願い事を叶えてきた父が初めて難色を示した。
父曰く、シルヴェスターは五年経った今も亡き婚約者を思っていて、妻になってもナディアが傷つくだけだと告げて逆に諦めるように諭してきた。
だが初恋で、一度芽生えた恋心はそう簡単に消えるものではない。
だから、それから何度も何度も父に頼み込んだ。
何度も頼み込み、時には泣きついて懇願するナディアの姿に末娘に甘い父はついに折れた。
そして娘の願いを叶えるためにデビュタントと同時にランドベル公爵家に婚約を申し込むと約束し、ようやくナディアは機嫌を戻した。
そしてデビュタントの日。ランドベル公爵家に縁談の申し込みをした。
自身は公爵家の次に身分が高い侯爵令嬢。受け入れられる、そう思いきっていた。
だが、蓋を開ければ他の令嬢同様に断られ、断れたショックで数日部屋に引きこもって泣き腫らした。
嘆く末娘に両親は何度も声をかけ、好きな食べ物を料理人に作らせては彼女に与え、ほしがっていた宝石にドレスを購入してナディアを元気付けようとした。
両親のその思いやりにナディアの心も少しずつ癒え、ようやく部屋から出られるようになった。
その直後だった。シルヴェスターが王命による婚約発表をしたのは。
思いがけない知らせにショックを受けたが、これが自身の実家より爵位が高い公爵家ならばまだ、まだ我慢ができただろう。
だが、婚約相手は自身の実家の侯爵家より格下の伯爵家で許せるはずがなかった。
王命による政略結婚とは言え、なぜ侯爵家の自分ではなく伯爵家の女が選ばれるのか納得できなかった。
(──その場所は、わたくしのものだったはずなのに)
伯爵家出身のくせに彼の隣に佇む権利を得て憎かった。彼と最初に踊るダンスを当然のように享受して腹立たしかった。
だから例の女が一人で夜会に参加していると知って、嫌がらせをせずにはいられなかった。
友人と退路を塞いで囲んで“伯爵家の分際で”と嘲笑して貶めて、それがきっかけで泣き出して無様な様を晒せばいいと思った。
なのに、相手はあろうことか言い返してきてかっと血が上って扇を持つ腕を振り上げてしまった。
──その行いが、自身の首を絞めるということも知らずに。
***
「お待たせしました、ベナード侯爵」
屋敷の主の声かけにはっ、と数日前の記憶の海から意識を戻して目を見開く。
(どうして、シルヴェスター様が……)
予想外の人物に困惑するナディアに父が立ち上がるように命じ、慌てて父と共に立ち上がる。
「い、いいえ……! お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます、ランドベル公爵」
敬語で話しながらも、人に命令し、人を支配することに慣れた硬質な重低音の声に父が頭を下げるのを見て、ナディアも同じように頭を下げる。
「侯爵、頭を上げて座ってください」
「はっ……」
「令嬢も頭を上げるように」
「は、はい……」
ゆっくりと顔を上げるとナディアが恋慕っていた人物──シルヴェスターが感情の見えない無表情でナディアを一切見ることなく父に言葉を投げかける。
「侯爵、忙しい中で当家に来てくださりありがとうございます」
「いえ……、とんでもございません」
侯爵家の当主として体裁を保とうとするも、父のその声は重苦しくて抑揚がないのが読み取れる。
そして、入室してきたのがシルヴェスターだけで頭の中に疑問符を浮かぶ。
(どうしてシルヴェスター様が? なんであの人じゃないの……?)
例の夜会後、父から生まれて初めて激しい叱責を受け、シルヴェスターの従者と名乗る青年から抗議文を受け取り、読んだ父から共に公爵夫人に謝罪するように命令された。
彼女に謝罪するのは気に入らないが相手は公爵家。謝った方がいいのは分かっているので父と共に来たのに例の女がいなくて困惑する。
それは父も同様で、困惑した様子でシルヴェスターに尋ねる。
「奥方は……? 奥方に謝罪をしたいのですが……」
「妻は部屋にいます。残念ですが、会わせる気はないので」
父の問いにシルヴェスターが無機質な声音で答える。
シルヴェスターのその発言に父の口からひゅっと音が鳴り、ナディアもシルヴェスターの発言に息が止まりそうになる。
(会わせる気がない……? どうして……? 形だけの妻なのに?)
シルヴェスターが亡き婚約者を未だに思っているのは有名で、ナディア自身もデビュタント後の夜会でエレオノーラの噂を耳にしていた。
だから嘲笑して貶めてもいいと思った。政略結婚なのは誰の目から見ても明らかで、わざわざそんな女のために忙しい身のシルヴェスターが出てくるとは思わなかったから。
なのに蓋を開けてみれば被害者である公爵夫人ではなく当主であるシルヴェスターから抗議の手紙が届いて驚愕した。
(これじゃあ……これじゃあまるで、妻として大切に重んじているみたいじゃない……)
父が狼狽えた様子を隠せずにシルヴェスターに尋ねる。
「お、奥方が拒んでいるのですか?」
「私が会わせたくないのです。今回のことは、聞いていてひどく甚だしい内容で」
シルヴェスターがすっと目を細め、無機質な声音でそう告げると父が小さく肩を揺らす。
「こ、この度は誠に申し訳ございませんでした……! 私の監督不足です……!!」
「も、申し訳……ございませんでした……」
慌てながらも隣から父の視線を感じてナディアも詰まりながらシルヴェスターに謝罪をして頭を下げる。
「ええ。此度の件、その事の重大さを侯爵はよく理解しているでしょう。しかし、令嬢は理解しているのか疑問だ」
「わ、わたくしは……」
「令嬢。私は君に発言することを許した覚えはない」
「っ!」
シルヴェスターの冷たい双眸にナディアは青ざめる。
兄姉と離れて生まれて甘やかされて育ったこと、中立派の高位貴族の令嬢ということもあり、学院では派閥による衝突も無縁だった。
だからこそ、初めて浴びる他人からの明確な敵意に小さく震わせる。
「令嬢。発言を許すが、君が妻に何を言ったのかは大体把握している。君は妻に“たかが伯爵家の分際”と言ったようだがその発言が自身と侯爵にとってどれだけ致命的だと理解しているのか?」
「……そ、その……」
「意味のないことを聞いたな。分かっていたらそのようなことは言わないはずだ」
「……っ」
「……私の教育不足です。公爵夫人には本当に申し訳ないことをいたしました」
ぎゅっと唇を噛み締めて涙を堪えるナディアを見て父が再び深々と頭を下げて謝罪する。
「デビュタントを迎えたばかりとはいえども、娘は許されない行為をしました。公爵夫人への無礼講はランドベル公爵家を侮辱しているとは気付いておらず誠に恥ずかしい限りです」
「お父様っ……」
か細い声で父を呼ぶも父はナディアの声を無視して目も向けない。
いつもは自分を甘やかしてくれる父だが、今は娘の声すら無視してシルヴェスターに頭を下げたまま語り続ける。
「公爵夫人と亡き婚約者様への発言も、聞いていてとても許させることではありません。何より、王命による婚姻を批判するとは王家に対して異議があると申しているようなものです」
「そんな! わたくしはそんな、」
「ナディア、仮に違っていてもそう認識されてしまうのだ。お前はそんな発言をしたのだ」
「っ……」
優しい言葉で娘に言い聞かせるも父の眉間には皺が寄っていて、ナディアは口を閉ざす。
常に自身の願いを叶え、甘やかしてくれた父に厳しく叱責され、何も言えなくなってナディアは口を閉ざす。
「……ランドベル公爵。此度の件、許されるものではございませんが、娘にはきちんと処罰をいたします。ですので……どうか、どうかお許しください」
絞り出す声で父がシルヴェスターに深く頭を下げて懇願する姿に、ナディアは呆然とする。
そして道中、父が馬車の中でシルヴェスターを恋慕う自分に投げかけてきた内容を思い出す。
『ナディア、お前は何も知らないから純粋にあの青年を慕えるのだ』
『お父様……?』
『あの青年は先代ではなく、その前と本質が似ている。……彼が本気になれば、我が家一つ潰すことくらい造作もないだろうな』
父がそんなことを零していたが、大袈裟だと思った。
父はああ言っていたが、ベナード家は侯爵家。ランドベル公爵家より劣るも高位貴族に分類する家を容易に潰すことできるはずない。
そう、思っていたのに。
中立派の侯爵家当主として常に堂々とした父はナディアの誇りで、そんな父が好きだった。
だが、今の父はその堂々とした面影は見る影もなく、その姿から父の発した内容は事実で自身のした過ちの大きさを悟る。
シルヴェスターを見るも当のシルヴェスターはナディアを見ず、感情の読めない表情で父に語りかける。
「侯爵、許す気がなければ屋敷には入れません。令嬢のことは侯爵に任せます。侯爵たちの謝罪は妻には伝えておくのでご安心を」
「……ありがとうございます」
飾らずに簡潔に答える返事に父がゆっくりと礼を述べながら安堵の息を零し、ナディアも表情を和らげる。
(よかった……。とりあえず、これで一件落着できそう……)
例の女には会えなかったが謝罪は受け入れられた。
そのことに安心してほっと息を吐くと、シルヴェスターが感情が見えない表情でゆっくりと口を開く。
「ですが、侯爵。それは今回だけです」
「……え?」
しかし、安心したのも束の間、シルヴェスターのその発言で場の空気が冷えたのを感じ取って狼狽える。
そして、その発言に父が改めて姿勢を正してシルヴェスターに返事する。
「……はい、重々承知です」
「お、お父さ──」
「──ベナード侯爵令嬢」
「は、はいっ!」
重苦しく返事する父を呼ぼうとしたらシルヴェスターに呼ばれて急いで返事をすると深い、深海のような青い瞳と視線がぶつかる。
そして思い出す。一年前、父に用があって侯爵邸に訪れたシルヴェスターを初めて目にした日を。
あの時、美しい容姿の中でもその深い、青い瞳が特に美しく感じて恋に落ちた。
なのに、と思ってしまう。
きれいだと思った。その美しさに息を呑んだ。それなのに──。
(なのに──どうして今はシルヴェスター様が怖く見えるの?)
自身をなんの感情も宿していない青い瞳で見てくるシルヴェスターに恐怖を覚える。
「この際だから言っておこう。私は仮に王命がなかったとしても君と婚約することはあり得ない。なぜなら、私が断っていたからだ」
ひゅっとナディアの口から音が零れる。
飾り気もなくシルヴェスターが紡ぐ“断っていた”という言葉がナディアの心の奥深くに容赦なく突き刺さる。
だが、その以上に怖かったのは──先ほどと違い、青い瞳に明確な怒りが含まれていたから。
恐怖で固まるナディアの様子に気に留めずに、シルヴェスターは淡々と話していく。
「故に君と婚約することはあり得ない。それを色々と言って妻に難癖を付けたようだが、妻──アリシアは王家とランドベル公爵家が認めた公爵夫人だ」
恋した深海のように美しい青い瞳は今、まるで海を凍らせるようなひどく冷たい怒りを含ませながらナディアを捉える。
ひやり、と背中が冷えて、さぁっと再び顔を青ざめる。
出会ってから一年間、ずっとシルヴェスターを想い、恋をしていた。
そして愚かにも今頃気付く。この人は自分を映していないし、一生、自分を映すことはない、と。
同時に父が恐れる理由が今更ながらに理解する。
冷たい、重低音な声がナディアの耳を通って告げる。
「今回はベナード侯爵の顔を立てて目を瞑ろう。だが、あまりランドベル公爵家を舐めないでほしい。──次はない」
暗に次は潰すと宣言されて、本当に次は容赦なく潰しにかかるだろうと本能的に理解する。
(ああ、この人は、決して敵に回してはいけない人だ──)
シルヴェスターの警告を含んだその冷ややかな声に、一年間育てていたナディアの恋心は完全に、粉々に打ち砕かれた。