幕間1.幼馴染からの知らせ
レルツ伯爵の夜会の翌朝、シルヴェスターは王宮にある己の執務室で書類を見てペンを走らせていた。
名門公爵家の当主で外交官として十年働くシルヴェスターは外交官の中でも一定の地位を築いており、専用の執務室を持っている。
そして、そんな彼の隣には従者であるレナルドが控えていて雑用をこなしている。
そんなシルヴェスターの執務室に特有のノック音がしたのはまだ朝が早い時間帯だった。
ノックの音でペンを走らせるのを一時停止したものの、馴染みあるノックの音で再び書類に目を向ける。
「レナルド、念のために来客の確認を」
「かしこまりました。では確認して参ります」
「ああ」
レナルドに短く指示を出して書類にサインをする。
仮に己の部下ならノックと共に名を名乗るはずだ。
だが、来訪者はノックはすれど名を告げない。なのでレナルドに指示を出して様子を見に行ってもらう。
部下を持つシルヴェスターには日々、部下から報告書などが届く。
その書類を読み、問題があれば指摘し、新しく指示を出すのがシルヴェスターの日課だ。
黙々と書類と見つめ合っていたシルヴェスターだが、執務室に来た来客によってそれは中断された。
「よぉ、シルヴェスター。元気にしてるか?」
「…………」
ドアが開く音、そして予想通り聞き慣れた声がしてシルヴェスターは小さく溜め息を吐く。
「おーい、返事しろー。もしかして寝てる?」
「……寝ていない。ラウレンツ、連絡もなしに来るのはどういうことだ」
「ちょっと立ち寄っただけだって。なぁに、三十分もいないから許してくれよ」
「な?」と笑顔で執務室に入り込む友人にシルヴェスターは再び溜め息を吐く。
来た人物は確かに昔からの幼馴染だ。だが、今は互いに仕事をする大人。昔の感覚で勝手に訪問されては困るのが本音だ。
明るい茶髪を一つに結び、飴色の瞳に着崩れした白の軍服を着るのはラウレンツ・フォン・セントルース。セントルース侯爵家の三男でシルヴェスターと国王ヒューバートの幼馴染で二人と同じ二十五歳。
そんなラウレンツは現在、近衛兵として勤務していてヒューバートの護衛をしている。
ちらりとラウレンツの方を見ると彼は執務机の前にあるソファーに座り、己の従者であるレナルドに茶を頼んでいる。
この様子だと居座る気だと判断したシルヴェスターは書類を見るのをやめ、ラウレンツの向かいにあるソファーに座る。
自分と違い、天真爛漫な明るい弟と悪ふざけが好きな目の前の幼馴染、そして明るいながらも冷酷な顔を持つ主君に囲まれて育ったからか自然と冷静になり、私的な場面では折れるようになった。
「急に来て一体なんだ?」
幸い、昨夜王妃の祖国であるソヴュール王国との貿易案は終了した。特に急いでしないといけない仕事はないが急にやって来た幼馴染に不信感を持つ。
ラウレンツの茶と共に自分の前にも新しい茶を置いたレナルドに礼を告げて、突然やって来た幼馴染に目を向ける。
「仕事は? 午後からか?」
「そう。だからお前のとこ来たってこと」
「別に来なくていいだろう。休んでいたらいいものを」
「なんだよ、それが幼馴染に言うことか? お前に報告しないといけないと思って朝一に来たってのに」
「報告?」
ラウレンツの発する言葉に片眉を上げて何かと問いかけると、ラウレンツは優雅に茶を飲み始める。
「そ。昨日レルツ伯爵主催の夜会に参加したんだけどさ、そこでアリシアちゃんこと、ランドベル公爵夫人を見つけてさー。まさかレルツ伯爵の夜会に来てるなんて思わなかったよ」
「そうだろうな。お前に伝えていないからな」
どうやら妻のアリシアかと思い返事する。
それが報告なら別に必要ない。事前に彼女から聞いているから問題ないと判断する。
「そのことを報告しに来たのか?」
「……その様子だとやっぱり知らないか」
「何かあったのか?」
問いかけると目の前の幼馴染がやれやれと小さく首を振る。
そして次の瞬間、シルヴェスターの予想外の言葉がラウレンツから飛び出した。
「アリシアちゃんが怪我したんだよ。急速に噂が広がってるよ」
「…………は?」
ラウレンツの発言にピタリとシルヴェスターと共に後ろに控えていたレナルドが動きを止める。
そして、シルヴェスターの頭の中にラウレンツの今しがた発せられた言葉が反芻される。
(アリシアが、怪我だと?)
シルヴェスターが僅かに眉を顰める反応を見るや否や、ラウレンツは知らないと判断して説明し始める。
「お前を慕っていたベナード侯爵令嬢がアリシアちゃんに手を出したんだよ。昨夜のレルツ伯爵主催の夜会でアリシアちゃんに突っかかってさ。まぁ、アリシアちゃんもやられっぱなしじゃなかったけどさ、それで怒って侯爵令嬢の方が扇で顔叩いたってわけ」
「ベナード侯爵令嬢……? ……ああ、あの家の」
ラウレンツの話から数ヵ月前にベナード侯爵家から婚約の打診が来ていたのを思い出す。
あそこの令嬢から好意を持たれていたこともあり、断っていたがまさかそんな暴挙に出るとは、と考える。
(それも扇か。陛下の王命だと知っているはずだろうに随分と暴れてくれたな)
自分で言うのもなんだが公爵夫人になろうと様々な令嬢たちから婚約の申し込みが来ていた。
そんな令嬢たちが暴走しないように王命だと強調したのだが、まさかこんな暴挙に出るとは思わず眉間に皺を寄せる。
「ま、昨夜はアリシアちゃん一人だけだったし丁度イライラをぶつけるのに絶好の機会だと思ったんだろうけど。でもアリシアちゃんって大人しそうな顔しているのに微笑んだまま応戦してやるなぁって思ったよ。見た目はかわいい人形のようで儚い女の子なのに中身は違うよな」
「……まぁ、否定はしないが」
ラウレンツの称賛にシルヴェスターは肯定の意を持って小さく頷く。
同時に、アリシアと初めて顔合わせした日のことを思い出す。
妻であるアリシアとは完全なる政略結婚だ。
エレオノーラは決められた婚約者で情熱的な恋愛ではなかったものの、互いを尊重して少しずつ思いを育んできた。
しかしそのエレオノーラが病にかかり、闘病の甲斐なく亡くなったという出来事は、まだ二十歳のシルヴェスターにとって簡単に心の整理がつかなかった。
そんなシルヴェスターの心を無視するように、新たな婚約者の座に娘を紹介する当主たちの行動に不快感が走った。
『シルヴェスター殿、次の婚約者ですが娘は如何ですか? 親の私が言うのもなんですがこの通り器量が良く自慢の子なのですよ』
『娘は語学が得意なのです。きっとシルヴェスター様の役に立ちますよ』
『どうです、ランドベル公。まずは一度、娘と二人で話していただけませんか?』
彼らがランドベル公爵家と縁戚になりたいという気持ちは分かる。
建国時から外交で王家を支えて何度も王女が降嫁し、時には王妃を輩出し、王家と関わりが深い公爵家はさぞ魅力的だろう。
だが、こちらの気持ちを踏み滲むかのように娘を売り込み、自分を見つめる令嬢の態度は、まるで「エレオノーラがいなくなってよかった」と言われているようで結婚する気持ちが遠のいた。
間もなく戦争が始まったこともあり、結婚話から逃げるかのように仕事に走ったと思えば今度は国内で政争が始まり、敵対勢力に対抗するために政略結婚することになった。
戦争続行を唱えるオルデア公爵たちを牽制し、国王派の結束力を強める──そのためにヒューバートが見つけたのがエインズワーズ伯爵家の令嬢のアリシアだ。
年齢は自分より七歳下の十八歳。父親のエインズワーズ伯爵は宰相補佐官で宰相からも覚えがめでたい有能な人物だと評されている。
伯爵夫人譲りのプラチナブロンドに伯爵譲りの紫色の瞳を持つ令嬢で、語学が堪能で公爵家側の調査でも特に問題がなかったので婚約を了承した。
夜会で遠目で見たことあるアリシアときちんと顔合わせしたのは婚約して少ししてからだった。
それまで言葉も交わしたことなかったアリシアだが、話すことはしっかりと話し、大人しそうな見た目と違うと思った。
期待されては困るので早々に政略結婚だと告げたら微笑んだまま返答し、理由も知った上で了承していて感情を見せない姿に年の割には大人びた少女だと感じた。
それは結婚してからも変わらず、アリシアは常に一定の距離感を持ち、こちらに深く入り込まずに接してきた。
深く入り込まないが自身の役割を理解し、公爵夫人として公爵家の歴史に語学の勉強を日々励んでいるとロバートから聞いた時は真面目で責任感の強い令嬢だと感じた。
侍女長であるサマンサからは公爵夫人用の資産も散財せず、使用人をよく見て気にかけていると好意的な感想を出る点から使用人たちとの関係も問題ないようだと思っていた。
見た目は大人しいが中身は落ち着いており、年の割に大人びている──それがシルヴェスターがアリシアに感じた感想だ。
(……だから意外だ。彼女ならもっと上手く対処できると考えたんだが)
結婚してまだ一ヵ月しか経っていないが毎日食事を共にし、少ないながらも会話をしているため、結婚当初よりアリシアのことは分かっているはずだ。
彼女は賢い。だから大事にしない方がいいのは分かって、丸く納めた方がいいと分かっているはずだ。
なのに結果的にはそのような状況になり、疑問が生じる。
「……どんな話をしていたんだ?」
「え? ……うーん、まぁアリシアちゃんを貶める発言が多かったな」
「貶める?」
ラウレンツの発言に再び眉間に皺が寄るのを感じながら続きを促す。
「そ。確か“たかが伯爵家の分際で”とか“身の上に合わない”とか言ってたな。助け舟出そうかと思ったけどアリシアちゃん本人が応戦して俺の出る幕なかったけど」
「──伯爵家の分際だと? ……は、どうやら伯爵家を敵に回す発言だと分かっていないな」
「だろうな。何回も言ってたし。あ、あとお前がかわいそうだって言ってたな。伯爵家の女が妻になって」
「俺がいつそんなことを零したんだ? ……侯爵の教育はどうなっているのか気になる発言だな。伯爵家でも王宮で高い地位を手にしている者もいるのにな」
現にアリシアの父親である伯爵がそうだ。
一官僚と違い、宰相補佐官という政治の中でも高い地位に位置していて王宮に出仕していないベナード侯爵より政治上の発言力は大きい。
エインズワーズ伯爵以外にもそんな伯爵や子爵もいる。それを分かっていないのかと思ってしまう。
「……他に何か言っていたか? あとで俺も確認するが聞いておきたい」
「え」
「その様子ならあるんだな。他に何を言ったんだ?」
「……お前、怒ると思うけどいい?」
「怒るような内容か。なんだ?」
話せというシルヴェスターの圧にラウレンツは長い溜め息を吐いて口を開く。
「……まぁどうせ隠してもすぐバレるだろうし言うけど……例の侯爵令嬢、お前の死んだ婚約者のことも言ってたな」
その瞬間、場の室温が低下すると同時にシルヴェスターの目に冷たい色が宿り、ラウレンツが寒さに身体を震わせる。
「……エレオノーラのこと、なんて言ってたんだ?」
「げぇ。……落ち着けよ? ほら、エレオノーラちゃん、病気になっただろう? それを我儘を言ってお前を縛り付けて身の程知らずって言ってさ」
「……身の程知らず、か」
冷たい無機質な声が静寂な空間に落ち、ラウレンツが居心地が悪そうに視線を逸らす。
わざわざアリシアが叩かれたと言わなくてもいいが、既に昨夜の騒ぎは広がっている。
遅かれ早かれシルヴェスターの耳にも伝わるのは目に見えているので、こうして報告しに来たが機嫌を損ねる幼馴染を見て茶を飲んで口を潤す。
「……不快だな。全ての言動がそうだ。公爵夫人を公衆の面前で叩くなんて非常識極まりない行動じゃないか?」
無機質な声で嘲笑の笑みを浮かべながらシルヴェスターが批判するのをラウレンツが苦笑いを浮かべる。
実際、十六歳でデビュタントしたばかり、甘やかされたといっても通用しないことを侯爵令嬢はしている。
「それで? 潰すのか? 政治の中枢にいない侯爵家一つ潰すことくらい、お前にとって造作もないだろう?」
「そうだな。だが、そんなことしている内に継戦派が動く可能性がある。だからやるつもりはない」
「ふーん。でもま、その方がいいだろうな」
シルヴェスターの言葉にラウレンツが頷く。
実際、潰そうと手を引いている間に継戦派が何か仕掛けてくる可能性は否定できない。
「それで、アリシアを叩いたのは言い返されたか?」
「色々あると思うけどな。言い返されたのもそうだし、中傷されたエレオノーラちゃんを庇ったりしたし」
「……庇った? アリシアが?」
ラウレンツの意外な発言にシルヴェスターが聞き返す。
(アリシアがエレオノーラを庇った? 二人に面識はないはずだが)
アリシアとエレオノーラの年の差は自分と同じ七歳。家同士も特に交流はなかったはずだと記憶している。
それなのに、なぜ?という疑問が胸を占める。
「庇ったというより注意が正しいかな。婚約の継続は両家が決めたことで誤解を招く言い方はしない方がいいって例の侯爵令嬢に注意したんだよ」
「アリシアが……」
亡くなった直後より幾分かは気持ちに整理がついたが、それでもシルヴェスターの中には未だエレオノーラが残っている。
そんな交流もないはずの亡き婚約者を庇ってくれたアリシアに驚きを隠せない。
(アリシアが、エレオノーラを……)
エレオノーラのことは知らないはずだが、アリシアが庇ってくれたことに小さく息を吐いて立ち上がる。
「報告ありがとう。そろそろ帰ってくれ」
「どうするんだ?」
「もちろん、相応の対処をする。──俺は、潰さないと言っただけで何もしないとは言ってない」
シルヴェスターの発言にラウレンツが苦笑する。
「そうだったな。お前は潰さないしか言ってないな」
「貿易案は終わって急ぎの仕事はないから一度屋敷へ帰る」
「ならいつまでもいたら悪いな。じゃあな」
そう言うや否やラウレンツも立ち上がって執務室から退室する。
そして今まで会話に入らなかったレナルドがシルヴェスターに近付く。
「シルヴェスター様、如何なさいますか?」
「上司のところに行って早退すると伝える。レナルド、戻ったらすぐに抗議文を書くからベナード侯爵家へ届けてくれ」
「かしこまりました」
執務机に向かい書類を片付けると、まずは上司の元へ向かうために執務室を出て歩き出す。
(侯爵家の方はロバートが対処しているだろう。アリシアの側にはサマンサかエストがいるはず。ベナード侯爵家には正式に抗議をして、次は──)
屋敷の使用人の行動を予想しながら今後のことを考えながら廊下を歩いていく。
同時に最近、見慣れるようになったプラチナブロンドの後ろ姿を思い浮かべる。
(……怪我は、大丈夫だろうか)
プラチナブロンドの少女──アリシアの姿を思い出しながら、シルヴェスターは速度を少し早めて上司の執務室へと向かった。