13.婚約者エレオノーラ
部屋に戻って少ししたら庭師のモーリスが孫のトーマスを連れてやって来て幾度も頭を下げて謝罪をしてきた。
気にしないで、と言ってもモーリスとトーマスは長い間頭を下げ続け、特にモーリスは老体に響くのではないかと心配になった。
だから使いたくなかったけど公爵夫人として命令して二人に「気にしていないからこれまで通り仕事を頑張ってほしい」と伝えた。
それと、白百合は私も好きなので他の花に替えなくていい、と命じておいた。
そしてロバートにもこのことはシルヴェスター様に黙っておくようにと命じておいた。
ロバートは複雑そうな顔をしながらも少しの沈黙の後に了承してくれたので感謝している。
それから数日。ロバートは約束を守ってくれたようで、何も変わらないいつも通りの生活を過ごしている。
モーリスとトーマスとは会えば挨拶してたまに何色の組み合わせの花を飾ってほしいとリクエストしたりして変わらず接している。
ちょっとした出来事があったものの、公爵夫人としてロバートによる公爵家の歴史の勉強にメデェイン語の文化と簡単な歴史の流れと言語について学び、勉強以外にもダンスの練習をするなど平穏な日々を送っている。
「ふぅ……」
目頭を押さえて小さく息を吐いて椅子に深く凭れる。
「お疲れでは? 昼食後はずっとリストを見ていますが」
「そうね、ちょっと疲れちゃった」
心配するエストに笑う。肩も凝っていて身体を伸ばす。
見ていたのは夜会の招待状だ。
相変わらず届く夜会とお茶会の招待状を吟味して参加する夜会を決めていたところだ。
選別条件は実家のエインズワーズ伯爵家とランドベル公爵家どちらにも繋がりがある貴族だ。そこに国王派か中立派か確認して参加する夜会を決める。
最初に参加する夜会の主催者は伯爵家で私も知る人だ。加えて、ランドベル公爵家とも少しだけ関わりがある家だ。
その伯爵が主催する夜会は少し先なのでそれまではゆっくりと過ごそうと思う。
「終わったのならお休みしては?」
「そうね。じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
「はい。そうしましょう」
エストの半ば強い意見に苦笑して頷く。さて、どう過ごそうか。
本日はロバートの公爵家の歴史の講義はない。この雰囲気だと勉強はエストがあまりいい顔しないだろうなと思う。
ここは図書室で本を読もうかと考える。
「図書室に行こうかしら。今日は図書室で本を読むわ」
「かしこまりました」
少し休憩したのち、エストを連れて長い廊下を歩いていく。……ここでの生活も馴染んできたなと思う。
回廊から見える庭園を窓から眺めながら図書室へ向かう。
そして図書室で読みたい本を探しては手に取っていると、ある本を見つけて立ち止まる。
「……これ」
膨大な本の中から指を伸ばす。
手に取ったのは曾祖母の出身であるルナン公国の文化が記された本だ。
最後に記載されている奥付を見ると私が実家で読んだ本より新しく、挿し絵も多い。
隣を見ると公国の歴史書もあり、一緒に手を取って椅子に座る。
公国の土地へ足を踏み入れたことないけれど、曾祖母の話の影響で遠い異国には感じないというのが本音だ。
行きたくても行けなかった国だからせめてこうして本などを読んでみたいと思って昔から公国の本をよく読んでいた。
「…………」
ウェステリア語で公国の文化が記された内容を読んではページを捲っていく。
内容は実家と同じ内容が記載されているけど挿絵が多い分、初めて勉強する人には分かりやすいと思う。
そしてページを捲ると、メモが挟まれていることに気付いた。
「これは……?」
二つ折りされた紙を開くとそこには公国の歴史に音楽文化、女性の服飾文化をまとめた内容が丁寧に綴られていた。
読むと分かりやすくまとめられていて、よく理解しているなと思う。
「誰が書いたものかしら」
じっ、とメモを見ながら呟く。
この図書室は公爵家の者しか利用できない。なら書いた人間は限られてくる。
新しい本、女性の服飾についてメモしていることから女性だと推測する。
女性ならこのメモの持ち主はシルヴェスター様のお母様?
それとも──。
「奥様? いかがなさいましたか?」
考えているとエストが不思議な様子で声をかけてきて顔を上げる。
「エスト。ちょっといいかしら」
「はい。どうしましたか?」
「実は、本の中にこの紙が挟まれていたの」
近付いてくるエストに二つ折りされていたメモを見せて説明すると、エストが驚いたように息を呑む。
「奥様、これは……」
「ええ、公国の勉強していたのだと思うの。お義母様のメモかと思ったけど、この本は新しいし、お義母様は外交にはあまり関わっていないわよね?」
「……はい」
エストに聞いて社交界で周知されている情報を再確認する。
シルヴェスター様のお母様は外交にはあまり関わっていない。ならば──。
「メモを見ると女性の服飾についてまとめていることから女性だと思うの。今、公爵家の女性はお義母様しかいないけど……シルヴェスター様の婚約者であるエレオノーラ様は図書室を利用できたんじゃないの?」
「……はい、おっしゃる通りです」
エストが静かに肯定する。やっぱり。
この図書室は本が多い。公爵家の歴史に周辺諸国の文化を学ぶのに活用できる本がたくさん置いてある。
「そう。ならこれは──エレオノーラ様のメモね」
エストが無言になる。それが答えだろう。
普通は公爵家の人間しか利用できない。だけど、次期公爵夫人は特別に利用ができたのだろう。
このメモを書いたのはシルヴェスター様の亡き婚約者──エレオノーラ様だ。
「……一応サマンサに聞いてみましょうか」
いつも通りの声音でそう告げて本を持って立ち上がる。
「奥様……そちらの本を借りるのですか?」
「? ええ。私の実家とは違う本で挿絵も多くて興味あるから」
淡々と答えるとエストはそうですか、と短く返事してついてくる。
「…………」
じっと本の表紙を見て撫でていく。
新しい本にしては何度もページを捲った跡が残っていて、それを眺めながら歩いたのだった。
***
「……奥様、これはエレオノーラ様の筆跡です」
「やっぱりそう」
部屋に戻ってサマンサを呼んで例のメモを見せてみると、少しの沈黙の後に答えてくれた。
「公国とは十年ほど前に同盟関係になったこともあり、旦那様と訪れる可能性があったので図書室に通って勉強していたのを覚えています。……気付かずに申し訳ございません」
「別にいいわ。一々本の中身を確認しないしね」
公爵家の図書室に保管されている本は膨大だ。その中からメモを探すなんて労力がかかるだろう。
それに本は貴重だ。特に、古い本になればなるほど傷みやすく丁寧に扱わないといかない。
そのため無闇矢鱈に一々本の中身を確認すると逆に傷んでしまう。
「エストはエレオノーラ様のこと知っているの?」
「……はい。しかし、当時はまだ侍女見習いだったため、接点はなくて遠くからご拝見したくらいですが」
「そう」
七年前ならエストはまだ十三歳、亡くなった五年前は十五歳。エレオノーラ様も嫁いでいなかったから接点は確かにあまりなかっただろう。
「トーマスがエレオノーラ様を知っていたのはエレオノーラ様がまだ幼かったトーマスを気にかけていたからだと思います」
「なるほどね」
サマンサが補足するように説明する。
まだ庭師見習いだったトーマスがエレオノーラ様のことよく知っていたのはそれが理由だろう。
エレオノーラ様のメモが挟まれていた本の表紙を眺める。
エレオノーラ・フォン・バスカル。シルヴェスター様の亡き婚約者で、シルヴェスター様が今も愛している女性。
生きていたら、シルヴェスター様と同じ年で隣にいた人。
エレオノーラ様とは七歳離れているため、会ったことがない。
だからエレオノーラ様のことは社交界で聞いたことくらいしか知らない。
名家・バスカル侯爵家の令嬢、優しい色合いの金茶髪に薄紅色の瞳を持つ美しい女性、そして──シルヴェスター様の婚約者だった人。
亡くなった後も婚約者に愛されるなんて、どんな人だったのだろうと思って婚約した当初に母にどんな人だったのかと尋ねてみたことがある。
すると母曰く、大人しくて控え目な女性で、いつも優しい微笑みを浮かべている女性だったらしい。
十歳でシルヴェスター様と婚約したものの、十八歳で病を発症し、治療の甲斐なく二十歳で亡くなった悲劇の女性。
「エレオノーラ様は勉強熱心だったのね」
「はい。外交を司るランドベル公爵家に嫁ぐ身として公爵家に来ても熱心に勉学に励んでいました」
「そうね、それはこの本から読みとれるわ」
エレオノーラ様の紙が挟まれていた本の表紙を再び撫でる。
勉強熱心だったのだと思う。新しい本にも関わらず傷んでいることから何度も読んでは学習していたのが読み取れる。
私は社交界や母から聞いた話くらいしか知らないけど、きっと、真面目で努力家な人だったのだろう。
そうじゃないと同盟国とはいえ、いつ訪れるか分からない遠い公国の文化について熱心に学ぼうとは思いにくい。
「誰のメモか分かってよかったわ。教えてくれてありがとう、サマンサ」
「いえ。その……エストから聞きましたが、そちらの本はそのまま置いておくのですか?」
「? もちろんよ、傷んでいてもまだ使えるもの。捨てるなんて勿体ないわ」
「……先日のトーマスのことは聞き存じております。……奥様は、平気なのですか?」
「平気って?」
サマンサの言葉を繰り返すが、恐らくサマンサはエレオノーラ様のことを尋ねているのだろう。
嫁いできたのに夫は亡き婚約者を今も愛し、屋敷にもその存在が残っていて気にならないのかと言いたいのだろう。
だけど、分かっていたことだ。
「それこそ分かっていたことよ。シルヴェスター様が亡き婚約者を今も愛していることは。私はそれを承知の上で結婚したもの」
これがシルヴェスター様のことが好きで結婚していたのなら、きっと私は嫉妬していただろう。
もしくは繊細な性格だったらきっと泣いていただろう。
例え大切にされていても、夫は亡き婚約者を愛しているのだから。
しかし私は繊細でもなければ、好きで結婚したわけではない。
だからか、シルヴェスター様の気持ちを知ってても、嫉妬という気持ちが起きない。
「シルヴェスター様を愛していたら嫉妬していたでしょうね。だけど私たちは政略結婚だから。嫉妬なんて起きないわ」
きっぱりと断言する。その方が心配かけないだろうから。
「愛されることはないけれど、公爵夫人として尊重して、大切にしてくれている。だから私も公爵夫人として応えるつもりよ」
二人に心配させないように暗くならないように明るく話す。
互いに尊重しながらも深くは入り込まない、そんな夫婦になりたいと私は思う。
「それに……大切な人であればあるほど簡単に忘れられるわけないわ。私にできることは理解することだけよ」
人の心はどうすることもできない。
なら私にできることは、それを理解した上で相手を尊重することだけだ。
「奥様……。……奥様はお強いですね」
「そう?」
「はい」
サマンサの言葉に苦笑する。
強いのか分からないし、これが正しいのかは分からない。
だけど、他者が忘れろと言って忘れられるならみんな、苦労しないはずだ。
大切な人ほど、忘れようとしても忘れられないのだから。
「奥様……、本当にありがとうございます」
「サマンサ?」
サマンサの突然の言葉に目を丸めてしまう。
「王命なのは分かっています。しかし、旦那様の事情を知りながらも嫁いでくれて本当に、ありがとうございます」
「サマンサ、エスト……」
サマンサがそう告げると礼をして続けてエストも深く頭を下げてくる。別に感謝されることではない。だけど──。
「こちらこそありがとう。頼りにしているから、これからもよろしくね」
私を思ってくれる二人の存在が嬉しく、そう微笑んだ。