第37話 2つ目のイト
辺りはすでに暗くなっている。
前回のこともあり、アプリストを警戒しながら外を歩く。
それにしても、この世界は平和に感じる。
魔獣もいないし。
光がたくさんある。
まあ、あちらの世界にはない怖いものもあるにはあるのだが。
ニータも、アンもいない、一人寂しい夜道を歩く。
たまには、一人の散歩もいいな。
ちょっと遠回りでもしようかな。
いやいや、ふざけている場合ではない。
最近はずっと何かを考えてばかりだから、疲れている。
そんなことを思っていると、近所の神社に着いた。
以前、転移を行った木へ向かう。
改めてゆっくり見ると、とても大きな木だ。
樹齢何百年とかいうやつくらい。
そういえば、町の名所にもなっていたんだっけか。
その大きな木に近づく。
根元を見てみる。
ちょうど人一人がかがんで入れるくらいの空間ができている。
そこには、水が溜まっている。
手を入れてみる。
十一月の水は冷たい。
そして、思ったより深い。
どこまで深いのか、腕をさらに入れて探ってみる。
ちょっと、深すぎないか?
袖を肩まで捲り上げる。
肩のあたりまで入れても、底はない。
これは、どっちなんだ。
水なのか、転移できるのか。
果たして、これに全身入れていいものか。
やるだけやってみるか。
腕を水から引き上げる。
しかし、その腕は濡れていなかった。
ん?
確かに、水に触れたような冷たさがあった。
水に触れた感覚も、濡れた感覚もあったのに。
濡れていない。
やっぱり、これは……。
意を決して、頭を突っ込んでみる。
冷たい!
びっくりしたが、そのまま顔を突っ込んでいる。
やっぱり気になるのだ。
そのまま、底を探すために腕をのばす。
けれども、やはり底は見つからない。
思い切って目を開けてみる。
確かにない。
底がない。
それどころか、水がどこまでも永遠に広がっている。
木の根もない。
視界に移るのは、ただの透明と所々の青のみ。
この光景を見たことある。
数時間前に、この世界へ転移した時のものだ。
この水に顔をつけていると、不思議と呼吸をするのを忘れてしまう。
息苦しさは全くない。
しばらく顔をつけていると、うっすらと赤いものが見えてきた。
すごく遠くにある。
赤い。
それは、少しずつ形を成してきている。
何だあれは。
目を凝らしていると、より近くに白いものも見えてきた。
それはだんだんと大きくなっている。
泡だ。
水中にある気泡。
でも、昇ってくるのは大分ゆっくりだ。
そして大きい。
その泡には、ある景色が映っていた。
人がいる。
その中に、オルダ、オリトス、アフティがいる。
ニータもいた。
こっちを見ている。
何かを話しているようだ。
僕は手を振る。
でも、反応はない。
気がついた時には、水に全身を入れていた。
足元まで水に浸かるのがわかった。
重力から解き放たれる。
体全身が冷たいものに包まれる。
周りには何もつかむものがない。
永遠の空白に体を放り出してしまった恐怖と、仲間に会える喜びと、未知の空間への好奇心という感情が複雑に絡まっていた。
体は自然と泡に向かって行く。
その向こうの赤い何かには近づけない。
でも、泡はどんどん近づいている。
ニータ……
ニータ……
ニータ!
なぜかはわからない。
ニータのことを呼んでいた。
『ラビィ!』
ニータの声が聞こえた。
『今、そっちに行くから!』
もう、泡の目の前にいる。
泡はとても大きい。
僕の身長の二倍ほどだろうか。
泡には、僕の顔と、こちらをしゃがんで見ているオルダ達が映っている。
僕のことは見えていないようだが、ニータだけは違った。
まっすぐ僕の目を見ている気がした。
泡にゆっくりと触れる。
膜がある。
ぷよぷよしている。
膜を押してみる。
張りが強くなる。
もっと、もっと強く押す。
やがて手が膜を破ったのを感じた。
それからは一瞬だった。
全身が泡の膜へと吸い寄せられ、気がついたらまぶしい光の元に寝ころんでいた。
戻ってきた。
この世界に。
異世界に。
「ただいま」
みんなが僕を見ている。
『おかえり』
「ラビィ!」
「オルダ、帰って来たぞ」
「ああ」
それからは、この三人に色々と話を聞かれた。
どこに行っていたのかとか。
どうしてそうなったのかとか。
いやいや、僕の方こそ知りたいんですよ。
「オルダさん、あなたから見て、僕はどうなっていましたか?」
「俺たちから見れば、お前は地面に吸われていったようだった。それから5時間ほど、お前を探していたんだ」
そっか、転移する前、こっちの世界では朝だったっけ。
「そんなに探してくれてたんですか?」
「ああ、だが、兵団と調査団は行ってしまったがな」
オリトスが教えてくれた。
「すみません……」
「いや、見つかってよかった。もしこのまま見つからなかったら、アイク様にとんでもなく怒られるだろうからな」
オルダが笑いながら言っている。
「ニータが教えてくれたんだよ。この水たまりからラビィの匂いがするって」
アフティはニータを抱きしめている。
「ありがとう」
「だけど、まさかほんとに水たまりから出てくるなんてねー」
「これ、自分でもよく分からないんだよね」
「ラビィのイトじゃないの?」
「いや、僕のイトは動物と話すイトだよ」
「ああ、そうだよな」
オルダも反応している。
「そういえばそうだよね」
「俺たちが出会ったきっかけもニータだったよな」
そうだ。
オリトスとアフティに会ったきっかけもニータだった。
そして、ニータと意思疎通ができているのは、僕のイトのはず。
「じゃあ、二つ目のイトとか?」
アフティが言った。
「二つ目のイト? イトが二つある人もいるの」
「いるにはいるが……」
オルダとオリトスが暗い顔をしている。
「いるにはいるが?」
オリトスが教えてくれた。
「……大抵、そいつは早死にする」
Oh……。
ショッキング。
「そもそも、動物と話せるのがラビィのイトじゃなくて、ニータのイトの可能性は?」
「動物のイトか、事例は聞いたことはないな。オルダはどうだ?」
「私も聞いたことがない。宮の狐くらいだな」
「宮の狐?」
聞いたことがないワード。
「ああ、宮の狐。聞いたことないか? 有名なおとぎ話だ」
「うん、聞いたことない」
「私もー」
「アフティも聞いたことないのか? おいおい、オルダ、どうやらこの話は古かったようだな」
「……そうか」
オルダとオリトスが苦笑いしている。
「おとぎ話だが、ドラゴンが現れた今、イトを持つ兎が現れても、不思議じゃないよな」
「じゃあ、みんなもニータと話せるの?」
「話せるよ!」
元気に返事をしたのはアフティだけだった。
『残念だけど、人間で話せるのはラビィだけだよ』
「そっか……」
「だが、ラビィは長生きするかもしれんしな」
オルダの説得力のない慰め。
がんばって、ポジティブに捉えようとした。
そうだ。
転移のイトがなければ、そもそもこの世界に来ることはできなかった。
動物と話すイトがなければ、2回目の転移でアンたちと話すことはなく、この世界に戻ってくることができなかった。
そして、アフティとオリトスと会うこともできた。
どちらか一方のイトが欠けていれば、現在の状況にはならなかった。
そうだ。
二つのイトがあることは、幸運なことかもしれない。
うん。
「みんなには話していないんだけど、僕の水に入るイトがなければ、フォルタート領に来ることもなかった。そして、動物と話すイトがなければ、アイク様と会うこともなく、アフティやオリトスと会うこともなかったんだ。どっちか一つが欠けていれば、今の状況にはならなかったんだ。二つのイトであることを悲しむんじゃなくて、そのおかげでみんなに出会えたことに感謝しなきゃね」
「うう……ラビィーー!!」
アフティが泣いている。
「まあ、そんなすぐ死ぬわけじゃないがな」
オルダが続けて言う。
「あと気になっているのは、『水に入る』ということがよく分からない。何時間もいたようだが、呼吸はどうなんだ? 水たまりなのに入れるのか?」
「うーん、よく分からないんだけど、水たまりを通じて水の世界に入るみたいな? そこだと呼吸はしなくてもいいんだよね」
「水たまりを通じて……水面であればどこでもいいのだろうか?」
オリトスも考えている。
水面か、確かに。
「水面がカギになっているのかも」
「水の世界ってのは何なんだ?」
「水の世界は、本当に水に入っているような感覚だけど、呼吸はしなくてもいい、上も下もなくて、他のも何もない」
「どうやってこっちに戻ってきたの?」
アフティも興味深々だ。
「戻ってきたのは、そう! 水の世界に泡があるんだ。とても大きな泡。その泡には、この水面の向こう側の景色が、みんなの顔が映っていた。それに触れたら、こちら側に戻ってこれたんだ」
オルダは手を顎に添え、考えている。
「つまり、地上の世界から水の世界に入る際のカギが水面、水の世界から地上の世界に戻る際のカギが泡ってことか」
オリトスが続けて言う。
「ならば、地上にも複数の水面があるように、水の世界にも複数の泡があるのでは?」
「わからない。僕はまだ、泡は一回しか見たことがないんだ。それに、水面といっても水の世界に入れる時と入れないときがあるんだ」
「ふーむ」
「その水の世界には、私たちみたいにラビィ以外でも入れるの?」
「まだ試したことはないよ」
「え?! 私、行ってみたい!」
「待て、アフティ、ラビィ以外の生き物が入って安全かどうかがわからないだ」
「えー」
「まずは、水の世界についてもっと知らねばな」
オルダは何かをふと思いついた様子で、興味深い話をした。
「今、私たちには二つの選択肢がある。一つは、カタルの後を追う。五時間なら、今日か明日には追い付くだろう。二つ目は、ラビィのイトの研究だ。仮に、水の世界への移動と水の世界からの移動が自由となり、その移動がラビィだけでなく他の生き物も可能だとしたら……。ここから、フォルタート領まで行くことも容易いかもしれん」
なるほど。
異世界同士の転移ではなく、同一世界の地理的な移動に用いるのか。
確かにそれが可能だったら。
「みんなはどう思う」
「俺は、カタルの後を追うべきだと思う。先ほどもそうだが、もしラビィが水の世界からこの世界に戻るのに戸惑った場合、さらにフォルタート領へと戻る時間が遅れてしまう。それはお前たちも望んでいないだろう。不確実性に賭けるより、まずは今回の任務を遂行し、後ほどゆっくり研究をするのがいいんじゃあないかな」
「私は……私もそう思う」
「そうか。ラビィは?」
「僕も、そうするよ」
「それでは、カタルを追うか」
僕たちは荷物をまとめ、改めて出発しようとする。
「確か、オルダが受け取った紙を、クリュスの入り口近くの馬宿に渡せばいいんだよな」
オリトスが言った。
そういえば、クリュスに着いた時にそんなことがあったな。
「それじゃあ、行きますかぁ!」
「待たれよ!!!」
アフティが出発をとったのとほぼ同時に、僕たちの背後から声が聞こえた。
威厳のある大きな声であり、最近聞いたことのある声だった。
クシリカ国王の声だ。




