第3話 兎と惚れ薬
ルアネイ・ビーラトル
それが、僕を看病してくれた女性の名前だった。
外見はヨーロッパと日本人のハーフって感じ。
実際はどうなのか直接聞いていない。
名前だけは聞けたけど、彼女はすごく話すから、あまり質問できなかった。
髪は茶髪と金髪の間みたいな感じで、肩下ほど、柔らかいウェーブがかかっていて年上系女性特有のやわらかさを感じさせる。
身長は僕よりも高いが、そもそも僕自体は身長が低い方だから何とも言えない。
だが、その身長差、そして大きな胸もあって、彼女に対して安心感というか包容力はとても感じる。
ただ、彼女の距離感からして警戒が完全に解けたわけではない。
スープを食べさせてもらってから、(自分で食べるよりも三倍ほど時間が掛ったが)、彼女の家の中を案内してもらった。
彼女はまるで「これから一緒に住むから覚えてね」とでも言うように、どこに何があるかを詳しく説明してくれた。
家の中はとても広いということはなく、あちこちに本棚やら小瓶がいっぱい置いてある棚やら物がたくさんあり、少々狭く感じた。
僕が寝かせられていた部屋は二階に、彼女の部屋、リビングのような場所やキッチンやお風呂などは一階にあった。
家はどこもいい匂いがした。
理由は見渡せばわかる。
ドライフラワーなどがよく壁に干されている。
いかにも海外って感じ。
やはり壁は全体的にレンガ造りで、照明はろうそくやランタンなど電気ではなく火だった。
そういう趣味なのだろうか。
それとも、彼女の故郷を家の中だけでも再現しようとしているのだろうか。
家の中をしっかり見渡した後に、動けそうなら少し外を散歩しようと彼女から提案があった。
さっき目が覚めるまで、長い間寝ていたように思う。
多少体を動かした方がいいだろう。
ドアノブに手をかける。
彼女は僕の両肩に手を添える。
そしてゆっくりと扉を開けた。
その先の光景は、見慣れたものではなかった。
絶対に日本ではないということは、目の前の光景だけでなく、空気のにおいからもそう感じた。
僕はその時、動くことができなかった。
鼓動だけが早くなるのを感じる。
頭の中で情報を処理することができなかった。
その光景は、レンガ造りの三階建ての住宅らしき建物が目の前の石畳の道を挟んでこちら側とあちら側に連なっている。
建物の上には煙突がどれにもついており、黒い煙を出しているものも、そうでないものもある。
周囲は暗く、オレンジ色のガス灯と住宅から漏れるの光があたりを照らす。
映画で見るような十九世紀のイギリスとか、そんな感じ。
どうやら、夜みたいだ。
外に出た瞬間に動きを止めた僕に、彼女は心配しているようだった。
「ねえ、大丈夫? どうしたの?」
「え、ええ……」
一体何から考えていけばいいのか。
まずは彼女が僕を見つけたことについて、詳しく聞いてみよう。
そうだ。こうなった以上、憶測で考えるのではなく、ある程度の事実を知らなければならない。
「ルアネイさん、僕を見つけた時はどのような状態でしたか?」
「ええっと、そこで倒れていたわ」
そう言って彼女は目の前にある、左から右に流れるでこぼこした石畳の道のやや左側、ここから五メートルほどを指す。
「どうやら、フォルタート邸のところへ向かっていた貴族の乗っていた馬車にぶつかってしまったようね。家にいたら外から大きな音が聞こえて、見てみたら、あなたと兎が倒れていたの」
「そうですか……」
「外に出た時、すでに馬車は遠くに行ってしまって、私があなたと兎を家に連れてったのよ」
そう言われて、辺りを見回す。
そうなのか。
ここ、日本じゃないのか。
あからさまに落ち込んでいる僕を見て、彼女は優しく聞いてきた。
「やっぱり、いま散歩するのはやめようか?」
「そうですね……」
彼女はうなずき、二人で家の中へと戻った。
一階のリビングへと連れられ、二人でソファに座る。
相変わらずルアネイの距離は近いが、そんなことを気にしている場合ではない。
疑問が尽きない。
まずここはどこか、という問いを片付けるべきだろう。
「ここは、どこですか?」
「イートアの街の北東よ。そういえばあなたはこの街の出身じゃないの? てっきり家出か迷子とかかと思ったのだけど」
イートア、聞いたことがない。少なくとも、日本じゃないのだろうか。
「日本、ではないですよね。イギリスとかですか?」
とりあえず海外だとしても、なぜ日本語が通じるのか、ということに関しては、今は詮索しない。
「ん?……ニホン? エ……イギリス? ……聞いたことないわ。街の名前? それとも領主?」
どう答えよう。国とか言うのはよくないだろう。
不審者だとおもわれるかもしれない。
「街です。二つとも。ここについて、もう少し詳しく聞いてもいいですか?」
「このイートアの街は、フォルタート家という貴族を領主に持つフォルタート領にあって、さらにこのフォルタート領はアルケジア王国にあるの。ほかの領地のことは詳しくは知らないけど、少なくともその二つの街の名前は聞いたことないわね」
「そうなんですね」
ここまで来たら、なんとなくわかってきた。
これまで考えないように、あえて避けてきた答え。
ルアネイは日本も、イギリスすらも知らない。
十八、十九世紀のヨーロッパで時代が止まっているような街並み。
聞いたこともない国名は封建制度。
駅での出来事から一瞬でこの街の道に僕が現れた。
これは、異世界転移ってやつなのだろう。
まだ確証には至っていないが、十中八九そうなのだろう。
魔法とか魔物とかいたら一発でそう判断できるのだが。
封建制度が残っているような世界だとすれば、自分のことはこう話せばいいだろう。
「僕、人さらいにあってしまったんです。そして気が付いたらここに……」
「そうだったの?かわいそうに……」
彼女は僕を優しく抱きしめてくれた。
「あなた、名前は?」
名前、実際の名前は鳴宮旭。
どうしよう。
仮名にするか?
いや、この世界になじむためには現地調達かな。
「名前は、アサヒです。でも……僕は、あなたに名前をつけてもらいたいです」
ここでちょっと上目遣い。
すると彼女は頬を赤らめて、目をキラキラとさせた。
「え、いいの?! どうしよう……ちょっと考えさせて!」
さて、これからどうしよう。
元の世界に戻ることが優先事項か。
それでも、こういう系は元の世界に戻るのはかなり難しいだろう。
一人でゆっくり考えたい。
「じゃあ、その間お風呂を貸してもらってもいいですか?」
「いいわよ。お散歩から帰ったら一緒に入ろうと思って沸かしていたけど。どちらにせよ、わたしは行かなきゃいけないところがあるの。散歩ついでに行こうと思ってたんだけど……一人でも大丈夫?」
「大丈夫です」
この人、今すごいことをさらっと言っていたよな。
彼女は家を出て、僕は脱衣所らしい場所で服を脱ぐ。
僕がそれまで着させられていた服は、見たことがないようなものだった。
脱ぐのにちょっと手間取ったし、お風呂から上がった後に自分で着れるか自信がない。
そしてお風呂場に入る。
石でできた浴槽は小さかった。
そこは、様々な植物が浮いているお湯で満たされていた。
お風呂に入れるのはうれしい。
ふと、横に鏡があった。
ここが異世界ということについて確証に至らないと言ったが、この鏡をのぞくことで、ここが異世界ではないかという事をさらにそう思わせる。
鏡に映りこむ自分は、知っている自分と少しだけ異なっていた。
身長は五センチほど小さく、肩まで伸びたさらさらした髪に青い毛がたまに混じっている。
他にも何か違う気がするが、若干違うという感じで具体的には指摘できない。
確かにこれなら、女の人と間違えられるような姿だった。
逆に言えば、ルアネイには男と知られていないということであり、少なくとも服をすべて脱がされていないということだ。
一応服は着替えさせられていたけれど。
そして、左の太もも上部、やや左側に違和感がある。
青色の小さな円がある。
ほんとに小さくて、よく見なければわからないほどのもの。
でも、痛いとかじゃない。
触ってもよく分からない。
経過観察かな。
気にはなるけれども、さっきから他にも気になることばかり。
もうお風呂に入ることにした。
お風呂は数日ぶりに感じたが、とても気持ち良かった。
確かに浴槽自体は狭かったが、湯船には花やらハーブやらが浮いていてその香りがとても心地よかった。
明かりとしてろうそくも灯っており、温かみのある空間を演出していた。
仮にここが異世界だとして、異世界でなぜ日本語が通じるのか考えていたが、気づいた時には寝てしまっていた。
そして目を覚ましたら、彼女は浴室内に立っていた。
彼女はちゃんと服を着ていた。
その点については安心した。
湯船に浮かぶ花やハーブがあったからなんとか僕の首から下は見られていないことを祈りたい……。
「あ……お、おかえりなさい」
ルアネイはなんだかすごくニヤニヤしている。
「すぐ上がるので、部屋で待っててください」
「わかったわ」
ふぅ。何とか行ってくれた。
湯船から上がると、脱衣所に恐らく僕のために畳んでくれた服が置いてある。
相変わらず女の人用の服であり、先ほどまで来ていたものとは別の服だった。
その服を何とか着て、ルアネイが待つ部屋へと向かう。
一体どれほど寝ていたのだろうか。
彼女はすでにソファに座っており、「隣にお座り」とでも言わんばかりに自分の横をポンポンと叩いている。
僕はそこへと向かい、座る。
すると彼女は僕をぎゅーっと抱きしめる。
顔が彼女の大きな柔らかい胸にあたっている。
あー、なんか、もうずっとここにいてもいいかなー。
なんて思ってしまう。
どうして彼女はこんなに僕のことを好いてくれるのだろうか。
そんなことを考えていると、彼女は僕の顔をその大きな胸から離し、こんなことを言ってきた。
「あなたの名前、決めたわ!」
あ、そういえばそうだった。だからあんなにニヤニヤしていたのかな。
「ほんとですか?」
「ええ、あなたの名前は今日からラテニアよ! ラテニア・ビーラトルと名乗りなさい!」
「ラテニア……ありがとうございます! 気に入りました」
ラテニアがこの世界の言葉で何の意味を表すのかもわからない、女性の名前かもしれないが、彼女がこんなにうれしそうに名付けしてくれたのだから。僕は受け入れることにした。
ん?
ビーラトル?
どこかで聞いたことあるような……
「それと、敬語禁止ね。わたしのことはルアって呼んで。わたしはあなたのことラビィって呼ぶからね」
「はい。あ、いや、う、うん」
こんなやり取りをすると、もう一度彼女はぎゅーっと抱きしめてくれた。
少し頭がぽわぽわしてくる。
なんか、言葉で表せない感情だった。
安心感というか、どきどきというか、なんか、なんだろう。
僕が知っている言葉で一番近い言葉は「好き」だった。
正直、「好き」という言葉でもこの感情を表すには違うと感じるが、これしか言葉が見つからない。
「……すき」
気が付いたら僕はそんな言葉をはなってしまっていた。
すると彼女はさらにニヤニヤして、
「私も好きよ、私のラビィ……」
といってさらにぎゅっとしてくる。
さらにやわらかい胸が押し付けられる。
ラビィ……ラビット?
兎……拾った兎と何か関係があるのか?
偶然かな?
そういえば、あの兎見ていないけど、ほんとにこの家にいるのかな?
ぽわぽわした頭であたりを見回すと、ちょうどソファと向かい合っている棚の上に兎の置物が置いてあった。
『置物じゃないよ』
「え? 今何か言いました?」
「何も言ってないよ」
ん?
気のせい、かな。
『気のせいじゃないよ』
「やっぱり何か言ってないですか?」
「どおしたの?もしかして、お眠なんですか~?」
「……んん~……」
変な声が出た。
どんどん頭がぽわぽわしてくる。
僕はルアをさらにぎゅっと抱きしめる。
明らかに声が聞こえると思うのだが。
このパターンは、僕だけに何者かの声が聞こえてる感じだ。
きっと次は『私を助けに来て……』なんて聞こえてきそうだ。
『目の前にいるよ』
ん?
目の前……もしかして兎の置物が語り掛けてきているのか?
『そう、だけどそうじゃない。ボクは兎だ、君と一緒に倒れていた』
『なるほど? で、僕だけ君と心を読みあっているということ?』
『そんな感じ、でも心が読めるとかとはちょっと違う。話そうという意思、つまり心を開いている時だけ、会話できるみたいだね。読心よりは、会話の一種と考えた方がいいかも。さっきまで君の声は聞こえなかったし』
『へー……どうして会話できるの?』
『さあ、ボクもそれは聞きたいところなのだ』
はてさて、どうしたものか。
これは現実なのか、頭がぽわぽわしているせいなのか。
『確かに頭がぽかぽかしているせいってのはあっていると思うよ。そのせいで君の心はゆるくなっているみたいだからね。読心の能力がある人も惚れ薬を使うと心が読みやすいって話していたのを聞いたことがあるんだ』
『惚れ薬?』
『うん。そのせいで君、頭ぽわぽわしてるんじゃないの? それよりボク、お腹減ったんだけど』
「ルア? 惚れ薬盛ったの?」
「え、あはは、バレちゃった?」
まじか。