第1話 水面の向こう側
その玉は、青く透明で、夜空のように輝いていた。
大きさは親指の爪くらい。
机に置いてあるその球を、人差し指の腹で、なでるように転がす。
ガラスのような硬さだが、ほんのり温かいような、不思議な触り心地。
僕が触っているものは、学校に来る途中に偶然拾ったものだ。
マジシャンが使う水晶玉のような、けれどもちょっと違う。
もっと小さいし、様々な色がその透明さの中に見られる。
丸く加工された宝石?
いや、それにしては大きすぎるだろう……。
僕は大学二年生になり、ある程度余裕のある生活ができるようになった。
それは経済的とかの意味ではなく、精神的な意味で。
すると周りの景色を眺めたり、日常のちょっとした変化に気が付いたりするようになった。
というより、敢えて日常の変化を意識するようになった。
人間は年を取るほど時間が早く過ぎるように感じるとされているが、どうやらそれには要因があり、そのうちのいくつかは検討がついているらしい。
時間を早く感じないようにするためには、代謝を高くしたり、多様な刺激を感じたりすればいいらしい。
思い返してみれば、現在と比べて昔、子供のころは目に映るものすべてが新鮮であったと思う。
成長するにつれ、自分にとって必要な情報と不必要な情報を無意識に近い形で取捨選択するようにでもなったのか、いつしか周りの景色への興味はだんだんと薄れていった。
高校生の頃はまだ子供でいられたのかもしれないが、大学生になって、本格的に大人にならなければならない時期が近づいてきて、それが億劫に感じるのだ。
だから、なるべく学生として長く居られるように、こうして時間に対するちょっとした抵抗をしている。
講義室の一番右の、後ろから二列目の席に座っている。
すると、隣に誰かが座ってきた。友達の和真だろうと思い、左を向いてみる。
やっぱり、和真だった。
「あ、きれい。何それ」
質問しながらさりげなくその玉を奪おうとしてきたので、素早く自分の方に引いてズボンの左ポケットにしまい、そっけなく答えた。
「来る途中に拾った」
「へー、……そういえば、憲法の課題やった?」
「あー、薬事法違憲判決のやつね」
なんて、いつもかわり映えのない会話をしている。
そんな日常でも、意外と楽しいと感じているのかも。
僕は自分で成績は良い方だと思っている。別に勉強が好きというわけでなく、その方が色々と都合がよい場面があるから。
ゼミの選考とか、……就活とか。
先生の話はまじめに聞いて、自分でノートを作って、参考書を自分で買って調べて。
できれば一番に、それでも自分以上の人がいたら参考にはするが張り合うほどの事もない。
常に人並み以上は目指していた自分。
それは決して無理もない程度に目指していたのに。
今日の授業が終わった。
授業中も転がしていた玉をポケットにしまい、教材をしまい、教室を出る。
「ゼミの希望決めた?」
和真が聞いてくる。
僕たちの大学は一年次の時は専門科目が少なく、学部関係なく様々な授業を受けられる。
二年から専門科目が増え、後期には三年次から始まるゼミを選択する。
僕たちは法律系を専攻している。
「まだだよ~、刑訴法、憲法、国際法で今迷ってる。」
「定員越えで選考なるの嫌だから刑訴法来るなよ?」
和真が冗談交じりに笑いながら言ってきた。
「よし、刑訴法にする! なんてね」
和真と学食を食べる。
昼休みを終えると、国際法の授業を受ける。
どんなことを学んでいるのかと聞かれると、国同士の決まり事についてとか抽象的な答えになってしまう。
そんなとき僕は、国で人が悪いことをするとその国の法律に基づいて裁判所で裁かれるが、その悪いことをしたのが国の場合はどのようなことが悪いことに当たるのか、どう責任が生じうるのかを考えるのが国際法である、と。
国際法の先生は面白い話をたくさんするから、この人のゼミも考えている。
その次は、刑事訴訟法の授業だ。
これは、刑法に基づいて被告人に対してどのような手続きで裁判を行うのかなどを学ぶ。
この先生は学生に向けてアップしたレジュメの内容をそのまま授業で話すような真面目な人だが、テスト前にはほとんど何が出るのか教えてくれるような優しい人だ。
授業が終わると、今日はサークルがないため、和真と別れ自宅に帰る。
「じゃあまた明日ね~」
寮暮らしの和真には別れを告げる。一方で実家通いの僕は駅まで自転車だ。
「あ~い」
なぜか毎日違う返事を返してくれる和真。もしかしたら謎のこだわりでもあるのかもしれない。
大学から駅まで自転車で向かう。
まだ時計は午後の三時四十分を指しているが、日はだいぶ沈んでいる。
その違和感からは、冬が近づいているのを感じる。
教室では赤く薄いセーターで十分だったが、外に出るなら黒いコートが必要となる寒さだった。
コートを羽織り、自転車にまたがる。
帰りは長い下り坂。
行きは大変だが、帰りに風を感じながら下っていくこの時間は、学校からの解放感もあり心地いい。
別に近くに海が見えるような場所でも、都会のように高い建物があるわけでもない。
それゆえに寄り道することは考えずに、まっすぐ駅に向かう。
駅に着くと、地下にある駐輪場に自転車を止めて、自宅へと向かう六番線ホームを目指して歩く。
地下から一階にあがり、改札のある二階へと続く階段に向かう途中、ふと行きかう人々の中、見慣れない通路が気になった。
あれ、この通路は、どこに向かう通路なのだろう?
身近な景色こそ、よく見ていないものだなと思った。
見当もつかない通路。
それはホームに向かってはいるが、ホームには二階にある改札からしか入れないはずなのだ。
行きかう人々は誰一人としてその通路に入ることはなく、横を通り過ぎるだけだ。
駅員さんが使う通路とかかな?
そう思い、さりげなく通路をのぞき込んでみる。
視線の先にある通路は、二十メートルほど先に突き当たり壁があり、右に曲がっている。
唯一あるものは、その突き当りの壁の天井からぶら下がっている左側を指した避難誘導の標識だけ。
壁と天井、床を見てもその他には何もない。
別に関係者以外立ち入り禁止とかの通路には見えない。
腕時計を見ると、電車が発車するまで二十分はあった。
一応周りを見渡して駅員さんがいないか確認し(万が一、関係者以外立ち入り禁止とかで怒られたら嫌だから)、その通路を進んでみる。
これまで歩いていた通路よりも、ほんの少しだけ照明が暗く感じた。
十メートルほど進んだ時点で、元居た場所の音がほとんど聞こえなくなり、自分の足音だけが響いていた。
コツ、コツ、コツ。
ただのスニーカーのはずなのに、その足音が異様に大きく、誇張されているかのように聞こえる。
あまり使われていないのか、通路は綺麗で汚れていない。
この駅は全体的に灰色で落ち着いた色合いの構内。
この通路は一段と黒みの強い灰色に感じた。
とうとう通路の突き当たりに着く。
やっと異変に気が付く。
通路はここで右に曲がっている。
しかし、上に吊るされている避難誘導の標識は左側の壁を指している。
どうしてさっきの地点でおかしいと思わなかったのか。
自分が不思議でたまらなくなった。
さっきから、何か感覚がおかしい。
これまで一年半の間ずっと通っていた駅構内にある知らない通路。
壁を指している避難誘導の標識。
その異変に対して一切警戒していなかった自分。
そして、僕の視界はだんだんと暗くなっている。
それは照明や壁の色のせいだけではなかった。明らかに先ほどより視界が暗い。
それでも、僕は引き返そうとしていなかった。
避難誘導の標識がさしている左側の壁をよく見てみる。
ただの壁、触れても何も起こらない。
改めて、避難誘導の標識を確認しようと上を見てみた。
そこには、標識はなく、紙垂の付いたしめ縄がぶら下がっていた。
その時にやっと自分の中の危険信号が働いた。
ここ、来ちゃだめなとこだ。
そう思った瞬間、通路の右側の、奥の方から人の声が聞こえた。
何を言っているのかは聞き取れなかったが、外国語ではないことはわかった。
日本語で、何か言っている。
視界はさらに、暗くなる。
こういう場合、早い段階で現実との接点を持つことが大切だと瞬時に考えた。
現実と、頭の中の世界との区別ができなくならないよう、現実とのつながりを保たなければならないと思った。
その声の持ち主は現実の人間であり、近くに行かなければならないと思った。
そして、振り向き、右側を見た。
しかし、そこに人はおらず、さらに暗く、どこまでも続いていそうな道があるだけだった。
いや、正確には、道だけではない。
道は水で浸っていた。
水面が広がっていた。
洪水とか、水道管の損傷とかによるものではないだろう。
とても浅いが、水たまりよりも浅いが、その奥までずっと水があった。
まるで鏡のような、一切揺らぎのない水面だ。
自分の早くなる鼓動だけが脳内に響く。
視界はさらに、暗くなる。
足元を見ると、右足はすでにその水に触れていた。
思わず右足を引いて一歩下がろうとした時、
ドン!
後ろから、肩を押された。
バランスを崩した僕は、そのまま正面から水に向かって倒れこむ。
覚えていたのは、その押された感触は人のものだったということ。
水面に倒れこんだ瞬間に、さらに水の奥の方に引きこまれた感覚があったということ。
その水の向こうは、夜空が広がっていたということ。
夜空に向かって落ちていく。
暗闇と恐怖が全身を包んでいた。
通路の水は、実は奈落の底だったのか。
あの広大な夜空に向かって、僕は永遠に落ち続けてしまうのか。
落ちる僕を遮るものは何もない。
一方で、上は地面だった。
天地の逆転。
その地面は、二度と手に入らない、儚い希望に感じた。
しかし、次の瞬間には、上下の感覚はさらに逆さまになった。
つまり、下が地面、上が夜空。
そして僕は、水たまりに横たわっていた。