ソルの失った幸福
コクリコを騙して妊娠させた、自称アリコ・ヴェール子爵、本名ソルは、鍛冶屋の息子である。いや、息子であった。
もうとっくに実家はおん出たが、小さい頃は、大きな厚い手の親父に、ぎゅ、ぎゅうむ、と頭を撫でられるのが大好きで。
母は無口な、色白の。
夢を見る。
羽根も美しい、碧い色の小鳥が、パタパタタタタ と軽やかに飛び去る。
ただそれだけなのに、妙に切なくて、小鳥を押し留めたくて、でも、声は出なくて。
ハッ と起きれば、はあ、はあ、と息が荒かった。寝汗。
刑罰が確定するまで収監されている、狭い石造りの檻の中、留置所でなら良い夢も見るわけない。
ベッドは粗末な木の板作り、もう何人も寝たような、藁に布。
ふーう、とため息を吐く。
ここのところ夢見が悪い。小鳥が空に飛び立つ夢ばかり。
ソルは落とし屋をした事は後悔していない。
貴族の娘は、皆、良い匂いで、そこそこ可愛くて、良い育ちらしかったが一旦性交を交わすとハマる者もいたし、相手もソルも、大いに楽しんできたと思う。お互い様だし、やわらかな女の子とするのは大好きだ。
現実に落とす瞬間の、歪んだ顔は見ものだが、それはあまりソルも好きじゃない瞬間だ。仕事だから、やるけど。
でもまあしかし、女なんてものは、やればやるほど肉欲にハマるもの。花街へ行けば存分にヤレるんだから、幸運ってもんだろ、と悪びれもしない。
後の事は、仲間に任せて。
その仲間から、あんまり連絡が来ないのは、何故なんだ。こういう時、手を回してするりと檻から抜けさせてくれる。今まではそうだった。
だから安心して末端貴族の娘など、狙っていられたのだ。
檻の中は、早朝のひんやりした空気が詰まっている。はふ、と肺に入れると、寒々しいようだ。これから、もっと寒くなるのに。
コクリコという娘は、最後まで抵抗していたっけな。
ソルはあまり嗜虐趣味はないので、嫌がる娘を強引に抱き伏せるのは好きじゃなかった。彼女はちょっと賢かったらしくて。たらし込んだ側使いの女とーーソルは名前さえ覚えていないーー騙して落としたのだが、いつだって身体を固くして。
ああ、夢の小鳥は、あの娘の目の色そっくりだな。
なんて思って。
水が飲みたいな。
留置所では、望んだ時に水が飲める、なんて自由はない。汗をかく季節でもないから、基本3食につく飲み物が、割と多めなだけだ。
メシまで待たなきゃなのか•••。はあ、とため息を吐く。
何で連絡がこねぇんだよ。くそッ!
ソルは優男だった。
近所の女という女に、優しくされて育った。父親は硬派だったから、何も言わずに、最初近所のノリノリだったメスガキをたらし込んでヤっちゃったソルをぶっ飛ばして、そいつと結婚させようとした。
相手の親も乗り気だったが、本人が嫌がったし、ソルも嫌だった。
だってもっと色々な女とヤリたいじゃん!
叫んだソルは、ボッコボコにされた。
母譲りの、整った顔だったソルは、それにいたく腹が立ち、こんな家にいられるか!と飛び出て。
引っ掛けた女の家を転々としているうちに、街の悪いのにとっ捕まり、結局は天職ともいえる落とし屋に落ち着いたのだった。
親父の手を、何故かここのところ思い出す。厚くて、ギュッとした。
『お父さんのこの手が、私たちを養ってくれてるのよねえ。ありがたいわ。』
母は厳つい父にベタ惚れで。
父は恥ずかしそうに、けれど誇らしそうに、ソルを抱き上げて。
『誰のお陰でメシが食えてると思ってんだ!』
怒鳴り声。
『アンタのお陰って言いたいんだろ!恩着せがましいんだよ!!俺はもう大人だ!好きにするぜ!!』
『違う!周りの人の•••!』
『あーうるさいうるさいうるさい!じゃあな親父!アンタはそこで、たった1人のしけた女でも抱いて、トンカンやってれば!?俺は好きにやるぜ!』
ひゃーっはー!
この世界は俺の自由だ!
くらいの気でいた時もあった。
留置所のトイレは檻の中。なかなか片付けてももらえないから、臭い。
檻の角の、隠されもしないそこに行って、仕方なくソルは朝の放尿をした。手も洗えない。浄化が使えて良かった、と思う。
〜♪
外からは、調子の良い吟遊詩人の歌が聞こえてくる。
黒髪の娘よ
君は産まれた
花も実もある世の中に
優しく厳しいこの世界に
父の名も知らず
幼く微笑む
父ともなろう
娘の母はこの瞬間
並いる野郎どもの心を掴み
健気に娘を産み落とす
父ともなろう!
なあ 男どもよ!
可愛いあの子の 父ともなろうよ
心やすくあれ
父ちゃん達が
お前を守ってやろうもの〜♪
優しく清く美しく 育てよ
黒髪のあのこ 碧い瞳の
かわい かわいい 愛し子よ♪
「ヘタっくそめ。何なんだ。あの歌ーーー。」
悲しげな、拒む揺れる碧い瞳に黒い巻き毛ーー。コクリコ。
はぁ、とため息。
「ヤリてぇなー。」
柔らかくて良い匂いの、女の子と柔らかいベッド。そこに戻りたい。
キィ、と留置所の廊下に続く扉が開いて。見慣れない男が入ってきた。
何か偉そうな男だ。茶髪に垂れ目、キリとした闘う顔。剣を佩き、シンプルだが上質なシャツ、軽装なのに威厳がある。
後ろに、留置所の番してる兵。それから侍従ってやつが、やたらと豪華なメシの盆を持って。お、お、それ、もしかして、くれるの?俺に?
「自称アリコ・ヴェール子爵、本名ソル。お沙汰が決まったぞ。ギフトの竜樹が温情をくれたいっていうから、このマルサが来てやった。止めないと竜樹、本気でここまで来そうだったからな、全くもう。」
ぶつぶつ、と呟くマルサーーマルサって王弟じゃなかったっけ?まあ良いや、俺には関係ない。
「お前は労働刑30年だ。魔法誓約で、女性との接触は生涯制限をする。喜べ、ソル。もう女は抱けないが、これまでに放置した子がいればその子もいるだろうし、そして今回、子供が産まれたぞ。」
「え。まさか。堕胎しなかったのかよ、コクリコ。」
嘘だ、嘘だ、嘘だろ!
労働刑30年がぐるぐる、女とヤレない、子供?
ぐるぐるぐる。
混乱しているソルに、侍従が豪華な朝メシの盆を、檻の隙間から差し入れて寄越した。
「出産祝いの膳だ。会う事はないが、お前の子なんだから、メシでも食っとけ。」
「産まれたのか、産まれたのかよ!!」
がちゃんがちゃんと檻を掴んで揺らす。
親父の厚い手。
「女の子だぜ。かわいいよ。」
マルサ王弟が、冷たい目で言い放つ。
「あいつ、コクリコ、本当に俺の子を産みやがったのかよ•••。あっ!そうだ、そうだよ!子供には父親がいなくちゃだろ!産まれたんなら、俺が必要だろ!!」
ガチャ!と檻を揺らして必死に。
ハッ!とマルサは笑う。
「お前なんかいるもんかよ!落とし屋の父親なんか。コクリコ嬢は、今、大人気だぜ、純情な、真っ当な男どもにな。彼女は、テレビの番組で、出産ドキュメンタリーやったんだ。赤ちゃんを産むところを、皆が見守った。もうあの子は、皆の赤ちゃんなんだよ。もはやお前の子じゃねえな。助けたい連中が、連絡をこれでもかとくれてんだ。今日は俺も忙しいぜ。」
なんだと。
「コクリコ、あれ、あれは俺の女だ!!俺の子だ!!」
焦る。小鳥が飛び立つ。
飛び立つ音がする。
パタパタタタタ。
あれは幸運の小鳥だ。
ソルの幸運。
王弟マルサは冷たい目のまま。
「お前の女に収まるような、チンケな女じゃねえよ。コクリコ嬢はよ。諦めろ。お前がどんなにコクリコ嬢の夫に収まりたかろうが、周りが黙って見てるもんか。お前、袋叩きにあっちまうぜ。彼女も、お前には何も言うことがないってさ。罪を償って下さい、二度と会いません、関わって来ないでって。コクリコ嬢とその娘ちゃんに近寄らないような、魔法誓約もかけるからな。」
「何で•••!!」
俺の!
「うるせえ。」
お前のじゃ、ねーんだってばよ。
小鳥は行ってしまう。
ソルの鼻先を掠めて、掴むこともできない。
この喪失感。ごっそりと失われる、ソルなりの青春時代の華やかさと自由と何もかものいいものと。
親父の厚い手。
「それでこれが温情なんだけど。」
ピラッと手のひらに収まるくらいの紙。
紙が何だ。
「これ、産まれたばっかりの、娘ちゃんの写真だよ。お前が要るって言うならくれてやれ、って竜樹がよ。それからなあ。」
写真!•••写真!!
ガチャガチャと手を伸ばして取ろうとするソルに、かろうじて届くよう、指先で、ピラッ、と紙を。
バッと取って両手の中で。
あ、あ。黒髪。碧い目。ちっせえ。
ほわ、とした気持ちが生まれる。
しゃらくせえ。むかむかする。
だけど。
あんなに女を抱いたのに、今まで1人だってソルの子供を産んでくれた女は、いやしなかったんだ。
『お父さんのこの手が、私たちを養ってくれてるのよねえ。ありがたいわ。』
親父の誇らしげなーーー。
「労働刑って金もらえんの!?その金、赤ん坊にやりてえ!」
んん!?
マルサが、ぐっと黙って。
「分かった。働いた分の金は、あー、まあ、お前の被害者は名乗り出てこねえから、やる奴もいねーんだ。娘ちゃんとコクリコ嬢に渡してやるよ。それでなあ、こっちから言おうとしてたんだけど、真面目に働いて赤ちゃんに金を払えば、労働刑は25年くらいには短縮するかもな。まあ、真面目にやればな。ーー今お前、25歳だっけな。刑が終われば50歳だな。頑張れば、そっからまともに働いて恋愛もして、女は抱けねえが家庭も持てるかもしんねえし、ってことでな。コクリコ嬢には近づけねーが、まあ頑張れ。お前の親父さんみてぇに、1人の女を大事にしてりゃ、これからも女を抱けたんだよ。全くバカだよな。」
ギクリとする、実家の事も調べがついている。
ああ。
ああ。
俺はバカだ。
何もかもを無くしてしまった。
幸運の小鳥は飛び去った。
親父の厚い手だけが残った。
「ーーー実家の親父に、手紙を出させてくれねえか。」
震える。震える唇。涙が出そうだ。
むーふー。マルサが腕を組んでムーッとした顔をしたが。
「要求が多いやつだな。まあ良いや、素直に金も払うし働くしだからな。代筆屋いるか?」
「いる。」
「味わって食えよ。ああそれと、娘ちゃんの名前は、カンパニュールゥだ。ルゥちゃんだってよ。」
マルサは言い捨てると、サッサと戻っていった。
ソルは、がくんと崩れた膝をそのままに、しばらくずっと、手の中の赤ちゃん、ルゥちゃんのあどけない顔の写真を、眺めていた。
留置所のドアの外では。
紅茶色の髪、侍従のセイン、妻あり2人の娘持ち、が、憤慨してドスドス歩きながら。
「僭越ながら王弟殿下!罰が軽すぎやしませんか!娘を汚した男など、死刑でいいですよ、惨たらしく死刑で!」
ムン、プン!である。
ハッハ!とマルサは受けて。
「まあな、俺だって、頑張ってるコクリコ嬢と、あの可愛いルゥちゃんを思えば、殺しても飽き足りないと思うくらいなんだけど、竜樹がさあ。」
「神鳥オーブが、教えてくれたよ。自称アリコ・ヴェール子爵、ソルへの罰は、もう2度と手に入らない幸福、を思い知らせる事だって。俺も、コクリコさんとルゥちゃんを、限りなく素敵な幸運だった、って後悔するならしてみやがれ、って思いました。コクリコさん、寂しかったみたいだから、真摯にお付き合いすれば、身分違いはあるけれども、本気で結ばれる事が、もしかしたらできたかもなんだよな。そんな一つの幸運な選択肢を、逃したのは自分のだらしなさゆえだ、って思い知ると良いと思います。反省しない奴なら、そんなの言ってもしょうがないけどねぇ。」
優しいようで厳しい。
いつもの竜樹クオリティである。
カッカカカ!
「そうですね!可愛い娘が帰ると飛んできてくれて、おとうちゃまー、なんて言ってくれる、なんてアイツには金輪際あり得ないんですよ!ざまあーみろ!!」
「セイン、お前、娘ちゃんに、おとうちゃまって呼ばれてんだな。」
はい、とってもかわゆいのです!
にんにんのセイン。いいなー、とマルサも思う。
「まあ、俺はルゥちゃんでも可愛がってやるかな。それと、ルゥちゃんを喜んで迎えた、よいこの子供達を、わちゃちゃーってな。」
遊んでやろ、遊んでやろ。
マルサも羨ましい、とは、まあ言わないがちょっとある。娘、本当かわいいじゃんねぇ。お手てが、ちまちまって、ちいちゃくてぇ。マルサの指を、キュン!と握るのだ。
あく、あぷ。
カンパニュールゥは、お口をあぷぷして、元気。
ソルの事など、しーらないで、今日もお乳を沢山飲んで、皆に愛されて、健やかに、伸びやかに。




