メイドイン
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「はぁ……」
白百合家の二階にあてがわれた部屋で、窓外に広がる立派な庭──たぶんイングリッシュガーデンというやつだろう──を見下ろしながら、勇気はなんとも言えずため息をついた。
「少しだけ時間をちょうだい」
──諸々の問題を片付けてしまうから。
白百合絢音にそう言われてから、今日でちょうど一週間が経つ。
あの日、勇気が目を覚ました場所は白百合の実家──というかその一族企業──である白百合グループの運営する総合病院の一室だった。
その後、「念のために」ともう一日留め置かれ、その間にいくつか追加の検査や医師による問診などを受け、それで晴れて退院の運びとなったわけだが、そこで彼女から告げられたのが冒頭の言葉である。
当然、「諸々って何を?」という疑問はあったが、その際、白百合が見せた振る舞い──表情や声色──には到底「同級生の女子」が放つようなものとは思えない凄まじい迫力があり、どちらかといえば気弱な勇気にしてみれば、余計なことは聞かず、首を縦に振る以外の選択肢などあろうはずもなかった。
(うん……あれは怖かった)
怒気……いや鬼気を放つ美人はとてつもなく恐ろしいのだ。
その上、白百合は「片付け」を待つ間、勇気には彼女の自宅で過ごしてほしいという。
「今はちょっと帰りにくいでしょう? 遠慮なんかいらないわ。ぜひ、自分の家だと思って気兼ねなく過ごしてちょうだい」
そんな風に、前言とは打って変わって、菩薩もかくやという慈愛に満ちた優しげな表情を浮かべ、包み込むような甘い声色で言われるものだから(ちなみに物理的な面でも、例によって勇気の手は白百合の両手で包まれていた)、
(ふわぁ……美少女の微笑……やばあ)
とまあ、ほとんど魅了状態に陥った勇気は頭がクラクラとしてしまい、つい流されるまま、気付けば「お世話になります」と口にしていたのであった。
それきりまるっと一週間。クラスメイトとはいえ他人の、それも異性──今は肉体的には同性だが──の家に滞在し続けている。普通であれば考えられない。
とはいえ現状、たしかに自宅には帰りにくかった──より具体的には両親に合わせる顔がない──のは事実で、白百合の計らいに勇気は感謝しかない。
だからといって、
「──失礼します。真田さま、三時のお茶をお持ちしました」
ノックのあと、特にこちらの返事など待たず堂々と──勇気の庶民的感覚では勝手に──自室にメイドが入ってくるような、浮世離れした生活に気兼ねせずいられるかといえば、全くそんなことはなかった。
……まあ、これに関してはこのある種ファンタジー染みた環境が、放っておけば下降しがちな勇気の気分を大いに紛らわしてくれているのも確かなのだが。
それにしても「メイドさん」である。
そう、なんと白百合家には本物のメイドが勤めているのだ(それも複数)。
勇気は、メイドのみならず「使用人」などというものは、現代社会において創作にのみ登場する架空の存在だとばかり思っていたが、現実でも居るところには居るものらしい。
「本日はフォートナム&メイソンのロイヤルブレンドをご用意いたしました。スコーンはお好きなジャムをつけてお召し上がりください」
「あ、ありがとうございます」
フォートナム&メイソン? と思わず首を傾げそうになるが、文脈と漂う香りからたぶん紅茶の銘柄だろうと察する。
白百合家で出される飲食物はそのほとんどが高級銘柄品で、この点も慣れない。
慣れないが、いつまでも突っ立っているわけにもいかず、促されるまま猫足が可愛らしいクラシカルなテーブルセットに座り、メイドから給仕を受ける。
背筋を伸ばし、高そうなカップにコポコポと紅茶が注がれる様子を眺めていると、不意に、
「わたくしなどを相手に、そのように緊張なさらないでくださいまし」
と微笑まれた。
言葉そのものは丁寧且つ上品だが、その表情はどことなく悪戯げで、纏うのは砕けた雰囲気だ。彼女の職務上、本来はマナー違反に当たるであろうその振る舞いは、ここへ来て数日経っても一向に慣れないでいる客人を気遣ってくれてのものだ。
「はあ……その、はい」
気持ちはありがたいのだが、思春期の少年に、年上の美人からこのようにかしずかれる環境に慣れることなどできるはずもなかった。
仕方なく、お茶をいただきつつ、
「えっと、神崎さんは今のお仕事は長いんですか」
彼女との会話を試みる。それはそれで緊張するが、黙って見守られているよりかは遥かにましだ。
「いいえ、今年で二年目になります。大学を出て、すぐにこちらへ勤めさせていただきました」
まだまだ至らないことばかりです、と神崎は軽く目を伏せ謙遜するが、
(お、大人だ……)
勇気はその何気ない仕草に堪らない大人の色気を感じて、余計にどぎまぎしてしまった。そこには十代と二十代──十七歳と二十四歳(推定)──という年の差以上に、何か越えがたいものがある、そんな気がした。
「ちなみにどうしてメイドさんに?」
不躾かもしれないが、他に話題もないので聞いてみる。
「わたくしの場合、いわゆる縁故ですね。白百合家には先に姉が勤めておりまして」
「へえ、お姉さんが」
「姉とは真田さまもすでにお会いになられてますよ?」
「え?」
「絢音お嬢さまのお付きをさせていただいている『神崎志桜里』、彼女がわたくしの姉にあたります」
「ああ……!」
なるほど。
言われてみれば、というやつであった。そうと知ってから目の前の神崎を見れば、
「今更ですけど……すごく似てますね」
髪型や目尻の上がり下がりなど、たしかに差異はあるものの、むしろ今までどうして気がつかなかったのか、というレベルで二人は似ている。
あえて分類するなら、目尻のキリリと上がった姉は狐顔の美人で、タレ目がちな妹は狸顔の美人だ。体型はどちらも高身長でスタイル抜群である。
(やっぱ、見た目でも篩にかけられるんだろうなあ)
ついつい下世話なことを想像してしまう。
「ふふっ、姉のことは大好きなので、そう言っていただけると嬉しいです」
「仲、良いんですね」
「はい。昔からどこへ行くにも、何をするにも一緒で、二つ違いなんですけど、高校生の頃はよく双子に間違われました」
神崎は姉のことがよほど好きらしく、話をしながら、楽しげに目を細めている。
「へえ」
なるほど。神崎姉妹は二人のうち、少なくとも妹の方はなかなかのシスコンらしい。
(シスコンの美女、ぜんぜんありだと思います)
勇気は内心そんなしょうもないことを考えていたのだが、次に神崎が放った一言で大いに慌てることになる。
「真田さま。よろしければ、わたくしのことは下の名前でお呼びいただけませんか?」
「はい?」
「わたくしたち姉妹とは今後も関わる機会は多くなるでしょうし……そうなると、どちらも『神崎』では紛らわしいかと」
「ええと」
それはたしかに……一理あるかもしれない。
しかしながら問題は、
(異性を下の名前で呼んだことなんてないよ!)
正確には、幼稚園その頃ならある。あの頃は周りが皆、何も考えずお互いを「○○くん」「○○ちゃん」と気軽に呼び合っていた。
そうしなくなったのはいつからだろう。
少なくとも小学校も高学年になる頃には、すでに「名前呼び」、特に男女間でのそれは特別な間柄を示す符丁のように扱われていたはずだ。
本来、氏名の「名」──神崎に合わせるなら──「下の名前」とは個人を識別するための記号という側面が強い。
いくら名字大国日本とはいえ「氏」だけで分けるには当然ながら限界があり、なかでも数が多い「佐藤さん」や「鈴木さん」辺りになると、小中高校の一クラス分程度も人数が集まれば、ほぼ確実といっていいレベルで被りが発生する。
だからきっと、いや確実に──目の前の神崎の提案には神崎(姉)と神崎(妹)を分ける以上の意味はない。そんなことは勇気にだってわかっている。
──だがしかし。
(いやいや、無理だって! 気恥ずかしいし、僕なんかがこんな美人でしかも年上のお姉さんを名前でなんて……烏滸がましいよ!)
そう思って彼女の様子をちらり窺えば──……
「………………」
「!?」
どういうわけかその瞳はきらきらと輝いていて、勘違いでなければそれは──
(なんか知らないけど……めちゃくちゃ期待されてる気がする)
「……(ちらり)」
「……(にっこり)」
(マジかあ……)
まだ若干からかわれている可能性は捨てきれない……。が、しかし勇気の冷静な部分は、短い付き合いながら神崎がそういった手合いではないと判断している。
(まあ……)
これで仮にからかわれているのだとして、考えてみれば今の勇気には失うものなど何もない。大袈裟に言ってせいぜい黒歴史が新たに一つ増えるだけだ。大体からして、黒歴史という意味ではすでに神崎には「いろいろとお世話に」なりすぎている。
なら別に、
(いっか)
と、けっこう悩んだくせに、最後には割と軽い気持ちで勇気は神崎の下の名前を口にした。
「えっ……と、沙織里……さん?」
すると、
「──────」
「??」
なぜか神崎改め沙織里は、口元を右手で覆った格好で、目を見開いたまま固まってしまった。──いや、よく見ると肩が小刻みに震えている。見ようによっては、激しいショックを受けて固まった人の図、に見えなくもない。
「あのう……大丈夫ですか?」
今の流れの、一体どこにそんな要素があったのかわからないが、勇気は心配になって尋ねた。
すると、
「………………ちど」
「えっ?」
「……もう一度、呼んでいただいてもよろしいですか?」
「……はあ、それは構いませんけど……」
よくわからないが沙織里からリクエストが入った。
どうにも妙な雰囲気だが、すでに一度呼んでしまった手前、もはやさしたる抵抗もない。お望みとあらば何度でも呼ぶまでだ。
……などと強がってはみたものの、
「──では。あー……その」
やっぱり、ちょっぴり気恥ずかしい。
それでも、
「沙織里さん」
どうにか噛んだりせずに言いきると──……
「──ッ、~~~~~~ッ」
びくんっ、と沙織里が肩を大きく跳ねさせた。
「……いっ、いい……とっても、いいですう」
彼女はうっすらと上気した顔に、どこか恍惚とした表情を浮かべつつ呟く。
(な……っ、なななな……っ)
その瞳はなぜかうるうると潤んでおり、見ているとなんだかとてもイケナイ気持ちになってくる。端的に言ってエロい。
「あの、真田さま?」
「ひゃい! な、なんでしょう……?」
「僭越ながら、もう一つだけお願いしても?」
「……お願い、ですか……?」
「はい、大したことではないのですが」
「はあ……」
本当に「大したことではない」のか、それは聞いてみなければわからない。
(大したことのないお願い、ねえ……)
果たして本当に「大したことではない」のか、それはやはり聞いてみなければわからない。
人生経験が不足しているなりに、勇気は最大限警戒レベルを上げた。当社比二百パーセントである。いくら世話になっている相手でも、おかしなことなら断らねば。目指すは「ノー」と言える日本人。
「ちなみに……どんなことですか?」
「そのう……笑わないでくださいね?」
「……はい」
「あの、一度だけでいいんです。わたくしを……『お姉ちゃん』と呼んでいただけないでしょうか?」
「………………え?」
んんん? 今なにかおかしなことを言われた気がするぞ。
「ですから、その……わたくしを本当の姉だと思って『お姉ちゃん』と」
どうやら、聞き違いなどではなかったらしい。
本人は「きゃっ、言っちゃった」とばかりにもじもじとしている。その姿は可愛らしく、まるで告白の返事を待つ乙女のようだ。
「………………」
勇気は思わず閉口した。
別に嫌ではない、絶対にお断りというほど嫌なわけではないのだが……。
(思ったより「大したこと」なんですけど!)
もちろん羞恥心的に。
お姉ちゃん、それはありふれた名詞ながら勇気がこれまでの人生で一度も使ったことがない言葉だ。
一人っ子の勇気に実姉は居ないし、そういった年齢に当たる親族や幼馴染みなども居なかった。加えて幼い頃の勇気少年はよそさまの年上女性に「お姉ちゃん」と懐くようなタイプでもなく。
つまり、使う機会すらなかったのである。その機会がまさか今になって訪れるとは。数日前、少年から少女になってしまったことも含め、人生、何があるかわからないものである。
とはいえ、
(どうしよう)
「……(わくわく)」
(うう……っ)
今度はもう疑いの余地などない。明らかに期待されている。まるで散歩に行きたい飼い犬のようだ。もしも尻尾があれば千切れんばかりに振り回されているに違いない。
「……(ちらっ)」
「……(きらきら)」
(こんなん無理だよ……っ、断れないって)
別に断ったところで何も問題はない。勇気は白百合家の客人であり、沙織里はあくまでも白百合家に雇われたプロの使用人だ。本来、主導権は勇気にあり、さらに言うなら道理だって勇気の側にある。沙織里だって現状が越権行為であることは重々承知しているだろう。
だがしかし──、である。
そもそも人心などという形のないよくわからないものは、得てして道理の及ばぬところにあるものであり、人は必ずしも道理に従って正しい方のみを選択して生きていけるわけではないのだ。それができるなら、きっと今頃、勇気だって女の子にはなってない。
と、それはまあ例えがやや大袈裟にしても、
(ずるいですよ沙織里さん……)
勇気には見える。「お願い」を断られた沙織里が浮かべるであろう、捨てられた子犬の如く打ちひしがれた表情が。
(もっと真面目な人だと思ってたのに)
なんとなく裏切られた気分である。
一度に親しみが湧いたのも確かだが。
(……まあ)
やってもやらなくても、どのみちどちらかしらが精神的ダメージを負うのなら、この場合、やってしまったほうがいいだろう。そうすれば被害は勇気の羞恥心だけで済む。
(言っちゃうか。それにしても流されてるなあ……)
ここ数日、病院で目覚めてからこっち、いろいろと流されっぱなしの勇気である。
「……一回だけですよ?」
「っ……はい!」
「こほん……」
勇気は、自称「お姉ちゃん」の子供のような反応に苦笑いしそうになるのを堪え、
「……お姉ちゃん。~~~っ」
口にした途端、顔が耳まで熱くなった。たぶん、首から上は真っ赤だ。
しかし、沙織里の反応はそれ以上に劇的だった。
「~~~~~~っ、ゆうきちゃんっ!」
(ゆうきちゃん!?)
「か、かわいい!!」
「わっぷ!?」
彼女の中で何かが振りきれてしまったらしく、突然、勇気を抱き寄せたかと思えば、
「ゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃん……っ、はぁん、かわいい! かわいいよう!!」
と、それはもうとち狂ったように撫で回し始めた。
「ふがっ、ふぁふぉりふぁん!?」
豊かな胸に顔が埋没し、うまく喋れない。
というか、これじゃ呼吸すら儘ならない。
(し、死ぬ)
「──ゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃんゆうきちゃん──」
「う、うう~ん……」
トリップした沙織里の暴走は止まることを知らず、勇気が酸欠で伸びてしまうまで、およそ三十分もの間、彼女は「ゆうきちゃん」を「かわいがり」続けたのであった(その後、我に返った彼女が大慌てで勇気を介抱することになったのは言うまでもない)。
意識の薄れゆく最中──……
(幸せな暴力って、明らかに矛盾してるけど……。ちゃんと成立するんだな)
勇気はそんなことを思っていた。