スーサイド
「……真田くん」
滑るように走る高級車の後部座席で、絢音は美しい顔に色濃く焦燥を浮かべ、絞り出すように、今日学校へ来なかったクラスメイトの名を呼んだ。そのまま下唇を強く噛む。
(あいつら……っ、まさかあそこまでするなんて……っ)
今年から同じクラスになった少年、真田勇気が、こちらも同じクラスに在籍する佐伯数馬、清水祥太郎、須釜直也、千田亮平ら四名からいじめを受けていたことについては、絢音はかなり早い段階から把握していた。
身近で、いじめなどという下劣でくだらない犯罪を見せられるのは、決して気分の良いものではなかったが、佐伯たちは勇気に対し露骨な暴力を振るうことまではしなかったし、真田の方にも何がなんでも現状から脱け出そうという気概が感じられなかったので、絢音としては「まあ、加害者が飽きるまで堪え続けるというのもひとつの方法ではあるわね」と、静観を決め込んでいた。
極論、絢音が介入すればおそらくは四月の段階ですぐにでも解決できた問題ではあったが、クラス内で起きている問題とはいえ言ってしまえば所詮、他人事である。
無関係な上に当人たちとは性別も立場も違う自分がしたり顔で口を挟むようなものでもないだろう、そんな風に割り切って殊更気にしないことにした。
いざとなれば「どうとでもできる」そんな傲慢な思いもなかったと言えば嘘になる。
──と、多少ニヒルを気取ってみたものの、実のところそんなものは全て建前であった。
絢音の本音はもっと単純で、要は頼まれてもいないのにしゃしゃり出て、人前で正義の味方面をするのがどうにも恥ずかしかっただけなのである。
そのため絢音は「助けに入るにしてもそれは相手に求められてから」という本当に困っている人からしたら「ふざけるな」と言いたくなるような自分ルールを敷いて機会を待った。
本音では、真田のことだって早く助けてあげたかったのにだ。
返す返すも馬鹿馬鹿しい話だが、自分が様子見などしている間にいつか取り返しのつかないことになりはしないかと、本当に気が気でなかった。
斯くして訪れたのが昨日の放課後に起きた「真田勇気救済劇」である。
これまでは真田をいじめるにしてもあまり派手なことをしなかった佐伯たちが、昨日に限っては、よりによって絢音自身と──その他衆人という形で──クラスメイトたちを盛大に巻き込んで茶番劇を巻き起こしたのだ。そのシナリオは真田が絢音に声をかけてきた時点で概ね想像がついた。
つまり、佐伯たちは真田にクラスメイトの前で絢音へ告白する行為を強い、彼に恥をかかせようとしたのである。もちろんそれで真田が振られるまでがひとつの流れだ。
こういった告白の強制は、学園モノの漫画やドラマなどでしばしば登場するいじめの手法であり、大体はモブ扱いを受ける主人公が高嶺の花と評されるヒロインへと無理やり、もしくは何らかの罰ゲームとして告白させられる(結果については作品によってマチマチだ)。絢音も以前読んだ少女漫画で似たような場面を見た(作中では男女が逆だったが)。
絢音は主に人格面に対する自覚から、自分が人として優れているなどとは思わない。しかし単純にガワだけを見たとき、白百合絢音という少女が周囲からどういったイメージを持たれ、どういう評価を受けているのかくらいは把握していた。
誤解を恐れずにいえば、客観的に見て白百合絢音という少女は、女子高生としては誇張なく容姿能力ともに極上と言っていいだろう。
対して真田勇気という少年は、こう言っては申し訳ないが容姿能力ともにひどく凡庸である。
業腹だが、白百合絢音と真田勇気、このふたりの間に歴然と存在するそのギャップが、佐伯たちに件の茶番劇の着想を与えたのは間違いない。
業腹といえば昨日、真田が声をかけてきた時点ですぐにピンときてしまった自分に対しても絢音は怒りを覚えているのだが。しかもシナリオを読みきった上でそれでもなお流れに任せてしまったことが許せない。
もし。
もし仮に真田から事前に相談を受けていれば。むざむざ彼に恥をかかせるようなこともなかったかもしれない。まあ、それも結局は絢音が受け身だったせいであり、驕りを含んだ言い訳にしかならないのだが。
恥ずかしいとか求められてからなどとぐだぐた言っていないで、はじめから積極的に動いていればいくらでも違う昨日はあったはずなのだから。
(まあ……)
それでも昨日の放課後、教室での結末自体は決して悪いものではなかった。
佐伯たちが描いた茶番劇のシナリオは白百合絢音というキャストのアドリブによって破綻し、佐伯たちにとって(真田にとっても)想定外と言える大団円を迎えられたのだから。
しかし問題は終劇の後、緞帳が下りてから起こった。
具体的には絢音たちの帰宅後のことだ。
夜になって、複数のSNSに投稿者不明のとある画像がアップされた。
それは高校生くらいの少年がひとり、全裸で、口にするのも憚られるような卑猥且つ無様な格好をさせられている写真で、ご丁寧にも少年の体には皮膚に直接マジックで「真○勇○、十七歳でーすw」とでかでかと落書きがされていた(落書きは他にも多数されていた)。
画像にはモザイクなどの処理は一切施されておらず、少年は性器も丸出しで唯一、頭部だけは彼自身の物と思われる男物の下着が被せられ、中途半端に顔が隠されていた。
しかしそんなものは見る者が見れば一発で身元が判るレベルだ。名前についてもそうだが投稿者には隠そうという意図がまるでない。完全に晒すことを目的としたやり口である。
案の定、被写体となった少年の身元はすぐに特定された。
──私立翔山高校二年七組真田勇気──
普段あまりSNSを見ない絢音が、天城遥から報せを受け投稿された画像の存在を知る頃には、クラスメイトの少年の名は痴辱に満ちた画像とともに既に収拾がつけられないほど拡まってしまっていた。
元となった画像は、アダルト専門ではなく一般向けSNSを中心にアップされたためしばらくして削除されたが、ネット界隈には愉快犯染みた連中が星の数ほど存在しており、そういった連中はこの手のネタを決して逃さない。一度晒されてしまえば完全に消し去ることなど不可能だ。
それにダウンロードされたものについては傍目には誰が所持しているのかすら判らない。現に、他所のクラスの同級生が端末に保存したそれが、メッセージアプリのグループをいくつか経て、昨夜の内に絢音の元まで廻ってきている。
それを見た瞬間、絢音は怒りで目の前が真っ白になった。手に持ったスマートフォンを壁や床に叩きつけなかったことはもはや奇跡と言っていい。
証拠はない。しかしこれを誰がやったのかなど火を見るより明らかだ。
佐伯たちだ──そうに決まってる。
なぜ……どうしてこんな残酷なことができるのか。
もはや到底、佐伯たちを同じ人間とは思えない。
あいつらは……ケダモノだ。
(私は馬鹿だ……っ)
自分はなんて愚かしいんだろう。絢音は自身の甘さを憎んだ。
いじめを下劣な犯罪と断じて置きながら、真田と佐伯たちとの間にあったそれを三ヶ月近くも放置していた。
言い訳をするなら、いざというときは絶対に助けるつもりではあった。しかしそれも単に「照れ臭いから」などという自分の都合で先送りにしていただけなのだから酷い話だ。その間、真田はずっと苦しんでいたのに。佐伯に品性が云々と言っておきながら、これじゃどちらが下劣かわからない。
特に許せないのが昨日の自分だ。
(あんなことで彼を救った気になって……っ)
あとから振り返れば昨日の絢音は完全に自分に酔っていた。佐伯を言葉でやり込め、真田のために味方を集い、いつの間にかまるで正義の味方にでもなった気でいたのだ。そんなんじゃないって、自分で言ったくせに……。
(そうよ……彼が誰にも助けを求めなかったのは)
佐伯たちにあの写真を握られていたからだったのだ。
自分たちに逆らえば晒す、とでも脅されていたのだろう。
(なのに……っ、私はっ)
したり顔で、どうして? ──だなんて。
「最低じゃない……っ」
ぶちりと下唇を噛み切った。
口内に血の味が広がり、傷口がずくずくと痛む。
(真田くんはもっと痛い……っ)
結果として、絢音がとどめを刺してしまったようなものだ。
佐伯を直接やり込めたのは絢音だが、見ようによってはあのときの真田は佐伯たちに対し従順だったとは言えない。
結局は佐伯たちがどう思ったか、なのだ。そしてその答えは既に出ている。最悪の形となって。
(せめて昨日、あいつらを逃がさなければ……)
四人ともいつの間にか居なくなっていたが、あの場で徹底的に追及し、弾劾し、教師に突き出すなどして完全に潰してしまうべきだった。
そうでなくともどうして後処理を怠ったのか。
なぜ、何かしらの報復があることを予想できなかったのか。
自分で彼らを犯罪者と罵っておきながら、やはりどこかでまだ「やんちゃな少年たち」という印象が拭えていなかったのだ。
実際は犯罪者と呼ぶのも生ぬるい真性のケダモノだったのに──
「絶対に……許さない……っ」
※
「………………。ふう……」
築十五年を迎えた二階建て住宅。その二階に与えられた自室の机で、遺書を書き終えた勇気は深くひとつため息をついた。それから鍵の掛かる引き出しから日記帳を取り出し机の上に置き、その上に遺書を重ねる。
「これでよし、っと」
遺書その物は簡潔に。両親に向けては月並みだが育ててくれたことへの感謝と、先立つ不幸に対する謝罪を。そしてその理由として佐伯たちを告発する文章を書き、詳しくは日記帳を見て欲しいと添えた。日記には四月から勇気が佐伯たちに受けてきた仕打ちの全てが詳細に記されている。
最後に、これについてはここに書いていいものか迷ったが、白百合絢音をはじめ天城遥や櫻井笙子など、昨日の放課後に勇気の味方であることを宣言してくれたクラスメイトたちへの感謝と謝罪を。
昨夜、佐伯たちの手によって例の画像が公開されたと知ったとき、真っ先に浮かんだのは怒りや絶望、焦りなどではなく、受容と諦めの気持ちだった。まったく、とまでは言わないが、勇気の心には波風がほとんど立たなかったのだ。
もとよりいくらか自覚はあったが、自身の心がとっくに限界を超え疲弊し、擦り切れていたという事実には、さすがに乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
そこから先、一晩かけ、勇気はただ機械的に──淡々と死ぬための準備をした。
と、言っても別に大したことではない。単に死後に他人に見られたら恥ずかしいもの、気まずいもの(主に猥褻動画や画像、猥褻図書の類い)を処分しただけだ。勇気とて一応年頃の青少年の端くれであるからしてそういった物をそれなりに所持しており、それを自分がいなくなった後で両親や知り合いに発見されるという悲劇だけは避けたかった。
(死後に性癖を知られるとか、どんな罰ゲームって話だし)
まあ言ってしまえばエゴのようなものだが、ささやかな願いとして死んだあとぐらいしめやかに悼まれたい、と思うのだ。
PCのDドライブをクリーンアップし、現物があるのものについては夜中にそっと家を抜け出し、近所のゴミステーションに捨てた。
この時点でもう準備はほとんど終わったといっても差し支えなかったのだが、実際に死ぬのは翌日──両親が仕事で留守の間に──と既に決めていたので、再び自室に戻った勇気は少々手持ち無沙汰になり、部屋を掃除することにした。これも身辺整理の一環というか……長年親しんだ場所を最期に綺麗にしてから終わるのも悪くない。そんな風に思った。
さすがに掃除機を使うわけにはいかなかったが、明け方まで数時間かけ部屋を綺麗にし、その後シャワーを浴びて一度仮眠を取った。
我ながらこんな状況でよく眠れるものだと思ったが、人間、疲れていれば案外眠れるものらしい。
朝、いつもより遅めに起きて、いかにもな顔で母親に「体調が悪いから今日は休みたい」と伝えると、あっさりと承諾され彼女は学校に連絡を入れてくれた。その際、少しだけ身構えたが、どうやらこの時点では両親や学校側はまだ件の画像の存在について把握していなかったらしい。
(まあ、そりゃそうだろうって感じだけど)
教員たちの場合、年齢層に幅があるためどうだかわからないが、少なくとも既に四十代半ばである自分の両親が、夜中や早朝にSNSやネット掲示板などの巡回をしているとは思えない。
ともかく、いつもどおりまずは父親が出かけ、少し遅れて母親も出ていった。家に独りになった勇気はそれから遺書をしたため……そして現在に至る。
時刻は十時を少し回ったところだ。
勇気は椅子を引いて立ち上がると、そのまま椅子の背もたれを掴んで引きずりつつ部屋の中央へと運んだ。
部屋の中央には床にレジャーシートが敷かれ、天井付近の梁からは荷造り用の紐がぶら下がっており、その先端部分はちょうど人の頭が通り抜けられるくらいの輪っかになっている。もやい結びというらしい。ネットで調べた。
今からこれで首を吊る。
それで全部終わりだ。
「うん……しょっ……とぉ……っとっとっと」
落ちないように気をつけながら椅子の座面に上り、立ち上がる。これから死のうというのに、こうやって椅子からの落下になど気をつけるというのも妙な話だ。勇気はそれがおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
「………………ふぅぅぅ」
両手で紐の輪っかを持ち、長く深く息を吐いた。
今さら怖いなどとは思わないが……さすがには緊張する。
輪っかに頭を通す。ここから先へ進めば、もう後戻りはできない。
「………………よし」
と、その時。
────♪
「?」
玄関でインターホンが鳴った。
まさか両親が帰ってきたということはないだろう。二人ならどちらであれ自分の鍵を持っている。あるとすれば来客……も可能性としては低そうだ。たぶん新聞の勧誘か何かのセールスだろう。
(……邪魔しないでほしいんだけど)
当然、出るつもりなどないのだが、なんとなく気が散る。
────♪
────♪
────♪
「なんなんだよ……」
まさかの連打だった。
平日日中の真田家は基本的に全員留守なのだが──だから知らなかっただけで──こういうことはよくあるのだろうか。
────♪
────♪
────♪
(いや、しつこすぎるでしょ……)
さすがにこのピンポンの嵐の中では死ぬ気にもなれず、勇気は両手で持った首吊り用の輪っかに頭を突っ込んだままという、はたして緊迫してるんだか間が抜けてるんだかよくわからない微妙な体勢のまま、耳を澄まし玄関の様子を窺い続けた。
すると。
!! !! !!
!! !! !!
「!?」
何かを強く叩く音。
いや、何か、じゃない。
明らかに誰かが玄関の扉を思いきり叩いている。意味がわからない。
そして──
──ん!
!! !! !!
──くん!
!! !! !!
──だくん!
!! !! !!
──んでしょう!?
!! !! !!
「え……」
扉を叩く音に混じって、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
(うそだろ)
信じられない。
「どうして……白百合さんが」
────♪
────♪
!! !! !!
──ねえ!
!! !! !!
──いるんでしょう!?
!! !! !!
──お願い!
!! !! !!
──出てきて!
!! !! !!
──おかしなこと考えちゃだめよ!!
「!? まさか……」
!! !! !!
──ごめんなさい!
!! !! !!
──私が甘かったわ……!
!! !! !!
──私、なんにもわかってなかった!
!! !! !!
──今度こそ守るから!
!! !! !!
──私の全部で守るから!!
!! !! !!
──だからお願い! 顔を見せて!
「……っ」
間違いない。
白百合は勇気の行動を読んでわざわざ止めにきてくれたのだ。
今朝、実際に顔を合わせた両親ですら気づかなかった勇気の心の裡。
だというのに彼女はおそらく想像だけでその可能性に至りこうして駆けつけてきたのだ。
!! !! !!
──真田くん!
!! !! !!
──真田くん!!
「~~~っ」
もうとっくに擦り切れてしまっはたはずの勇気の心。
しかし、それでも僅かに残されていた柔な部分を、白百合の声がきゅうと締めつける。
「……っく」
勇気は思わず紐から右手を離し、その手でTシャツの胸元を強く握り締めた。
(なぜ……)
どうして彼女はここまでするんだろう。
白百合絢音──学園のマドンナ。
芸能人でも滅多に見ないような美貌に勇気よりも少し高い身長、そして抜群のプロポーション。腰まで届く黒髪は絹糸のようなストレートだ。
成績は毎年のように東大現役合格者を輩出する翔山高校で常に学年上位、おまけに運動まで人並み以上にこなしてしまうという、まさに非の打ち所のない完璧超人である。
どこをどう比べても勇気とは釣り合わない。あちらは主人公でこちらはモブ。普通なら一生交わらないはずの世界線を生きている。
何の因果かふたりの世界は昨日たまたま交わったが、放って置けば再び離れていったはず。なのにそれを強引に繋ぎ止めたの彼女だ。
『私はお節介な正義の味方なんかじゃない』
そう言ったかと思えば、
『あなたを守るわ』
などと言う。
わからない……。
やっぱり、勇気には白百合の気持ちがわからない。
「──いや」
そうじゃない。
(別にもう、わかる必要なんてないんだ)
こうして白百合が駆けつけてくれたことには感謝したいし、正直なところ感動すら覚えたが、だからといって勇気はもう死ぬことを翻意するつもりはない。
別に意固地になっているとか、そういうことではないのだ。単純にもう疲れてしまったのである。
生きていくために必要な大切な「なにか」がもう自分の中には残されていない──こぼれ落ちてしまった。勇気はそう感じている。
「ごめん」
そう呟いて、勇気は再び両手で紐の輪っかを掴んだ。
あとは踏み台にしている椅子を軽く蹴飛ばせば、それでこの世ともお別れだ。
(白百合さん……僕にひとに相談する勇気があれば。たとえばもっと早くにきみに助けを求めていれば。違う未来もあったのかな……)
目をつぶる。
「?」
おや、と今になって気づいたが、いつの間にか玄関が静かになっていた。
(諦めてくれたかな。けど……)
やっぱり、こうしていざ本当に去られてしまうと。
(寂しいかも)
ひどく矛盾している。たはは……と、勇気は目を閉じたまま苦笑いを浮かべ──────足元の椅子を蹴り倒した。
────!!
重力に引かれ、紐が首に食い込む瞬間、遠くでガラスの割れる音がした──……。