◆9話 日下くんに棚ドンされる
日下くんお手製の「日下部」の貼り紙を掲げただけであら不思議、味気なかった「第4資材室」が、もはや日下部の部室にしか見えない。
仁王立ちで惚れ惚れと扉を見つめていたら、日下くんもやってきた。
「小宮さん。早いね」
「ホームルームが終わってすぐ早歩きで来たよ! 日下部の部長が遅刻する訳にはいかないから」
昨日、部長という役職に対する日下くんの熱い敬意(部長は至宝とまで言っていた)を知った私は、立派に部長を務めあげるという決意を固めたのだ。決意はさっそく報いられ、「さすがだね」と褒められてしまった。嬉しい。今日も素敵な日下くん。10ヵ月早いけどバレンタインチョコを渡したい。
意気揚々と入室し、資材室の一角、2脚並んだパイプ椅子に腰掛ける。相変わらず一方が椅子に座ったままできる大腿筋エクササイズをすればお互いの膝がくっつくほどの近距離である。相変わらず最高の部室である。
「出席を取ります! 小宮。はい。日下くん」
「はい」
「沼姫ちゃんと神谷くんは無事に帰宅するのを見届けました。今日はオンラインゲームのイベント日だということで気迫が違っていました。よし、これで部員は全員健在。それではミーティング始めます!」
昨晩、日下くんに見立てたクマのぬいぐるみ(クマカくん)を相手に部活開始の流れをイメージトレーニングしてきた甲斐あって、初回よりも遥かにスムーズにミーティングに入れた気がする。話題に困って見切り発車で夕食のうどんの話を振るような挙動不審の小宮小明は過去の女であり、この堂々たる部長然とした姿こそ真の小宮小明なのである。
「ど、どうかな日下くん、昨日より部活感が滲んでるかな?」
「うん。完璧な進行だよ」
「えへへ。わ、私、部長感を醸せてるかな?」
「うん。可愛い」
「えへへ、よかっ、っ、ぇえええええええ!?」
か。かわ。
可愛い?
思わず奇声を上げて椅子から立ち上がって仰け反った。
秒で舞い戻った挙動不審の小宮小明である。
今の話の流れでなぜ「可愛い」が出てきたのか分からないが、日下くんの口から私に向けて「可愛い」が出たことに間違いはない。ここが公園であったならば通りすがりのチワワに向けて放った言葉だと推理できるが、ここは部室である。対象は私しかいない。そして「可愛い」は日下くんに言って欲しい言葉ランキング第4位の言葉である。そんな上位の攻撃力を持つ言葉を、唐突かつ至近距離で受けた私の動揺は計り知れない。
なお、狭くて最高なこの部室には安全に仰け反れるだけのスペースは当然ないので、そばの棚に思い切り背中をぶつけた。
「ぐはっ」
衝撃で棚に積まれたものがドサドサと降って来たけれど、幸いにもモルワイデ図法の地図とメルカトル図法の地図と正距方位図法の地図と豆腐料理の本という紙類ばかりだったので、大事には至らなかった。
というか、落下物は一つも当たっていない。
なぜなら棚に背中をぶつけた瞬間、積載物の落下を察知した日下くんがとっさに私の頭を抱えるようにして庇ったからである。
というわけで、全ての落下物は日下くんに当たり、最後にスチールウールの塊が落ちて来て、ぽよんと彼の頭で跳ねて、静かになった。
抱き締められたまま数秒が経った。もう何も落ちてこないと判断した日下くんがゆっくりと身を離す。床に散乱した資料がカサリと乾いた音を立てた。
「……小宮さん、大丈夫? 何も当たってない?」
放心状態の私に、日下くんが心配の滲む声で尋ねる。辛うじて頷きを返すと、日下くんは安堵の表情を見せた。
抱き締められた。日下くんに。
もはやラッキーすけべどころの騒ぎではない。
「よかった……って、え、小宮さん!?」
「キュン死……」
日下くんに庇われノーダメージであるはずの私は、白目を剥いて気絶した。
* * *
日下くんに棚ドンされてしまった。
棚ドン。
棚にドンとぶつかった衝撃で落ちてきた物から抱っこで庇われるという事象を指す用語である。庇われるだけでもキュンなのに、あまつさえ抱き締められるという二重のキュン。壁ドンに匹敵する胸キュン事象。それが棚ドン。今考えた。
棚ドンによる過度のキュンが供給された結果、心肺機能の異常および急激な血圧の変化により意識を失った私は、目覚めたらベッドの上だった。
そこはかとなく漂う消毒液の匂い。保健室だ。
「小宮さん?」
声の方に顔を向けると、日下くんがいた。ベッドのすぐ近くに置いた椅子に座って、ずっと見守ってくれていたらしい。
「ああ……よかった……先生は脳貧血だろうって言ってたけど、なんかもう目覚めないのかと……」
実際には気絶から5分も経っていなかったのだけれど、日下くんはまるで私が数ヶ月に及ぶ昏睡状態から目覚めたかの如き深い安堵の溜め息をついた。こんなにも人を思いやれる日下くんの優しき心根に感動すると同時に、こんなにも心配をさせてしまった申し訳なさでいっぱいになった。彼が身を挺して落下物から庇ってくれたというのに、過キュンで気絶してしまうなんて。
「あわわわわごめんね日下くん、心配かけてごめんね、元気! 超元気!」
「本当? 無理してない?」
「ほんと! 今からハーフマラソンに出場しても完走できるくらい元気だよ!」
「フルマラソンは無理なくらいには疲れてるんだね……」
「平常時でもフルマラソンは完走できないから安心して日下くん! 今がベストコンディションだから! ゾーンに入ってるといっても過言ではないから! ね!」
ベッドから半身を起こして腕を振り回して元気アピールをすると、日下くんはようやく体調が良好であることを信じてくれた。
「小宮さんが急に叫びながら立ち上がったかと思いきや仰け反って棚にぶつかって最後は白目を剥いて崩れ落ちたから、もう、すごく心配したよ……元気で安心した……」
日下くんは身体の力が抜けたようにベッドに突っ伏した。同級生が突如そんな奇行に走ったのだから彼の心労は察するに余りある。後でお詫びの菓子折りを贈ろう。
「はい、ほんと、もう、すみません……。あの、か、庇ってくれてありがとう。日下くんのおかげで、かすり傷ひとつ無いよ」
日下くんはベッドから顔を上げて、「怪我が無くてよかった」と微笑んだ。寝起きの目に後光が眩しい。
「日下くんは大丈夫?」
「うん。落ちてきたのは軽いものばかりだったから。僕は平気だったんだけど、小宮さんが気絶したから、豆腐の本の角でも当たっちゃったのかと……」
「あ、いや、その、無傷だったんだけど、そう、急に、こ、こむらがえりが来て、その、こむらがえりで気絶することが稀にあって、数年に一度あるかなきかの事象なんだけど、たまたま今日だったみたい」
棚ドンによるキュン供給過多が原因で気絶したとは言えないので、苦し紛れに「こむらがえり」のせいにしてみたら、日下くんはすんなり信じてくれて、労りの目を私に向けた。
「こむらがえりで気絶するなんて、本当に繊細なんだね小宮さん……」
「き、基本は丈夫だから安心してね。ほんとたまたま」
素直な日下くんを騙して胸が痛い。昨日も今日も崩れ落ちた原因は日下くんなのだけれど(本望)、昨日は木漏れ日、今日はこむらがえりで体調を崩したことになっているから、彼の中で私は相当な虚弱体質と認識されてしまうのも無理はない。
「あの、えっと、日下くんが保健室に運んでくれたの?」
「うん」
「い、いわゆる、うぉ、お、お、お姫様抱っこで……?」
「うん」
お姫様抱っこ!
「あわわわわ……落ち着け……落ち着け自分……」
お姫様抱っこは日下くんにして欲しい行動ランキング第2位である。運搬中に気絶していたことが悔やまれる。否、意識があったら再度気絶していただろう。
「日下くんにお姫様抱っこで運ばれた」という事実に感動を押さえきれない。けれどここで感動のまま「ありがとう日下くん好き!」と叫んでベッドの上を転げ回る等の奇行に走ったら、それこそ日下くんの心労が募ること請け合いなので、強く己を律して自重した。
中学生の時は、日下くんにお姫様抱っこで保健室に運ばれたという前島くんが羨まし過ぎて、前島くんを見かける度に「羨ましい!」という表情になったものだったけれど、私もついに同じステージに立ったのだと思うと感慨深い。当時は毎度ものすごい顔を向けて怯えさせてごめんね前島くん。
「……えっと、駄目だったかな。人を呼ぶ時間も惜しかったからひとりで運んだんだけど、担架に乗せた方がよかった……?」
喜びを自重し過ぎて深刻な顔になっていたようで、悪いことをしたのかと日下くんに勘違いをさせてしまった。慌てて首を横に振る。
「ううん! お姫様抱っこがいいです! ぜひ今後もお姫様抱っこがいいです! この世で一番素晴らしい人体の運搬方法だから! たとえ手近に担架があって人手が足りていたとしても日下くんのお姫様抱っこ一択でお願いします!」
うっかり欲望が丸出しになったけれど、日下くんは私の勢いにくすくすと笑って、「うん。分かった」と言った。もう、そんな簡単に請け負って、もう、今後の気絶が楽しみになるじゃないか日下くん。
「あ、ありがとう日下くん、運んでくれて。資材室、4階だから大変だったよね」
「ううん。小宮さんは軽いから運びやすかったよ」
軽いてもう、日下くんもう。彼は乙女心をくすぐる達人なのだろうか。中学の園芸部時代、校舎裏のゴーヤ収穫の際に私を肩車して、「バーミキュライト一袋より重い……」と言ったデリカシーの無い小金井くんとは大違いである。
「こ、こむらがえりも治ったし、部活に戻ろうかな」
「そう? 帰宅しなくても大丈夫?」
「うん! 元気がもう、それはもうあり余ってるから!」
「そっか。4階までお姫様抱っこで運んだ方がいい?」
「はぐぅっ」
小首傾げてさらりと高威力の攻撃を撃たないで日下くん。
「あ、ある……歩けるから、自力で歩けるから、大、丈夫……!」
「こむらがえり直後だから、小宮さんのふくらはぎが心配で……階段きついかなって」
「だい、大丈夫、例年、気絶するほどのこむらがえりの後は、むしろ頑強なふくらはぎになるのが常だから、大丈夫」
「そうなんだ。小宮さんって不思議な体質なんだね……」
こむらがえりだなんて嘘をついたせいで日下くんの手厚いアフターフォローを受けてしまうところだった。本音で言えば受けたいところだけれど自重するのが乙女の慎みである。
先生に回復の旨を伝えて保健室を後にし、第4資材室に戻った。
「あ」
すっかり忘れていたけれど、地図やら本やらスチールウールやらが散乱した惨状のままだった。そう、棚ドンの恩恵に浴した者はその務めとして、棚ドンの後始末に努めなければならないのだ。
「……えっと、日下くん」
「うん」
「本日の部活は、部室の掃除でどうでしょうか……?」
おずおずと訊ねると、日下くんは笑って「うん」と返してくれた。
こうして、記念すべき第二回目の日下部の活動は、部室の掃除になったのだった。
ひとりでこの途方もない惨状の片づけをしていたら泣いていたと思うけれど、日下くんと一緒の掃除なので、最高に楽しかったことは言うまでもない。