◆8話 (見守りの始まり)
入学式直後。
晴れて小学一年生になった僕の心は荒んでいた。
あかりちゃんのいない人生に何の希望を持てと言うのか。
あかりちゃんとランドセルを見せ合うことを心待ちにして臨んだ入学式、彼女がいないことを知って打ちのめされ、今後の灰色の日々を思って一切のやる気を失くし、帰宅して玄関で靴を脱いでそのまま突っ伏して世界を呪っていたけれど、あかりちゃんの無垢な笑顔を思い出して起き上がった。
あかりちゃんと必ず再会するという人生の目標を得て息を吹き返した。
玄関で死んだように横たわって世界を呪っている男なんて、明るくて優しくて可愛くて清くて天使な彼女に会う資格はない。
ちゃんと生きよう。立派な大人になろう。立派な大人になって社会的地位とそれなりの資金を手にして合法・非合法を問わない手段であかりちゃんを探そう。そうしよう。
「起きたか深幸。帰宅するなり玄関で死んだかと思いきや急に幸せそうな笑みを浮かべたかと思えば最後は悲壮でありながらそれでもなお一縷の希望を宿した瞳になって起き上がったから、兄ちゃんは声をかけるかどうか悩んだけど、うん、大丈夫?」
「うん。今後の人生の目標が定まったところだから」
「小学校の入学式で一体何が……。校長か? 校長先生のお言葉に感銘を受けたのか?」
「僕は天使に相応しい真っ当な人間になるんだ」
「その発言が真っ当かどうか議論の余地があるが、とりあえず手洗いうがいしてこい。おやつにしよう」
「うん。入学式でもらった紅白饅頭も食べる?」
そういうわけで、あかりちゃんのおかげで息を吹き返した僕は小学生時代を恙なく終えた。
平和なことは平和だったけれど、あかりちゃんのいない日々なので特に語るべき思い出はない。小金井という生徒がやらかした「プールサイド緑化事件」や「校舎裏ゴーヤ事件」等でなぜか僕まで巻き添えで職員室にて説教をされたことを除いて、先生に怒られることもなかった優等生な日々だったと言えるだろう。
そして中学校の入学式。
ここで、あかりちゃんと運命の再会を果たした。
あかりちゃんがいないことに多大なショックを受けた小学校の入学式と違い、彼女がいない前提で臨んだ中学校の入学式は、特に緊張も感慨も無かった。
中学校の入学式で配られるお菓子は紅白饅頭じゃなくて落雁なのか、饅頭を期待してた兄さん落ち込むかな、なんてぼんやり考えているうちにオリエンテーションも終わった。
兄さんが成長期を見越して注文したため少しぶかぶかの制服に着られつつ、帰宅する他の大勢の新入生に混ざって、校門を目指していたら。
「えだまーめが、落ちてたーよー」
歌が聞こえて、立ち止まった。
棒読みすれすれの独特のリズム。
謎の歌詞。
歌声。
震えた。
なぜここに、あかりちゃんの「おりじなるそんぐ」が……!
「寂し気なーる、そのまーめー」
歌声は斜め前方から聞こえてくる。ふわふわ髪の女子生徒と、ポニーテールの女子生徒が並んで歩いていた。後頭部しか見えないけれど、あのふわふわとした髪には覚えがあった。
「小明ちゃん。その歌は?」
「さっき廊下に枝豆が落ちてたの。聖ちゃんは見なかった?」
「ううん。廊下に枝豆? 不思議だねー」
ポニーテールの女子生徒は、ふわふわ髪の少女に向かって、確かに「あかりちゃん」と口にした。
あかりちゃんのおりじなるそんぐを歌うあかりちゃんなんてあかりちゃんしかいない。
間違いなく彼女だ!
あの頃は幼児の素直な思考で、一度離れ離れになった彼女とは簡単には会えないものだと思っていた。大人になって、ものすごく頑張って、そしてようやく会えるのだと考えていた。なのに、こんなに早くあかりちゃんを見つけられるなんて。
思ってもみなかった幸運に、気持ちの整理が追いつかなかった。
とりあえず、あかりちゃんがバスに乗ってしまうまでその後ろ姿を見つめてから、茫然自失状態で帰宅し、玄関に着くなり床に突っ伏した。
突っ伏して数秒後に確認事項を思い出して起き上がり、鞄から今日配られたクラス表を取り出す。特に見もしなかったその紙を、今改めて凝視し、僕と同じクラスに「小宮小明」の字を見つけた。
あかりちゃんの氏名が「こみやあかり」ということは知っていた。幼稚園の頃、彼女のスモックに付けられた胸元のワッペンに「こみやあかり」と書かれていたことを鮮明に覚えている。クラス表をまじまじと見る。「小宮小明」。あかりちゃん。小明ちゃん。そうなんだ。僕は小明ちゃんと同じクラスなんだ。小明ちゃん。今日から週5で彼女に会えるんだ。中学校最高。もう日本から祝日が消えてもいい。土日も授業で構わない。毎日学校に通いたい。小明ちゃん。
しばらく幸福に身を浸していたが、ふと、我に返った。
小明ちゃんを見つけられたことは嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しいけど、小明ちゃんに会えた先のことを考えていなかった。
小明ちゃんを見つけて、その先は。
その先に何がしたいのか。
「起きたか深幸。帰宅するなり玄関で死んだかと思いきや紙を凝視して生まれてきてよかったみたいな幸せそうな笑みを浮かべたまま起き上がらないかと思えば急に深淵を覗いた哲学者みたいな憂いの表情になったから、兄ちゃんは声をかけるかどうか悩んだけど、うん、大丈夫?」
小明ちゃんと。
もう一度、小明ちゃんと仲良くなりたい。
また、手を繋いで歩きたい。
お話がしたい。うどんのことでも、栗ご飯のことでも。内容は何だっていいから、お話がしたい。唐突に始まる歌を聞きたい。名前を呼ばれたい。笑顔を向けて欲しい。
でも、それはどうすれば叶うのだろう。
「兄さん」
「うん?」
「見かける度に違う女子と歩いているし短期間で恋人がころころ変わる、軽薄な女たらし感のある兄さんに訊きたいんだけど」
「弟からの突然のディスりに兄ちゃんは困惑しているよ。え、待って、兄ちゃん軽薄じゃないからね? 女たらしじゃないからね? 誤解!」
「どうすれば女の子と仲良くなれるの?」
「なんだ、そうかそうか、そういう相談か。中学生になったんだもんな、彼女欲しいよな。安心しろ深幸。黙っていてもモテるというか黙っている方がモテると言われた兄ちゃんの見立てでは、深幸は黙っていてもそのうち女子に好かれるよ」
「そのうち……?」
「うん。修学旅行の消灯時間後の女子トークで宿のカレーの冷め具合と備え付けドライヤーの風量の弱さを貶してひとしきり盛り上がった後にクラスの好きな人を順番に言う段になって『日下くんっていいよね』って回答する女子が割と多くて静かな人気が判明するというモテ方をするタイプだ」
「9割方何を言っているのかよく分からないんだけど、なぜ修学旅行の消灯時間後の女子トークに詳しいんだ兄さん」
「顔だけそっくりで中身は品行方正な弟がいるという話をクラスの女子に話したら『チャラくない日下くんの方が需要がある』と言われたから、きっと深幸の方が需要があるぞ。兄ちゃんより立派な女たらしになれるぞ」
「あの……不特定多数に好かれたいんじゃなくて、たったひとりの女の子に好きになってもらいたいんだ」
「ひとり?」
「うん。同じクラスの女の子なんだけど」
「え! 恋か! 恋バナか! っていうか入学早々もう好きな女の子ができたのか! このおませさん!」
「入学早々じゃなくて幼稚園ぶどう組からの一貫した初恋だよ」
「弟の初恋の重さに兄ちゃんは困惑しているよ。そ、そっか。えー、まあ、ひとりに好かれようと思うとその子の好みの話になるから一概には言えないが、概ね優しい人間は好かれるぞ。鈴カステラが好きじゃない人間はこの世にいないように、優しい人間を好きじゃない人間はこの世にいない」
「鈴カステラが好きじゃない人間もそこそこいると思うよ兄さん」
「そう……優しくて、親切で、いつも助けてくれる、その子のヒーローになるんだ」
「ヒーロー?」
「うん。その子が足を挫いた時にはお姫様抱っこで保健室に連れて行き、その子が飼育小屋の雉に追い回されているときには箒で仲裁をしに行く。ピンチの時はいつだって助けに行く。なぜなら人は救われた時、恋に落ちるのです」
「救われた時、恋に落ちる」
鈴カステラのくだりはピンとこなかったけれど、その言葉は腑に落ちるものだった。
だって、僕がそうだった。
いつもひとりの僕を救ってくれたのが小明ちゃんだった。
「で、救って落ちたところを掬って自分のものにすればいいよ」
「兄さん」
「うん」
「僕は小明ちゃんが困っている時にはいつだって助けに行くヒーローになる。神様がいなくても仏様がいなくても僕がいれば大丈夫だって、小明ちゃんに思ってもらえるようになる」
「その意気だ深幸。商店街こども金魚掬い大会準優勝だった深幸ならきっといける」
小明ちゃんともう一度、仲良くなりたい。
あの時は、小明ちゃんが手を差し出してくれた。
小明ちゃんの手を取って、恋に落ちた。
今度は僕が、小明ちゃんに手を差し出そう。
かくして、小明ちゃんを見守る日々が幕を開けた。




